悪の共同自治についての問い

このQ&Aのポイント
  • 悪の共同自治についての問いを考えます。自由な市民による自由な連帯が可能か、その方法について考えます。
  • 悪は存在しないという主観を社会的に共有できるか、その共有の方法について考えます。
  • 人生は悪との闘いであり、個人の内面での孤独な闘いであると考えます。また、社会的な共同化は必要かどうかについても考察します。
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悪の共同自治にあたってわれわれは 協力しうるか

 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか  言いかえるなら:   (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。  これが 問い求めの主題です。しかも取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。  つぎに趣旨説明です。  (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います:     悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。    あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した    ところの観念である《悪魔》のみである。     世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて    いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ    れだけのことだ。  (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。   それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。  共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。  (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。  (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。  (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。  (毒麦を引き抜かないのは もし引き抜くならそのとき ふつうの麦をもいっしょに引きぬいてしまって だめにしてしまうからだと言われます)。  (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば主観としてでしょうがきつく言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。  (κ) 《呼べるかどうか》の答えは人間としては出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。  (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明が主観的にであれじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。  (説明というのは 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》を充てます)。  よろしくどうぞ

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noname#180711
noname#180711
回答No.2

 うーん。難しい話ですねえ。悪。正直に言えば、(η) までは、何とも言えないなあという印象でした。善の欠如が悪である。では善とは何なのだ。書いていない。従って定義不全である。このように思いました。    とはいえ、(θ)を読んだあたりで、何となく意味が分かってきました。要するに、悪を撲滅するのでもなく、悪と共生することはできるか。それをコミュニティ単位で行うことはできるのか。身近な話題で言えば、アラシと共生することはできるのか。これは丁寧に話し合う忍耐力があれば、どうにかこうにかできるのかもしれませんし、できないのかもしれません。ただ話し合いにすべてをかけることはむずかしいと思うんですよねえ。  (λ)ですが、ぶらじゅろんぬさんみたいに、話術に自信があり、時間も費やしてくれる人なら、話し合いはできるでしょう。しかし大体の人は、そんなに話はできないし、時間もないと来ているのではないでしょうか。私、お金を計算してみましたが、ここで回答している時間って、結構な額ですよねえ。特殊な商売じゃないと、まずここに入って来れない。仕事がある人は、無言や言葉足らずになってしまう。これはネット上だとむずかしいことになってしまうのだと思うんですよねえ。発言しない=存在しないも同じ、ということになってしまいますので。でも顔を合わせて話せば、無言=存在しない、ではないんですよね。黙りこくっている相手の顔がある。限界があるなあと思います。  私が人間不信に陥ったのは、相手の議論が弱すぎるときでした。いや、それは恋人だったんですけれどもねえ。とても美人の女の子だけれど、喧嘩になると、すぐに私が勝ってしまう。しかしこれは勝ち負けの問題ではないと思いました。お互いの問題を話し合わないとならない。共感しあわないとならない。ところが私の場合、勝つことによって相手を封殺してしまう。勝ち=正しい=善、ではないんですよねえ。単に相手の発言を封じているだけに過ぎないこともあります。しかし私の言葉が武器だとすると、もうどうしようもなくなる。言葉を重ねれば重ねるほど、おかしい事態が生じて行きます。シザーハンズ(手がハサミで、抱きしめようとすると相手をきっと傷つける)とはこのことでしょう。抱きしめるべき手=言葉が武器とは、なかなか悲劇です。相手が弱いのがいけないんだという考え方もあるでしょうし、お前がどうにかせいという考え方もあるでしょう。まあ、私のとても若い頃の思い出ですが、一種のトラウマでもあります。  前にAさんに、お前の言葉は刀のように切れすぎると言われ、内心、かなりムカッと来ましたが、言葉は武器であってはならないなあと思います。そんな風に丁寧に使っているつもりだったんですが、とってつけたような比喩で言われると、何にも考えていないじいさんに何が分かるか、と思ってしまったことがありました。まあAさんは私が本気モードじゃないことが分かっていたんでしょう。本気になれば、ばさっと切れる刀をもっているだろうなあ、おっかねえなあ、という素直な感想だったのかも知れません(そういえば、最近いなくなっちゃったなあ。まさかお迎えが来たんじゃないだろうな)。  さて、以上、お答えになっているでしょうか。面白そうな問いだと思って覗いてみたのですが、ちょっと個人的に時間がないので、あまり十全に応答できないかもしれません。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ では善とは何なのだ。書いていない。従って定義不全である。  ☆ これはしくじりました。  でぃくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  これは 失礼しました。  いちおう言い訳も述べますが この質問もリバイバルで 当時は善の定義もしていて 悪がどうだと問い求めていたのだと思います。  ○ 《善》の定義  ~~~~~  まづ主観によるとします。  善とは:  《ワタシがよきこと・好ましいことと見たもの》   《おのが心にさからうことなく意志すること》  《おのが心にさからう思いは 顔を赤らめるなどのやましさ反応が起きる。このヤマシサ反応が起きない心づもりのこと》    ひとには 共通感覚(センスス・コムニス)があると想定される。(もしくは 強引に想定する。それは 証明抜きで みとめられている公理としての《良心》にもとづく。またはそれと感性一般とは相い呼応すると見るゆえ そこから想定をみちびく)。  したがって ひとりの人の主観における善も 必ずしも普遍性に欠けるとは言えない基礎的部分がある。  この善を傷つけること・そのように心の向きや中身が傷ついた度合いや状態 これらを《負の善》として別様に《悪》とも呼ぶ。  悪は そう呼ぶだけであって 主観の内に起きる善があって初めてその現象があると見る。  つまり 悪そのものは 存在しない。善の損傷があるのみ。    (しかもこの悪が 概念化され経験事実から離れた観念としてさえ持たれ 観念が後生大事にいだかれるようになると――なぜなら 現実はきびしいゆえに観念にまでその避けどころを求めるようになる。  (趣旨説明欄(γ)にしるしましたが 避けどころは善なる観念そしてその観念としての神という場合もあるが そうではなく人びとはしばしばその善神に対抗するようなもうひとつの観念として悪ないし悪魔をも持つに到る。そのほうが ご利益があると踏んだわけのようです。・・・うんぬん・・・)  ~~~~~~~~~~~~~~  さて ご回答は こうなりましょうか。   1. 悪との共生は 互いの話し合いによる。   2. ★ 丁寧に話し合う忍耐力――☆ これが大事。   3. けれども ひとによって時間が足りないことがある。   4. あるいはバーチュアルな場の問題もある。対面していないというマイナスの条件。   5. ともすればそういった条件のもとでこの《話し合い》が うまく行かない場合がある。   6. あるいは別様にその一例は むしろ議論として勝負があったという場合に起きることがある。《話し合い》とは 議論としての勝ち負けが問題ではないのだから。   7. 対話とは 互いの善を活かし合うことである。そのために議論をする。   8. 話し合いの停滞によって《人間不信》に落ち入ることすらある。   9. ★ 抱きしめるべき手=言葉が武器とは、なかなか悲劇です。――というようなシザーハンズの問題がある。   10. といった経過を経て あらためて     ★ お互いの問題を話し合わないとならない。共感しあわないとならない。     ☆ というひとつの結論が得られる。   ・・・    基本解だと思います。  わたしの目下の問題は――世の中 いろんな場合があるようで―― 《話し合いを捨てている》相手とどう話し合うか これです。  あっ それが A さんではないのですが そう言えば A さん しばらく見ないなぁ。まぁ しなやかなチカラがあるので ひょっこり顔を見せるでしょう。  ご回答 ありがとうございます。

