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真善美のみなもとは同じひとつであるか?
- 神と信仰ならびに宗教についての一般理論
- 真善美のみなもとは同じひとつである仮説についての問い
- 善悪と美の関係、個人の美学についての考察
真善美のみなもとは 同じひとつであるか?
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第九章 いわゆる真善美について 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。 6. では 美はどこに位置づけられるのか? 7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。 8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。 14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。 19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。 (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。 26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか? 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。 30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。 37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。 38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。
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こんにちは。 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。
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お礼欄を拝読、様相はわかりました。 >この質問の内容が 神および信仰ならびに宗教についての一般理論 の第十章である しかし信仰について特に考えが無いので、何も述べることは無いのです。悪しからず、お許しください。哲学カテなので、美学のはなしと思ってしまったというところがあります。宗教カテでもあればよかったですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 次の図示で 肝心の説明が抜けていたかと思い くどいですが おぎないます。 ○ (非経験の場⇒ 非思考の庭) ~~~~~~~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 宗教はオシエとして《考える》もの。信仰は 考えるに非ず(非思考)。という区別をしっかりと成そうと言って来ております。 そしてこれは じつは 哲学のいとなみであるとも 思っております。 平行線ですら 無限遠点でまじわるとも言われますから どこかでかみ合うといいと思います。 ひとまづ ありがとうございました。 もっとも 雑談程度で話は交わせますし 雑談の中に哲学がないとは誰も言わないでしょう。 * 組織宗教が 考えるべきオシエを信じなさいというのは もってのほかであると言って来ています。精神が錯乱しているとしか考えられないのだと。
>このいまの一致は 先に触れましたように 《想定上の・けっきょくは 信じるという非思考の庭での一致》であるからには 人間の側において・その内面において 起こる出来事です。 具体例があった上で考察するのが、科学的な態度だと思いますよ。まずは美しいものを発見しないとならない。しかしあなたのお話の場合、美しいと感じるものはあるんでしょうが、何が主要な例になっているのかもわかりません。したがって「想定上の」と言われても、何のことか、私には分からないんですよ。 >真善美の一致は ひとつに《非経験の場》という想定上の領域であり得るのではないかと言っています。 それならば非経験の場なるものを定義した上で、「真善美の一致は本来は〇〇という意味で使われるが、ここでは論者の独自の観点から、概念を拡張してみたい」などと論を持っていくのがよいでしょうね。しかし私はあなたが真善美の一致の元々の意味を理解しているのかどうか、怪しいと思っています。世間一般で言われている話をまずおさえてからでなければ、他人と話を共有することは難しいのではないでしょうかね。 >美 : 美醜を超えた美 これは・・・定義になっていないのではないですか。私にはさっぱりわからなかった。 しかしこうも理解不可能と言い続けると失礼でもありますから、最後に自己批判もしておきましょう。一言でいうと、現実(あなたの言葉で言うと経験の場)以外の話に、私は関心が無いんでしょうね。非現実にも、信仰にも興味がありません。したがってあなたが新しい観点を提案していると言ったにせよ、「面白い」とも何とも思わない。すれ違いの状況を書いておくと、こんな感じでしょうか。
お礼
