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悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

 ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

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回答No.33

《わたし》とクオリア でさんざん非線形について語ったと同じ話になってきました。 《わたし》は、知っている。は確かに動性道徳の立場でもありますし、そうでなければなりませんが、 このコンピュータメタファーでは、《わたし》は狭帯域なメインルーチンにすぎません。 この手の話は、専門の書籍や論文を読んだ方がいいのかも知れませんが、 井戸端会議ということで好き勝手に記載してみます。 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、 これも《わたし》の位置づけによって変わるので、概ねまとめて頂いた通りかと思います。 ○ 感覚善が わたしの最終判断のきっかけになっているようだ。 感覚善からの先を考察すると 感覚善→効果意思→行動意思→行動 リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。 感覚善→効果意思の間にもいずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。 当たり前すぎて解りにくいのですが、 リンゴを食べたいと感じている状態と食べることを決心した状態は全く異なりますね。 この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。 直感とは異なりますが、突然変化します。 日常生活で意思を持つと言っているのは、「感覚善」の存在のことを言いますね。 食べたい から よし食べよう へなぜ変化したのかは、メインルーチンから見ると 当然「食べたいから」ですが、「よし食べよう」の状態にしたのは、サブルーチンですね。 この考え方で言えば動性道徳は、狭帯域のわたしからはみえない広帯域のわたしに存在する沢山の サブルーチン群を健全に発達させ続けるということになりますかね。ありきたりですが・・ ここで菊田医師事件(医師法違反、公正証書原本不実記載罪)を考えます。 菊田医師は、当時の常識、規範、法律を、意思をもって犯し、胎児の命を助けるという行動を とっています。 結果として法律改正、新制度発足とはなったのですが、明らかに犯罪を犯しています。 http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm 菊田医師自身の葛藤と支援の波、迫害の波がどのようにして起こったのか。 感覚善、妥当善、行動の波紋、共同作業同士があたかも全体として1個の生物のように つまり、メインルーチンとサブルーチンの如くに動いて、最終結論である法改正へ 導かれています。たった一人の行動が、如何に大きなうねりを作り出すがわかります。 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。この鈍いようで非常に鋭い 動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。

参考URL:
http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm
noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん かなり煮詰まって来ました。ご回答をありがとうございます。  ○ 人間の成す判断および意志決定なる行為としての《身体=精神》の現象論  ○ それは ひとりの人間である《わたし》の自己表現であり その動態である。  ○ 基層は 主観的な第一次の善悪判断として成る。これに付随して ものごとの適正・不適正という基準による判断が 第二次として 起こっている。  ○ このとき 基層の判断過程は あらゆる参考資料および自己の傾向を総合して 最終的に判断をくだすメイン・ルーチンが 受け持つ。  ○ その際 資料やみづからの癖のいくつかが 一般に 意志決定のきっかけになると考えられ それらは サブ・ルーチンを構成する。  ○ 第二次の適正・不適正の判断も それが 直接に生命存在の善悪にかかわらないことを除けば 同じように 過程されると思われる。  ○ サブルーチンには 例として 経験合理性にもとづく妥当性を追究する《妥当善》や 逆に 妥当性に合致するかたちでだが 論理的な整合性から自由なかたちででも 感性をはたらかせようとするというべき《感覚善》が 挙げられる。両方が 大事である。  ○ 妥当善は B.パスカルの言う《幾何学の精神》であり 感覚善は 《繊細の精神》であると言えるのではないか。  ○ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔菊田医師の採った行動が 《実子特例法》という新たな法律を生みだしたという事例についてかんがみるに〕 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 / 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す / 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。  この鈍いようで非常に鋭い動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ ☆ ただし これらサブルーチン側の動きを統括して 最終的な判断をくだすメインルーチンとしてのはたらき もしくはつまり 《わたし》の意志決定 これを見失ってはいけない。  ○ さらに ひるがえって ただし ★ ~~~~~~~~~~~~  感覚善からの先を考察すると    ◆ 感覚善→効果意思→行動意思→行動    : リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。  感覚善→効果意思の間にも いずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。・・・  この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。  直感とは異なりますが、突然変化します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * ★ 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、  ☆ この《非線形の飛躍を介して 判断に及んだ結果が 善でなかった場合》として思ったことは むしろ 《あとから 飛躍があったと言い張る場合》です。つまり たとえば 《神を見た》とかあるいは《悪魔の声を聞いた》とかいうふうに その非線形の部分を 言い繕う場合です。    * 愚の骨頂たる道徳規範から自由な動性道徳 という主題。あるいは 自己表現の動態としての《文体》という主題。文体が帯びる《クオリア》の問題。あるいは 妥当善が帯びる感覚善。それらをとおしてのコミュニケーション過程という主題。(これが 次の課題かも知れません)。

その他の回答 (35)

回答No.36

おはようございます、brageloneさん。 ★ 二日酔い  ☆ ゆえに こんなに まじめなご投稿ですか?  ○ ばうずがびゃうぶにぢゃうずにばうずのゑを描いた。 ↑ まさか、28日(2月の末)のが???ないない 28日午後6時半過ぎから関目高殿の『おいでやす』で友達五人ぐらいとわいわいと野球談義で盛り上がってはいましたけどね。酔うほども飲めませんし喋りっぱなし。ゆえに、二日酔いはないないなーい。電車乗り遅れたら家に帰れなくなるから他のメンバーよりひとあしお先に店を出て帰りました。『かきくへばかねがなるなりほうりゅうじ』カ-ン カ-ン カ-ン☆ 隣人を愛するためには、「正しい自己愛」を持たなければならないのです。  ところで「正しい自己愛」とは、例えば・・・ 自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎悪を抑制して暴力をふるわず、社会の平和と心の平安を望み、しかし周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きる・・・と、いうような自己愛です。 周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きる ↑ “打てば響く” この響き… 「野球は誰のためにするのか?」 「野球は自分の気持ちを伝えるスポーツなんだだからもっと自分が楽しんでいいんだよ」 「お前の野球って、なんなんじゃ!!答えろ、答えろよ原田!!」 「一緒に野球しようぜ」 「野球は誰のもんですか」 「…お前たちのもんだよ」 【QNo.4338027 現代芸術における表現形式は どうなんですか】ANo.37 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html ●少数者保護ということが問題になるかもしれません。 ↑ うん。欠陥ちゃうか? 決まった計画に対して、建てかえには賛成していたんだけれども、具体的に決まった計画には反対だということがいえなくなるのはおかしい。詐欺にあわんともかぎらんやん。消費者保護になってない。 ★ 認識には誤謬がつきもの:【QANo.3937588 直観的認識】  ☆ こういう議論は 苦手です。関心も向きません。どういうところに着目しておられるのか つかめないままです。 ↑ 減価償却についてのちょっかん繋がり 【QNo.2784806 直間比率って?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2784806.html

