現代における審美の可能性とは?

このQ&Aのポイント
  • 美と真善美の関係について考える
  • 芸術固有の領域の確立と審美の問題
  • 美を求める現代における審美の可能性
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現代における審美の可能性

審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

noname#130919
noname#130919

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

その他の回答 (55)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.56

でえくの器量はただもんじゃないね。こちとらの熊やハチ公の相談相手になってるのも道理ってえもんだ。そいつらの嬶より頼りになりそうだ。嬶と喧嘩した日にゃあ、   ままにならぬとおひつを投げた あたり近所がままだらけ なんてことになっちまう。その点、でえくの棟梁はちがうね。きっと長屋の大家でご隠居さんにでもなってんかね。

noname#130919
質問者

お礼

べらんめい調って、味があって、いいですね。書き言葉で成立させるのは、かなり苦心なさったでしょうね。基本は話言葉ですから。 でも私の歳にはまだ早いのが惜しいところです。

回答No.55

>その辺りを、でえくの器量で一言分析してみてくんないかね。 大工はね、「二階建ての一軒家の重量は?」と聞かれたら40トンと答える。39トンでもなく41トンでもない。しかも3LDKかもしれないし大きな5LDKかもしれないけど、そんなことはお構いなく「40トン」ですよ。どうです? 物理屋に似てるでしょう(笑) 物理学者と技術者は価値観が違うとは限らなくて、目指すところが違うから、その目的に鑑みて重要視する事項が異なるのだと思いますね。価値観というのは、目的も無いところで何に興味を持っているかではないでしょうか。ですから、「文化の違いとは価値観の違いである。えっへん」は依然として有効だと思いますよ。 Cyototu先生と愚拙にはいくつか共通点もあるような気がしており、たとえば、日本語を日本語らしく使おうとする。片仮名の汚染が激しい日本語だけども、少なくとも自らはその汚染を推進する側には回らないぞって。そして、明らかに理科系。女には持てないタイプ。でも、自分の興味の範囲は広くて、どんな分野でも一旦興味をもち疑問が生じたら自分で考えて、自分なりの結論を持たずにはおれない。そうして獲得した自分なりの理解を他人に吹聴するのも好き。それから、アナロジーを使うの好きかな。門外漢同士が短時間でなにかを概念的・直感的に理解しようとすると、アナロジーが有効でしょ。そのアナロジーの使い方が大胆というか、実用上、長距離はなれている二つの事項をアナロジーで結び付けている。ときとして牽強付会の誹りも受けるが。 もちろん、内容として、鈴木大拙や恐れ入谷のプリゴジンを始め、物理学で数学上の特異点をどう扱うかなど、専門に近い色々なお話から学ぶことも多いし、逆にCyototu先生が愚拙の他愛無い話し、たとえばKiss, Kick, KissのKKKの話しとか、明治維新の姫路城秘話などに興味を持ってくれるのもうれしいですよ。 もうひとつ、ネットの特徴で、たがいに会わないのが良いのかもしれないですね。 「人は見た目が90%」という本が日本で売れてましたが、もし、顔を合わせると、互いに嫌な奴という印象を持たんとも限らない。 尊大な奴だ、ずうずうしい奴だ、失敬な男だ、などなど、顔を合わせた途端に、見た目の好悪がでてきちゃうけど、ネットでは言葉だけで交流しているので、口臭があろうが腋臭があろうが気にならない。ネットは互いに値踏みしないという意味で、個人属性が排除されているので、言葉だけで気楽に会話ができるってのも大きい気がします。 最後に、互いにそれなりの年齢と立場を持っていそうだから、実社会ではヅケヅケと物を言う人が周りに居らず、差し障りの無い会話や、仕事上・事務上の会話ばかりしている。血沸き肉躍るような議論を楽しむ機会が少ない。その意味で脳味噌の刺激が少ない。だから、ネットで、知識・経験領域は全く異なるが、なにか考え方、物言いに共通点のある者同士で本音を言うと楽しいのでしょうね。 今回はKKKでも、Kissばかり三回になってしまったか?

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生宛てですので、私が口をはさむことはできないのですが、拝読して面白いなと思いました。ネットは上でおっしゃるような良さがありますね。私は若いので地位も立場もありませんが、しかし、将来のことを考えると、実生活では黙ることも多いのです。また逆に、相手が黙ることもあるでしょう。それが悪いとは言いません。大喧嘩になると困ってしまいますから。 私は幸いにも分野が全く違う友達というのを親友としています。また年代が離れている友人というのも大切にしています。利害が関係なく、立場が違うと、かくも自由なのかと解放感をおぼえもします。しかしネットの議論はまた違った面白さがあると考えています。文章にすると自分の考えをまとめて提示できますし、案外、会って話すより深い話ができているのだなと思うこともあります。おそらく同じ内容を口頭で伝えたら、十分以上は片方が黙って聞いていないとならないでしょう。またネットだと調べ物が容易です。堅実な話し方を出来るのは、案外、こちらの方なのではないかと思うこともあります。ご参加くださって感謝しております。

