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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?)

真善美のみなもとは同じひとつであるか?

このQ&Aのポイント
  • 神と信仰ならびに宗教についての一般理論
  • 真善美のみなもとは同じひとつである仮説についての問い
  • 善悪と美の関係、個人の美学についての考察

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

こんにちは。  真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。自由度があって それによれば必ずしも基準などが統一されていなくてもよいのだという。  ★ 美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。  ☆ ということは それを人間が知り得るかどうかを別として おおもとではその自由度を統括するような・あるいは自由度の基底として誰もに共通の内容があるというようなかたちを描いておられましょうか。  ということは どんどん推測して行きますが 美についてはそこまで万人に共通の基礎があるとするのなら 善や真についても 同じようであろう。と確かに考えられるのではないか。  言いかえると 経験的な現象としては 千差万別であって それらの差異もしくは自由度は じつは地続きであろうという見方になるかと思います。    ★ 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。  ☆ そうですね。いわゆる客観性またそれとしての普遍性 これを人は求めていると言うのか あるいはもともとそういった真理が自然本性にそなわっているから 各自の主観の差異をも超えて 客観性を求めると言うべきか。  そのような真理は じつは 経験的なものごととしてはまづ現われて来ないのだから 真理にどれだけ近いか どれだけ離れたかをおもんぱかって おのれの生きるにあたって・そして人間の共生にあたって どういう程度や中身がよいのか。こういうよいわるいをも 主観は考えるし その良さないし悪さについて人びとに共通の判断基準をも問い求める。真理の問題から善(善悪)の問題へ移る。  これら善悪あるいは真偽について いろんなことを経験しさまざまに考えかつ自分の世界観としてのまとまりをも持とうとする。  そのとき むしろ感性をとおしての何かが 人びとに共通の・そして真偽や善悪にとっても共通の基準があるのかも知れない。これが うつくしさというモーメントなんですかねぇ。  ★ 大筋の枠組みとしての感覚  ☆ というときには むしろこの《うつくしさの感覚》が作用すると見るべきでしょうか。  ★ 真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、・・・  ☆ ここですでに個人差が出て来ているのかも知れません。《文化的土壌》から受けるファクターも 個人によってそれぞれ微妙に違って来るのかも分かりません。  すなわち  ★ ・・・個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。  ☆ この自由度は 決してそれぞれの共同主観性といった想定をないがしろにするものではない。こうも考えられます。  ★ 多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。  ☆ おそらくそうなのでしょうね。真理は 事実ないし客観性を扱うかたちでもあり それほどの自由度が出て来るわけではない。  善悪は おそらく存在ないしそのイノチを基本的な善として あとは自由度を広げるように思われます。  美醜は 善悪の自由度がもはや個々のものごとどうしの錯綜するかたちを成してしまうところで うつくしい いや みにくいというように感じたりするものであるので なかなか実際のかたち(感覚)として定まっているかどうかが 分かりにくい。  ★ 真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。  ☆ 美の自由度が ほかのふたつよりも余計に個人的であることは納得が行きます。あたかも真偽や善悪をぜんぶ含んでしかも そのときその場の個別のものごとについて感じるものだと思うからです。  あとのふたつについては いままだ考えています。  普遍真理ではなく主観真実は そして善悪の彼岸としての善ではなく 相対的な善悪は それぞれ 《社会が成熟する》なら むしろ自由度が増す・・・かも知れない。かな と思ったのですが まだ考え中です。  取り敢えず ここまでをもってご返答とします。

その他の回答 (13)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、こんばんは。 いずれも「多数決」といったことには、そぐわないと思います。 真・・・「証明」可能? 善・・・「主張」可能? 美・・・儚い

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.1および2で 次のように 真善美のふたつの次元を捉えました。  ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界  ~~~~~~  ・真 :  普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽)  ・善 :  善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪)  ・美 :  美醜を超えた美・・・美 と 醜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに従いますと  ★ 真・・・「証明」可能?  ☆ 普遍真理としては そのように――つまり変わらざる真実として――想定するかたちで定義するものと考えます。  経験事象としての主観真実(またそれを共同化した科学的真実)については 科学的真実という呼び方のとおりに《実証や論証》の対象となるものと考えます。  ★ 善・・・「主張」可能?  ☆ これも 想定じょうは 善悪の彼岸なる《非経験の場》については 万人に共通であると見なされます。  経験世界における善と負の善(つまり悪)とは それらを総合的に把握して 人はそれぞれの意志行為として自己表現し その内容についてはそれぞれが よいわるいといった評価を互いにおこないます。  ★ 美・・・儚い  ☆ この儚さの問題は 経験事象としての《美と醜》にかんする捉え方なのでしょう。  そのありさまについては 次のように考えました。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて 〔特に美を感じることをつうじて〕その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのつど自分の状態や相手が誰であるかといったその時その場の情況に応じて 美を感じる場が違って来る。その場は あたかも《巡礼をしている寺院》ででもあるかのように 一つひとつ個性もあるだろうし 違っている。また 多くの場合強い印象を与えられたにしても その感覚は さほど残らないようになってしまう。  けれども それは おのれの《ウソつきの経歴》としての《善の損傷》の具合いにおうじて 異なった美に感性がゆすぶられるのであって しかもそうではなくそもそも人間の自然本性ということになれば それは・つまりそういう美としては 真理や善(善悪の彼岸)の場合と同じように けっきょくは普遍的なものがあるのではないか。――ということを問うています。  ちなみに 自然本性は その善が傷ついても回復は可能だと考えられます。  わたしがわたしに立ち帰ればよいわけです。つまり うつくしいものに出遭って はっと我れに還るということも よくある出来事です。  善についた傷は どういう状態にあるのだろう?  たぶん 自己到来として我れに還ったなら 善はもとの自然本性なる状態に復活するであろう。  ただし 母斑というものが残るかも知れない。ひどい場合には 痣(あざ)が出来て残る。黒子(ほくろ)や シミ・雀斑(そばかす)が出来ている。  それでも巡礼の旅路をわれらはすすみ行く。