その他の回答 (12)

回答No.14

ぶらじゅろんぬさん。ご返信ありがとう。 けど ところどころ ちょっと違うんです、 そうぢゃないんですー。 >もはや《善》と《悪》とを区別しなくなったとかの場合 >悪をおこなうことも 善のためにも必要だとか何とか説明したりする >毒を食らわば皿までだ。というような調子で エスカレートして行くのでしょうか? 「自ら善の欠損を大きくすることに 生き甲斐を感じるまでになる」かもしれない、 というのは、 毒麦のように他虐をしているようでいて (他の麦に害を撒き散らしているようでいて) 実は自虐をしているような人のことです。 心理学では投影とかいいます。 他人の「一時的な善の欠損」を見て 一時的に あいつムカつく、というのは 当たり前の反応だと思うんですが、 なぜならそれは 「自分も一時的に善を欠損することがある」 という不完全なニンゲンの姿を知っているから だと思うんですが、 そんでもってそれが許せないから、 「許せない」という気持ちを 適当な方向に投げつけてしまう場合 もあると思うんですわ。 投げつけ先が他人だったり自分だったり。 ↑こんなことができるのは、 「悪」という「概念」をヒトは勝手に 育てることができるからだと思ひます。 他人が「気に入らない行い」をしたときは その「行い」を批判したらいいんだけど‥‥ だって人にマチガイは付き物だから 常に正しくある、なんて誰にもできないでしょ? だからその「行い」を批判したらいいんだけど、 自分が「間違う」ことを許してもらえなかった人は、 他人がちょっとしたマチガイをしただけで あるいは自分がちょっとしたマチガイをしただけで、 「あいつ(あるいは自分)自体が許せない、  こいつ(あるいは自分)の存在自体が不正!」 と言い始め、 他虐あるいは自虐を始め、 毒麦が地面に根付いて根っこを長くしたみたく、 そのような生き方に快感を覚えるようになる、 のぢゃないか、 という話をしたかったのでした。 毒麦さんも実はそこに生えていることを 苦しいと感じてはいるのだけれど、 その生え方しか分からなくて、 とりあえず生えているのかもしれない、 解毒してもらうのを待っているのかもしれないし、 根っこから抜いてもらっても構わない と思ってるのかもしれません。 ああなんかしゃべりながらこんがらがってきた。 おいらがこんなことをしゃべったのも おいらが身に覚えがあるからで、 ちょっとこっ恥ずかしいんですが、 たぶんおいらにとっては じゅうぶん過去形になった、 のぢゃないかと厚かましくも思い、 例によって、えいっっと放ります。でわ。 相変わらずしゃべるのヘタなんだけど、 しかもズレてるかもだけど、 少しでも伝わるといいなあ。えいっ。                                                                                                      

