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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.30

 No.2&6&9&17&19&20&28です。  ▲(ヰキぺ) いたちの最後っ屁 - 追い詰められたときの最後のあがきのこと。  ☆ でしたので――前回でひと区切りは出来たかと思いますが―― 去るとは思っていなかったです。  待ちびと来たるまでのつなぎにでもなりますれば。  ジョルジュ・ブランのボドゥレール論ですか そしてサドの議論やサルトルのをもひもとかねばならなくなりましたが その前にひとこと――おそらく正当にも――提起しておくことのできるお話があります。あると考えます。  かんたんです。サドやその主張に同調する人びとは 次のパウロの考え方を扱わなかったのでしょうか。です。  ◆ (パウロ:コリント前書) ~~~~~~~  6:12  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、すべてのことが益になるわけではない。  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、わたしは何事にも支配されはしない。  6:13  食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。  体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 6:13に対して反抗するという自由意志とその行為はみとめられるのですが 同じ文脈での6:12に対しては ひと言も触れていないのでしょうか?   そのような一面的な聖書の読み方が 次のように世の中のひとつの《クリシェ》になるとは はなはだおかしいと思えるのですが?  ★(No.29お礼欄) ~~~~~~~~~~  サドなどのリベルタンは真善美とは口にしませんが、自然の秩序の中には、どのような悪行も、凌辱も収まるのだとラディカルに言っています。モラルだとか、何だと言っても、自然は何も禁じていないではないか、と『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』で強姦者は少女にいって聞かせるのです。  こうした自然に対する把握の仕方は、当前十九世紀に流布していたクリシェであったと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち サドの主義主張は――次のように言うと あたかもわたくしは教会の回し者になったようですが――  内省をともなう哲学思想を目指してはいないように思われます。  これは お尋ねしてもよいように思うのですが?

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。いつでも歓迎いたしますよ。待ち人の中にはブラジュロンヌさんも入ってるのですから。サルトル―ブランは読まないでもいいです。もしご関心あったらという程度です。 さて、ご質問の件ですが、どうお答えしましょうか。「《クリシェ》になるとは はなはだおかしいと思えるのですが?」というのですが、自分の性欲をはじめとする欲のあくなき追求を全面肯定する人々もいるということではダメなのですか。実は私は何を質問されているのか、よくわかっていないのですよ。「おかしい」とは資料的根拠がないという意味ではなく、ブラジュロンヌさんのモラルに照らすと信じがたいということでしょう? となれば、私に解決してさし上げることはできません。サドの『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』は中々面白いので、ブラジュロンヌさん自ら、悪漢らと対話してみてもよいのではないでしょうか。仏語は難解ですが(動詞の活用の規則も違う)、訳者の力量が見事なので、直ちに読み切れると思います(渋澤訳に人気がありますが、岩波からの植田訳がお勧めです)。悪漢らの理屈に怒り心頭するか、陳腐だと報復絶倒するか、説得されておしまいになるか。よい読書になるだろうと思いますよ。 しかし、これでは質問の答えになっていないので、話の筋に触れずにどう書いたものかと思っていますが、少なくても私の解釈では聖書は議論の範疇からあらかじめ閉め出されたというものでした。少女が悪漢に反論する言葉は、聖書を参照しているでしょうが、ことごとく悪漢が論破してしまうのです。しかしブラジュロンヌさんなら、versetをより深く理解できるかもしれませんね。いや、実際、私はブラジュロンヌさんのご感想を聞いてみたくなりました。いかがでしょうか?

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