noname#131473
noname#131473
回答No.54

お礼ならびに温かい励ましのお言葉を頂きとても嬉しかったです。ありがとうございました。 フランス語といえば「美しい言語」と短絡的に想起するイメージが私にはあるのですが、 その一方で、ご指摘の「フランコフォニー」からはフランスの一側面、つまり多様性を疎んじる傾向が垣間見れるのです。 方言の問題はいずれの国にも多少はつきものかとは存じますが、かつて私が滞在していた当時のフランスにかぎって申せば、案外自国の地方少数言語の保護保存には積極的で無かったかと記憶しております。 今はどうなのでしょう。 そのような頑なさがいずれに起因するのかは存じませんが、でもそんなフランスにおいて、だからこそ、ボードレールが異彩を放ち今なお人々を魅了してやまないのでしょうね、きっと。 >「日本だけがアジアで特別」 ご教示の『ブヴァールとペキュシェ』から、いつしかV&Aの展示室を思い浮かべておりました。 ロンドンって博物館(しかも変わり種の)だらけな街ですよね。 イスラムの青や中国歴代王朝の黄や赤といった広々と色鮮やかなブースを抜け、日本の展示室に一歩足を踏み入れるや否や、日本の文物ってこんなに陰気臭かったかな?とか、天井の仕様から根付やら兜などの展示品に至るまで侘び寂び調で総じて地味で「やっぱり日本だけがアジアで特別(に理解し難いのかな)?」と毎度面食らうのです。 むろん、いずれもV&Aの審美眼に叶うもの、そしてオークションハウスで取引可能なマニア好みなど、相応の価値評価を得るものばかりでしょうけれども。 >日本での排斥運動の類が収まってくれたらいいなと、内心で祈っています。 はい、この点につきましては、どうしても日本人の興味や憧憬が一部の古代中国や韓半島の古典に集中したり、政治情勢や経済脅威論に特化しがちゆえに、その他は無関心に近しく結局軽んじられているとのみかたは拭えません。 「美」ならぬ「醜」でベルサイユに乗り込んだ村上隆も、ぼやぼやしていると中国をはじめアジア近隣諸国に追い越され、あるいは席巻されかねないとの焦りの懸念を表明するくらいですし、プレゼンテーション的にも日本以上に長けて認められ、日本に逆輸入の末に再評価されるものもこの先増えるでしょう。 その際には素直に喝采をおくりたいですよね。だって物凄いことなのですから。 (公平な評価というのは身贔屓が入ることでなかなか難しい場合もあるとは察せられますが)。 ラブホの件、軽々しく書きましたが他意はないのです。お気を悪くなさったのなら、ごめんなさい。 「真面目」と仰る辺りは理解しているつもりです。 風俗絡みから正真正銘のいい歳をした夫婦に至るまで、老若男女を問わず一様に?誰もが気軽に?楽しく(テーマパークもどきに)?利用し得る日本の状況というのはたしかに独特に映るのかもしれません。

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。言葉の上から察する限り、お元気そうで、私も嬉しいです。でもご無理はなさらないでくださいね。新学期でご子息らも大変でしょうから。 フランス語は、ご存じのようにリヴァローが「明晰でないものはフランス語ではない」「フランス語は言語の女王である」などと宣言し、その地位を上位に確立しました。言語学をやるなら、フランス語が必須でしょう。 実際、フランスは中央主導型という意味では、他言語に見ない排他的な動きをします。アカデミーなる機関が十九世紀から既に、「正しい」フランス語をはないものを排除したのでした。「正しくない」フランス語とは、地方の習慣的な言い回し、つまり方言でした。作家ではジェラール・ド・ネルヴァルなどがかなり抵抗しましたが、結局、時代の趨勢の中ではどうしようもなかったのです。方言による民謡も忘れられてしまいました。 しかし二十世紀にはいると、ミストラルのような作家があらわれ、地方言語の保存にも力が注がれるようになります。またクレオール語にも理解が示されるようになり始めます。フランスは多分かを受け入れる国である――と、建前はこうなのです。しかし実際には、中央の言葉が優位です。だから昨年、次のようなやりとりをラジオで聞きました。「俺たちは何でクレオール語を使うことを強制されているんだ。しかしバカにされたり、不自由してる」「強制ではありません。あなたの自由です」「でも使えっていってるじゃないか?」「クレオール語が素晴らしいと言っているだけで、あなたに使えとは言っていません」無責任な問答だと私には思えました。もっとも言語という文化を保存すること自体、難しいものなのですけれども。日本でも方言調査などに友人が行っていましたが、なかなか大変みたいでした。 さて話は変わって、日本の外国での理解ですね。 >日本の文物ってこんなに陰気臭かっ たかな?とか、天井の仕様から根付やら兜などの展示品に至るまで侘び寂び調で総じて地味で「やっぱり日本だけがアジアで特別(に理解し難いのかな)?」と 毎度面食らうのです。 根付けはヨーロッパで人気らしいですね。美術をテーマとした人気マンガの「ギャラリー・フェイク」でも根付けにエピソードが一つ割かれていました。この話を簡単に紹介してみます。まず物語の中心となる舞台はイギリスのオークション会場です。この回の主要人物は日本の西洋美術史家。彼がここにやってきたのは、彼がガイドするという趣向でイギリスをめぐるツアーが組まれたために過ぎません。オークションの出品は根付けなのですが、この美術史家は根付けをガラクタ程度に思っていたので、関心も払いません。が、彼が仰天したことにも、彼は敬意を払う美術愛好家や研究者らにオークションで出くわします。根付けを買いに来たのです。日本人の美術史家は、彼らに自国の良さの再考を暗に促されて、しょんぼりとするというのが物語の大筋です。 しかし私もこの美術史家を笑えたものではないのです。私も根付けが欲しいかといわれると、まだそのよさがわかっていません。外国人の感受性を目の当たりにするにつけ、私は、案外、日本人からすると「ダサい」と思ったものが、実はエキゾチックでいいのかもしれないと思い始めました。 パリで昨年流行りだったのは、「コケシ」です。若い女性がコケシを象ったペンダントやアクセサリーを買っていくのです。私がアクセサリー店を眺めていたら、店員に質問されてしまいました。「これは何かしら?」「若い人も日本で恋人に贈るものなのかしら?」と。パリジェンヌが喜んで高いコケシのアクセサリーを買っていくので、私は言葉を濁しました。とても年配の方の部屋においてありそうだとか、地方のお土産で見かける、などとは言えません。いや、コケシの民俗学的な価値はわかっているつもりですけれど。こうやって逆輸入で教えられることもあるのかもしれません。 外国人は、現代に生きる日本人の感性と関わりなく、作品そのものだけを鑑賞できるという立場にあります。この意味では、外国人からの指摘で、日本人が先入観に気付かされることは多いのかもしれません。でも、これはフランス人にとっても同じだと思われます。文学研究でも、ホモセクシャルの作家だとか、反キリスト教であるとか、背徳的な作家らを偏見なく読むのは、日本人の特性であるようです。もちろん見当ハズレなことを言ってしまう可能性もあってバランスは難しいのですけれども。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.53