分かりました。 まづは ご回答をありがとうございます。 つまり わたしのほうの舌足らずは 趣旨説明プロパーにおいては さしづめ ☆☆ 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。 ☆ くらいだけだったということ。つまり 《非経験の場》にかんする説明がです。 かろうじて あとは この質問の内容が 神および信仰ならびに宗教についての一般理論 の第十章であるという説明のみだということです。 もっとも回答No.1およびNo.2のお礼欄では 《非経験の場 と 経験世界》という図解をかかげてはいます。 あとは 《いわゆる真善美について》という主題をめぐる問い求めであると理解されて――そのような意味での一般的な問いであると理解されて――回答なさったことは 致し方がないと思います。というより 説明不足であったとすなおにみとめ あやまります。そのかぎりで たいへん失礼しました。 多少とも いまのこの構えで―― 一般的な質疑応答として――成り立つといまでも思っていることは そうなので その点についての説明をおぎないます。 次の図示で 《現実》ということを捉えているという点です。 ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~ (あ) 人間存在= 自然本性(身と心) 一般に 心(精神)において 現実を捉える。 身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。 (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*) * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構 **) ** ウソ(想像・虚構)のほかに さらに 非思考の庭(信仰)がある。 つまりそれは そのように想定されるという意味である。 ○ (非経験の場⇒ 非思考の庭) ~~~~~~~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これに懲りずによかったら またどうぞお越しください。
お礼欄を拝読。 芸術鑑賞のお話ではないということですので、私はここでやめるのがよいのかな、と思い始めました。同意できない点が多すぎるからです。 ・美=癒し ・形が醜い=ヤマシサ=悪 ということでした。 これを現実に当てはめると、私には次のようにしか理解できないのです。 ・アイドルは癒し、 ・形の醜いものは悪、 さらに広げていけば、 ・形の醜い民族は悪、 ・形の美しい民族は善 ともなりかねません。 ご存じないかもしれないけれど、真善美の一致は、ヒトラーが選民思想の基盤にした論理なんですよ(ヒュー・オナー『新古典主義』)。あなたがヒトラーと同じ考えだとは言いませんが、どうも同じ罠にはまりかけていらっしゃるような気がしました。真善美を唱えるときは、論理が暴走しないように、慎重にならざるを得ません。私はこうした意味で、慎重な議論が重要だと思っています。が、あなたにとっては、「そのくらい大した問題じゃないんじゃないの」とか「自分の議論の枠内では関係ない話だからどうでもいい」ということのようです。私はそうなると「どうぞご勝手に。しかし私は同意できません」と答えることになります。 > ☆ これは 真善美の一致か否かの問題であるよりも 芸術作品がどうすぐれているかのそれではないでしょうか。立派な芸術家か否かが問われているのではないでしょうか。 芸術家=芸術作品ではありません。したがって、私が書いたことは読み取っていただけなかったのだと考えます。また真善美の一致と一般的に言えば、作品におけるものになることも、申し添えておきます。そして私は、あなたが何において真善美の一致を論じようとしているのかがわからなくなりました。 わからないことが多すぎるので、今はやり取りができないのだなと感じました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 どうも推論じたいが合わないようなのですね。 ひとつだけ ここでは 説明をおぎないます。 ★ また真善美の一致と一般的に言えば、作品におけるものになることも、申し添えておきます。 ☆ これは おっしゃっていることが たぶんですが 勘違いなさったのだと思います。 つまり 真善美の一致は ひとつに《非経験の場》という想定上の領域であり得るのではないかと言っています。 ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界 ~~~~~~ ・真 : 普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽) ・善 : 善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪) ・美 : 美醜を超えた美・・・美 と 醜 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もうひとつに ですから 《作品における真善美の一致》という場合には 語弊が出る可能性があります。 その一面は 経験事象において 真善美が一致すると誤解されることであり もう一面は 作品なら作品といったモノの側でやはり一致があると誤解されることです。 * 経験事象としては 回答No.5のすずめのこくすさんが うまく《自由度》という言葉で説明してくれています。 千差万別なのです。 このいまの一致は 先に触れましたように 《想定上の・けっきょくは 信じるという非思考の庭での一致》であるからには 人間の側において・その内面において 起こる出来事です。 この作品は 真善美の一致した完成品であるだとか このアイドルは 真善美を兼ね備えた存在であるだとかの問題にはなりません。 こういったところでしょうか。 ○ 美は どこから来るか? だと思うのですが。(信仰=つまり 非思考の庭と言う場合には その一致というものが 何か概念としてあるいは理念や理想として あたまのなかに思い込まれるといったことはあり得ません。思考に非ずなのですから)。(美醜を超えた美は かたちに表わせません)。