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 二日酔い  ☆ の件は 冗談です。が 失礼しました。けれども 飲むことを 二日酔いすることを なじったのではありません。そのくらい 分かれぇえ! イエスは 大食漢で大酒飲みだとなじられています。なまむぎなまごめなまたまご。そして むぎとどくむぎ。  ★ 少数者保護・消費者保護  ☆ 道はとおいようですかね。  ★ 直観と直感   ☆ どちらも飛躍をともないますが 前者は 飛躍のみ。後者は 経験的なものごと むしろ身の回りのことでの第六感つまり勘ピュータのことだと思います。前者の《直観》は したがって それじたいには 認識といった人間の意志による知解作業は ないわけです。《直観》で得たことを 表象すれば 一般に ことばによって 《認識》したとなります。  ★ 【QANo.3937588 直観的認識】  ☆ での質疑応答は 上のような単純なことを むつかしく言っているというように思います。《学》としては 必要なのかも分かりません。  ★ 直間比率  ☆ こちらは 《直接費と間接費との比率》という問題は あまり――製造業〔の現場〕にわたしが関係がうすいせいか―― 聞かないですね。《直接税と間接税》の問題として 受け取ると思いますがねぇ。そこから減価償却につなげるのは 飛躍のしすぎですよ。不要な話題は 泣いて 捨てるべしですよ。  ★ 【QNo.4338027 現代芸術における表現形式は どうなんですか】ANo.37  ☆ わるいけれど 自分の応答のほう(No.36)に目が行った。何とおもしろい議論を 日本文をめぐって していることかと。これを出汁にして 次の質問が思い浮かびました。こちらは締めます。  みなさん ありがとうございました。  特に bananasand さんには 探究のお相手になっていただいて わずらわせ申し上げました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

回答No.35

こんばんは、brageloneさん。 二日酔いの原因のアセトアルデヒドという物質を柿の果糖が分解する。 ●それにしても この主題に喰いつくかねぇ。好奇心の旺盛なお方なことです。 ↑ となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ ↑ 【隣人愛について】  http://www2.odn.ne.jp/seimei/essay72.htm 【議事経過】 http://www.shugiin.go.jp/itdb_honkaigi.nsf/html/honkai/keika20021119.htm 【第155回国会(臨時会)提出主要法律案】 http://www.moj.go.jp/HOUAN/houan13.html 時間が経ったあとの建て替え←変わる前提条件 認識には誤謬がつきもの 【QANo.3937588 直観的認識】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3937588.html ●海外へ行ったの? ↑ おみおくり、早い話がかばん持ち 5時半に家をでて、6時のバスに乗り、7時に空港に着き 10時発の予定が30分過ぎ、飛行機が飛び立ったのが10時半 その後、大阪へ研修に来てた友達とサブいなかぺちゃくちゃそんなとこです。

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 二日酔い  ☆ ゆえに こんなに まじめなご投稿ですか?  ○ ばうずがびゃうぶにぢゃうずにばうずのゑを描いた。  ★【隣人愛について】   ☆ 非常にまじめなエッセー風の論文です。ただし 粗探しの達人にかかっては 難点あるんちゃうか。  ▲ 隣人愛は自己愛を前提としている。  ▲ 「誰が自分の隣人なのか?」が問題なのではなく、「自ら進んで隣人となること」が、隣人愛の本質だというのです。  ☆ 妥当だと考えます。後者は そのような表現に出会ったことがなく 自分でも したことがありませんでした。前者にかんする次の思想は いくらかアマテラス人格語の格式張っているのではないでしょうか?  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  隣人を愛するためには、「正しい自己愛」を持たなければならないのです。  ところで「正しい自己愛」とは、例えば・・・ 自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎悪を抑制して暴力をふるわず、社会の平和と心の平安を望み、しかし周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きる・・・と、いうような自己愛です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合を言いますが このような内容を みづからの意志によって 成そうとすることから とっくに 離れています。絶対他力によって 結果として その自己愛が成就することはあるかも知れませんが 自己のはからいは すでに どこかへ置いて来ました。あなたの場合は いかがなのですか?   したがいまして  ▲☆ 《暴力をふるわず / 周りに迎合することなく》は ふつうのことですが  ▲☆ 《自己の欲望》には 〔あっても〕 もはや かかずらわることなく  ▲☆ 《社会の平和と心の平安を望み・・・自分の信念に忠実に生きる》を 思念として抱くことも 特にはなく(――なぜなら いまは 思索や理論作業をおこない その成果をとおして 人びとの和解や癒やしが叶うようになれる道を問い求めている――)  ▲☆ 《怒りや憎悪を抑制して》にかんしては やはり 出来ないと言いますか そうしようとしていないですね。  ○ ひとを愛し 欠陥を憎む。どちらも徹底的に そうする。  ☆ そうして 怒るときは ほんとうに怒ります。へそ曲がりの思想に関しては 絶対的に憎みます。これら《怒りと憎悪》をとおして 相手が そのたましいを揺さぶられたなら(奮い立たせられたなら と言ったほうがよいでしょうか) そこで わたしは 触媒になったと考えます。つまり 《隣人になった》と捉えます。相手が そのとき わたしのことを にせの隣人愛の実践者だと思ってもかまいません。答えが出たことのほうをよろこびます。  ★ 【第155回国会(臨時会)提出主要法律案】  ▲ 建物の区分所有等に関する法律及びマンションの建替えの円滑化等に関する法律の一部を改正する法律案――公布日 14.12.11 / 施行日 15.6.1  ☆ 確認しました。  ★ 認識には誤謬がつきもの:【QANo.3937588 直観的認識】  ☆ こういう議論は 苦手です。関心も向きません。どういうところに着目しておられるのか つかめないままです。  そう言えば 春一番が吹いたのかまだなのか よく分からない。吹いたら そのあとのサブさは 種類が違ってくるんだけれど。女子マラソンのころが いつも変わり目。

回答No.34

こんいちは、brageloneさん。 昨日、朝早くから特大のスーツケースをゴロゴロ引っ張り三宮まで 朝一番の関空行きのバスに乗り空港まで行ってきましたがな。めちゃさぶい。 くたびれてバタンキュウー。さっき、起きました。遅ればせですが、つづき  ★ 等価交換  ☆ は 理論上 しっかりと出来ていると思います。税制にしても。運用上 何かと・・・ですかね。 ↑ 【衆議院会議録情報 第154回国会 国土交通委員会 第10号】 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/154/0099/15404160099010a.html 【妻への家屋贈与と等価交換に関する税金について】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3633628.html?ans_count_asc=0 【業績への影響が大きい「固定資産に関する損失」と、P/L表示の関係】 http://www.kaikei-tisiki.net/pl/2008/07/post_1.html 【減価償却について】(2)非減価償却資産 http://www.rakucyaku.com/Koujien/M/E04/E400100 おさえてますか?