話しが込み入っていますので、対称非対称に関して補足をしておきます。 プリゴジン教授の言う芸術家の営みとしての対称性を破る行為とは、必ずしも非対称な物を描くと言うことではありません。芸術家の頭の中には対称な物のイメージもまた非対称な物のイメージも共に或る筈です。それらは現実にはまだ描かれていないと言う意味で可能性として存在している。ですから、その状態は、対称も非対称も共にひっくるめてどれでも可能だと言う意味で対称な状態です。それを私は「可能性の海」と呼んでいます。ところが芸術家はその可能性を全て描けるわけではない。そこで、芸術家は本人の作り上げて来た価値観や偶然に基づいて、その可能性の大海の中から、あれではなくてこれだと取捨選択をして、一つのものを描く決意をする。その結果、彼が描いたものは対称性を持った絵だったかもしれない、あるいは非対称な絵だったかもしれない。プリゴジン教授が言う、芸術あるいは創造の営みとは対称性を破る行為だ、というのは、その作品が対称的か非対称かと言うのではなくて、その決意する行為のことを言っているのです。だから、たとえその作品が見事な対称性を保っていたとしても、その創作者の営みは対称性を破っているのです。 この問題は物理学の根幹に触れる問題でもあるのです。例えばサイコロさんは今現在文献学者になっておりますが、それは貴方が決定論的にそうなるように前もって決まっていたからそうなっているのか。それとも貴方がこの世に生まれて来たときには、貴方は将来会社員になるか、自営業を営む人になるのか、学者になるのか、政治家になるのか、はたまたホトキ即ち乞食になるのか、そのどれにでもなりうる対称性を持って、すなわち可能性を持って生まれて来たのであり、その後の偶然な成り行きが、その可能性の海の中ら、あれではなくてこれが実現したのか。どちらなのかと言う問題です。すなわち、対称性の破れと言う概念は、本質的に確率論的な世界でのみ意味のある概念なのです。ですから、私の紹介したウィルチェクとプリゴジンの論争は物理学の大問題の一つ、この世界は決定論的な世界なのか、あるいは非決定論的な世界なのか、どちらなんだと言う問題に絡み付いた議論でもあったのです。 ラプラスの悪魔という概念で象徴されていますように、伝統的には物理学者は世界を決定論的に出来ていると主張して来ました。もしその悪魔に馴染みがなかったら、インターネットでググってみて下さい。この伝統的解釈は量子力学が発見されても状況は変わっていません。何故なら、量子力学の状態を一意的に完全に決定する波動関数は、数学で言う決定論的なシュレーディンガー方程式と呼ばれている方程式に従っているからです。しかし、一方において我々生命の存在を可能にしている熱力学は、この世界は本質的に確率論的であると主張しております。非平衡熱力学の勇プリゴジン教授が芸術的営みにかこつけて、伝統的な物理学の解釈を信奉するウィルチェクに噛み付いた裏にはそのような事情もあったのだと言うことを知って、その時の講演会の山場を鑑賞すると、もっとおもしろく観劇できます。 芸術の営みも我々生命の存在も偶然が常に本質的な役割を演じています。だから物理学者でない方達から見ると、プリゴジン教授の言っていることが如何にも説得力があります。しかし、一方において決定論的な物理学の基本方程式を否定する事象は未だに一つも発見されていません。それどころかその方程式の正当性が森羅万象に渡って日々確認されているのも事実です。だから、この世界は決定論的なのかあるいは非決定論的なのかを解き明かすことは、ラクダが針の穴を通るよりも狭き門のようです。

noname#130919
質問者

お礼

>プリゴジン教授の言う芸術家の営みとしての対称性を破る行為とは、必ずしも非対称な物を描くと言うことではありません(……)。 補足、どうもありがとうございます。とてもわかりやすく、私の理解の至らなさにも気が付きました。それに私ときたら、重要なところで、小学生にもわかる漢字の変換を間違っていました。すみません。 可能性の中から選択しているというのは、よくわかります。たとえば私が研究をする際、文献を並べて、さて、どれがいちばん効果的に自分の意見を述べるにあたって有効な文献なのか?と考えるのです。引用は、なかなか技巧がいります。浮かび上がってきた自分の仮説にピッタリ照合するようなものを見つけるためには、何百という候補の中から選ばないとなりません。何十通りも、自分の頭が働く限り、組み合わせを検討します。全部引用したら、パッチワークのような論文になってしまいますから。「文学研究は引用に始まり、引用に終わる」と言われることもあるくらいです。 さて、せっかくですから偶然性を詩に取り込んだ試みについて、少し横道にそれたお話をしようかと思います。詩で偶然性を取り込んだ作品という時、どういうものをご想像しますか。もちろん詩を創作する時に、決定論的にアプローチすることもできるのですし、それが主流だったのです。たとえばボードレールがそうです。彼は詩の効果を詳細に検討して執筆します。また韻文であれば、規則に沿ったものでなければなりません。 しかしステファヌ・マラルメという詩人は、もちろん自分の言葉の効果を検討したでしょうが、まったく異なる取り組みを始めたのでした。私のプロフィールの画像になっているルドンのリトグラフが、ちょうど、画期点となる詩「賽子の一擲」の挿絵です。どのような詩か、画像でご紹介しましょう。文字の配置だけで面白いのです。以下のページの左側のpage1など赤くなっているところをクリックしてみてください。ページがめくれます。 http://poetes.com/mallarme/coup_de.htm 実はこの詩はフランス語ができようと、そうそう意味がわからないのです。まず文字の大きさがまちまちです。そして文字の配置がよくわかりません。その結果、どこからどこまでが読むべき一文かさえ、わからないのです。そこで読者はどうすることになるか? 読み方のルールを自分の想像力で決めざるを得なくなります。私の想像という意味で、少し解説してみます。 まず文字の大きさがまちまちであるのはどのように楽しめるか。私がフランスで聞いたことによれば、小文字はAさんが読む、中くらいの文字はBさん、イタリックはCさんと読み方を分けることができるようです。この理由はマラルメが「文学的交響曲」という作品を書いているように、シンフォニーに関心があったからなのです。読み合わせすると、合唱のようにもなります。詩は楽譜に近いものであるようです(マラルメも楽譜という言葉を詩について使用したことがありました)。 またこの文字の配列は、何を示しているのか。まず客観的には「diagonal/ 対角線」であるでしょう。たとえば6ページ目をご覧ください。Comme siが左と右で対称形になっているでしょう。しかし、diagonalという言葉が天体に関連する語でした。またこの詩には星座への言及があるのです。そこで、さらに想像力を膨らまして、この詩が天体を象っていると見てもよいのではないかという説があがっています。たとえば6ページに関してはアンドロメダ星雲、3ページについては北斗七星など。そしてこうした解釈は、文字の配列を、あたかもビッグ・バンのように言葉の潜在的な力を引き出すものだと位置づけるのです。言葉の潜在的な力とは、普通の文法を破壊し、元の言葉の多義的な意味を想像させるということです。 もちろん、まったく規則がないのかというとそうではありません。その証拠に、ある程度は訳せますし、翻訳も刊行されています。しかし決定的に「~~とこの詩は解釈できる」と論じることが無意味であるでしょう。むしろクイズや問いのようなものとして詩を楽しみつつも、その問いが設置されている意義を考察することが読者に求められているのです。 こうあるとき、詩人は作品において自分で自分の言いたいことを伝えるのではなく、読者の手に読み筋を委ねることになるのです。読者が誰であるか不明という点において、つまり偶然に委ねることになるのです。 私は猪突先生のお話を聞いて、「賽子の一擲」を読むことが、自然科学の研究に似ていると思い始めました。ある研究者は決定論的なことを解き明かそうとし、別の研究者は非決定論だと述べるわけです。そして一篇の詩を、あたかも天体観測でもするかのように、入念に検討することになるのですから……。