お礼欄を拝読。 >つまり いわゆる芸術評論は二の次にして 個人としての主観における《真善美》を問うている。こういう出で立ちだと思います。 うーん。こう言われると、特に言うことが無くなっちゃう(笑)。個人的にそう思った、そういう世界観があるというお話だと、他人が特に意見を述べることも無くなってしまうんです。 >でも 同じく玄人はだしでいらっしゃる音楽を例にとって話し合ってみてはどうでしょう。 例をとるということには賛成しますが、音楽ですか? 絵画などの方がいいかもしれませんよ。視覚的なものの方が、すぐに歪みがわかります。 まずお話を進める上で 、その「ヤマシサ反応」とおっしゃっているものを何かの芸術作品を例にとって、示してみてもらえませんか。ホクロだとかシミだとかの比喩が挙がっていますが、私には余計わからなくなります。ホクロがある人物像が、ヤマシイでしょうか。私はそうは思わないなあ。私は外見で人間を判断できないと思っています。だとすれば、アイドルだとか、タレントだとかが、最も澄み渡った精神をもっているということになるでしょう。 ――書いてあることは読みましたが、具体的に考えようとしたとき、私には全くイメージがわきません。だから賛成も反対もできない。こんな感じです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >つまり いわゆる芸術評論は二の次にして 個人としての主観における《真善美》を問うている。こういう出で立ちだと思います。 うーん。こう言われると、特に言うことが無くなっちゃう(笑)。個人的にそう思った、そういう世界観があるというお話だと、他人が特に意見を述べることも無くなってしまうんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でも これは 《真善美の一致》という論点にとっては よいという見立てです。第一次の知覚において〔こそ〕 ヤマシサ反応が現われると思われるからです。 言いかえると このヤマシサ反応が単純に《真善と美との橋渡しをしている》という議論になります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >でも 同じく玄人はだしでいらっしゃる音楽を例にとって話し合ってみてはどうでしょう。 例をとるということには賛成しますが、音楽ですか? 絵画などの方がいいかもしれませんよ。視覚的なものの方が、すぐに歪みがわかります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 絵画にしても 一つひとつの作品が言わば巡礼の過程における寺院の一つひとつであるという見方は出来ると思います。 ただ音楽は 絵画よりもさらに《ことば》がすくない。(同じくらいですかね)。作品ごとに巡礼の経歴が 作曲家にしても演奏家にしても聴者にしてもともに 分かりやすいのではないか。と思ったものですから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ まずお話を進める上で 、その「ヤマシサ反応」とおっしゃっているものを何かの芸術作品を例にとって、示してみてもらえませんか。ホクロだとかシミだとかの比喩が挙がっていますが、私には余計わからなくなります。ホクロがある人物像が、ヤマシイでしょうか。私はそうは思わないなあ。私は外見で人間を判断できないと思っています。だとすれば、アイドルだとか、タレントだとかが、最も澄み渡った精神をもっているということになるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつ誤解がありました。シミ・ソバカスなどの母斑は あくまで心の傷が癒えたあとに残る心の傷跡のことです。たとえです。じっさいのホクロやアザのことではありません。 心につまりはその美を見る眼に シミやソバカスが残っていると ややもするとその眼が曇らされます。という話です。その曇りに応じて 醜いかたちにも共感をおぼえたりして 美に変化をきたすのではないか。これです。 もうひとつは ヤマシサ反応は 見る側の人に起こるものです。芸術作品じたいは その作者の心を離れたなら 一般に中立です。 ★ ――書いてあることは読みましたが、具体的に考えようとしたとき、私には全くイメージがわきません。だから賛成も反対もできない。こんな感じです。 ☆ ヤマシサ反応および心の傷跡としてのシミ・ソバカス理論 これによって 美は千差万別でありつつ 真善美としての一致のもとにある。という仮説をかかげます。 シミ・ソバカスによる影響を受けつつ しかも心(審美眼)は その本人にとっても・万人にとっても おおむね普遍性をもそなえている。のではないか。 美は 人それぞれの心におけるシミ・ソバカスの影響によって千差万別に受け取られつつ しかも同時に人の心としては その美の形や内容の自由度を包み込むかのような一定のみなもとが 想定される。それは 真善美という三つの要素の一致というかたちで 想定されるのではないか。 こう問うています。どうでしょう。