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん 住宅について ひとこと 言わせて!!  共同自治のあり方として 社会公共の政策として   ○ 最低限保障のための高層共同住宅を 市街地には 共同企画のもとに もうける。  ☆ 非市街地は 除きます。  ○ 百年住宅であること。  ○ 間取りは 現在の一般より ひと回り 広く。  ○ 都市計画と合わせて 企画する。  このようです。

noname#80116
質問者

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 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  たしかに 《協力 / 連帯》の問題のようですね。  ★ 【衆議院会議録情報 第154回国会 国土交通委員会 第10号】  ☆ これは 平成14年の法律案で その後どうなったか分かりませんが   ○ マンションの建替えの円滑化等に関する法律  ☆ のようですね。  ○ 等価交換 と マンションの建てかえ   ☆ 二つの事項がありますね。一対一の等価交換のばあいは 物件が たしかなもので 明確に決まれば もう問題は ほとんど解決したと言えるのではないですか。  区分所有者のあいだの 等価交換の方式を基礎として  ○ 権利変換システム  ☆ が 基軸になるようですね。  ▲ 地権者の敷地を新しい区分所有ビルに完成させていくという従前の市街地再開発事業とほとんど仕組み的には同じわけです。  ▲ したがいまして、そこで採用されております一種再開発事業の権利変換の仕組みをそのままマンションの建てかえにも持ってくるということは非常に合理的なことです。  ▲ 少数者保護ということが問題になるかもしれません。この少数者保護は、転出する区分所有者と、そこに居住している借家人と、二通り考えられると思います。・・・そういう区分所有者に対しては、相手方が拒否できないような形の売り渡し請求が認められております。  ▲ 賃借人居住安定計画 : 現在、住宅金融公庫で、六十歳以上の高齢者が建てかえ資金を、自分の持っている区分所有権を担保にしまして一千万まで借りることができるという一つのシステムがありますが・・・。  ☆ 等々と 理論的なこと(妥当善)にかんしては ともかくとしてでも 進めていくことは出来るようだと受け取りました。それに 税制は 時代の進展に追いつけない場合があれば それは 除いても 理論的な整合性を持って 作られていると思いますよ。会計理論は それはそれで また――課税の観点だとか 会社法のように取引の円滑安全の観点だとかを少し離れて――固有の理論的な探究を進めていると思います。むしろ 相い対立するような諸仮説をも つねに ともに 追究していると思います。  ★ おさえてますか?  ☆ と言われて はい とまでは 行きませんが 問題は やはり 実際に人間という当事者を相手にして 話をすすめていくときでしょうね。少数意見ないし弱者(高齢者)の尊重・保護を前提して 上の妥当な理論とその応用としての施策を 検討していけば ある程度の合意に落ち着くのではないでしょうか。  それにしても 時間が経ったあとの建て替えですから それぞれの当事者が 少しづつ損を受け持って 譲歩せざるを得なくなるでしょうね。  なんだか役人臭くなってまいりました。  それにしても この主題に喰いつくかねぇ。好奇心の旺盛なお方なことです。  海外へ行ったの?

回答No.32

メインルーチンといっているのは、意識できる範囲のことを指していて、 記憶、感覚機能のうちいわゆる感覚そのもの、直感という機能のうち受けた直感そのもの とそれらを言語化、論理化する思考および司令塔です。 このメインルーチンは、多くのサブルーチンが機能していないと成り立ちません。 サブルーチンには、記憶の入出力、感覚の組み立て、直感作出などで、細かくは、 感覚では、快不快作出、視覚構成、聴覚構成、等々です。 メインルーチンからはサブルーチンが何をしているかは分かりません。結果がみえるだけです。 例えば、偶然見かけたテーブル上のリンゴを食べるという善を判断するとき・・ 目に見えたリンゴ、リンゴの記憶の検索と出力、おなかがすいたという感覚、 リンゴを食べたいという欲求、過去に食べたリンゴと同じ満足が得られるという直感、 これらは、メインルーチンが制御していません。自動でやっています。サブルーチンですね。 メインルーチンの司令塔は、サブルーチンからの出力を受けて、「食べる」という判断をして、腕を伸ばす命令を出し、口に運ばせ咀嚼する指令をするわけです。 (Q-あ) ○ 仏つくってたましい入れず。 《感覚善》もサブルーチンの一つで、メインルーチンの判断に不可欠な重要な機能を果たしてますね。 これが善にならないと行動しません。この「仏つくってたましい入れず。」は、仏がサブルーチン群で たましいが、感覚善を受けたメインルーチンのことですね。 (Q-い) 次のように理解してよいのかどうか。 上述参照下さい。 (Q-う)推論について 例えば思考実験における推論にしても、メインルーチンがサブルーチンを使い出すのですが 記憶とその記憶に基づく視覚ルーチンを動かして、メインルーチンが直感を待っているというようなことをやります。そうなると、その動性から推論も非線形になるということです。 信頼感、信じているは、その作出過程は非線形で、形成後は線形になるんでしょうね。(記憶とも関連しているようでよく解りません) (Q-え) だとすれば 意志ないしわたしは その本当の理由を知っています。 信じているから・・・という理由は知っています。なぜ、信じているのか、なぜ信じるに到ったかは 知りません。 (Q-お)《妥当善》と《感覚善》とが 同じ基層で はたらいている。と捉える単純さが 惜しまれるのですが?   確かにそうですね。《妥当善》は、メインルーチンが命令して初めて創出される高度なものかもしれません。リンゴの例で言うと、このリンゴを食べて本当に大丈夫か。失敗の可能性は検討したのか。を問うてます。その出力がないと《感覚善》が善と判断しないようなルーチンとなっていなければならないということですね。 (Q-か)これら全体を なぜ 基層の判断基準として ひとつにまとめてはならないのか?  これまで述べてきたように、メインルーチンは《感覚善》を受けているに過ぎないからです。 その善を善と感じてさせることを、メインルーチンはやっていません。 最終段に《感覚善》の存在はありますし、確かに実感ではあるのですが、言うなれば善メーターに過ぎません。 0から256だとすれば、善メーターがなぜ200の値を示しているのか、なぜ180でないのか メインルーチンは知りえないと言うことです。  メインルーチンは、その理由をメインルーチン自身が後から言語表現するに過ぎません。  痛みメータがあるとします。鼻毛を抜いたときの痛みを1ハナゲとすると、腕を単純骨折したときは平均22000ハナゲだそうです。なぜ、痛いかは腕を折ったからという理由を知ってはいますが、なぜ痛みそのものを感じているかという理由はメインルーチンからは見えません。 (Q-き)上記のような考え方を踏襲しないと、もう以心伝心そのものですね。 でも踏襲するとややこしくなって、お互いに以心伝心のつもり(推定)で伝搬していくことになると言うことですね。

