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ついに20歳になり、選挙権をゲットしたのですが、私に本当の意味で権利などあるのでしょうか?私は投票すべきでしょうか?

ついに20歳になり、選挙権を得ましたww。 ところで先日プラトンの『国家』を読み感動しました。 「民衆が政治をやるとどうせ衆愚政治になる、だって民衆は感情的で、自分の利益を追求するだけだから、 デマゴーグに引っかかりまくり、ではどうしたら政治をうまく行えるか、真、善、美のイデアを追い求める哲学者が行うしかない」 ということをプラトンは言っていたような気がします(よくわからないとこも多いのでかなりかみくだいた自己流の解釈です、間違ってたら教えてください)。 ワカランなりにえらく説得されました。 ついでに自分は明らかに衆愚だと思いました。 だって私の論理はいつだって感情的です(感情を廃して理性的であろうと努力しているときでさえ、あるいはそういう時ほどcfニーチェ)。 社会問題をきちんと判断できるだけの情報も持っていません。 たかだかニュース番組をほぼ毎日見ている程度。 政治に対して詳しくもないので、TVに出てる政治評論家の言うことをほうほう、と納得して聞いてしまいます。 でも多分、TVに出てお金もらってるってことは、メディアが嫌がる意見は言えてないってことですよね。 要するに私はデマゴーグに引っかかりまくりです。 どの情報がデマゴーグによるもので、どの情報がそうでないのか、判断のしようがありません。 さてはて、私は衆愚なので本当の意味で選挙に参加する資格などないのでは、と思いましたが、それでも投票するべきなのでしょうか? 長文失礼いたしました。

みんなの回答

noname#97137
noname#97137
回答No.12

あなたは子供ではありません。大人なんだから、品格を学びましょう。いい大人が、ゲットなんていう古い若者用語を使ってはいけません。 Getには、強奪するとか奪い取るというニュアンスが含まれます。私が知っている限り、そういう言葉を使っている人はろくな人生をおくっていません。子供じゃないんだから選挙に行きましょう。日本の大人って幼な過ぎますよ、ホント。

noname#118935
noname#118935
回答No.11

なかなかの大物ですね。そのお歳で、じぶんを衆愚だと認識して、納得していられるのは。失礼ながら、「人間、悟ったらおしまいだ」ということばを、つい思いだしてしまいました。 衆愚にもいろいろあるのではないでしょうか。さしあたり、あなたのような年齢層の場合は、ういういしい衆愚とでもいいますか。その初々しさに、あるいは意味があるのかもしれないし。 衆愚にたいして賢人。賢人とは学のあるひとでしょうから、学者は賢人の資格ありですね。その学者が、流行のように、大都市の首長をぞくぞくと勤めた時代がありました。が、みんな惨憺たる結果に終わって。そういう歴史を知っている身としては、賢人政治なんて、人口のごく限られたミニ国家ならともかく、現代ではありえないとおもっています。 衆愚政治しかありえないのなら、よりマシな衆愚政治を志向するしかなく、そのための一票なんだ、と考えたらどうでしょうか。

