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善悪と美醜について

価値観には善悪と美醜がありますが、どちらが優先されるのでしょうか? 人は悪とわかりながら美で行動する場合があれば、善とわかりながら醜として行動しない場合もあります。 これは私の推測ですが、私も含め日本人の行動のほとんどが美的価値観によるものだと思われます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.9

 視点?を変えての回答を試みます。  悪とわかりながら美で行動する場合は・・・  その事柄に対して理性の価値判断が“美”に傾いているから。  善とわかりながら醜として行動しない場合は・・・  その事柄に対して理性の価値判断が、これも“美”に傾いているから。  ☆ この人は「美」に価値を見出している。

その他の回答 (8)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

いずれにしても、「自分自身のモノサシ」が無ければ、どうしようもない。 (「どう見られるか」ばかり気にしている卑屈な人間は、救いようが無い)とか。

回答No.7

 psytexさん(回答No.3)の回答にある、善悪は社会的であり、美醜は直感的であるという意見、また日本の文化は“理より情”を「美」と受け止めているようだ、との指摘や、hekiyuさん(回答No.5)の欧米では善悪が優先し日本では美醜が優先する、との見方が参考になります。  日本人の行動は美的価値観によるものだと思う、と云う質問者さんの着想は上記を参考にすると善悪を理的、美醜を情的と捉えて見ると、よりはっきりとしてくるように思います。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

>価値観には善悪と美醜がありますが、どちらが優先されるのでしょうか? なるほど、そういう考え方もあるのですね。私は善が美で悪が醜なのかと思っていました。よく考えれば次元が違うのかもしれません。いずれ場合によると思いますが、では今世間を席巻している、金(カネ)至上主義という価値観って、どちらなんでしょう。 >人は悪とわかりながら美で行動する場合があれば、善とわかりながら醜として行動しない場合もあります。 うんうん、分かるような気がします。一例唐獅子ぼたんのひとたちでしょうか。彼らは人格が衰弱して判断力が破壊されそうになっているのでしょうね。でも貴方は認めるのですね、すくなくとも同情している。 >これは私の推測ですが、私も含め日本人の行動のほとんどが美的価値観によるものだと思われます。 大胆な仮説ですね。マンガやAKB48なんかの文化輸出のことを言っておられるのならうなずけなくもないですね。以前日本人は経済アニマルといわれていました。欧米からの美的価値観で貶められていたということでしょう。これからはおおいに逆襲するべきだといわれるのならなんとなく楽しいご意見です。 私の推測です。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

”価値観には善悪と美醜がありますが、どちらが優先されるのでしょうか?”     ↑ 欧米では、善悪が優先し、日本では美醜が 優先すると思います。 日本人は、善悪などは立位置や時代とともに 変わることを知っています。 しかし、 欧米では、一神教であるキリスト教の為 善悪をはっきりさせる必要があります。 全知全能の神様一人しかいませんので、立位置や時代 で善悪がころころと変わる訳にはいかないのです。 これはイエズス会が来日して、日本庶民と質疑応答 したときの記録に残っていたものです。 イエズス会の神父は返事が出来ませんでした。 そこへ行くと美醜は主観的なようにも思えますが その判断基準は、独りよがりのものではなく、 世間や、歴史上そう言われて来たことを基にして いますので、意外と客観的なのです。 この美醜による価値観が端的に表れたのが武士道 です。 武士道では、善悪よりも、己の生き様が美しいか 醜いかを基準にする傾向があります。