noname#80116
質問者

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 bananasandさん ていねいなご説明をありがとうございます。じゅうぶんに検証済みの成果であるようですね。  全体として捉えれば   ○ いわば――乱暴なたとえですが――頭にあたるメインルーチンと手足の役割をするサブルーチンとが けっきょくは一体となって おのおの《わたし》としての判断および意志決定をおこなっている。  ☆ というそのあり方が よく分かりました。そういう実験ないし具体的な施策を すでに 経て来た実積があるということなのだと思います。  その上で 今回いま一度 細かい質問が残ります。お訊きしてまいります。(細かく重箱の隅をつっついて出て来た問いですが その性格は 全体にかかわる問題点です)。  まづその前に  ★ 規約  ☆ の件で 《補足要求》の場合には 議論のようになっても だいじょうぶだということと理解しています。    お尋ねしたいことは 上のまとめの中での  ○ おのおの《わたし》としての〔判断および意志決定〕  ☆ という事柄をめぐってです。この・そこに社会的な関係性をも同時に備えていると考えられる人間の社会的な《独立性》の問題です。  この《固有時》という言葉を用いて表現されたこともある《個体性》がなければ みな規格が同一の人形かロボットであって 連帯とか共同作業とかに際して 問題など 起きないということになります。社会的な関係性を持ちつつも 一人ひとりが社会的に独立した判断および意志行為をおこなう動物として どう考えるかです。  ひとつ目の問いは 論理的なだけの揚げ足取りです。  ★ メインルーチンからはサブルーチンが何をしているかは分かりません。結果がみえるだけです。  ★ メインルーチンの司令塔は、サブルーチンからの出力を受けて、「食べる」という判断をして、腕を伸ばす命令を出し、口に運ばせ咀嚼する指令をするわけです。  ☆ このようであるとき メイン・サブをさらにまとめて そう言ってよければ統括する《わたし》という存在についても 触れて欲しい気がします。つまりは〔やや旧い言い方ですが〕その意志主体のことにも 大前提として ひとこと 触れておいて欲しいように思うのですが?  という意味は サブルーチンが知っていることは この《わたし》は知っているはづだからです。  ということは どうも   ★ 非線形性  ☆ にかかわる問題になるようです。社会と自然の現象については いま措くとして ひとの精神の現象においても起こると考えられる事態としてです。というのも  ★ 《妥当善》は、メインルーチンが命令して初めて創出される高度なものかもしれません。  ☆ というふうに言う場合にも この経験合理性という妥当性の基準は 線形として 明確だと言えそうですから その線形の推論の過程に とつじょ 介入してくる非線形の心的現象のことです。(心の海の表面に起こる波としての心理現象ではなくです)。  しかも  ★ なぜ〔骨折の〕痛みそのものを感じているかという理由はメインルーチンからは見えません。  ☆ というように 経験的な事態の場合には その理由が見えないけれど たとえば骨があるべき場所になく 調和を保てない状態ゆえに 摩擦を起こしているといった理由は 窺うことができます。ですから 人間には未知のなぞの非線形の現象が起きたときが 問題です。  さらにしかも おそらく そのような非線形の現象は 受け容れた結果 善であった場合と 善でなかった場合とがあるはづです。  ということは 一つの結論になるのですが   ○ やはり 一応としてでも 推論の整合性を持った《妥当善》としての重要性を 見失ってはならない。  ○ つまりは その思考の過程で 或る飛躍を持ったときでも その前後の推論の筋は 妥当性を持たせたものであること。  ☆ と考えられます。しかも このとき  ○ 意志決定をくだす最終の段階において 妥当善をえらぶその根拠のようなものとして 感覚善も 寄与しているらしい。  ☆ と推し測られます。そうして これこそが   ○ ほかの誰でもない《わたし》という存在  ☆ の意志行為であると考えられます。  ○ 感覚善が わたしの最終判断のきっかけになっているようだ。  ○ と同時に 共同作業において ほかの人との主観の共同化に当たっては 妥当善をもって 意志疎通を図る。  ○ おそらく 共同主観が かなり確立した段階では 内面に収められるところの感覚善も あたかも以心伝心で ほかの人びとに伝わることがあるかも知れない。  問いと言って書き始めましたが このようにまとめる形になりました。これの吟味や補遺となったことがらなどを お伝えください。

回答No.31

>(Q-1-a) 《非線形の性質を持った人間の社会行為やそれらの錯綜した現象および自然現象》を考察の対象として 意志決定のために内面において 推論をおこなうとき その推論じたいに 非線形の性質は あるのか? 推論を行っているルーチンによると思います。帯域の狭い論理思考、言語的思索自体に非線形性は ありません。直感や快不快をメインルーチンに出力するルーチンには たとえ推論であっても非線形性があると思います。 主観的第一次のいわゆる善悪判断は、メインルーチンがやっているようで、実は、大半の作業を サブルーチンがやっていると考えます。強いて言うと、メインルーチンは、それがなぜ善と感じたのか 理由付けはできても、本当の理由を知りえないということですね。 >《感覚悪》を感じないなら すべてその選択肢は 正しいということではない。 あー、解りました。これは、そうだと思います。メインルーチンの最終段には、《感覚善》があって決定されます。結局《妥当善》を肯定する《感覚善》が揃わなければなりませんね。 そうすると、《妥当善》の欠如を悪であると常にメインルーチンに出力する《感覚善》サブルーチンが必要だということになりますね。やましさ、罪悪感もサブルーチンであって、メインルーチンというのは実は、狭い帯域である論理思考、言語的考察によって、サブルーチンにフィードバックをかけているだけで自由度は全くないと言え、それ以外、実際に意思を行動に移すという機能があるだけの完全に線形の構造ですね。なぜなら、《感覚善》がサブルーチンだからですね。 そういう考えを共同作業についても貫いてみると、お互いに、他者の行動から、 本人は、その他者のルーチンがどう動いているかを本人のルーチンが推定して、 次の行動を起こしているあるいは起こさないことになりますね。 お互いにあるいは一方的に《感覚善》による行動が伝達されることで、 刺激され、その時点でのフィードバックが行われて、次の行動に反映されますから、そのようなことの 壮大な繰り返しで成される行動の総体がここで言う共同作業にあたりますね。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん。あぁーあ 理解 半ばなりぃーい。まづは ご回答をありがとうございます。  質問攻めです。  まづ 同感だと感じたところは 次です。  ★ メインルーチンの最終段には、《感覚善》があって決定されます。結局《妥当善》を肯定する《感覚善》が揃わなければなりませんね。  ☆ 《メインルーチン》に関しては まだ おそるおそる そういうものかなぁと理解するのみなり。  そこで 問いです。  (Q-あ) ○ 仏つくってたましい入れず。  ☆ というたとえは 行き過ぎなのか どうなのかも おしえてください。つまり 《感覚善》を 《たましい》に喩えてよいのかどうかです。  (Q-い) 次のように理解してよいのかどうか。  ・メインルーチン:判断のための基本原則〔としての基準〕  ・サブルーチン:付随原則・付属基準・付帯条項  (Q-う) ★ 直感や快不快をメインルーチンに出力するルーチンには / たとえ推論であっても非線形性があると思います。  ☆ とは言うものの 《信頼感》なる付帯条項を一つの根拠として 意志決定を発進させるというとき たしかに その信頼感には 途中で 非思考=信仰としての飛躍が 起きます。これを 非線形といえば そうなのだと考えますが ただ 全体として捉えるなら やはり 推論を 筋のつながるかたちで 築いています。  つまり 《信仰において お告げがあったから》というような理由づけは しません。それは 推論の放棄です。必ず 論理立てて それこそ説明責任を 前もって 形作っているとさえ考えられます。(相手が譲歩してきたとき 文学的な表現だと分かっていて 使う場合はあります)。  ですから 内面における意志決定には その推論に関して 非線形は あったとしても 一応としては 考慮に入れなくてもよい。のではないか。これも 問いです。  考慮に入れなくてよいなら やはり 単純方程式として 善悪判断になります。  (Q-え) だとすれば  ★ 強いて言うと、メインルーチンは、それがなぜ善と感じたのか / 理由付けはできても、本当の理由を知りえないということですね。  ☆ これは 《強いて言う》度合いが 強すぎることにならないか。一応の合理的な説明は 得たところで ゴー・サインが出るわけですから 意志ないしわたしは その本当の理由を知っています。  (Q-お) かなり――こうして たどって来ると――事情が分かって来ましたが   ★ 《妥当善》の欠如を悪であると常にメインルーチンに出力する《感覚善》サブルーチンが必要だということになりますね。  ☆ ううーん。判断基準は 例の二次的な《適正・不適正》なる基準のほかは 基層の意志行為として その全体として 善悪判断で よいように思うのですが? つまり ここでは 《妥当善》と《感覚善》とが 同じ基層で はたらいている。と捉える単純さが 惜しまれるのですが? メイン・サブを持ってくると です。  (Q-か)=(Q-お) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  やましさ、罪悪感もサブルーチンであって、メインルーチンというのは実は、狭い帯域である論理思考、言語的考察によって、サブルーチンにフィードバックをかけているだけで自由度は全くないと言え、それ以外、実際に意思を行動に移すという機能があるだけの完全に線形の構造ですね。なぜなら、《感覚善》がサブルーチンだからですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら全体を なぜ 基層の判断基準として ひとつにまとめてはならないのか?  (Q-き) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そういう考えを共同作業についても貫いてみると、お互いに、他者の行動から、 / 本人は、その他者のルーチンがどう動いているかを本人のルーチンが推定して、 / 次の行動を起こしているあるいは起こさないことになりますね。  お互いにあるいは一方的に《感覚善》による行動が伝達されることで、 / 刺激され、その時点でのフィードバックが行われて、次の行動に反映されますから、そのようなことの / 壮大な繰り返しで成される行動の総体がここで言う共同作業にあたりますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 理解が届きません。むしろ 《以心伝心》で 感覚善も妥当善も――つまり 以心伝心で 合理的に説明責任を果たすべき決断理由としての《妥当善》のほうも―― 分かり合っていけるようになる。こう言おうとしているように 響くのですが?  たぶん ほかの皆さんのためにも 乞うご説明をです。