noname#212854
noname#212854
回答No.2

 人は、観念的な永遠存在であると同時に、具体的な肉体でのみ証言される限定存在でもあります。  真善美は、その両方の要素を、如実につかみ出しやすいと思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  表現に厳密さを問わないですなおに受け取りますと 趣旨説明の内容を 然りとして受け留めていただいたというように思いました。  ★ 真善美は、その両方の要素(* 永遠性と時間性)を、如実につかみ出しやすいと思われます。  ☆ この両方の要素にかんしましては No.1でのやり取りで 次のように図にしてしめしました。  ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界  ~~~~~~  ・真 :  普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽)  ・善 :  善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪)  ・美 :  美醜を超えた美・・・美 と 醜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《観念的な》というのは じつは《考える》の領域に属しており じつは《経験的で 相対的で 有限であり時間的なものごと》のことです。  そこで 《人》がそうであるかどうかをいま別として 《永遠存在》というのは 図におけるタテの左側 つまり《非経験の場》としての真善美だと思います。  ★ 具体的な肉体でのみ証言される限定存在  ☆ というのは 右側のタテの三つなる真善美です。  この問いは けっきょく    《美》は どこにそのみなもとがあるか?   あるいはつまり    《美》は 真善美というように真や善とともに 同じひとつのみなもとから来るか?  を問うています。(もう少し そこに焦点を当てて表現しておけばよかったかと反省します)。  言いかえると 人がうつくしいと感じ思うのは それは 人によっており千差万別であると ややもすると言われたり思われたりするとき いや そうではなかろうと言って 出しゃばって考えた議論が この問いです。    賛成票を投じてくれる回答をもふくめて このような《美は どのように感じられて来るのか?》といった人間論として捉えてもらって さらにみなさんからの自由な見解が寄せられることを俟ちたいと思います。  ぴないさ‐らさんも どうぞ。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.1

人間の存在・存続の為に 調和したり安定したり 進化したり発明したり 希望や生きがいを見出したりするのに必要なのが 真善美です。 簡単に書くと 存在する為に求め活かすのが真善美です。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  うーむ。なぜだか かえってむつかしいですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間の存在・存続の為に 調和したり安定したり 進化したり発明したり 希望や生きがいを見出したりするのに必要なのが  真善美です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。次元の違うふたつの意味がそれぞれにあると まづ思うのです。  ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界  ~~~~~~  ・真 :  普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽)  ・善 :  善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪)  ・美 :  美醜を超えた美・・・美 と 醜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 絶対の場と 相対の世界とです。絶対の場としては 真善美はいづれもそのみなもとが 同じひとつである。こういう議論になっています。  普遍真理と 善悪の彼岸 これらふたつについては みなもととしてそれぞれひとつであり 互いに同じであると言っても 大方の同意を得られるのではないかと思います。  ところが 美についてはどうか? となると なかなか見解の一致を得ることはむつかしい。のではないかと思われました。それでも やはり 真善と同じく 美も 同じひとつのみなもとから来ているのではないか。こういう議論です。  ★ 人間の存在・存続の為に・・・必要なのが 真善美です。  ☆ これは そのまま 趣旨説明欄の(3)と同じ見解になるかと思います。  ★ 調和したり安定したり 進化したり発明したり 希望や生きがいを見出したりするのに必要なのが  ☆ おそらくまづ《進化と発明》とには あまり直接には関係しないのではないかと考えますが どうでしょう?  《調和と安定》 これも漠然としているのではないかという感じを受け取ります。  善と悪とのあいだで 調和と安定とが求められる。というふうにも見ることが出来るとしたら 善が必要だという見方は どこか漠然とした表明ではないかとも感じられました。  《希望や生きがいを見い出したりする》のは 真善美を全体としてまとめたその人の価値観や世界観〔による判断〕であって 真善美は大いにかかわっていますが そのまま直接に必要であると言うには これも何だか漠然としている。かなと感じました。  ★ 簡単に書くと 存在する為に求め活かすのが真善美です。  ☆ ええ。そして 細かく考えるなら たとえばおのれの主観真実には ホントウとウソイツワリとがあって これを相手と情況とに応じて 自分の判断と責任とで釣り合いを取ったというようなかたちのおのが真実として自己表現するのではないかと考えられます。  美(ないし美醜)についても おそらく細かく見るなら 一筋縄ではまとめ切れない主観としての表現の妙があって おそらくつねに主観内にあってはいくつかの美醜の要素が絡み合っているであろうとも考えられます。  しかもそうであっても 真理と善悪の彼岸と美醜を超えた美とは それぞれ真善美の互いにとって同じひとつのみなもとであろう。こういった仮説を提出しています。どうでしょう。

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