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世に悪とは存在せず?善のねじ曲がりとは何か
- この世に悪は存在しないという問いについて、善のねじ曲がりが悪であると言える。善は存在し、悪はそれとして善の損傷として現れる現象に過ぎない。
- 悪は心のへそ曲がりに発し、ウソやいつわりのことと言われる。一方、善は個人ごとに主観的に決まる心のあり方であり、悪は善のひねくれやねじ曲がりでありそれがくせとなると善が損傷を受ける。
- 悪は他のものから独立して存在するのではなく、善が減少していくにつれて現れるものと捉えられる。善としての心の本性が減り、それを悪と呼ぶ。したがって、悪は存在せず、善が減った状態の名前で呼ばれる現象に過ぎない。
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こんばんはです。 ☆☆☆ ☆(a)悪は存在しない。 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。 どちらも、人間がその都度その都度こしらえてきた価値観に従い、ある現象を〈善〉と呼び、それに相反する現象を〈悪〉と名づけているのではないでしょうか。この世に、あるいはこの世を離れたところに、真理界や叡智界というものがあるのならば話は別でしょうが、この現象的世界に絶対的な善や普遍的善などはありえず、善悪ともに相対的なものでしょう。ある社会で善と考えられているものが、別の社会では悪とされることもよくあります。時代によっても、善の内容は変化します。むしろ、善悪は文化・社会などによって異なる相対的で、多極的なものという捉え方は駄目ですかね。 また、 善性の欠如、もしくは善性をねじ曲げることをもって悪を定義するのならば、同様に、 〈悪性〉の欠如や、〈悪性〉をねじ曲げることをもって「善を定義する」ことも可能になるのは。 bragelonneさんの論法をしたがうのならば、 (a’) 〈善〉は存在しない。 (b’) 主観としての〈悪〉をねじ曲げ傷つけることが、〈善〉である。 (c’) すなわち 〈悪〉は それとして存在するが 〈善〉はその〈悪〉の損傷としてこれをひとことで〈善〉と呼ぶ現象があるのみだ。 となりはしませんか。 人間という不完全な存在を考えた場合、むしろ〈善〉より〈悪〉を実在視し、そこから哲学を組み立てるべきなのでは、などとも思っています。 〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉を善悪の判断基準とするのならば、〈悪〉を実在視する方が、理にかなっているようにも思うのですが。 ☆☆☆ ☆ ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 ◇〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉という心理的現象に善悪の根拠を置いているようですが、 bragelonneさんは、 そうした感情をいだくために、人間には本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力が備わっていることを前提としているように思います。 はたして、人間にそのような能力が生得的に備わっているのかどうか、僕はかなり懐疑的です。 そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。 そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。 そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、 ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。 また、僕は、理性や悟性といったものは、道具的なものだと考えています。 理性や悟性といったものは、自己利益の追求のためにつかう道具的なものという意味です。したがって理性や悟性そのものには価値はない、というのは極論ですが、便利な道具、その程度のものでしょう。 そして、人間は、生物学的な進化の中で、そうした理性や悟性と言われるものを身につけ、いわゆる動物とは別な存在になった。 しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。 ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。 この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。 ☆☆☆ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。 (そのどちらもふくめているのかしら?) 〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか? 老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。 で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。 だとしたら、今回の質問の背景にある思想は、キリスト教ではなく、日本・中国などにみられる自然(じねん)の思想が背景ということになるのでしょうかねぇ~。 だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。
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>とうとう本性をあらわした> ええまあ本性というより本音ですけどね。・・・しかしアホと言われてもご自身は痛くもかゆくもないでしょう。なぜなら悪意の派生可能性は無いんでしょw なら思う存分bragelonne さんをアホと言ってもいいわけだw
お礼
さすが 今回のような内容を言うには のなめ氏にならなければ言えなかったか。 愛は おのれについても 人間であるかぎり 同じくあてはまります。
- SakuraiMisato
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- SakuraiMisato
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必要悪は繰り延べ資産に例えられ得ませんでしょうか? http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120919-35021911-cnn-int http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120919-00001160-yom-soci http://www.k4.dion.ne.jp/~type_f/21A_L4/21A_L4SC_05.html
お礼
いや 投資しているわけですから 悪と初めから見るのはどうでしょう?
- SakuraiMisato
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如何で『御門違い』にやあらむ(反語)? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1372334893 誘導尋問の悪意は?
お礼
そういう場合には これこれの反証があります。どぢゃ? と反論するのが ふつうのやり方です。 具体的な文あるいはその解釈を提出して そんなことを言うけれど ここでは当てはまらないではないか? とやり込めるのが いいはずです。
>お門違いという言葉で理解してください。> 理解できるわけないだろ、アホかお前は?
お礼
とうとう本性をあらわした。
>お門違いでした。> なら一体何が目的で意地張ってるんですか?回答に不備があるならそこの不備を正確に説明すればいいじゃないですか?意味不明で支離滅裂な返答してなに意地張ってんですか?