回答No.30

おはようございます。 >(Q-1)  《非線形性》は 精神の内部における判断過程としての推移にであるよりは すでに意志決定し行為に及んだあとの事態の推移 こちらのほうにあると言うべきではありませんか?  事態の推移に非線形性があるというよりも、両方にあります。  経済、自然など非線形性が顕著で、まさにカオスでしょうし、こういったものを背景に持つ  ため、実験室での観察でもない限り、対象が人間や動植物であっても、自然現象であっても、現実の具体的ものごとは非線形の性質を持つでしょうね。 >(Q-2)  意志決定の最終の時点 ここには 複雑なものごとは むしろ ないし あり得ないと思われるのですが どうでしょう?  最終の時点という時間的要素を含む視点でもそうですが、メインルーチンの最終段には、  自由はありませんね。迷っている間は行動しません。最終段であっけなく行動します。 >(a) 一般には 何はともあれ 《善かれ》と思って 選択し決定する。 >(b) 諸選択肢の間で 一長一短があって 決められないというとき あたかも賭けのように(サイコロを振って決めるように) 一つをえらぶ。――しかも この場合 どの選択肢も 一般に 《善》と判断している。 >(c) そのほかには (c-1) うそも方便 = 悪の善用。(c-2) わざと悪のほうをえらぶ。(c-3) 箸で食べるかフォークでか手でか これらは 直接には 善悪判断ではないが しかも たとえば 衛生が問題になれば 善悪判断になる。  ここで☆善と★善の差を思います。選択肢の結果予想と対策をやっているかどうかですね。  特に失敗についてです。わざと悪い方を選ぶ目的は、失敗発生の確認をするために使う手法ですね。  思う善、感じる善 と 合理性、妥当性があり、注意深く観察され続ける善でしょうか。 >ぶっつけ本番という場合も じっさいには けっこう あると思われ それでは いけないという場合を きちんと 除外していけばよい――と言うと 安易になるでしょうか?  不可抗力もそうですが、除外できるなら除外、対策できるなら対策しておくことでしょうね。  地震対策なんて、まさに、大きな地震が発生したらどうなるかということでしょうから、  大きなタンスを固定もせずに真下に子供を寝かせていて地震で怪我をした責任は、  親にあって、事後は、対策するようになるでしょう。 >≫共同作業≪    の最初は、正しさの基準、定款、規約の明確化なのですが、  究極である<規範の愚の骨頂>への道は、メインルーチンの話ではなくて、  一階/二階を超えて、ほとんど全員のサブルーチン完成となるわけですね。  あたかも、意識することなく自然に呼吸をしているように・・ PS 規約といえば、ここの規約で、議論禁止についてなんか揉めてましたね。 議論は禁止とは・・・知りませんでした。 でも、議論を一切禁止するととこのサイト自身、成り立たたんでしょう。本当に禁止なんでしょうか? 議論を禁止するとは規約には規定されていないと思うのですが、 私の読み込みが足りないのか、認識不足でしょうか。 ご利用のお願いの欄において、サポートによる削除や編集などの処分対象となる場合が列記されています。 前提として 趣旨→質問と回答の形式で会員の方同士の助け合いによる情報交換。 ■質問について  議論喚起を目的として議題を掲げる質問をしてはならない。 ■回答について  回答者同士のやりとりや議論を回答してはならない。 ■回答について  質問に対する回答として成立しない内容を回答してはならない。 補足欄、お礼欄での議論についての規定がされてませんし、 質問者から回答者への反論が禁止されているとは読めません。 質問には必ず論点があるのであって、 1つの論点に対して、いくつかの説があって答えを探る場合、 議論(考えを述べて論じあうこと。)をしなかったら 質問者がこのサイトから得るべき答えはでませんね。 ここがこの質問の善悪とか連帯にも関連する面白いところです。 このサイトの理念、趣旨、形式からして、議論は、どう捉えられるか。 二階にいる主催者の判断に従うしかありませんが、 議論は、マナー違反(悪)、あるいは、回答を捻出するための要素(善) のどちらの立場も論理構成できますね。 まぁ、それがどうあれ、<ご利用のお願いの欄>だけで、文理解釈すると質問が議論提起でない以上、議論をすると削除対象になる、つまり、マナー違反をしているのは回答者側であって、質問者ではないことになるんですが・・・判例は沢山あるのでしょうけど、規約が曖昧なんでしょうかね。