  • ok9608
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回答No.52

再投稿します。及第点回答は できません。 レベルの低い雑談ですが お許しを。 エロスから連想してます。一個の結果である性描写的造形物を作者が創ったとします。これもまた 作者の哲学が問われるわけです。なぜなら作者は この結果(創造物)で何がしかの主張をしたいのです。主張とは彼の哲学であります。しかし、この一個の結果から果たして哲学意図が読み取れるものでしょうか。作者の説明がないならば 哲学理解は難しいと思います。やはり 作者は哲学を語らないといけないのです。語って理解されていくのです。言わんとするところは 生命の力強さでも 永遠の生命でも 自然でも 何でもいいのですが 定義から始まる哲学であります。徹底的な相対思想ならポストモダン哲学でしょう。一個の結果(造形物)に対して十分な哲学説明が出来るなら りっぱな哲学者と思います。語れないのなら 一個の結果ではなく多数の結果を示し 多数結果から 彼の哲学が理解される と思います。が 言葉からの理解は容易と思います。しかし、現実は、せいぜい 定義とその結論が提示されている程度のように思います。問題は ポストモダン派と称する作家が十分に哲学を語っていない場合、当然ながら彼がポストモダン哲学なのか 分からないということです。単なる独りよがりの顕示欲の強い主張するだけの人かも知れないということです。 結果(造形物)が全てではなくて 哲学を語ることが重要ではないかと思います。これは ポストモダン哲学に限ったことではない と思います。現代の作家は このことを踏まえて 活動しているように思います。 一方、 ポストモダンの鑑賞者は 各自の哲学のもとに各自の美の評価基準をもって 各自が作者の結果を評価するのです。評価基準とは 鑑賞者の結果ではなくて 定義のようにおもうのです。絶対基準ではなく 相対基準なのです。 定義以上の説明はできないというポストモダンの原則です。問題は 作者の結果(造形物)を観て 作者の定義と鑑賞者の定義の一致を見い出すことが出来るかどうかです。作者の哲学が説明されていなければ 結果(造形物 命題)から作者の定義を見つけるという逆演繹思考を 瞬間的にし、それが各自の定義に許容されるかどうか の判断です。このような判断を容易にするためには 同一作者の結果を多く観るとともに 彼の哲学を言葉で理解する ことは必要と思われます。そこには あるトレーニングが必要となると思います。 以上は 作家の出力結果から哲学が読み取れる仕掛けを 私なりに考えたものです。これでは 質問者さんが 話題としたい美とは何か の答えになっていないと思います。そこで、ポストモダンの立場(私は好きです)で美の定義をするとすれば 定義は森羅万象を解明するメスでると思うのです。 メスの種類は人の数以上にあると思うのです。定義になっているかどうか自信はありませんが、美しい人、醜い人、楽しい人、美しい自然、驚異の自然、憎い人、人工的機能美、愛する人、神、地獄、生命、抑圧、・・・・・等々 尽きるものではないと思います。そして 収斂させて行くべきものではない と思いますし 出来ないとおもいます。 ここでは哲学がない結果(造形物)は論外であります。 以上失礼しました

noname#130919
質問者

お礼

>結果(造形物)が全てではなくて 哲学を語ることが重要ではないかと思います。これは ポストモダン哲学に限ったことではない と思います。現代の作家は このことを踏まえて 活動しているように思います。 おっしゃる通りですね。私は美術系の友達が結構いますが、自分の作品の良さについて呆れるほどよく語ります。くだらないなぁと思う箇所についても、「これは実はですね、意図があって~~」という風に。「いや、私はわからないですね」と相手をやっつけてしまうこともあります。しかし聞いてみると、作品がダメでも、こうした自分で解説するという行為で認めさせるのも芸のうちだそうです。将来はスポンサーを獲得するために、弁じだてなければならないから、その予行練習にもなっているのだとか。美大ではそうした訓練をところどころでするようです。相手の作品を批評したり、自分の作品を売り込んだり、と。 ともあれ、問題は何を言語とみなすかだと思います。言葉だけが言語なのではなく、絵や音楽も言語であると言えないでしょうか。作品それ自体が語っていることもあると思いますし、その言語に耳を傾けるのも、私にとっては楽しみだったのです。作者の言葉を理解するためには一作のみならず、他の作品を鑑賞して、演繹する方が有利ですし、確実さが増すでしょう。ポストモダンでなくても、元々、芸術鑑賞には、こうした分析的な要素があったと思います。 こうした「言葉にならない言語」を言葉に翻訳するのは、批評家だとか研究者の役目でした。しかし現代の芸術家は、自ら噛み砕いて言葉に置き換えることをするわけです。それは周囲の理解力のなさに失望したものか、より確実なプロモーションのためなのか、作品の不出来をカヴァーするためなのか、はたまた戦略なのか――私は様々だろうと思います。オスカー・ワイルドは現代の作家とは、芸術家であるのみならず、自らが評論家でなければならないと述べました。こうした自己解説の動きはポストモダン思想が明確な形で成立する1960年代より前に、脈々とあったと言えます。 ただポストモダンといったにせよ、デリダやドゥルーズを読んでいる作家は稀のようだと思います(私にとってそれはとても残念なことなのですが、一部を除いて翻訳もあまり行き届いていないので、仕方ないのかもしれません)。 >ポストモダンの立場(私は好きです)で美の定義をするとすれば 定義は森羅万象を解明するメスであると思うのです。 メスの種類は人の 数以上にあると思うのです。 これはおっしゃる通りですね。しかし「哲学がない結果(造形物)は論外であります」というのは、どうでしょうか。哲学をどう考えるかによりますが、哲学=言葉だとすれば、造形物の言語を言葉=哲学に置き換えられないだけかもしれないと私は思うのです。つまり潜在的に哲学はあるが、それを見いだせないだけではないか、と。 私はよく知られた哲学者や思想家が、私はそう普通の人と比べて偉いとか、ものをよく考えているとは限らないと思うのです。確かに著名な人物の説明は、とてもクリアーです。しかし無名の埋もれた人物の発言も、よくよく聞いてみたら面白いところがあると思うのです。そしてこういう発想で行くと、私はその価値をあまり積極的に認めるものではないが、ゴミ箱をアートにした作品にも、某かの思想はあるのかもしれません。デュシャンのレディ・メイドのように何かしらあるような気はしています。私がそれらに見開かれていないから、理解力が十分でないのかもしれない、くらいには考えています。 どうもありがとうございます。