加筆。 >>歪んだ形を好む人は、心が荒んでいる。また整った形を好む人は、心が澄んでいる だとすれば、おっかなくて自分の好みを口にできなくなっちゃいますね。何それそれが好きだと口にすることは、どんだけ自分の心が荒んでますよ、ってことを告白していることになるわけですから。美術館はあたかも、告解の場になってしまう。 また私自身は、心の闇は人間が誰もが抱えているものだと思いますね。自分の闇に真摯に向き合った芸術と、テキトーにしか向き合わず表面的には「美しい」軽薄な芸術、どちらが善に近いのでしょう。善か悪かという判断で言えば、前者ではないでしょうか。 表面的に美しいものを善と呼んじゃうのは、お考えが浅い気がしますね。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 直前のやり取りを補いつつご返答してまいります。 ★★(回答No.9) ~~~~~~~~~~~~~ >30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。 うーん。ここの表現はかなり問題あるのでは。図式的に整理すると、歪んだ形を好む人は、心が荒んでいる。また整った形を好む人は、心が澄んでいるということになりませんか。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 細かく見てみる必要があると思います。 すなわち 《歪んだ形を好む / 整った形を好む》ということについて けっきょく心の中の一部分が その《ゆがみや ととのった形》にそれぞれ呼応するような恰好なのではないか。 つまりあくまで一部分なのだと考えられます。 ★★(同上) ~~~~~~~~~~~~~~ >34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 癒されるために芸術を愛好するという大前提がここにはありますが、それは芸術を鑑賞するにあたって数ある態度の一つにしか過ぎないと思います。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いくらかはすでに触れ得たかと考えますが ここですね。《美を感じる》と《芸術を愛好する》とのあいだで 重なる部分と異なる部分とがあるという問題ではないかと見られます。 一次的な知覚(すぐさま認識にも移るはずですが)と二次的な認識をじゅうぶんに果たし得たところでの鑑賞 これらふたつの事柄についての異同です。 例によって《ヤマシサ反応》というひとつの善悪についての判定基準にこだわっていますので ここでは 《一次的な知覚》に重きを置いて捉えようとしています。そしてそのことは 《善の損傷をめぐって心が癒される》ことに焦点を否応なく当てているというかたちです。 つまりは 一次的な知覚をふくむ二次的ないわゆる芸術評論にあっては 必ずしも個人的主観的な《心の癒し》には焦点をあてない。または 当てても一般化した議論となる。と考えられるからなのです。 すなわち まさにこの知覚優先の態度・ ★★ それは芸術を鑑賞するにあたって数ある態度の一つにしか過ぎないと思います。 ☆ なのです。鑑賞する態度を広げないで いまは議論しています。 早い話が このように知覚の段階にしぼって捉えるなら 心の癒しに大いにかかわり けっきょくは真善美の一致といった隙間のような場が起こり得ているかも知れない。という見方です。 ぎゃくに言えば 広く一般的な芸術鑑賞としてならば おっしゃるように ★★ 私はもっと多様なことを考えてもいいと思います。 ☆ となるのではないか。なるはずです。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「癒し」が最終的には善に向かっているということを言っているのかもしれませんが、それは芸術作品が人を善に向かわせているのでしょうか。いや、それを見る人間が善に向かおうとしているに過ぎないのではないでしょうか。反例としては、暴力を増長する作品などを考えてみたらよいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この中の《それ(芸術作品)を見る人間が善に向かおうとしているに過ぎないのではないでしょうか》といった見方は 芸術鑑賞一般という視点から言い出されるものだと考えられます。 言いかえると 言わば回り道をして――《善に向かおうとしている》からには―― やはり真善美の一致という見方を 裏書きしているように感じられます。 さて このご回答No.10です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>歪んだ形を好む人は、心が荒んでいる。また整った形を好む人は、心が澄んでいる だとすれば、おっかなくて自分の好みを口にできなくなっちゃいますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だからこそ 真善美の一致という仮説がどうも有効なように思われるのです。 