  • parts
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回答No.10

選挙制度自体に問題があるとお考えですか? まず、そのプラトンの理想は必ずしも理想国家になりません。 その理由は、哲学者であっても人間であり、自らが考える理想を考えるだけで、広い範囲で見たときにどのような小さな影響が、どれだけの大きな問題を生むかまでは、その哲学者がその職種もしくは事業において仕事や現実を体験しない限り分からないためです。 確かに、より分かるものが判断した方が一見すると良い世界になるように見えますが、上で判断する者は必ずしも良い結果を導き出すということはありません。なぜなら、だれが哲学者を選定するのでしょうか?そもそも、そんな哲学者がいるのですか?プラトンの理想は見た目では確かに理想ですが、それには何もかもが完璧な神が必要になり、その人間が水の神、地の神・・・といった神話のように仕官を選ぶような政策をするのと何ら変わりません。その神が歪んでいれば・・・明日はない。 あなたの他の方の補足も読ませていただきましたが、結局のところ恐れているのは、メディアが本来の情報を歪めることなのでしょうか? それは、投票しようがすまいが、同じ事です。ただ、行動をしなければいつまで経っても歪められた政治と歪められた情報を我々は手にします。 それを理由に、投票しなければ何が変わるのですか?明日から、正しい情報が手に入りますか?そこに問題があると考えるなら、そこを変えられる人間を捜すべきでしょう。 そして、自分の利益を追求することは重要です。 これは、あるべき形です。有権者全員に利益追求のための権利として投票権があるなら、汚職などを別として、一人一人が自分に不利だとおもう者に投票しなくなります。それだけで、政治、経済に対して悪いイメージを与える者には、投票されません。それだけで、大きな効果があります。 後は、どこを信じるかです。デマゴーグに掛からずに良い人間を選定するなら、まず選挙など成立せず、誰も投票権はありません。だからといって、投票をしなければ、デマゴークがあろうが、この人を信じその人の恩恵を受けようと考えている人間に全ての利益が行きます。いわゆる自由と平等が失われるのです。 まあ、戦時下ではありませんが、無関心もしくは自分ではこうあるべきと考えていながら、近い考えのものに投票せず放棄する人間が増えれば、国民が本来やるべき政治の汚点チェックが十分に働かなくなり、独裁や政治の閉塞へと舵を切る恐れもあります。 最後に、物事を教えられたときには、逆も考えましょう。例えば、民衆が政治をやらないなら、どういう弊害があるのか?逆にやるとどういう弊害があるのか?両方の見地に立てばどちらも弊害があるのです。ただ、一人一人に政治に参加する権利があれば、一人一人が政治を監視する力を持つことになります。平等に。そのため、その人の意思の範囲内で全ての政治家を監視することができます。 もっと言えば、最初から権利がなければ、あなたはこんな質問をしないでしょう。投票するかしないかは好きにしてください。ただ、その重みがどれほどのものかを知りましょう。一票の差で、徴兵制度を作ることも不可能ではない。 まあ、引っかかるから嫌だというなら、まず自分の意思をもって被選挙権を行使すべきです。誰もが、ひっかからない世界を目指せるようにしなければ、より政治参加への無関心は増えるでしょう。選挙権が持つ力は良い意味でも悪い意味でも多くあります。良い意味で使うのであれば、デマゴークを使われても国民は納得します。悪い意味なら、それがいつか分かったときに、当選しないでしょう。最後までやり抜いたなら、そもそもその人は、それだけ人に愛され、それなりの行動を取ってきたということです。

mptpons
質問者

補足

論理的かつ丁寧なお返事ありがとうございました。 なかなか説得されました。 とくに民衆が政治をやらない弊害については、歴史が証明している、という点など。 ただ私は民衆が政治をやらねばよい、と思っているのではありません。 きちんと社会問題を、デマゴーグを見抜ける最低限の社会的知識を持った人のみが選挙権を持つべきでは、と思ったのです。 恥ずかしながら、No.5さんの仰っているような、日経新聞のスクープ=中国に進出したい=参拝に反対の世論を形成したい という構造が私には見抜けませんでしたww。 そんな私がなぜNo5さんやNo10さんと同じ一票を持っているのか。それこそ一票の重みを考えるとちじこまるばかりです。 やっぱり私などの選挙権を奪い取るテストというのを実施するほうがいいと思います。センター試験なんぞやっているより、こういう社会問題に対する視点を持ちうる人々を選抜するような試験…… なんて、そんなものを作ってしまっては、ますます2極化が進み、政治はインテリと金持ちの思うがままですね。 自分の利益を追求する主体を想定して、民主主義を成立させようとするのは、非常に大人な考え方だと思いますが、基本的に無理なのでは。 マイノリティは抑圧され、金の論理に一切逆らえなくなるのでは、民主主義などまどろっこしいことは止めて、正義などを一切無視し、ひたすら日本人の利潤を求める一つの日本企業として振舞えばいいだけの話で、、、って現実そうなんですか? 思うのですが、民主主義って、そうした個人の利益を追求するのは、下手するととんでもないことになる(例えば自分に被害が及ばなくても数百万単位の虐殺に加担することになる)、っていう視点なくしては、成立しないのでは。 ヨーロッパの人はキリスト教的良心というやつが根付いているのでまだOKですが、日本では歯止めがきかなくなると思います。 「私の知らないとこで人が何人死んでも私が一万円得すればいい」という考え方をNo10さんの考え方では認めてしまっているような気がします。 かといって「1000万払うくらいなら、私の知らない人が一人くらい死んだって、たいしたことない」と思うのは人の性ですが、それは「いけないこと」として規制しないことにはよくないことになる……ってもうなってるのでしょうが。 難しくてよく分かりません。