回答No.51

 No.54を承けます。お応えをありがとうございます。  二点 重要だと思いました。  ★ 理想的なキリスト教者を凌辱しているというより、通俗的なキリスト教者ではあるが無垢な少女を凌辱しているという設定だと私には思えます。  ☆ ですから これは日本で言えば大衆小説であると捉えます。  人物像を描き出しあたかもその人物と読者が交通することができるような現実性の・虚構としての創作 この仕事にではなく モノゴトの起こるその話の筋がおもしろいという作品ではないかと。  ひとこと添えますが かつて大衆小説にはどういう文体があるかと その種の雑誌を読んでみたことがあります。じつは おどろいたのです。野間宏と瀬戸内寂聴(春美でしたか その当時は)の文章は それぞれ思ったより現実性がありました。これは さすが文筆一本で食って行くとは こういうことかと おのれの不明を知りました。  ★ しかしここでは、神の不能性をあげつらって、嘲笑っていると言えないでしょうか。したがって、あまり文字通りに受け取って真面目に「こいつは神学や哲学の基礎がわかっていない」と息巻いても仕方ないという気がします。ここでは「どうせ神は何もできない無能力者なんだから、気にするだけ無駄なんだぞ」と強調しているだけでしょう。  ☆ じつは その何もできない無能力者であることが 無根拠としての非在なる神であると捉えます。そういうからくりから この世界は成っている。こう思っています。これが 非思考の庭です。  ですから すべては自由なのです。聖なる甘えがゆるされます。  わづかに それでは《あざ笑うか ありがたがるか》の違いは何かと言えば 十字架を見ようとするか それから目を離してしまうかだと考えます。  しかも じつは・じつに そうであっても 目を離してしまった場合でも あとは無い神として その心に非思考の庭が成ればよいとわたしは考えます。成れば 特にあざけることもしなくなるはずです。庭はおそらく自分自身だからです。  ちょっとこれまでに増して 説教調でした。

noname#130919
質問者

お礼

>これは日本で言えば大衆小説であると捉えます。 大衆小説はバカに出来たものではありません。が、そういう読み方は、あまり歴史を踏まえているとは言えません。確かにサドが現代の作家ならば、描写などの拙さを指摘されても、なるほどと思います。しかし十八世紀のことです。識字率も今と比べたら大変、低かったのですよ(だから劇などをやったみたいですが)。また同時代の描写に比べると、結構、きちんとしていた方です。 ブラジュロンヌさんのご意見は、極端な例を出すと、古代のラスコーなどの壁画を見て、「人間が2次元でのっぺらぼうじゃないか。空間が捉えられていない」と批評しているようなものです。小説の文体も日進月歩なのです。歴史的な視点がないと、過去の作品を鑑賞しても、あまり面白いことはないでしょう。 >その何もできない無能力者であることが 無根拠としての非在なる神であると捉えます。そういうからくりから この世界は成っている。こう思っています。これが 非思考の庭です。ですから すべては自由なのです。聖なる甘えがゆるされます。 これはブラジュロンヌさんの思想ですね。私は、おっしゃる意味はわかりますよ。しかしご自分の思想をぶつけていく形だと、相手の思想が見えにくくなることもあるのではありませんか。私はサドに関して、まだブラジュロンヌさんが本質を捉えているとは思えないのです。枝葉末節で反論していると思えています。もっとも、そうそう受け入れられる世界ではないのですから、細かいところから反論して行きたくなる気持ちもわかるのですが。

  • cyototu
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回答No.50

マシュマロさんのところで中国美術の話が出て来たので、どれだけの関連があるか定かではありませんが、今から15年以上前に私が個人的に経験したことを紹介してみましょう。プリンストン高等研究所で、創造性に関する学際的なシンポジウムがあり、美術史家、舞踏家、物理学者、化学者の夫々が講演を行ったことがあります。その講演者は物理からは後に素粒子物理学の強い相互作用の理論の貢献でノーベル賞を受賞したフランク・ウィルチェック、また、物理学および化学者として、非平衡熱力学の散逸構造系の理論の貢献でノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンが講演をしました。 その講演会で美術史家がダビンチをテーマにして、「美術史の中で渦を最初に発見したのはダビンチだ」と言う趣旨の講演をしました。そして、ダビンチが描いた渦の絵を一杯見せました。渦は一過性の現象です。それはヨーロッパでの美術の伝統的な主題である永遠とは対極の存在であることが要点です。 実は非平衡熱力学のテーマも本質的に一過性の現象であり、散逸構造系の代表例は我々の生命、すなわちこれも一過性の存在です。そしてその美術家の講演が終わった質疑応答でプリゴジンが言うには、  「渦をダビンチが最初に発見したなどとはとんでもない話しだ。確かにヨーロッパでは渦を発見したのはダビンチであると言えないこともないかもしれない。しかし、中国の絵画でも日本の絵画でもダビンチよりも遥か以前、それこそその数百年前から絵画の中に煙の上昇して行く時の渦や、雲の中の渦を幾らでも描き続けていたではないか。」 と、まあ相変わらずの西洋中心主義的な美術史家を批判しました。さらに西洋における「永遠」を基軸にした世界観と中国や日本おける「変化」を基軸にした世界観について蘊蓄を述べておりました。芸術における西洋中心主義的な物の見方に異議を唱える方は、東洋ばかりでなく西洋にも幾らでもいるのかもしれませんね。 余談になりますが、その講演会で、ウィルチェックはアルハンブラ宮殿のモザイクに現れる対称性を例に出して、美術における中心課題は対称性にあることを強調しました。それに対してプリゴジンは、いやとんでもない、芸術とは、あれではなくてこれだと決意をすることに創造性の根幹があり、その行為は多様な可能性と言う対称な存在様式の中から、その芸術家の決意によって一つを選び出すと言う対称性を破る行為が本質なのだとの反対意見を述べていました。 素粒子物理では対称性が常に中心課題になりますが、複雑系の物理学である散逸構造系では対称性の破れが常に中心課題になります。その営みがお二人の芸術論にもろに現れていたので、面白い遣り取りでした。

