※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?)
真善美のみなもとは同じひとつであるか?
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
第九章 いわゆる真善美について
1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。
2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。
3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。
4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。
5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。
6. では 美はどこに位置づけられるのか?
7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。
8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。
9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。
10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。
11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。
12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。
14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。
15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。
16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。
17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。
18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。
19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。
20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
(共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。
21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。
22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。
23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。
24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。
25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。
26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。
27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?
28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。
29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。
30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。
31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。
32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。
33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。
34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。
35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。
36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。
37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。
38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 なるほど。自由度があって それによれば必ずしも基準などが統一されていなくてもよいのだという。 ★ 美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。 ☆ ということは それを人間が知り得るかどうかを別として おおもとではその自由度を統括するような・あるいは自由度の基底として誰もに共通の内容があるというようなかたちを描いておられましょうか。 ということは どんどん推測して行きますが 美についてはそこまで万人に共通の基礎があるとするのなら 善や真についても 同じようであろう。と確かに考えられるのではないか。 言いかえると 経験的な現象としては 千差万別であって それらの差異もしくは自由度は じつは地続きであろうという見方になるかと思います。 ★ 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。 ☆ そうですね。いわゆる客観性またそれとしての普遍性 これを人は求めていると言うのか あるいはもともとそういった真理が自然本性にそなわっているから 各自の主観の差異をも超えて 客観性を求めると言うべきか。 そのような真理は じつは 経験的なものごととしてはまづ現われて来ないのだから 真理にどれだけ近いか どれだけ離れたかをおもんぱかって おのれの生きるにあたって・そして人間の共生にあたって どういう程度や中身がよいのか。こういうよいわるいをも 主観は考えるし その良さないし悪さについて人びとに共通の判断基準をも問い求める。真理の問題から善(善悪)の問題へ移る。 これら善悪あるいは真偽について いろんなことを経験しさまざまに考えかつ自分の世界観としてのまとまりをも持とうとする。 そのとき むしろ感性をとおしての何かが 人びとに共通の・そして真偽や善悪にとっても共通の基準があるのかも知れない。これが うつくしさというモーメントなんですかねぇ。 ★ 大筋の枠組みとしての感覚 ☆ というときには むしろこの《うつくしさの感覚》が作用すると見るべきでしょうか。 ★ 真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、・・・ ☆ ここですでに個人差が出て来ているのかも知れません。《文化的土壌》から受けるファクターも 個人によってそれぞれ微妙に違って来るのかも分かりません。 すなわち ★ ・・・個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。 ☆ この自由度は 決してそれぞれの共同主観性といった想定をないがしろにするものではない。こうも考えられます。 ★ 多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。 ☆ おそらくそうなのでしょうね。真理は 事実ないし客観性を扱うかたちでもあり それほどの自由度が出て来るわけではない。 善悪は おそらく存在ないしそのイノチを基本的な善として あとは自由度を広げるように思われます。 美醜は 善悪の自由度がもはや個々のものごとどうしの錯綜するかたちを成してしまうところで うつくしい いや みにくいというように感じたりするものであるので なかなか実際のかたち(感覚)として定まっているかどうかが 分かりにくい。 ★ 真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。 ☆ 美の自由度が ほかのふたつよりも余計に個人的であることは納得が行きます。あたかも真偽や善悪をぜんぶ含んでしかも そのときその場の個別のものごとについて感じるものだと思うからです。 あとのふたつについては いままだ考えています。 普遍真理ではなく主観真実は そして善悪の彼岸としての善ではなく 相対的な善悪は それぞれ 《社会が成熟する》なら むしろ自由度が増す・・・かも知れない。かな と思ったのですが まだ考え中です。 取り敢えず ここまでをもってご返答とします。