お礼
お門違いという言葉で理解してください。
- SakuraiMisato
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此の質問では、若しかしますと、 財務諸表擬きの構造の指摘が期待されているのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7696365.html
お礼
そうですね。 負債は 資産という善の損傷でしょうか? 損傷というのはヘンですね。 でも 負の善をも引き受けるというかたちで《悪をも避けない》というような〔コジツケのような〕《愛》 このチカラとそのハタラキを 基礎におくなら ★ 財務諸表擬きの構造 ☆ が成り立つようにもうかがえるかも分かりません。 ただし どうも社会的存在としては人間は 世界全体を視野に入れた連結財務諸表としての動態であるようにも思えます。
- SakuraiMisato
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お礼
分かりません。
>けっきょく何をねらっていたのかな?> いやまあなにもはじめはねらってなかったんだけど、悪は存在しないと誇張する理由は何かと?聞いてるんですよ。 もしかしてその意図がご自身の悪行に対するただの言い訳じゃないかと思って、聞いたんですよ。 ひょっとして意地があるから贖罪出来ずに葛藤に苦しんでいるのかな?と? でなければあれだけまともな回答出していて、支離滅裂な応答して強引に『悪は存在しない』と誇張意味は無い筈。 つまりご自身は悪人であってそれを認めたくないから支離滅裂に追い込まれても『悪は存在しない』と意地張ってるのかなと思っただけですよ。まあねらいはその悪を潰すことですw
お礼
お門違いでした。
何も教えず話そらすbragelonne さんの何を知れという言うんだね? 質問にまともに答えず。挙句の果てに悪は存在しなくて悪は愛とか言い出す馬鹿なのかと陥落しました。 おっと馬鹿と言ってしまいましたね。ん~まだ俺も未熟だな~しかしご自身そろそろボケはじめてるんじゃないんですか? 施設行くとかした方がいいですよ。
お礼
けっきょく何をねらっていたのかな?
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いそがしくなってまいりました。夕飯と夕刊を済ましました。 ★ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。 ☆ なるほど。これらの言葉について深く規定し終えてはいませんでした。 ★ 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。 ☆ ただしこれは 語源辞典をしらべたのですが どちらも《あざむく・だます》を共通としているようですが ご説明願いますか? 違いについてです。 ★ ~~~~ 〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか? 老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。 で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。 ・・・ だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ なるほど。そういう筋もあるのですか。ゆえに 大道廃れて仁義ありになるわけですね。 困りましたね。 ええ。分かりました。次のような方針を明らかにします。 ○ (ここでの問い求めの方針) ~~~~~ 1. ここでの善悪論は あくまで実践論である。少々理論の不備があっても 実践に役立つことを旨とする。 2. 主観を基礎とし理論としてもそこから出発するかたちを取っていますが それは 必ずしも《心理》の問題を重んじて扱うことではありません。そうではなく 言うなれば むしろ《生理》です。 3. 広く生理として人には 《顔を赤らめる・動悸がはげしくなる・言葉がしどろもどろになる》といった反応があります。ここに少しく《心理ないし倫理》を含めて そのとき《やましさ・うしろめたさ》をも感じるとする。とすると それはおおむね《うそ・いつわり》という自己表現にかかわっているはずだという見方をする。 4. 《やましさ》でこれらの生理的心理的反応を代表させるなら この疾しさを持つということは 《しかるべき心の状態・また立ち帰るべき心の状態》から背き離れる心のウゴキである。と見る。 5. 《しかるべき心の状態〔とおのが心が思っているそれ〕》を《善》とよぶべき自然本性のあり方と規定する。したがって この善に背き離れる動きは 負の善であり ひとことで《悪》と呼ぶ。 6. このような定義から 次の命題をみちびく。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~ ( a ) 悪は存在しない。 ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。 ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) ★ ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。 ☆ 性善説 その孟子版については かなりここでの善悪論は違っていることに気づきました。No.21お礼欄をごらんください。 (あ) すでに表現が外に出てしまっている状態について 相手との関係において 善悪を規定する傾向が 孟子にある。こちらにない。《悪は人の外に存在する》とまで言っているそうです。こちらは《存在しない》と言っています。 (い) やはり外に出た表現行為とその人間関係について見て 善悪を規定しようとする。人間の性は善だという説は 《善の兆し》が先天的にそなわっているからだと言う。たとえば 《惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)》だと。 でもこの兆しないし傾向は おそらく主観〔という動態〕における生理的心理的な反応をめぐって立ち帰るべき状態があると見たり その状態から離れようとする別種の反応が観察されたりすることなどから 《善》なる自然本性が捉えられるという原点があるから そう言えることではないか? その善から 自己背反としてのような悪という現象が現われる。と捉えるかたちを ここでは採る。 * (8) ★ この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。 ☆ キリスト教・つまりオシエないし宗教は 知りません。嫌うという意味です。アウグスティヌスに――自分の解釈をとおして――拠っています。 (9) ★ ~~~~~~~~ しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《根源》は――実践論であるゆえ―― あつかわない。という方針です。 (10) ★ ~~~~~~~~ 本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力・・・ そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ といった過程そのものについての議論は 差し支えないかぎりで 扱いません。 (11) ★ ~~~~~~~~~~~ そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 能力が先天的か後天的か あるいはウソ・イツワリをめぐる感覚反応が快不快という判定の仕方によるべきか あるいは有利不利かによるべきかなどなど これらは 出来る限り扱いません。 主観が何を最終的にもとめているか。ねがっているか。立ち帰りたいと思っているその場は なにか。これによって判断し あとはそのしかるべき場ないし状態を善ととらえ それにさらかうウゴキと状態を悪とよぶ。これのみで 話をすすめるという方針です。 (12) そうしておくなら ★ ~~~~~~~~ そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、 ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ といった別様の理論に対しても 同等の位置を持ち得る。こう見ます。 わづかに 質問趣旨のほうが 有益だと思われるのは 主観がただちに善悪の判断が分かるかたちを取っているそのことです。 (13) ★ ~~~~~~~~~~~ ☆(a)悪は存在しない。 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この反論についても 主観が何をもとめているか ここに焦点を当てるかたちで なお持ちこたえ得て行くものと考えます。上のご見解は あまりにも《客観的》すぎましょう。実践論を構成しがたい。と思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず このあたりでひとまづとします。もし取りこぼした論点などありましたら 申し訳ないですが そのとき考えます。