noname#80116
質問者

お礼

 6. その結果 たとえば 先の《Q:究極の悪とは――存在について――》では きわめて基準の分かりづらいかたちで 削除がされています。運営スタッフの苦肉の策だったかも知れません。  7. 規約に照らして 文字どおりには 少々の悪をおこなっているかたちです。と言わざるを得ないでしょうね。管理者の考えとしては 哲学については 例外をもうけているのではないでしょうか。それを 明記することはしないかたちでです。要は トラブルを防ぐことだと慮られます。  8. 哲学は 自己形成ですから つまり動態ですから そして 《あやまつなら われあり》というその過程ですから 自分の欠陥が さらけ出されます。これを昇華させうるひとが 哲学をつづけるわけですが そしてそれは 誰でも出来ると言わねばならないほどなのですが でも 途中では そのみづからの恥さらしをめぐって 自暴自棄になることがあるかも知れません。  9. トラブルは ここから来ると思われます。しかしながら トラブって来るひとは まだ いいのです。話が出来ます。連帯の可能性が出て来ます。わたしも この連帯の可能性を探り しっかりと図れというご意見を受けたので こうして 質問を設けたのでした。  10. とにもかくにも 今般 《Q:究極の悪とは》の質問じたいが 削除にならなかったのは 画期的な出来事でした。明示的な条文ではなく 判例としても明らかになったわけでもありませんが 哲学としてのふつうにまじめな議論は 容認していると受け取れる出来事だったのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  どうやら 《連帯》の基本的な理論については 具体的な《共同作業》を前提しての具体的な動態を扱う段階に 任せるときに到ったかも知れません。  ○ 意志行為にあたって みづからの自由を担保するためにも その行為に伴なわれる事後のことがらに対しても責任を負っておくということ  ○ あるいはさらに 自己の行為が 社会関係にあって すでに 連帯責任の対象になっているという見方をも持ってすすむということ  ○ 責任は 果たすか果たさないかに尽きる。これが 自由の自由たるゆえんである。  ○ 責任は 過誤が ひとにつきものゆえ 動態である。社会的な動態過程だというのは 連帯責任であり 無限責任だという意味である。  ☆ といったふうに おさえつつ これからのご投稿では まとめに入りたいと思います。  今回では   ★ 現実の具体的ものごとは非線形の性質を持つでしょうね。  ☆ 細かい反論です。  (Q-1-a) 《非線形の性質を持った人間の社会行為やそれらの錯綜した現象および自然現象》を考察の対象として 意志決定のために内面において 推論をおこなうとき その推論じたいに 非線形の性質は あるのか?  ☆ ないとすれば   ○ 主観的な第一次の善悪判断は 基礎であり 欠かせない基準となっている。  ☆ と言えると思うのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆善と★善の差を思います。選択肢の結果予想と対策をやっているかどうかですね。   思う善、感じる善 と 合理性、妥当性があり、注意深く観察され続ける善でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この区別に異議はありませんが わたしが考えている善悪判断は こうです。  ○ 《合理性、妥当性があり、注意深く観察され続ける善》であっても その基礎には 《思う善、感じる善》がかかわっている。  ○ そのかかわり方は 《妥当善》を払い除けるためではなく それをも取捨選択するかたちである。  ○ やましさや後ろめたさ あるいは へたをすると 罪悪感 これらの《感じる善悪判断》は 《妥当善》を選ぶかどうかの基準にさえなる。  ○ いかに合理的で妥当な内容を持った選択肢であっても どうもしっくりとは 腑に落ちないという《感覚悪》を感じるなら 決定を差し控えることもある。  ○ ただし《感覚悪》を感じないなら すべてその選択肢は 正しいということではない。《感覚善》は 仏作ってたましい入れずというときの《たましい》のようなものではないかという意味である。仏像の本体のほうは 合理性――非線形の構造過程を容れた総合的な合理性――の問題だ。  ★ メインルーチン・サブルーチン  ☆ の話は やはり 具体的な共同作業の問題に先送りするかっこうでしょうか。それも もはや 共同作業についての哲学理論であるよりは すでに 特定の目的をかかげて その作業に入るというときの問題になるような気がします。  ★ ほとんど全員のサブルーチン完成となるわけですね。 / あたかも、意識することなく自然に呼吸をしているように・・・  ☆ このように みなで 呼吸を合わせて目的遂行となると 理論や分析を それのみでおこなう段階ではないと思われます。理論だけで迫れるところがあれば なお おしえてください。  ★ ここでの規約の問題  ☆ これについては わたしの経験から得た捉え方は 次のようです。  1. 《議論禁止》を 哲学の範疇で実施するのは 無理。  2. 哲学は 自己言及性というのでしょうか 信教や良心のことはもとよりのこと 経験思想を扱う場合にも すでに 自己の内面そのものにかかわっています。これに触れない叙述は 知識の交換としてあるのかも知れませんが それは 哲学以前です。準備段階での知識です。  3. 定義の問題だけで 哲学の議論そのものになることは あるでしょうが それなら すでに 自己の持論をやはり述べていることになるでしょう。  4. 規約の嫌うところは 参加者どうしで 収拾のつかないけんかになることではないでしょうか。と これまでに 理解しました。  5. ただし この衝突を避けるかどうかについては わたしも 一時 避けていたのです。最初のころ 衝突が起こりかけたとき これは 対面していない場では 避けたほうがよいと 一たん 決めました。  ところが それでは らちが開きません。いつまでも 同じような衝突が 繰り返されます。そこで 思いきって 規約の精神には違反しないという考えのもとに 苦情や文句を しっかりと正面から受け止め それとの衝突をさえ避けずに 話し合いを敢行すると決めたのです。

noname#117439
noname#117439
回答No.29

オコリザルです。 これは気が付いていることかもしれませんが、たとえばbrageloneさんは、自らの思考をだれそれの哲学者の言葉に由来して発展させていると仰っていた事がありましたよね。このような状態を堂々とした自分自身の言葉に治すのが観念の純化であり、アマテラスたる観音様の試みです。 人間的普遍性への案内です。 光へのいざないとでも申しましょうか。

noname#80116
質問者

お礼

 このご文章に対しては 言いまわしのちがいを感じるところがありますが だいたい おっしゃるようなことだろうと思います。  時代の違い あるいは 単位体としての社会の違い(そして 言語のちがいも)によって 表現形式を変えるということも あるかと思います。  そういう場合には 中身は 同じだと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.28