どういうことか? すなわち 美についての知覚・感覚をつうじてすでに おのれの自然本性としてそなわっていた志向性(感覚として)がかなり分かってしまう。ことを意味すると思われるからです。 むしろ《おっかない》と思わせるほどの芸術作品(あるいは 自然の美醜)であるほうが 人にとっては 有益であると考えられます。そのようにしてわれに還ることが容易に出来るようになるからです。 ★ 美術館はあたかも、告解の場になってしまう。 ☆ でしょうか? そうではなく むしろいわゆる人為的宗教的な告解やその場が必要のないようになるのではないでしょうか? さて 心の闇の問題が提出されています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また私自身は、心の闇は人間が誰もが抱えているものだと思いますね。自分の闇に真摯に向き合った芸術と、テキトーにしか向き合わず表面的には「美しい」軽薄な芸術、どちらが善に近いのでしょう。善か悪かという判断で言えば、前者ではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 真善美の一致か否かの問題であるよりも 芸術作品がどうすぐれているかのそれではないでしょうか。立派な芸術家か否かが問われているのではないでしょうか。 ★ 表面的に美しいものを善と呼んじゃうのは、お考えが浅い気がしますね。 ☆ つまりは そういう時代そういう年頃もあるということではないでしょうか。 美が 真や善と地続きであるというみなもとの理論 これには差し支えるような心的現象ではないと思います。どうでしょう。
賛成とも反対とも決めかねますが、雑談程度の参加です。 >30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。 うーん。ここの表現はかなり問題あるのでは。図式的に整理すると、歪んだ形を好む人は、心が荒んでいる。また整った形を好む人は、心が澄んでいるということになりませんか。しかし現実に目を向けると、整った形を好む人の中には、冷血で、人種差別をする人もいますね。その人の心の在り方と、芸術に対する好みは関係ないんじゃないでしょうか。 >34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 癒されるために芸術を愛好するという大前提がここにはありますが、それは芸術を鑑賞するにあたって数ある態度の一つにしか過ぎないと思います。仮に癒しを求めているのなら、ご説の通りかもしれませんが、私はもっと多様なことを考えてもいいと思います。 >36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。 ここの節の理屈はわかります。しかしなぜそれが真善美の一致になるのかがわかりません。私が質問文から理解した論理は次のことです。 同意したということではなく、理解のために整理しておきます。 ・美とは、心の癒しである。 ・これは善の欠如に対する癒しである。 ・醜い形も、歪んだ心には癒しとなりうる。 最後のところがポイントです。醜い=悪なのだとすれば、真善美は一致していないのではないですか。「癒し」が最終的には善に向かっているということを言っているのかもしれませんが、それは芸術作品が人を善に向かわせているのでしょうか。いや、それを見る人間が善に向かおうとしているに過ぎないのではないでしょうか。反例としては、暴力を増長する作品などを考えてみたらよいでしょう。
お礼
でぃーくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 お話をうかがうと 39. 善という表現が術語としてまだこなれたものではないかも知れないですね。 40. 美学は 個人的な倫理や思想だとすれば それではなく美をめぐる芸術という観点もしくはその分野での広い議論がさらになお望まれるといった嫌いが残りましょうか。 全体としては むろん 41. 真善美は 互いに同じひとつのみなもとから来るのか。 という問いが横たわっています。 まづ取り上げるのは それらの前に 42. 心の傷や荒びの度合いに応じて かたちの整ったさまかそうでないさまかを美として感じたりえらんだりするというのは 単純に過ぎるのではないか。 これについて考えて行きます。でぃーくべくさんは これまでのやり取りに目を通してもらっていると思いますが いま一度振り返ってみます。 それは ★ ~~~~~~~~~~~ ・( a ) 美とは、心の癒しである。 ・( b ) これは善の欠如に対する癒しである。 ・( c ) 醜い形も、歪んだ心には癒しとなりうる。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ と整理してもらった論点をめぐる考え方にかかわると思うからです。 少し長いですが: ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ちなみに 自然本性は その善が傷ついても回復は可能だと考えられます。 わたしがわたしに立ち帰ればよいわけです。つまり うつくしいものに出遭って はっと我れに還るということも よくある出来事です。 善についた傷は どういう状態にあるのだろう? たぶん 自己到来として我れに還ったなら 善はもとの自然本性なる状態に復活するであろう。 ただし 母斑というものが残るかも知れない。ひどい場合には 痣(あざ)が出来て残る。