回答No.9

民主主義の本質にのっとって、自分の利益になる政党に票をいれればよいのです。これ以外の政治形態意外の仕組みを人類は考え出せていないんですから、投票を高尚な存在にせずに、自分のお気に入りを選びだせばいいわけです。 投票をすれば政治が変わるっていいますが、それぞれの政党や議員が、それぞれの利益になる社会を追求しているので、けっきょくのところマジョリティ(大多数)が選び出す。あなたが悩むように、何がモラルなのかも実に難しいし、答えは自分自身が見つけるしかありません。 自分に資格がないと思うのならば投票権を放棄してください。「どうせ統計的に一票などなんの価値もないものです」…モラルある大人は私の言説を否定するんですが、結局のところは自分の利害にあった、政治家という名の詐欺師を選び抜く事が、民主義主義における本質なのではないでしょうか。

mptpons
質問者

補足

なるほどと思いました。 たしかに、「自分の利害にあった政治家という名の詐欺師を選び抜くことが民主主義の本質」なのかもしれません。 でも、帝国主義が自分の利害を追及して戦争に陥ったように、個々人が利益を追求して、そのしわ寄せを不幸な人に押し付けて、というエゴイズムは原理的に破綻する気がします。 うまくすれば自分の一生分くらいは切り抜けられそうですが、数百年単位で考えると、どこかで手痛いしっぺ返しが。 なんて、敬虔なキリスト教徒か共産主義者みたいですが、どちらでもありませんww

回答No.8

政治家の事を「代議士」とも言います。 本当はすべての人が政治(国会・県会など)に参加すべきところを代表者に任せているわけです。 したがって民意を政治に反映させる手段は選挙と リコールしかないわけです。 「俺はバカだから投票に行かない」というのは 「俺はバカだから義務教育も受けなくていいや」 と同じです。 その結果が生み出すものは「独裁」であり「恐怖政治」であります。

noname#22222
noname#22222
回答No.7

もちろん、選挙は「参加することに意義がある」という類のものではないです。 年金は破綻し支給額は削減される一方。 「それに文句ぶつぶつ」で、小泉旋風を起こす投票行動。 バブルの崩壊でリストラの憂き目にあって、その批判票を旧田中派へ。 日本列島改造論に基づく一連の暴政を推進したのは一体誰なのか? この辺りを考えると矛盾だらけ。 さて、それはそれ。 要は、無知と思えば学べばいいです。 批判精神さえ堅持しておけば、それなりの選択をする情報の収集は不可能ではありません。 ともかく、収集した諸情報を一旦バラバラにして自らの考えで再構成することを繰り返す必要があります。 種々雑多の情報を飾る各階層の思惑等を削ぎ落として事実を抽出する下向過程。 幾つかの事実も寄せ集めれば、ある一定の見方・考え方で整合性を持って整理できる筈です。 次は、自分なりの見方・考え方で諸事実のあり方を実現する政治的イメージを形成する上向過程。 下向過程、上向過程を経て獲得した政治的イメージを表現するのが投票行動です。 衆愚政治云々よりも、いかに、このような投票行動をするかが問題です。 私は、このように考えています。

mptpons
質問者

補足

>バブルの崩壊で~ の矛盾は面白く読ませていただきました。 各階層の思惑や利害をそぎ落として、日本国民の国益を考え……そこまででとても複雑な仕事ですが、さらに一寸先は闇の世界情勢の中で日本のとるべき行動を見据え、その上で投票する、 専門家でも意見がわれ、多くの間違いを犯しそうな複雑な仕事ですね。 no7さんの考えには賛成ですが、難しい仕事ですよね。

  • fronteye
  • ベストアンサー率43% (118/271)
回答No.6

自分が投票しなければ「真、善、美のイデアを追い求める哲学者」が当選し「政治をうまく行える」、とお考えなら投票しないほうが良いでしょう。 だが、現実の選挙制度はそうはなっていません。 あなたが投票しなければ、あなたが衆愚だと見る者たちが投票した候補者の当選する可能性が高くなるだけです。 そもそも議会制民主主義は(言葉は悪いですが)衆愚主義なのです。 プラントンの国家論よりもこの制度のほうが、社会に対しより良い結果をもたらすということを人類は歴史的に学習したわけです。 もし、ご自分が衆愚で政治を行う資格がないとお考えなら、ご自分では選挙に立候補しなければよいだけです。