bragelonne
質問者

お礼

 なるほどと言うべきか 少し迷うところがありますが まづは こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  自分が「間違う」ことを許してもらえなかった人は、  他人がちょっとしたマチガイをしただけで  あるいは自分がちょっとしたマチガイをしただけで、  「あいつ(あるいは自分)自体が許せない、  こいつ(あるいは自分)の存在自体が不正!」  と言い始め、  他虐あるいは自虐を始め、  ~~~~~~  ☆ このときの《他虐 あるいは 自虐》というのは 具体的にどういうことなのでしょうか?  他人に対しては いぢわるをすることでしょうか?  自分に対しては どうなのでしょう?  ★ ~~~~~  他人が(* あるいは自分が)「気に入らない行い」をしたときは  その「行い」を批判したらいいんだけど‥‥  ~~~~~~~  ☆ その批判はせずに 自己に対してにせよ他者ににせよ《虐待》をおこなう。というのは   ★ 投影  ☆ なのでしょうか?  あるいはつまり 《投影》の場合は  ★ ~~~~  毒麦のように他虐をしているようでいて  (他の麦に害を撒き散らしているようでいて)  実は自虐をしているような人のことです。  心理学では投影とかいいます。  ~~~~~~~  ☆ という定義にしたがうなら   (あ) 《他人のマチガイ》に対して つねに他人を虐待する。    そのことが 《実は自虐をしているような》ことになる。  でしょうか? 繰り返すなら   (い) 他人がまたは自分がマチガイを侵してその他人または自分がゆるせない。    そのとき 他人に虐待をおこなう。それは 実は自分を虐待しているのと    同じことになっている。  でしょうか?  まづ分かっていることは   (う) 自分に対して虐待をするなら 必ずしも他人に迷惑をかけてはいない。  ということでしょうね。げんみつには もっと間接的な因果関係を捉えなければいけないかも知れませんが とりあえず こうです。   (え) 自虐という行為は     ★★ 「自ら善の欠損を大きくすることに      生き甲斐を感じるまでになる」かもしれない    ☆ ということなのか?  何だかこんがらがって来ました。     (お) それがゆるせないという自分のマチガイは 善の欠損ですが そのマチガイのあと自虐行為におよぶということは その善の欠損を大きくすること であるか?   (か) 《他虐》は 要するにいぢわるをすることでしょうから分かりますが 自虐とは どういうことなのか?   (き) 単純に言えば 《反省して 謹慎する》といったことではないのか?   (く) あるいはそうではなく 初めのマチガイをなおまだ同じようにつづけるということなのか? それが自虐であるか?    分かりません。ここらあたりまでですかね。分かったのは。お手上げです。

回答No.13

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 お愛想はからっきしとか言っちゃって めづらしく小鳥のさえずりのような(?) やさしいご返信ありがとうございます。 昔の恋人がおいらのことを 「がらっぱち」だと言って褒めてくれました。 おいらが「がらっぱち」だから、 去って行く人もいますが、 適当なおべんちゃらを飛ばして 氷のような会話をするよりはいいかな。 皮肉ぢゃないです、念の為。 ___________ 数分か数時間か数週間か数年、 善が欠損することは、 聖者かゴミ箱でない限り、ニンゲンには 例外なく誰にでもあると思うんですが、 善が欠損しっぱなしの状態に気付かない あるいは気付いても放っておく あるいは自ら善の欠損を大きくすることに 生き甲斐を感じるまでになる というような状態に どのようにしてなるのか、 どのようにして 生きること(善)を 放棄するようになるのか、 他の方の意見をもっと聞いてみたい。 ___________ そういえばいつだったか、ぶらじゅろんぬさんが わざわざおいらに「タコツボめ!」 と言ってつついてくれたことがあったね。 神隠れがどうの、マがどうの、 という質問だったかな(覚えてます?)。 おいらはありがたかったね。 正直ムカついてスルーしようと思ったんだけど、 遠慮なくぶっきらぼうにサシで言い合いができて。 おいらにはあんなふうに声を出すパワー無いけど (人任せになっちゃって恥ずかしいんだけど) ぶらじゅろんぬさんやあの人やあの人やあの人が 根気よく声を出し続けていれば、 少しずつ協力しあえるようになるかもしれないなあ。 本当に少しずつだと思うけど。 まづ毒麦さんがオツムをカラッポにして 「自分は毒麦である、かもしれない」 と考えてみるところから、少しずつだと思ふ。 ___________ 己の「渇き」に無関心・無責任な人 というのも皮肉ぢゃないです、念の為。 言われてみればおいらも己に対してさえ ずいぶん「無知」なことがありますから。 たとえば本当は助けてほしいのに つい怒ってみたりしちゃったりしてね、 ゴミを撒き散らしてイビツな甘え方をしちゃったりね、 イビツな甘え方って伝わりにくいんだけど、つい。 ___________ ああそれから。 もうひとつワルモノの質問で得たのは、 「己の弱さを誇ろう」ということです。 なるべく速やかに それができるといいなあと思います。 なにか言い忘れてるような気がするんだけど とりあえずぶっきらぼうに えい。         