noname#130919
質問者

お礼

面白いお話をありがとうございます。プリゴジンはクールですね。元々プリゴジンの研究には関心があったのですが、何だか私は好きになりました。芸術の受容について、私は俳句の例を出してみようと思います。 俳句は世界的にブームになり、今ではフランスでも、俳句に言及されることはしばしばです。何にせよ、敬意が払われて受容されていることは結構だし、歓迎するべきことなのです。しかし受容のされ方が、私は今一つ気に入らないのです。「俳句はボードレールやマラルメに類似点が認められる」という論調なのです。つまり言い換えると、フランス文学のカノンと類似点が認められるので、なかなか結構な文化だ、という論述スタイルなのです。しかしこれでは、ボードレールやマラルメが最重要であり、彼らが上位にあることは疑いないが、俳句も認めてもよい、というくらいの話に落ち着くのです。これではそのものの良さを理解することはできないでしょう。 たとえばこうした議論を展開するのは、イヴ・ボヌフォワというフランスを牽引する詩人ですが、もちろん日本語はできません。だから細かい機微に分け入って検討することはできないのです。つまり日本的な発想で俳句を理解した上で、それをさらにフランス的な視点で批評するというまでには至っていません。よくこれでエッセイが書けるなと驚きはするのです。しかしウェブ上を探せば、いくらでもボヌフォワの俳句論によって俳句が見いだせたと言わんばかりの日本人の研究が見つかるのです。私からすれば「それはアナタが俳句を知らなかったのを、ボヌフォワを機に俳句を勉強しただけだろう」と思ってしまいます(ボヌフォワは、なるほど、追従者が現れておかしくないほどのビッグ・ネームではあります)。 ともあれ、これがフランス式の異文化理解の基本だと私は思います。たとえばフランコフォニー(フランス語圏)という言葉がありますが、これはフランス語ができれば誰でも受け入れるという寛容な考え方である一方、大本ではフランスを中心化しようという動きではあるのです。また同時に、フランス人にとって理解しやすい形になったものは、受け入れるという態度であるのです。もっともフランス人の名誉のために言えば、俳句に関しては、これでは不十分だと考える専門家もいるのです。そして公平な観点でいえば、こうやってフィルターを通す行為を、日本人もまたしていると言えるでしょう。つまり中国や韓国の文化を受容する時に「日本でいえば~~に似ているな、だから好ましい」と思って歓迎するという心理はあると思います。 対象性と非対称性の話だと、私はプリゴジンを支持したいですね。というのも浮世絵などは非対象であり、シンメトリーがよいとされてしまうと、基準外になってしまうのです。私としては非対象の美を西洋がどう認め得るかということにも関心があるのです。だから安易に否定されてしまうと参ってしまいます。ただし最終的に、どちらも公平に認めざるを得ないとは思うのではあります。アジアといっても、中国は対象性を重視するわけですから。

回答No.49

 サド:『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』(植田祐次訳)を途中まで読みました。中間報告によって批評に代えたいと考えます。  §1. 文学作品として駄作であること―― その叙述が 一回性という現実性に欠けること――を問います。(§2・§3)。  また クリスチアニズムの理解が間違っているということ これをも問います。(§3・§4)。  §2. ジュリエットが殺人を犯すそのおこないについて 描写を端折り過ぎていること    ▲ (p.27~) ~~~  ジュリエットは 厚かましくも夫の寿命を縮める罪深い考えに熱中した。  ・・・  幸いにも ロルサンジュ夫人(=ジュリエット)は人目につかぬよう事を実行したので いっさいの追及を免れ 夫をあの世に送った恐るべき大罪の痕跡を夫もろとも葬ってしまった。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだけで済ませている。これは コトが《成功》したかどうかにかかわらず 当事者を取り巻く情況のいきさつとして必然性を読者に説得しなければならないと考えます。  人殺しといった稀なコトであれば 殺す者も殺される者も 互いの間の絡みというものが いかに推移するか。これに 現実性はかかっている。たとえ途中で その謀を取りやめにしたという場合にも それとして思いと行ないの一回性が 殺す側と殺される側とについてきちんと述べられなければ読者は説得されません。  ブレサック伯爵が 伯母を毒殺するときにも――話の筋としては 伯母がその計画をジュスチーヌに打ち明けられ 逃れようとしたけれども なお逆に甥の伯爵によって裏をかかれたというかたちとして おもしろいと思ったのですが―― あまりにもあっけなくコトが運ばれるというのは 虚構の創作者として安易過ぎると見られます。  筋だけを運んでおけば 作品になると踏んだ浅慮がのこります。  §3. テレーズと名乗っていたジュスチーヌが サント=マリ=デ=ボワの修道院で修道士らに凌辱されたあと かのじょの取った行動に疑義があること  あるいはかのじょがしかるべき行動を取らなかったこと ここから疑義が生じます。疑義の中身は 一回性もしくは現実性としては上の(1)と同じですが この場合にはさらに《キリスト者であること》をどのように設定しているかにかかわっています。  すべてを端折って言えば 凌辱を受けたあと・というよりは その受けているときに ジュスチーヌは 抵抗している。やめて欲しいと叫んでいる。おそらくこれは 信仰の問題としては 何を信じていると言えば キリストの神ではなく 《美徳》をあたかも神のごとくに信じているというふうにも言えるかと考えます。  かのじょがしなかった行為とは 自由意志を踏みにじる行為に対して もはや何もしないという行動 これを採ることです。言いかえると その凌辱行為に対して きちんと憎んでいない。おのれの内面において憎み その悪であることを論証し批判し その批判内容を悪行者にも向ける。表情や自己の態度で相手に臨む。これを行なっていない。  神のことを思うよりも 美徳を守ることを思っている。そういうキリスト者としてサドは設定している。これだと ちょうどニーチェが 観念の神と観念的に格闘したように 自分が間違って規定したキリスト者ないしクリスチアニズムをその抵抗や挑戦の相手としているに過ぎないと言わざるを得ません。  この修道院でのその後の経過は もはやうどんが延びてしまっているとわたしには思われます。  §4. 《キリスト者》を問題にしてもよいと考えられるその理由  まだ青年であるブレサック伯爵のクリスチアニズム批判が 堂々と登場するところから 前項(§3)を問題にしてもよいと考えられます。  ▲(p.126) ~~~~~  神は天体と人間の心を支配する至高の動者なのだから 天体を使ってぼくたちに教えるか さもなければ 人間の心を支配する至高の存在を刻み付けてぼくたちを得心させるか どちらかの手だてを取ることができるのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ アマテラス科学語をつうじてかそれともアマテラス人格語をつうじて 神はみづからのことを人間に現わし示せということのようです。出来ないというのが 相場です。出来たら 神ではない。  まったくはっきりしている神学の初歩です。哲学にとってもその内容は かなっています。  以上によって 文学書としても思想書としても 失敗作である。と見なします。  