  • o24hit
  • ベストアンサー率50% (1340/2646)
回答No.5

 こんにちは。 ○読書家の方のようですから、既に読まれていたら申し訳ないのですが、少し前にベストセラーになった藤原真彦氏の「国家の品格」を読まれると、お考えについてのヒントになるように思います。 ○以下、今回のご質問で関係あると思うことを私なりに、引用してみますと ・民主主義は、「国民が成熟した判断をすることが出来るようになって」初めて、最高の政治形態になる。  引用されていたのは、第二次世界大戦前のドイツで、当時はドイツは民主主義国家だったのですが、民衆はナチス党を選挙で選び、その後のことはご存知のとおりです。 ・今の日本はマスコミが第一権力者になっている  民主主義の本質は主権在民ですが、主権在民というのは「世論」に影響されているのが現状です。  そして、その「世論」を形成する判断材料は、多くの方はマスコミ報道でしょうから、事実上、極論を言えば「世論=マスコミ」ともいえます。 ・最近の例では、昭和天皇の靖国神社参拝の報道が、靖国問題に一石を投じましたが、うがった見方をすると、  日経新聞のスクープ記事である→経済界寄りの記事である→経済界は中国との関係を修復したい(中国に進出したい)→参拝に反対する世論を形成したい  今回の報道で、世論に影響があったことは事実ですから、マスコミの影響力が実感できると思います。 (結論のようなもの) >さてはて、私は衆愚なので本当の意味で選挙に参加する資格などないのでは、と思いましたが、それでも投票するべきなのでしょうか? ・貴方が愚衆であれば、大半の方が愚衆になりますね。  現状の制度では、大衆のレベルに応じた民主主義を実現するしかないですから、貴方の理想を追求すると、貴方は永遠に選挙に参加できないかもしれないです。 ・民衆は永遠に成熟しませんので(多くの方が、貴方のような疑問も抱くことなく、選挙には参加していると言うことです)、そういった方が選挙に参加することに疑問を抱いてしまうと、そもそも、今現在の民主主義の手法が成立しなくなります。 ・マスコミのプロパガンダを鵜呑みにせず、自分で消化しようとする貴方のような方が増えることが、少しでも、民主主義を実現することに繋がります。

mptpons
質問者

補足

大変分かりやすいお返事ありがとうございました。 結論も分かりやすく、楽しく読ませていただきました。 『国家の品格』はまだ読んでいません。近いうちに読んでみたいと思います。 情報を握るものが権力者だというのはよく分かります。 ベルルスコーニが首相やってるイタリアって、て前はよく思ってましたが、まあそれは他の国のこと。 日経のスクープの話は正直あまり意識的ではありませんでした。 恐ろしいですね、マスコミって。

noname#20897
noname#20897
回答No.4

投票して下さい 誰も嫌なら何も書かなくても構いません 投票しないのと白紙での投票は異なります 政治を実際にやっている人も民衆の一人です 「政治家が特殊な人」なのではなく「投票で選ばれた民衆が政治家になった」のですから 「選挙に参加する資格」は未成年者にでも有ります お父さんの選挙カーを運転するのも選挙への参加です 後援会でのお手伝いも選挙への参加です 「投票する資格」が有ると認められたから選挙権が有ります 「立候補する資格」は別に決められています 社会問題をきちんと判断できなくても投票する権利・義務は有ります 民衆の一員で無い人って誰のことでしょうか? 日本では天皇家の人々しか考えつきません

mptpons
質問者

補足

お返事ありがとうございます。 たしかに政治家も民衆の一人だと思います。 でも民衆が自分の生活第一、自分の利益第一で行動するのだったら、その民衆=衆愚だと思います。 そしてプラトンの言うように、そういう人たちが政治家であり、かつ投票者であるなら、民主主義なんて成立しようがないと思うのですが。 たとえ、どんなに監視機構をつけたとしても、原理的に。 社会判断を出来なくてもなぜ投票する義務があるのでしょうか? せっかく答えて頂いたのに、反論ばかりになり申し訳ありません。