オコリザルです。 アマテラスとスサノオの駆け引きは一個人の心の中の出来事に集約するとアマテラスイコール意思で、スサノオイコール記憶です。 意思により現在にあわせて記憶を正しく修正する試みです。 なんだかんだ言ってもスサノオはアマテラスに折れざる得ません。 それでいて和解なんです。 「慈」に表れるお友達は実際に一人(同一性のある自己)になりきれていない現象で、これは錯覚です。その弊害として記憶の混乱とつながりの混乱(どちらも勘違い)があります。これは観念の純化で解決しまして、それがアマテラスの試みです。 アマテラスは観音を駆使します。 記憶には本来はおとなしく言い含められたい衝動(甘えん坊)がありまして、それに納得できないわがままもまたあります。 甘えん坊を丸出しゆえに折れることが決定しているスサノオくんです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ アマテラス・スサノヲ  ☆ という言葉は 定義によって いろんな形で使えます。整合性をもった妥当な内容であれば その理論の中に 自由に 使えば よいわけです。  ★ アマテラスイコール意思で、スサノオイコール記憶です。  ☆ わたしの場合は 精神の三つの行為能力を合わせて アマテラスと言っています。記憶・知解・意志です。スサノヲは 身体です。  ★ 意思により現在にあわせて記憶を正しく修正する試みです。  ☆ 記憶は むしろ それ自体に 精神の秩序作用を持った能力だと想定しています。ものごとを覚えるというのは その認識したものを 記憶の宝庫に整理整頓するという作業を伴ないます。認識しなければ 整理し得ませんが そしてその認識作業は 知解という能力ですが これを 組織秩序におさめるのは 記憶です。  しかも そのとき 認識しようとする・あるいは 記憶しようとするそのはからいは むろん 意志作用によります。  勘違いや あるいは 故意による思いこみが 人間には 起こって その間違いを容れたまま 記憶なる秩序にその認識がおさめられるということも  あるわけですが 一般に これら三つの能力行為は 一体性を持つと考えられます。つまり その一体性は 時間的な経過をともなって あとになって 間違いが分かるというかたちであり そのように 相対的で限界を持った一体性です。  でも ところが これら精神の能力行為は むろん 人間という存在にそなわった自然本性であり 神経組織や脳裡におけるはたらきに基づきます。つまり これは 身体=スサノヲの領域なのです。身体=精神 つまりその限りで スサノヲ=アマテラスなのです。神話では 実の弟と姉です。  ★ 観音菩薩  ☆ というのは 《観自在菩薩》と訳されるときには 意志の欲するとおりに行為しうるというところまでの境地を言っているのかも知れません。《観世音菩薩》というときには 世間の音を観ると言っています。  ★ お友だち つまり 人間関係  ☆ の領域であり その問題であると言ってよいのでしょう。しかも つまりは 意志の問題です。  すでにご説明したかと思いますが 個としての独立性において ひとは 意志という行為能力を持つが これを 意志行為として発揮するときには 相手との関係性が 現われます。関係性において 発揮されます。おそらく これは 独立性を持った存在じたいにおいて その自然本性として ひとは ひととの関係性を持っていると想定しうることなのではないでしょうか。  すなわち 精神としてのアマテラスは 社会における意志行為をつうじて 世間との関係性において 世音を観ずるという作用をも 持っています。  ところが ところがです。  ここでも 見たり聞いたりという感覚とその感性のあり方が つまりは スサノヲ=身体作用が 観世音というアマテラス=精神作用のための判断材料を提供しています。アマテラスは 一方的に 自分の記憶とその知解だけにもとづいて 解釈をしてはいけないのです。ましてや 意志のおもむくままに 解釈したり意志決定をしては それは 存在の善を台無しにすることです。  つまり あたまでっかちという場合も あるのではないでしょうか? そのときには むしろ スサノヲの出番なのです。というより つねに スサノヲが 基礎となっています。縁の下の力持ちです。  蛇足です。  欲望をおこすのは スサノヲ身体ですが これを追求するのは じつは アマテラス精神ないし意志の行為なのです。これを 《むさぼり》と言います。ですから  ○ 《むさぼるなかれ》――あるいは 《和を乱すことなかれ》――と言われなかったなら わたしは むさぼることを(あるいは 和を乱すことを)知らなかった。  ☆ のです。そのような規範を持ち出すのは 身体=精神にあっては 超自我とか言う精神でしょうし 《スサノヲ市民圏‐アマテラス公民圏》連関から成る二階建て社会にあっては 言わずと知れたお二階さんのほうです。または アマテラス予備軍と呼ぶべきスサノヲ市民たちです。  つまり 和を以って貴しと為していたのは ふつうのスサノヲ市民らだったのです。けんかをするということと 和を貴いと為すこととは 両立します。スサノヲ庶民は 和を乱すためなら わざわざ 波風を立てることはしません。あまりにも アマテラス亡者らが どこまでも ふんぞり返り 時には土下座をしつつ 駄々をこね 甘えてくるので 造反有理というような反逆も スサノヲは 起こすのです。身体スサノヲの変調は アマテラスあたまでっかちの行き過ぎに対する思いやりです。むさぼるのは アマテラス理性が おこなうのです。

回答No.27

(A) 選択肢から選び決定するという判断を成すときの基準は いかに? (B)一たん判断基準を措いておいて その取捨選択を決めるのは どういう契機だと考えられるか。 いわゆる快不快で代表される心象のようなものの下層を掘り下げて考えると、 動性道徳と呼んでいたものに行き着くんだと思うんですよね。 快不快とか偽善とかをP/Nとしてコンピュータメタファーをやるか、 精神構造を鼻から複雑系として取り扱うかになろうかと思います。 きっかけ(input)から、行動実施(output)までのフローでしょうか。 最終出力はPかNか、やるかやらないかのどちらかで中間はありません。 60%やるというのは有り得ません。 単一なモデルは、条件に合えばP、合わなければNで出力されます。 複雑なモデルでは、基準が複数あって、判断の前後あるいは同時かも、基準値も変化します。 基準間の相互作用もあります。それぞれがサブルーチンで動いていて多重のフィードバックが かけられています。 そうすると同じきっかけを与えても、同じ結果が得られるとは限りません。 メインルーチンからは、サブルーチンがどのように動いているかは見えません。 例えば、(β)快楽(γ)偽善(δ)演技(ε)信頼が各サブルーチンで それぞれの結果をメインルーチンが処理して最終出力を出すわけです。 各サブルーチンがどう絡み合っていようが、そのサブルーチンの結果で、 メインルーチン(心象)が処理をするわけですね。数式化しても面白いかもしれませんが、 たとえば、快楽値が98なら、偽善値が80でも出力はPになるとか、そういうことですね。 迷っている間は、Nの行動しないが出力されています。 伝家の宝刀、いわゆる自由意思は、メインルーチンでは定数を多少変えるぐらいの狭い話ですね。 実際に自由に決めることが出来るじゃないか・・と思われるかもしれませんが、 それほど大きな遊びはありませんね。 むしろ、それは予測不能なサブルーチンにあります。 メインルーチンは、サブルーチンがなぜその値を示しているか知り得ません。 こんなことを引き合いに出して何を言いたいかというと、その取捨選択を決めるという 精神構造といったものは、それ自体が動的なシステムなのであって、 決して確率論的、乱数発生のようなものではないとしても、予想することができない 非線形性があるということなんですね。 そして、もう一つ重要なのが、コンピュータプログラムと大きく異なる点で、 その全体が、なるべく最小時間、最小エネルギーで処理しようとする、あるいは、無駄を やらないという傾向が強いということではないでしょうか。 これが逆に怠惰を発生させる原因でしょう。 だからこそ、動性道徳のような広い帯域を対象とする概念らしきものがイメージされるのだ とは思います。 そういったシステムの中で、自由とは何かというと、それぞれのルーチンが行っている 注意深さ、洞察、判断などの処理そのものを指していて、責任と関係が深いのだと 思うんですね。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづ コンピュータ方式の処理については 明るくありませんで 二つの値のあいだを 延々と 選択しつつすすむというふうにしか分かりません。この二者択一を繰り返す過程を包むかたちで  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その取捨選択を決めるという / 精神構造といったものは、それ自体が動的なシステムなのであって、 決して確率論的、乱数発生のようなものではないとしても、予想することができない / 非線形性があるということなんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かるように思うのですが 質問が ふたつ あります。  (Q-1)  《非線形性》は 精神の内部における判断過程としての推移にであるよりは すでに意志決定し行為に及んだあとの事態の推移 こちらのほうにあると言うべきではありませんか?  (Q-2)  意志決定の最終の時点 ここには 複雑なものごとは むしろ ないし あり得ないと思われるのですが どうでしょう?  考えが定まらず あっちへ行ったりこっちへ来たりして その選択肢の列挙とそれらの間の比較考量の過程で 紆余曲折があったとしても 最終の判断は あっけないようなかたちで 簡単に決まるように思います。  (a) 一般には 何はともあれ 《善かれ》と思って 選択し決定する。  (b) 諸選択肢の間で 一長一短があって 決められないというとき あたかも賭けのように(サイコロを振って決めるように) 一つをえらぶ。――しかも この場合 どの選択肢も 一般に 《善》と判断している。  (c) そのほかには (c-1) うそも方便 = 悪の善用。(c-2) わざと悪のほうをえらぶ。(c-3) 箸で食べるかフォークでか手でか これらは 直接には 善悪判断ではないが しかも たとえば 衛生が問題になれば 善悪判断になる。  などなどを取り挙げても やはり 善悪判断が基準になっている。(c-2)は それに従わないというのみである。  ★ 予想することができない非線形性  ☆ これは たしかに 精神内部における選択と判断の過程においても 行為の結果についての無知(未知)として かかわっていますが もはや無知が 善意であれば その非線形性の事態が のちに起こることには やむを得ない側面があります。そして つまり その限りでは 意志決定をおこなったあとでの 事態の推移にかかわっていると言えます。  同じくたしかに この無知や未思考を少なくする努力が 責任を引き受ける心とその能力にかかわっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そういったシステムの中で、自由とは何かというと、それぞれのルーチンが行っている / 注意深さ、洞察、判断などの処理そのものを指していて、責任と関係が深いのだと / 思うんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とともに 別の角度から見ると おそらく 行為に及んだあとの過程において そのつど 検証しつつ すすむ〔ほかない〕というような側面も 受け容れざるを得ない場合もあるかも知れません。  ★ だからこそ、動性道徳のような広い帯域を対象とする概念らしきものがイメージされるのだ / とは思います。  ☆ つまり 《動性》というのは もともと そういう側面をも含んでいると言うべきでしょうね。ぶっつけ本番という場合も じっさいには けっこう あると思われ それでは いけないという場合を きちんと 除外していけばよい――と言うと 安易になるでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その全体が、なるべく最小時間、最小エネルギーで処理しようとする、あるいは、無駄を / やらないという傾向が強いということではないでしょうか。  これが逆に怠惰を発生させる原因でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 共通の処理基準を 共同で つくっておき さらに 作りつつ すすめるという場合も出てくるかも知れません。(この場合の《怠惰》は 必ずしも 好悪ないし快不快の原則によるものではないように思われます)。  どうも ≫共同作業≪ になると その意志決定は そうとう むつかしいことになりそうですね。事前に責任を引き受けつつ 意志決定し 実践するというためには。

