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善人と善意とはどのようなことなのでしょうか?

noname#8665の回答

noname#8665
noname#8665
回答No.5

north073さんと近いことを書くようですが、 善意ってむずかしいです。 自分の内部の問題で言えば「よかれと思って」これですよね。 ところが、これは相手にとっては必ずしも「よかれ」ではない。 例えば自分から見て「悪いこと」をしているように見える人がいます。 「よかれと思って」忠告します。そうすると、人によって反応はいろいろ みられるでしょう。「ありがとう」「ほっといてくれ」 「どこが悪いってんだ」「お前にはわからん」などなどなど。 とまぁ、あんまり相対化しちまうと何がなんだかわからなくなりそうですが、 実際のところ、何がなんだかわかりません(笑) 親っていうのは、極端にひどいのを除けば、ほとんどの場合 自分の子供に「よかれと思って」「悪いこと」の忠告をするもの ではなかろうかと思います。(もちろん折檻死させるような親は除く) で、その前提で自分の親との関わりを考察していくと、 必ずしも「善意」なるものは「善」でもないことがわかるような気がします。 親がああしなさいこうしなさいというのに従ってとんでもない目にあった なんてな経験を持つ人も少なくないはず。 ようするに「善意」っていうものは個人がもつ「モットー」とか、 「テーゼ」「テーマ」などなどに基づいた「よかれと思って」 のことだと思います。 社会的に「善意」とされるものについては、 それが社会的利益や利害と一致するときに呼ばれるのでしょう。 おそらく、きっと。

littlekiss
質問者

お礼

社会的利益や利害と一致する。 なんだかこの言葉には、『ふむ』と納得させられます。 社会の枠の中では、逆に無償であることは奇異なことになるのでしょうか? 理想や憧れといったものをこころに描き求めても『~であってほしい=不確かなもの』そんなものを追い求めていても答えは見つからないのかもしれない、不確かなものだから・・・ 社会というとてつもなくでっかい枠だけがありありとみえてくる。

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