黒子(ほくろ)や シミ・雀斑(そばかす)が出来ている。 それでも巡礼の旅路をわれらはすすみ行く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 《( c ) 醜い形も、歪んだ心には癒しとなりうる》というときの具体的なありさまが シミやソバカスをたずさえての審美眼の捉えるものとして現われるではないか。と考えられるからです。 アザやホクロが出来ない前にも自然本性としての美力があります。ときにこれをいつわってウソをつく。そしてその傷を癒して もとのチカラを回復するでしょうが そこでアザやホクロが出来るかも知れない。この出来ている状態においても 美との出会いがあることになります。 この母斑の残留は なかなか執拗であって審美眼を曇らせるのではないかとおそれるわけです。 すなわち (42)なる論点ですが あらためて確認しますと: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 図式的に整理すると、歪んだ形を好む人は、心が荒んでいる。また整った形を好む人は、心が澄んでいるということになりませんか。しかし現実に目を向けると、整った形を好む人の中には、冷血で、人種差別をする人もいますね。その人の心の在り方と、芸術に対する好みは関係ないんじゃないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ といった複雑な美(美醜)の受け留め方があるという事情を説明しうるのではないか。こう思ったりしました〔ので 過去のやり取りを持ち出しました〕。 さらに同じくだりで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔《( c )醜い形も、歪んだ心には癒しとなりうる》が〕 ポイントです。 醜い=悪なのだとすれば、真善美は一致していないのではないですか。「癒し」が最終的には善に向かっているということを言っているのかもしれませんが、それは芸術作品が人を善に向かわせているのでしょうか。いや、それを見る人間が善に向かおうとしているに過ぎないのではないでしょうか。反例としては、暴力を増長する作品などを考えてみたらよいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そしてこれは (39)の《善》という用語は 表現としてまづいのではないかという観点にもつうじています。 たぶんこの点は 単純に捉えることが出来るかと思います。 つまりは 《ヤマシサ反応》が無いか有るかで ここで言う善と負の善(つまり悪)とを判定し区別しているからです。そういう前提があるからです。 早い話が 心にアザが残っていると 醜いものにもヤマシサ反応が起こらずにそれを美としてえらぶということ これがあるかも知れない。 心〔という自然本性としては善〕に傷がつき しかも傷は癒えているがアザが残っているという場合 醜いものにもアザとの――部分的ながら―― 一致を見てあたかも共感し ヤマシサ反応は起こらないかも知れない。というふうにです。 (39)の《善》という表現にかんしましては じつは保留したいと思います。 つまり 真善美という言い回しがすでにふつうになっていますので しばらくはそのナラワシに従うことになるかと思うからです。単純にです。 (40):主観としての審美眼 あるいは 個人的な美学とはやや異なって 芸術一般についての幅広い議論が抜けているのではないか。――そのとおりに思います。 これも単純に捉えるなら 例のヤマシサ反応から出発しているからだと 質問者じしんは 思っています。 つまり いわゆる芸術評論は二の次にして 個人としての主観における《真善美》を問うている。こういう出で立ちだと思います。 でぃーくべくさんはご専門のようですから ご自身が この芸術論から入った(もしくは 芸術論をも基礎においた)真善美の議論を展開なさるとよいと思うのです。といったずるい保留をいまは考えています。 でも 同じく玄人はだしでいらっしゃる音楽を例にとって話し合ってみてはどうでしょう。 つまりたとえば 現代音楽は何だかよく分かりませんが 一般に音楽は 作曲家にしても演奏家にしてもまた決してそれらに劣らぬかたちで聴者にしても やはり一つひとつの作品ごとにあたかも巡礼の旅路でおとづれるひとつの神殿であったり寺院であったりするかのように 美の女神に相い対する。のではないでしょうか。 人生が 存在としての善とそして真理を問い求めるものであるとするなら そこにこの美をたずねる筋道もとうぜんのごとく ともにふくまれる。というように 論理から離れたような考えにおいてですが (41)の論点については感想や感慨を持つに到ります。 もう一件ご回答をもらっていますから そこであらためて考え直してみます。(少しお時間をもらうかも知れません)。
- kurinal
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bragelonne様、おはようございます。 「多数決」で、やってはならないことが、確かにありそうです。 ま、「やってはならないこと」は、 そもそも、やってはならないこと、のような気もするんですけど。 「真」はともかく、「善」、そして「美」 ・・・はあ。 「男はバカ」なんですかね。
お礼