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  善が欠損しっぱなしの状態に気付かない  あるいは気付いても放っておく  ~~~~~~  ☆ のはあり得るとして  ★ ~~~~~  あるいは自ら善の欠損を大きくすることに  生き甲斐を感じるまでになる  ~~~~~~~  ☆ というのは 大胆に推測しましたね。  そうかも知れないし あるいは そこまで来ると もはや《善》と《悪》とを区別しなくなったとかの場合が考えられるかも知れないのですかねぇ。  あるいは 悪をおこなうことも 善のためにも必要だとか何とか説明したりする場合とか。  いえ 分かりませんが 《すすんで自ら善の欠損を大きくする。そしてそこに生きがいを感じる》というのは よほどのことですよね。やけのやんぱちなのでしょうか。  ★ ~~~~~  というような状態に どのようにしてなるのか、  どのようにして 生きること(善)を  放棄するようになるのか、  他の方の意見をもっと聞いてみたい。  ~~~~~~~~  ☆ というのは わたしも同じくです。  あっ たとえば 誰でも大なり小なりの悪をおこなうものである。それこそ五十歩百歩である。だったら 目くそ鼻くそを笑うというのは おかしい。毒を食らわば皿までだ。というような調子で エスカレートして行くのでしょうか?  ★ ~~~~~  おいらにはあんなふうに声を出すパワー無いけど  (人任せになっちゃって恥ずかしいんだけど)  ぶらじゅろんぬさんやあの人やあの人やあの人が  根気よく声を出し続けていれば、  少しずつ協力しあえるようになるかもしれないなあ。  ~~~~~~~  ☆ よくは覚えていなくてごめんなさいなんだけど 泣かせますねぇ。  ★ ~~~~~  たとえば本当は助けてほしいのに  つい怒ってみたりしちゃったりしてね、  ゴミを撒き散らしてイビツな甘え方をしちゃったりね、  イビツな甘え方って伝わりにくいんだけど、つい。  ~~~~~~~  ☆ 分かっていても けっこう扱いにくいような。・・・  ★ ~~~~  ああそれから。  もうひとつワルモノの質問で得たのは、  「己の弱さを誇ろう」ということです。  ~~~~~~  ☆ あぁ。これは いいですね。ここから協力するということが出て来るかも分かりません。  ぶっきらぼうにてになります。

回答No.12

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 例によってボソッとつぶやくだけです。 でぃーくべくさんとのやりとりで思い出したんですが、 「無視」「パス」というのは意思表明になってると思います。 「おまえとは二度(今は一時的に)と話さない」という。 そういうコミュニケーション方法もありかな。 おいらの昔の恋人は徹底的に無視してくれましたねー。 おいらの悪口を言うわけでもなく言い訳をするでもなく。 このように意思表明する人は、おいしそうな麦みたく どこかで誰かと共生して協力しあってると思います。 __________ おいらが協力し合うのはちょっと無理かな~と思うのは、 ◇何か意見を言うと「侮辱された」と言って い・つ・も、すぐさま防衛&攻撃態勢に入る人。 ◇上に似てますが、他人の意見を悪意的に曲解し、 勝手にワルモノを捏造しては愉しむ人。 ◇上から続きますが、なぜかタコツボの中で ワルモノ叩きを愉しむのみで、一切ひとの話を聞かず つまり一方的にタコツボからゴミ(オイル?)を流して 海を汚し、「この汚い海を見たまえ」と言うばかりで こちらが「オレにゴミを捨てるなオレの水を汚すな」と わりと大声で訴えても、そもそも対話にならない人。 ___________ 何年か前、ニンゲンにはなぜワルモノが必要か? という質問をしたことがあるのですが (その節は大変お世話になりました)、 「なぜ?」の回答の あくまでひとつとして「渇愛」 というのがありそうだという結論を得ました。 しかし怪我をした人や病気になった人が 病院に行って切ったり貼ったり投薬してもらって なんとかしてもらおう、なんとかしてもらえるっしょ、 みたく、己の「渇き」に無関心・無責任なら、 おいらはその人とは協力できません。 その人のためにハサミを使うのも面倒です。 ↑いけませんかねえ。 とか言っちゃって自分が毒麦だったりして。 (あ、冗談のつもりなんだけど、 対話になってるかどうかは不明。笑。)

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。  わたしも・いえ わたしは ぶっきらぼうですからねぇ。  問い求めは とことんというほどやるのですが お愛想はからっきしですから。  ★ ~~~~~  しかし怪我をした人や病気になった人が  病院に行って切ったり貼ったり投薬してもらって  なんとかしてもらおう、なんとかしてもらえるっしょ、  みたく、己の「渇き」に無関心・無責任なら、  おいらはその人とは協力できません。  その人のためにハサミを使うのも面倒です。  ↑ いけませんかねえ。  ~~~~~~~  ☆ 何だか身につまされるような。・・・  この事例が  ★ ~~~~  「なぜ?」の回答の あくまでひとつとして「渇愛」  というのがありそうだという結論を得ました。  ~~~~~~  ☆ ということなのですね。  《渇き》に 《無関心・無責任》とまでは行かなくとも 《無知》でいたりするのではないかと思いました。でもその場の《無知・無自覚》は あとで辻褄をあわせるだけでは けっきょく《無関心・無責任》と受け取られてしまうかも知れないと思いました。  きびしいですね。むつかしいですね。  ★ ~~~~~  でぃーくべくさんとのやりとりで思い出したんですが、  「無視」「パス」というのは意思表明になってると思います。  「おまえとは二度(今は一時的に)と話さない」という。  そういうコミュニケーション方法もありかな。  ~~~~~~  ☆ これはすなおに援護してもらったと思います。そのあと離れたとしても それでもよいというような互いのコミュニケーションのあり方ですね。  ★ ~~~~~  ◇上から続きますが、なぜかタコツボの中で  ワルモノ叩きを愉しむのみで、一切ひとの話を聞かず  つまり一方的にタコツボからゴミ(オイル?)を流して  海を汚し、「この汚い海を見たまえ」と言うばかりで  こちらが「オレにゴミを捨てるなオレの水を汚すな」と  わりと大声で訴えても、そもそも対話にならない人。  ~~~~~~~~  ☆ このときにですね タコツボから《ゴミ》ではなく 《コミュニケーションのための理論》を推し出すという場合があるのではないかと ふと思いました。本人は そのように考えているという場合です。  ただし《一方的に推し出す》のは そのとおりであって その意味は 相手からの発言はもう受け取らないといった格好であるという場合にあたると思いました。  ★ ・・・他人の意見を悪意的に曲解し、・・・  ☆ これは だめでしょうね。話は前へはすすみません。  ★ ~~~~~  ◇何か意見を言うと「侮辱された」と言って  い・つ・も、すぐさま防衛&攻撃態勢に入る人。  ~~~~~~  ☆ 《防衛》のために《攻撃態勢に入》りほんとうに攻撃してくる場合がありそうです。  うんぬんですね。