noname#130919
質問者

お礼

とても参考になりました。が、せっかくなので、反論も書いておきます。 まず文学作品として省略があるのは、この時代の小説は仕方がないのです。たとえばヴォルテールの『カンディード』の描写は非常に簡素なものです。ディドロもまた同じです。サドは割と描写は丁寧にした方です。ロマン主義以降の、濃厚な描写を知ってしまった後の観点から批判するのは、アナクロニスムであると私は考えています。 >神のことを思うよりも 美徳を守ることを思っている。そういうキリスト者としてサドは設定している。これだと ちょうどニーチェが 観念の神と観念的に 格闘したように 自分が間違って規定したキリスト者ないしクリスチアニズムをその抵抗や挑戦の相手としているに過ぎないと言わざるを得ません。 うーん、なるほど。それはその通りですね。ただこれはテレーズの設定が、わざとそうなっているといえないでしょうか。理想的なキリスト教者を凌辱しているというより、通俗的なキリスト教者ではあるが無垢な少女を凌辱しているという設定だと私には思えます。 >>神は天体と人間の心を支配する至高の動者なのだから 天体を使ってぼくたちに教えるか さもなければ 人間の心を支配する至高の存在を刻み付けてぼくたちを得心させるか どちらかの手だてを取ることができるのではないか。 >出来たら 神ではない。 「出来たら、神ではない」ですか。ズバッと言い切りましたね。確かにこれは、その通りですね。しかしここでは、神の不能性をあげつらって、嘲笑っていると言えないでしょうか。したがって、あまり文字通りに受け取って真面目に「こいつは神学や哲学の基礎がわかっていない」と息巻いても仕方ないという気がします。ここでは「どうせ神は何もできない無能力者なんだから、気にするだけ無駄なんだぞ」と強調しているだけでしょう。 ともあれ、ご投稿に感謝しております。

  • cyototu
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回答No.48

またまた、サイコロさんと木造でえくさんに質問だ。 多分何の役にも立たない質問のような気しないでもないが、それでも質問してみる気になった。これは本来「ボードレールの魅力?」の設問の所で持ち出した方が流れの筋が通っているんだが、あちらじゃ木造さんが「わしゃ門外漢だ」なんて、びびっちゃって話しに乗って来てくれないようだから、こちらで質問しようとうい気になった。まあ雑談の気で思い付いたことでも教えて下さい。 この質問をする気になった切っ掛けは、他の設問での木造米虫さん回答の中の次の文章からだ。 >学生時代にテキサスインスツルメントから関数電卓が出ていたが、とても買えなかったから、計算尺を使ったね。最後の計算尺世代で、今や絶滅危惧種だ。 先ずは、理系の古典的小話を聞いてくれ。これは、工学屋と物理屋と数学屋の違いの本質を突いた小話だ。 ある人が2掛ける3は幾つかと聞いた。先ず、工学屋がポケットから小型計計算尺を取り出して目盛りを合わせ、それは、5.98723だと答えた。次に、物理屋だ。曰く、違った数字を掛けるのは難しすぎる。だけと同じ数字の掛け算ならその答えを知っている。2掛ける2は4、3掛ける3は9。だから、うーん、その答えは7だ。そして最後に、数学屋。2も有限の数だ。3も有限の数だ。そして、かの数論で有名な誰々の定理によって、二つの有限の数の掛け算はやはり有限だ。だからその答えの数は存在する。 まず、サイコロさんへの質問。この質問を文献学者にしたらなんて答えるんだろうか。あんたも察しがついただろうが#48の最初の文章に関連した質問だ。 しかし、これは数に関する質問だから文系では答え辛いかもしれない。でも無理に答えてくれたら何か面白いことが出て来るかもしれない。他の解答法としては、文学系の各分野同士の比較を上のような小話で言ったらどんな話が出来るか、それともそんな話しは既にあるのかでも良い。 次に、米虫さんへ。上の小話で象徴されているように、工学屋と物理屋では世界の見方が全然違っているようにあたしゃ常々考えている。工学屋は物を作らにゃならん。だから、細かい所にも神経を尖らせていなきゃならない。一方、物理屋はそんなことに全く興味がない。何でも桁数だけで解っちまおうとする。なのにでえくのあんたには、妙にあたしは共鳴出来るんだね。それじゃあ、あたしの持論「文化の違いとは価値観の違いである。えっへん」ってえのが何がなんだか判んなくなっちまう。そんな、細かいことにも神経を尖らしとかなきゃなんないでえくが、なんで大風呂敷ばかり広げているヤクザな物理屋と共鳴出来るんだ。その辺りを、でえくの器量で一言分析してみてくんないかね。