(あ)★ 「多数決」で、やってはならないことが、確かにありそうです。 ☆ これは 大きな問題です。 たとえば 無主地の先占という理論が 所有権を保証するというのが 《多数決》でいまは決まっていますが そもそも土地は――地球上のあらゆる土地も海洋もは―― すべての人びとの共有ないし総有としてあるという理論も成り立つかも分かりません。 いまは 《領土》の根拠が互いに認められた理論にもとづいているようですが これも 変わるかも知れません。 つまり 日本の領土も中国の領土も その他その他も すべて地球じょうのあらゆる人びとによる共有物であるという理論へと変わるかも知れません。 つまり(あ)の主題は もっともっと探究して行かねばならない問題であると考えます。 また 《やってはならない》と捉えておしまいとするわけには行かないと考えるものです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 「真」はともかく、「善」、そして「美」 ・・・はあ。 「男はバカ」なんですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さらに理論として煮詰めて行くか あるいは 具体的な事例を取り出し それについて具体的に論じるか これが望まれます。 ご回答をありがとうございました。 問いは 美のみなもとは 真理や善と同じひとつなのか? です。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 なるほど。自由度があって それによれば必ずしも基準などが統一されていなくてもよいのだという。 ★ 美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。 ☆ ということは それを人間が知り得るかどうかを別として おおもとではその自由度を統括するような・あるいは自由度の基底として誰もに共通の内容があるというようなかたちを描いておられましょうか。 ということは どんどん推測して行きますが 美についてはそこまで万人に共通の基礎があるとするのなら 善や真についても 同じようであろう。と確かに考えられるのではないか。 言いかえると 経験的な現象としては 千差万別であって それらの差異もしくは自由度は じつは地続きであろうという見方になるかと思います。 ★ 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。 ☆ そうですね。いわゆる客観性またそれとしての普遍性 これを人は求めていると言うのか あるいはもともとそういった真理が自然本性にそなわっているから 各自の主観の差異をも超えて 客観性を求めると言うべきか。 そのような真理は じつは 経験的なものごととしてはまづ現われて来ないのだから 真理にどれだけ近いか どれだけ離れたかをおもんぱかって おのれの生きるにあたって・そして人間の共生にあたって どういう程度や中身がよいのか。こういうよいわるいをも 主観は考えるし その良さないし悪さについて人びとに共通の判断基準をも問い求める。真理の問題から善(善悪)の問題へ移る。 これら善悪あるいは真偽について いろんなことを経験しさまざまに考えかつ自分の世界観としてのまとまりをも持とうとする。 そのとき むしろ感性をとおしての何かが 人びとに共通の・そして真偽や善悪にとっても共通の基準があるのかも知れない。これが うつくしさというモーメントなんですかねぇ。 ★ 大筋の枠組みとしての感覚 ☆ というときには むしろこの《うつくしさの感覚》が作用すると見るべきでしょうか。 ★ 真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、・・・ ☆ ここですでに個人差が出て来ているのかも知れません。《文化的土壌》から受けるファクターも 個人によってそれぞれ微妙に違って来るのかも分かりません。 すなわち ★ ・・・個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。 ☆ この自由度は 決してそれぞれの共同主観性といった想定をないがしろにするものではない。こうも考えられます。 ★ 多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。 ☆ おそらくそうなのでしょうね。真理は 事実ないし客観性を扱うかたちでもあり それほどの自由度が出て来るわけではない。 善悪は おそらく存在ないしそのイノチを基本的な善として あとは自由度を広げるように思われます。 美醜は 善悪の自由度がもはや個々のものごとどうしの錯綜するかたちを成してしまうところで うつくしい いや みにくいというように感じたりするものであるので なかなか実際のかたち(感覚)として定まっているかどうかが 分かりにくい。 ★ 真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。 ☆ 美の自由度が ほかのふたつよりも余計に個人的であることは納得が行きます。あたかも真偽や善悪をぜんぶ含んでしかも そのときその場の個別のものごとについて感じるものだと思うからです。 あとのふたつについては いままだ考えています。 普遍真理ではなく主観真実は そして善悪の彼岸としての善ではなく 相対的な善悪は それぞれ 《社会が成熟する》なら むしろ自由度が増す・・・かも知れない。かな と思ったのですが まだ考え中です。 取り敢えず ここまでをもってご返答とします。