noname#180711
noname#180711
回答No.11

 ありがとうございます。まあ、この顔は、なかなか面白いと思いませんか。頑固な感じがよく出ていて、ちょうど回答の性質にあっているように思うのです。そちらの空もかなり見事なものだとは思いますが。どこなのですか。。。  善の話は、一本とられましたね。究極的な善ー正義がない。だから全て主観である。なるほどと思いました。しかしそうだとすれば、皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね。つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。  さて、気軽にお答えになったということですが、敢えて少し聞いてみたいのです。 >これは その質問者が パスすることが出来ます。コミュニケーションの問題にはならずにだと思います。その自由度は 質問者にあるのではないかと。 >たとえば 《ちょっとタンマ》と言えばよいわけです。あるいは 《パスします》と。《一日か二日 あるいは 一年か二年の考える時間をくれ》でもよいわけです。  まあ、ぶらじゅろんぬをかわす方法を当人が語っているともいえるのですが、これは、そうはいかないんじゃないのー、と思いますねえ。そういう風にしたたかな話をできる人は、案外、少ないと思いますね。例えば私なんかはあらかじめ気を遣って、相手がかわすという労力をとらないでも済むように、話を持っていきますけれどもね。そういう配慮はなさらないということで、これは、ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。  しかしそれはさておき面白いと思ったことがあります。一年も二年も考えてから返事する。これは普通、できません。むしろ「またいつか=もう終わり」という言い回しと同じ意味だと言えそうです。しかしそうすると沈黙もコミュニケーションの延長にあるということになってしまいます。これはそういう意味で言っているのでしょうか。だとすれば、真面目な話、これはなかなか面白いと感じました。そしてこのように考えれば、断絶もまたコミュニケーションの一形態として納得できるようにも思えます。 >それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。  そういうのを望んでいる人はいるかもしれませんが、私は特にその方が良いとは言ってはいないつもりです。いまのままでよろしいのではないでしょうか。ただし短いと、全体像を把握するのが容易にはなりますよね。TPOがあるような気がします。細かい話をするべき場面なのか、全体像を伝えるべき場面なのか。それによりけりではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 空は フランス。ひとつ前のは 例のバスク人の地方。内陸。こんどのは ブルターニュの海岸地域です。  ご回答をありがとうございます。  ★ 頑固な感じがよく出ていて、  ☆ あぁ いま分かった。あの口元がよくない印象をあたえているんです。つまり あからさまに言うと 骸骨の口のイメージがあると言えばあるのです。そうなんです。顎のかたちも そう連想させるのです。いま分かった。(アマエの発言)。  ★ ・・・しかしそうだとすれば、皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね。つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。  ☆ 《皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね》――もちろんです。欠損のないひとはいないでしょう。ウソ――というおのが心へのさからい〔なる負の善 つまり悪〕――は 誰もが持ち合わせています。  ★ つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。  ☆ まぁ 五十歩百歩ということでしょうけれど 人間はよくしたもので――あるいは逆にやっかいなもので―― その敵前逃亡としての差である五十歩について ああぢゃこうぢゃ持ち出して来てねちねちなじるもののようです。    慰安所において慰安婦を囲い込むのは 《百歩》に当たる。    やはりおまえたちがわるい。    だとしたら おれたちの《五十歩》をめくじら立てて批難するのは   盗人たけだけしいというものだ。    おまえたちは 何しろ負けたんだ。おれたちの言うとおりにせよ。  ということで 《大して責められる問題》であるか無いか? どうなんでしょうね。  もうひとつは たとえ《悪はどこにでも転がっている》のだとしても その悪を侵したつど《反省する》ということが大事です。  そしてこの反省は 人間が二人や三人あつまって一体となって 同じひとつの意志行為をおこなったとは見なされないのであって 反省したり責任を負ったりすることは あくまでひとつの自由意志が主体であり単位である。というかたちになっていると思います。  ★ ~~~~  ・・・例えば私なんかはあらかじめ気を遣って、相手がかわすという労力をとらないでも済むように、話を持っていきますけれどもね。そういう配慮はなさらないということで、これは、ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。  ~~~~~~   ☆ 気軽な対話の流儀にたちまち慣れて来て 今回もそうしますが:  わたしは 《そこまでの配慮》は考えておらず 手間暇はかけないですね。それにくらべ たいへんな作業ではないですか? ご苦労が多いのですね。  さてわたしの対話の姿勢は ぶっきらぼうであって それは  ★ ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。  ☆ ええ。はっきり言って ぶっきらぼうであり そうありつづけることが たぶんアマエなのだと思います。そう自認します。  つまりは――ここで《逆襲》することになりますが―― 相手にパスする機会とパスしてもあとで抗弁しうる理由をあたえている。ということにもなります。この場合は アマエの効用といった側面もあるようです。どうでしょう?  次のお話は 少々《気軽》過ぎた結果反応なさったものと思います。  ★ ~~~~~~  しかしそれはさておき面白いと思ったことがあります。一年も二年も考えてから返事する。これは普通、できません。むしろ「またいつか=もう終わり」という言い回しと同じ意味だと言えそうです。しかしそうすると沈黙もコミュニケーションの延長にあるということになってしまいます。これはそういう意味で言っているのでしょうか。だとすれば、真面目な話、これはなかなか面白いと感じました。そしてこのように考えれば、断絶もまたコミュニケーションの一形態として納得できるようにも思えます。  ~~~~~~~~  ☆ つまり舌足らずの部分を埋めるとすれば 《その頃には忘れているかも知れないが 一年ないし二年 答えるための時間をあたえたまえ》と言えばよいと思います。  あるいはもっと簡単に こうです。《あなた(=ぶらじゅろんぬ)の問いかけには 正面から答えにくい。わたし(=話し相手)は自分の持論をやすやすと手放すわけには行かない。いまは 見解の相違としてくれたまえ。つまり 見解の相違ということで 互いに意見の一致を見たと》と言えばよいわけです。  つまり 《断絶》にはならないわけです。  ★ ~~~~~~    >それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。  そういうのを望んでいる人はいるかもしれませんが、私は特にその方が良いとは言ってはいないつもりです。いまのままでよろしいのではないでしょうか。ただし短いと、全体像を把握するのが容易にはなりますよね。TPOがあるような気がします。細かい話をするべき場面なのか、全体像を伝えるべき場面なのか。それによりけりではないでしょうか。  ~~~~~~~~~  ☆ 了解しました。あらためて あたらしい別の観点などを模索してみます。(そうは変わらないと思いますが)。  