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生、前の回答の方は、今考えているので、ちょっとお待ちください。所信を表明せよとのことなのですが、かなり考えてしまいます。お返事しやすいところから書いて行くことにして、まだ後に回しています。 もっともマシュマロさんのお礼欄に少し書いたように、私の当面の研究の方向性は、脱西欧の動きをボードレールに見ることに主眼を置いているのです。文献学者は十年に一本ずつ論文を書いて、それを一般受けするように書き換えて売りさばいて業績にすると言われるけれど、私の二十年分ほどのテーマはどうも脱西欧であると言えそうです。 文献学者といったにせよ、これは最初の看板で、次に別の看板を掲げないとも限らないのです。私の昔の指導教官は、文献学者→思想家→活動家になってしまいました。文献学者というのは、かなり揺るがないような物言いをするから、+αの才能さえあれば、転職しやすいわけです。しかし六十過ぎで引退するまでに論文をこつこつ四本ほど書いて、それが一つの体系になっているというスタイルが渋いけれども、格好はいいと私は思うのです。 さて、数式の問題ですね。どうしようかと思いましたが、3がボードレールで、2がランボーだとしてみましょう。ボードレール×ランボーはいくつか? 文献学者的な発想による答え。およそ1です。何をやっているかといえば、まず×という符号を比較行為の意味でとることから始めます。そして二つの事象を重ね合わせてみて、共通の要素(共通集合)を抜き出すのです。つまり作家を比較するという行為を行うのです。おそらく二人の共通点なら、1未満くらいはあるでしょう。 ただこれは文献学者の考え方であって、詩人がボードレール×ランボーの計算をしたなら、無限に数値が増えるような思考回路をとるでしょう。たとえばボードレール×ランボーのかけるという行為を、その後の作家らに及ぼした影響を考察すると考えて、「2と3に後続する以降の数値の全て」とも答えかねません。およそ何が正確な答えかを考えるという思考回路はなく、詩は無限だ!ということをPRすることになるでしょう。学者と詩人は両極端です。 ともあれ、減ってしまう掛け算で何が言いたいかといえば、文献学者がやれば、たとえ掛け算でも、減る思考回路に入るということ、石橋を叩いて叩き割るようなことをやると言いたいのです。これを「偏っている」といわれたら、そうなのですが、まぁカリカチュアしてみたところもあります。いかがでしょうか。

noname#131473
noname#131473
回答No.47

こんにちは。ご無沙汰しております。 お身体のほう、どうか大切になさってくださいね。 「審美とはいかにして可能か」で私が咄嗟に思いつくのは、 たとえば美の再定義やいわゆる伝統的な美的価値観の喪失を憂い理想の美のありようを希求する「美とは何か」であり、 またあるいは、多元的で新たな価値観を持つことの豊かさを享受し、排他的でなく積極的に異文化理解に努める上で欠かせない「なにが美となり得るか」なのです。 今日に至るまで、私達日本人はこの両輪を巧みに操り、少なからず異文化のフィルターを通じて我が国の伝統美を見出し、異文化理解に努めてきたと言えましょう。 でも、例に挙げれば、現代中国(現代中国美術)に対する私たちのまなざし、そして興味の程度や深さ。 これについてはどうなのでしょうね。 それらのうちに「美」を見出せる、あるいは、積極的に見出そうと努め関心を注いできたといえるでしょうか。 このたびの大震災に際し、アジア諸国から多大な手を差し伸べてもらい、また一定の賞賛の評価をいただいているからというわけでもないのですけれども、 我が国の復興を機に、いま一度、アジアにおいての「審美とはいかにして可能か」を各々自問し「美」を求める良い機会かと存じます。 そしてその際、西洋文化のフィルターは、未だ必要条件だと思われますか。 脱線ついでにMokuzo様へ、 ラブホの件、私は同意します。 ネット上から窺い知る統計上からいったい何が窺い知れるというのでしょうね。 たしかに狭小な住宅事情も無縁ではないと思われます。 でもやはり、自宅で堂々と…というよりも、場所を変えてこそこそっと「恥ずかしいことを隠れて行う淫靡さ」ゆえの愉しみもある──のかもしれませんよね。 むろん、なかには「罪」の意識をおぼえる人もいるのでしょうけれども…。

noname#130919
質問者

お礼

ご無沙汰しております。震災の大変な中、ご投稿いただいて感謝しております。 >でも、例に挙げれば、現代中国(現代中国美術)に対する私たちのまなざし、そして興味の程度や深さ。これについてはどうなのでしょうね。それらのうちに「美」を見出せる、あるいは、積極的に見出そうと努め関心を注いできたといえるでしょうか。 同感です。私は実は、アジアの芸術作品を西洋美術より贔屓にしているのです。パリでも「日本だけがアジアで特別」という論調があると前々から抗議するようにしています。何でなのでしょうね。私が中国人や韓国人の方々に、いたるところでお世話になったからでしょうか。パリに来て困っていると、助けられたものです。そしてマシュマロさんの投稿で、日本での排斥運動の類が収まってくれたらいいなと、内心で祈っています。 私は人権問題の方にこそ関心があるのですが、ただ専門で国際政治を学ばなかったものなので、あまり持論を展開はしません。もっとも指導教官は有名な人道主義者でしたけれども。彼は文献学者(仏文学者)を最初の看板にして、次に思想家、更に活動家になったのでした。 >そしてその際、西洋文化のフィルターは、未だ必要条件だと思われますか。 自分の存在意義を否定するみたいになるので、ちょっと語弊もありますが、実は、私は不要だと思っているのでした。というのも西洋文化のフィルターにかける限り、どうあってもキリスト教を理解し、古典を第一に考えることになるからです。いってみれば、いかにバロックとか新古典主義の芸術に似ているかを論じることでしか、その作品を受け入れることができないともいえます。 突き詰めて言えば、これがいかに無為かを弁じ立てるのが、私の研究の方向性であるといえるのです。しかし短絡的になってもよくないですし、嫌悪感をフランス人に持たれてはなりませんから、いくつかのクッションを入れていくのではあるのですが。 マシュマロさんにまでラブホの件でご意見いただいて恐縮です。参考になりました。やはり、これは人それぞれなのですね。私の世代というか、私の環境ではそれが真であったとしても、他の考え方もまた真になるだろうと思います。そして読み返せば、私の書き方も、偏りがありました。 マシュマロさんとご家族様のご息災を祈っております。

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