  • reikasuzu
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.3

成人おめでとうございます。 投票するべきではないでしょうか。 mptponさんの仰る意味では、日本国民のほとんどが衆愚なのでは? すると、mptponさんの意見はほとんど民主主義の否定で、エリート主義、選民思想では。 民主主義は欠点だらけの政治体制ですが、それでも一番ましな体制、とどこかの人が言ってますが、その通りだと思います。 要は衆愚に陥らないよう、メディアのバイアスを読み解き、自分で考えて責任感を持って投票する、 それだけで、かなり民主主義は衆愚政治からそれていくのではないでしょうか。 そう考えられる人であれば、投票すべきだと思いますが。。。

mptpons
質問者

補足

衆愚に陥らないよう、メディアのバイパスをどうしたら読み解けるのでしょう。 まさか、メディアの利権を考えれば一目瞭然なんて言わないでしょうね。 だって、本当にヤバイことをメディアは報じない、と聞いたことがあります。 それをすると政府から情報が提供されなくなるから、とのこと。 メディアは公平にみせかけてるだけで、実際報道する項目を選択する、というとてつもないバイアスをかけているのだと思うのですが。 自分は衆愚だと思っていない衆愚って、最悪なのではないでしょうか。

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     一般的に、投票率は高いことが望ましいとされる しかし、社会主義国家のような驚異的な投票率の高さは、投票しない権利・自由の問題が指摘されるように高い投票率であっても危険性を指摘できる  現在、投票啓蒙活動としてある程度の選挙経費が計上されている。 もちろん、投票日の告示などは選挙法などから必要な経費だと思うが、投票日の記述もない投票啓蒙ポスターにどんな正当性があるだろうか?  既存の有権者は、”投票しないこと・棄権”を さも罪悪にように指摘するが、それが法的にも政治的にも暴論であることは断言できるだろう  前回の国政選挙に関して、最高裁は「違憲状態」という判断を下した そして、合理的期間内に公職選挙法改正して、選挙制度の適正化を判示している しかし、適正化の司法勧告を無視し、違憲状態の選挙制度で次回の衆議院選挙が行われることが確定した。(しかも、投票価値較差はむしろ拡大した)  最高裁判示を無視した事実は、政治原則論からして許容されうるべきではないだろう 本件を理由にして、投票拒否・棄権という論説も可能だろうし、むしろ政治原則として、棄権が健全であることを論説できるだろう  ここで問題がある 仮に、教師・公人レベルで、「選挙制度に重大な過失があるのだから、その過失を放置したまま選挙を行うのは不当である。不当な選挙に投票するべきではない!」 などと評論することは、選挙啓蒙運動に反する行為として問題にされうる余地が十分にあるが 上記のような評論を教職員・公人が行うことは、モラル違反と言えるだろうか? 本件に関しては、理由が重要であることから、結論に対する理由を大前提に回答願いたい 理由なき回答はご遠慮願いたい

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題はなぜ倫理学で問われるのか?

    「なぜ人を殺してはいけないのか」といった 問題が倫理学の問題でたまに問われるようですが この問題は政治哲学の問題ではないかと私は思ってます。 永井均という哲学者は ニーチェを使って、人を殺すこともやむを得ない旨を 巷で論じてます。 しかし、私からすれば 永井均のニーチェ解釈は誤りではないかと 考えます。 その理由はそもそも その問題は政治哲学において問われるべきだと 考えるからです。 ニーチェは「アンチ・キリスト」において 以下のように述べます。 「善とは何か  人間において権力の感情と  権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。  悪とは何か  弱さから生ずるすべてのもの。」 そして、ニーチェは遺稿集において 友人宛に自己の思想とスピノザの思想との類似を 論じています。 そして、スピノザも ニーチェと同様に喜び=善、悲しみ=悪と 考えます。 しかし このように考えれば 当然、2者間の権利・利益の調整上 問題が生じます。 そこで、スピノザは 社会契約説を採用することを通じて 殺人の禁止を採用します。 一方、ニーチェは社会契約説を採用せず 位階秩序を採用する旨を「力への意志」で論じています。 とするならば 「なぜ人を殺してはいけないか」といった問題は そもそも倫理学の問題ではなく政治哲学の問題であると 言えるのではないでしょうか? 永井均はニーチェを利用し 殺人の是認を論じてますが、私の眼から見て 永井の解釈はどう考えても誤解にしか思えません。 確か前に読んだ書によれば ルサンチマン理論を使って殺人の肯定を論じていたように 思えます。 もしそうだとしても 力への意志は支配欲を含まない以上 永井均の解釈は誤りであると私は考えますが その点についてはどう思いますか? 皆さんのご意見をお聞かせください。