noname#180711
noname#180711
回答No.10

 お礼ありがとうございます。善の問題は、どうでしょうねえ。主観に関わる問題で、顔をあらかめるような恥がきっとあるはずだとおっしゃるのですよね。まだ具体的に納得できたわけではないのですが、それはそれとして承っておくことにしたいと思います。納得できたわけではないというのは、客観的な意味での善を考える必要があると思うからです。しかしこれは主題とはそれますので、一旦横においてよいと思うのです。  猫様のお礼欄を見ましたが、結構、ぶらじゅろんぬさんは齟齬が多いのですね。閻魔帳と言うべきか、不和になったユーザーのイニシャルを列挙されたあたりは驚きました。私の個人的な意見ですが、ぶらじゅろんぬさんの会話の間合いはかなり特殊だと思います。だから、慣れない人にとっては、うまくいかないこともあるでしょう。私の感じているのは、次のものです。  ・一回一回のやり取りが、長い。  ・しかもそれが延々と続く。  ・他人の質問欄で、質問者の意図をそれても構わずに自分の論点をぶつけてくる。  ・既に議論したことがあるという前提条件が多い。  まあ、私も似たところはありますが、自分のことを棚に上げて言いますと、受け止めるのが難しいところがあると言えますねえ。何か疲れちゃうのと、振り回されちゃうと思う人がいるんじゃないかなと思います。そういう時に一般的にはどうするかと言えば、  ・冗談でごまかす、  ・話をそらす、  ・適当に逃げる、  ・全くお前は間違っていると言い放って逃げる、 というようなことにならざるをえないかなあと予想します。  これが対話を放棄したと言えば、そうなんでしょうが、仕方ないことでもあるように思うのですよ。私は自分の恋人との喧嘩を例に出しましたが、案外、ぶらじゅろんぬさんもシザーハンズなのかもしれないなと思っています。はさみでジョキジョキ来られても、傷つかない鋼鉄の体を持っている人を相手にすると、まあよいのかもしれません。逆に、良いところもぶらじゅろんぬさんにはあって、  ・根気がある、  ・いろいろと調べてくれる、  ・何を投げてもお礼が返ってくるという安心感がある、 というところでしょうか。にゅーとらるさんなどは、そういうところを頼りにしているという意味で、「甘えて」いるのだろうなあ、と私は感じましたね。  まあ、相性というものを無視して考えることはできないのじゃないかと思います。今回は普遍的な話はさておいて、個別のことに反応してみました。こういうところも大切かと思いましたので。

bragelonne
質問者

お礼

 写真の顔が変わりましたね。  でぃくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  気軽にお応えしてまいります。  ★ 善の問題は、どうでしょうねえ。主観に関わる問題で、顔をあらかめるような恥がきっとあるはずだとおっしゃるのですよね。・・・  ☆ 裏返せば 《善の真髄といったような正義》はないという見方です。(むろん これも主観としての――あるいは信仰としての――《義》はありえましょうが。つまり神と同じように想定としてあり得ましょうが)。  あるいはつまり 《存在・生きること・ともに生きること・いのち》 これが 人びとにとっての最大公約数としての善であるかも知れません。その余のすべての善は この《生きる》という善から派生するとすら考えられると思います。    ぶらじゅろんぬ論:  ★ ・他人の質問欄で、質問者の意図をそれても構わずに自分の論点をぶつけてくる。  ☆ これは その質問者が パスすることが出来ます。コミュニケーションの問題にはならずにだと思います。その自由度は 質問者にあるのではないかと。  ★ ・既に議論したことがあるという前提条件が多い。  ☆ まぁ これは 仕方がないかも知れません。最初のころは そういう言い方はしなかったわけですし いまではだいたいふつうにそういう触れ方になると思いますから。  ★ ~~~~~  ・一回一回のやり取りが、長い。  ・しかもそれが延々と続く。  ~~~~~~~  ☆ これは そうですね。その一回のぶんで できるだけ議論を完結させておこうと思うと そう成らざるを得ないのではないかと思うのです。  それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。  ★ ~~~~~  受け止めるのが難しいところがあると言えますねえ。何か疲れちゃうのと、振り回されちゃうと思う人がいるんじゃないかなと思います。そういう時に一般的にはどうするかと言えば、   ・冗談でごまかす、   ・話をそらす、   ・適当に逃げる、   ・全くお前は間違っていると言い放って逃げる、  というようなことにならざるをえないかなあと予想します。  ~~~~~~~  ☆ この問題はかんたんです。  たとえば 《ちょっとタンマ》と言えばよいわけです。あるいは 《パスします》と。《一日か二日 あるいは 一年か二年の考える時間をくれ》でもよいわけです。  と思います。  気軽に流すかたちにて。