回答No.26

おはようございます、brageloneさん。 ここ、二日三日めっちゃ歩き回って、足が棒です。ご無沙汰。 ●その第二階――と言っても 雷の上のですが――にお住まいであるのかな そうかもね と言っているようです。 みたの??? みられたか…  そかそか、 うん。古い二階建ての家の二階に住んでいます。 で、一階には雷オヤジならぬ雷オカンこと母上様が居り候。 ほいでもって、斜め向かいには姉ちゃん家があり、そっちは三階建て。 【QNo.214824 愛する人、愛する家族に内緒にしてることってありますか?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa214824.html 【QNo.399314 救出・脱出ル-トの確保】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa399314.html 【壊されていく、近代建築・・・】 http://www.tansei.net/kindai/kasumigaseki/main.htm 第一種市街地再開発事業〈権利変換方式〉  権利変換手続きにより、従前建物、土地所有者等の権利を再開発ビルの床に関する権利に原則として等価で変換する。 ↑ リスク高くないですか?

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  重ねてのご投稿にして 気をつかってくれてます?  ★ 等価交換  ☆ は 理論上 しっかりと出来ていると思います。税制にしても。運用上 何かと・・・ですかね。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  東条〔英機〕さんは常にわれわれに対して言っていた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    お上は神格であらせられる。われわれ臣下はどんなに偉くなっても人格以上には出られないものである。首相だからといっても少しも偉くないのである。後(うしろ)にお上がおわしまし その御光りを受けてはじめて国民たちに対せるものである。    元来政治を行なうにあたり民心を把握し これを結集してその方向を与えることが大事であると聞いているが 日本の政治はこれだけでは足らぬ。すなわち国民はひとしくお上の赤子であるのだから お上の御心持をすみずみまで伝えると同時に 赤子である国民の心を纏めてお上に帰一させることが大事である。首相等の大事な責務もここに在るのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (赤松貞雄:東条秘書官機密日誌 p.33) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《赤子》なら かの《造船会社のエンジニア》さんにも もっと気をつかってくれてもよいものを。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  かけまくは畏(かしこ)かれども 言はまくは恐(かしこ)かれども 白檮原(かしはら)の宮に 初国知ろしめしし大御代(おほみよ)ゆ(=より) 今の をつつ(=うつつ・現)の盛りの御世にいたるまで 皇国(みくに)の有状(ありかた) 大いに変わる事 三たびになんありける。  其の三転(みうつり)の ありかたをいはば 一つには加婆祢(かばね=姓) 二つには都加佐(つかさ=職・司) 三つには名(な=大名・藩主)になんありける。かれ上(かみ)つ代は カバネもて世を知ろしめし 中つ代は ツカサもて世を政(まつりご)ち 下つ代は 名をもて世を治めたまひけり。かく変わり来し状(さま)を考ふるに 自(おの)づから時の勢いにつれて しか移り来たれるものなりけり  (伊達千広〔紀州藩の財政担当者(1802~77)〕:大勢三転考)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 三つ目の《な》は もう今では 氏名の《名》で いいのかも知れません。柿本・朝臣・人麻呂というとき 柿本は 《かばね(姓)》かな? 朝臣が《つかさ》で 人麻呂が《な》だろうか? あるいは 四つ目の転換はありかどうか?  次は 《氏(うぢ)ありて姓(かばね)なし》という説を出している。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  上世よりして 我が民族は祖宗の民族として 氏(うじ)ありて姓(かばね)なしと称せらる。  すなわち国民の大部分は おおむね其の血統 種系を同じふし 時に或いは蕃別に属する分子(* 外来の民)を容るるといえども またことごとくこれを同化して厳然たる一血族を鋳成せり。  ゆえをもって君民の間 自然一定の分義ありて 絲毫(しごう)もあい紊(みだら)ず 王道の公と臣節の正とふたつながらあい待って膠漆(こうしつ)の如く・・・  (板垣退助監修:自由党史 上  1・1 〈維新改革の精神〉)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうかもね。いや そうかな?  ▲ 王道の公と臣節の正と(* ――アマテラス族とスサノヲ市民と――) ふたつながらあい待って膠漆(こうしつ)の如く  ☆ でいいのかな? どうだろう?  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  沖縄の宗教史で一ばん強く印象づけられるのは 女の霊的な力がひどく優位している点である。  今でも神事はすべて女によってとり行なわれ 以前は御嶽(おたけ・うたき)に男が立ち入ることも許されなかった。とくに斎場(さやは)嶽などは 男子禁制の霊地で 男は女装して入ったという。・・・  (西郷信綱:〈オモロの世界〉六)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 第四転は 《おみな(おんな)》かな? どうだろう?  連帯の鍵をにぎる? かも。かな?  * それにしても あったかくなりましたね。

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