回答No.4

 こんにちは。  次の質問で同じような主題をあつかっています。  参考にかかげるかたちの回答をおゆるしください。  【Q:うつくしさに打たれたきみは だれになるのか】~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792223.html  まづ《善》のお話から始めます。  こんな話題を見かけました。  ▲ 中国人が“無人販売所”に感激 「信頼できる社会って素晴らしい」。 ~~~~~~    http://news.biglobe.ne.jp/trend/1111/nrn_121111_6823737705.html  中国ではいま、無人の豆乳屋台が話題を呼んでいる。  もともと有人の屋台だったものが無人化してから約10か月が経過したが、こうした商売では必ず起こりそうな“未払い”や“飲み逃げ”といった問題は、これまでほとんど発生していないそうだ。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということで もし《良心》や《良識》を善と呼んでよいなら これは 《善》を主題とする美談であるかと思います。  そしておそらくこの良心は――つまり良心というのは 《自由》と同じようにほとんど公理として理屈や哲学的議論を抜きにして想定されているものと思われるのですが―― そのハタラキが発揮されるときには あまりそれを発揮してやろうといった意志を意図的に持とうとして 現われるものではない。  ただし その良心に逆らって何かをしようと思うときには 良心ははっきりと意識されて来る。  つまりそのときには 意志による判断が よいわるい両面ともども 同じくはっきりしたかたちで かたちづくられようとします。  ということは――何が言いたいかと言いますと――:  【α】 この良心をめぐる善のお話というのは     (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。    (α‐2) と同時に それとともに半ばその自然本性にもとづきつつもその心にも逆らう別の心を持ち得てそれを働かせる人間の自由意志や心つもりのやはり為せるわざである。  とまとめ捉えてよいか?          *  そこでむしろ問いたいのは 《美》についてのもんだいです。    【β】 うつくしさに心が打たれるのは きみの自然本性においてか あるいはそれ以上の存在機能のようなものとしての自由意志によってか?  (β‐1) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか?  (β‐2) 《ある》なら そのワタシは おのれの一応自由になるところの自由意志であるか それとも 意志や意識以前の自然本性そのものであるか?  (β‐3) つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはワタシを《わたし》は見留めているか?  (β-4) それとも その一瞬《わたし》は ないか?  (β-5) けれども・ただし 確かにわれらはその瞬間にはとどまれない。ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか? ここにもどるのか?   (β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか?        *  おまけの問いです。  【γ】 では 真理とは何ぞや?  (γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか?  (γ‐2) ないか?  (γ‐3) なくても やがて《わたし》に立ち戻るか?  (γ‐4) けれども立ち戻った《わたし》よりも 一瞬のうちに消えていた《わたし》のほうが 《もっともわたくしなるもの》としての存在ではないのか? どうなのか?  (γ‐5) それでは 《存在》とは何ぞや?  (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか?  (γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ベストサンサーなどを参照いただければさいわいですという横着な投稿形式にてですが。  ★ 価値観には善悪と美醜がありますが、どちらが優先されるのでしょうか?  ☆ 基本的には――クリシェのごとくの《真善美の一致》なる理論にもとづき―― 同じである。という回答です。  そのときの《善》は まぎらわしいと思うのですが あくまで主観の内面における《良し》と見る見方のことです。言いかえると 社会通念としてやあるいは倫理規範としての善ではなくです。主観において自然本性としてはたらく良し悪しという感覚のことです。それは 美醜と基本的に一致するという見方です。

回答No.3

善悪は社会的、美醜は直感的なものです。 それらは本来の生きる目的「肉体的に生きる=その意志化に おいて精神的充足量の最大化を図る」から派生した、二次的な ものです。 本来、自己の生きる意志を環境に敷衍する上で、その周囲への 影響の因果関係を把握し、自らの意志の達成として、生きる事 自体によって精神的充足を得るのが本筋です。 ところが、そうした環境における自己の生命性の社会的延長や 物質循環の因果関係(物理)の認識の深まりを省略し、一方で お金や善悪ばどの社会的二次的価値(飴やムチ)により他律的 に生かされ、他方で本能や美醜(経験の蓄積の視覚への射影) による反射的な多様な衝動の拮抗の結果として、流されて生き るようになっているのです。 確かに日本人は、稲作農耕+島国文化の集団主義において、 他律的に生きる(常識に従う、周囲に合わす)ので、自発的な 意志が貧弱なので、先述の“他律的な生”の要因たる美醜が 強い作用を持ち得ます(主には集団主義=他に合わせる、だが)。 善悪が社会的な要素として理詰めにはしりがちなのに対し、 美醜は生活実感の集積として情緒的なので、拡大解釈すれば 日本人の集団主義に見られる“理より情”を「美」だと言えなくは ない、ていう?

noname#181644
noname#181644
回答No.2

美醜を超えているので清いのであって、善悪にとらわれないので良いとされるのではないですか。 また、質問者さんのその推測が、質問者さんの周辺の人のみに適用されることであって、一般的な見解ではないと、この質問を読んだ多くの方々も思われるのではないだろうか。

回答No.1

私の近所にも、認知症の男性がいるのですが、イニシャルを言うとI.Sさんです。もと自衛隊員で、訓練中の怪我か何かでPTSDになったらしく、 「息子が池に飛び込んだ」 とか、 「孫が猫を殺す」 とか、今朝も警察沙汰を起こして、近所の人からや元同僚からも嫌われています。 こんな人がいると、夜も、ゆっくり、眠れませんね。 どうやら、共産党に入っているようです。 HONDAの車に乗っていましたが、鹿児島本線の大牟田駅で、とうとう、人身事故を起こしたそうです。 こういう人間こそ、悪にして醜、でしょう。本名を公開すると飯干忠(すなお)です。享年71でした。 合掌

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。