  • kurinal
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回答No.9

こんにちは。 >「欲しいまま」 そうですね

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  《自由》にとってその制限や限界は その自由という中身そのものだと考えられます。  いのちをとうとぶことは   ★☆ >「欲しいまま」  ☆ というほど自由です。つまり それは 互いに相手のいのちないし自由をとうとんでいることだと考えられます。  もし限界があると見られるところにおいてもそれは 自由が自由であることを問い求めていることにほかならないと考えられます。

  • kurinal
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回答No.8

B様、おはようございます。 >「ですから この問題では――この問題でも―― 自由にも限界があるとは見ないのがふつうだと考えます。」 >「《悪との共生》は そもそも《自由》の中身そのものだということです。別に自由に限界があると見て 人それぞれの互いの平等を言うのではないわけです。  平等であることが そもそも自由だという意味にほかなりません。」 なるほど、「自由」にも二種類あるようです。 「限界が無い自由」・・・いつ何時、咎められるか判らない、「悪」? 「限界を前提とした自由」・・・仰る「悪との共生」も、ここに入って来ましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん あらためましておはようございます。ご回答をありがとうございます。  ★ なるほど、「自由」にも二種類あるようです。  ☆ 微妙ですが たぶんそうではないはずです。  二種類あるとすれば それは   自由意志が意志するその内容に    (あ) 妥当性があると考えられ どこまででもそのことを欲し求めてもよいこと       ・たとえば ひとの病気を直すこと。   (い) 妥当性が疑われ そのことの実行は考慮が必要となる場合       ・ひとのからだや心を傷つけようとすること。       (心は外からのチカラで傷つくことはありませんが       誹謗中傷によって一時的にでも社会生命を殺がれること       があり得ますから そういった迷惑をこうむること)。  です。  そこで まづ  (1) その是非や当否などの妥当性を考えるというのは すでに実行された行為についてもおこなわれますがそれはすでに妥当性を疑っているわけですからそれとして措いておいて 事前に妥当性を考えるというのは 行為におよぶより前の思惟の内容についてです。  (2) この心の内面における思惟の内容については じつは どこまでも《自由》です。つまり 褒めたことではありませんが たとえ人殺しを思惟していてもそれは 自由だとされます。  (3) 問題は 特には 思惟の内容を実行に移すときに 相手がある場合です。つまり 自由は互いの同等の自由のことですから 相手の自由を侵す行為は 妥当性に欠けます。  (4) すなわち  ★ 「限界が無い自由」・・・いつ何時、咎められるか判らない、「悪」?  ☆ これは たとえ《悪》についてでも 内面において思惟するぶんには どこまでも自由だという自由です。  (5) そして  ★ 「限界を前提とした自由」・・・仰る「悪との共生」も、ここに入って来ましょうか。  ☆ これは もう少しげんみつに言わねばならなりませんでした。     (6) すなわち (い)の《自由意志が意志したことの中で 妥当性に欠ける思惟かつ行為》には 《思惟および行為》についてのみ《制限が加えられる または 限界を前提としている》ことになります。  (7) 言いかえると 《自由意志の主体である人間 つまり 思惟および行為に対しては存在》 これについては 《自由》がどこまでもよきものとして唱えられます。つまり限界が無い自由を 人間とその存在――あるいはつまり 生きることないし生命――は 言わば欲しいままにします。いのちは どこまでも人は享受してよいとなっています。  (8) 《悪との共生》は げんみつに言えば 《悪なる思惟や行動との共生》ではなく――結果的にそうならざるを得ないことは現象としてありえますが そのことを目指してはおらず そうではなく―― 《悪なる思惟や行動をおこなうその人間・その存在そのものとの共生》を言います。  (9) 《わるい考えやおこない》とは すすんで共生することはない。これは 自由なる理念の内容そのものです。  同時に 《わるいことをする人間》とは 同じ生命存在として 基本的にどこまでも共生する。これも 自由なる理念の内容そのものです。  (10) こう考えるなら 思考の過程で《限界を置く・置かない》があったかも知れませんが それは誰もにとって共通の考え方を模索する上でそのような経過をたどったということであって 基本的に理論としては 《自由》に制限や限界をもうけているわけではない。こう考えます。  詭弁ではないと思うのですが どうでしょう。

  • kurinal
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回答No.7

「正体見たり、枯れススキ」 自由にも限界があります。 「自由には、限界は無い」というほうが、むしろ「悪」となります。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 「正体見たり、枯れススキ」  ☆ どういう《正体》ですか?  どこが それですか?  ★ 自由にも限界があります。  ☆ 《限界のないこと》を自由と言います。  ★ 「自由には、限界は無い」というほうが、むしろ「悪」となります。  ☆ というように ひとつの命題のその上へ・そしてまたその上へと――自分ひとりとしても相手との問答としても――限界をつねにそのつど越えて 表現し規定していくことが出来ます。これは 《自由》の問題です。  つまり 自由の問題でないならば その命題の中身の妥当性いかんによってそれぞれの命題がいちおうその是非や当否が判定され もうその先へは進めません。   自由はただしい。いやマチガイでありうる。   自由はつよい。いや やはり実際にはよわいものだ。   自由は よい。いやいや そういう自由は ほんとうの自由ではないかも知れない。   ・・・・・  自由にかかわる命題は その最終的な当否や是非が判定されがたい。もしくは判定されても さらにそのつどその判定をも乗り越えて先へ進み得る。これが 《自由》です。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ここで  ★ 自由にも限界があります。  ☆ という意味は 悪との共生が必然となるから 悪に対する限界のない自由はない。こういう意味でしょうか?  すなわち言いかえると:  ☆☆ (趣旨説明欄) (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば   ☆ というときの《麦と毒麦との共生》 これは実際には自由に限界があることを意味するのではないかと。  そういう見方はしようと思えば出来ますが 《自由》ということについては 別の見方があります。そしてこちらのほうが 基本だと考えます。  すなわち 自由ということは わたしの自由が けっきょくきみの自由であり あの人の自由でもあるということであり――そしてそれが 平等という理念のことですが―― このように《自由》は 人それぞれに同等な理念であって 人は互いに対等であるという含みをすでに初めに持っています。  すなわち 毒麦とて人であるからには 麦なる人と その自由において・あるいはつまりその存在において 対等であり平等であるとなります。  すなわちここから 《麦と毒麦との共生》なる命題がみちびかれます。  言いかえると 《悪との共生》は そもそも《自由》の中身そのものだということです。別に自由に限界があると見て 人それぞれの互いの平等を言うのではないわけです。  平等であることが そもそも自由だという意味にほかなりません。  ですから この問題では――この問題でも―― 自由にも限界があるとは見ないのがふつうだと考えます。

回答No.6
bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html  この嘗ての質問でやり取りしていることがらは 今回の質問にとってたたき台のような内容を持つかと思います。  いまの問い求めは 個人の具体的な経験が大きく色濃くかかわっていると思うのですが 出来るだけ一般的な捉え方をした場合の見方考え方を なるべくたたき台になるように随意に拾ってみます。  ○ (【Q:麦と毒麦・・・】No.14お礼欄) 1. 悪魔(* 仮象ですが)に人間が素手で立ち向かっても勝ち目はない。なぜなら 相手は空気のような存在なのだから。  ○ (同上No.13お礼欄) 悪魔とは 神のごとくあらんとする限りにおいて(* すなわちいかなるもの下にも立つまいと決めた《精神》(?)である限りで) その善の要素も悪の要素も 人に対して見せるそのわざとしては 自由自在にあやつり得て如何ようにも見せることができるまぼろしである。  ○ (同上同箇所) 〔悪魔は〕おそらく《存在》ではないでしょう。存在ではなくなるのだと考えます。空気のような存在です。わづかにありとあらゆる人間存在をそのたましいにかんして凹ませ沈ませ 自分と同じように無となるようにいざなう。たましいの死者が出ればよろこぶ。そんな空中の権能だと思います。  ○ (No.9お礼欄) ▲(精確ではありませんが) 悪魔は歳を取っていて 老獪である。こちらが押していると思っていても じつは押されているということがある。(たぶんM.ヱーバーの言葉)  ○ (No.8お礼欄) ~~~~~~   ・・・   わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。  (* この《存在》は 仮象・現象として採ってください。まぼろしでありながら 《存在》をよそおうことができる。たしかに 何がしかのチカラがある。それはあたかも ふつうの人間がかつてウソ・イツワリを欲しいままにしたことの反動が 世代を経て歴史を経てまだなお名残りとしてただよっているかのごとくに。ルサンチマンと捉えこれを貶め蔑むほどに このまぼろしのアクマ・シンドロームなる反動はさらになお息の長い延長戦のごとくつづくものなのだろうか)。   それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。   さらに言いかえると 死そのものです。   ・・・   ~~~~~~~~~~~~~  ○ (No.4お礼欄) ~~~~~  〔* 毒麦としての〕類型である《ひとを次から次へと貶めようとするたかぶりのたましい》は 〔* 言わば親分としての〕《悪魔》の類型なるたましいにかしづくその家来としての《悪鬼》と呼ぶとよいかも知れません。  《悪魔》は デビル=ディアーブル(サタン)であり 《悪鬼》はデーモンです。  (* 文章を少し修正しました)。  ~~~~~~~~~~~~    ○ (No.6お礼欄)  ~~~~~  違いは 悪魔はすでに死んでいる。もしくは その生を死から始めている。〔* という想定である〕。  悪鬼らは その否定の精神に拠ろうとするけれど まだふつうに生きている部分をも持ち合わせている。〔* 悪魔の決してしない反省をおこなうことができる〕。  ~~~~~~~~~~~~  ○ (No.2お礼欄) ▲ でも驚くにはあたりません。悪魔も光の天使をよそおうのです。(パウロ)

回答No.5

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ ○ 生まれつき《毒麦》として世に出て来て そのように生き切る。こういう人間はいるか? ◇ 生まれつき《毒麦》として世に出ることはない、と思います。  犯罪者家系として名高いジューク家、カリカック家の家系があることはありますが。。。  日本語サイトにはロクなものがなかったので、英語版Wikipediaのリンク先を以下に記します。 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Jukes_family http://en.wikipedia.org/wiki/Kallikaks  例の《サイコパス》についても、まったくの脳の先天的機能異常とは考えにくいです。遺伝的な要因をまったく否定することはできないけれど、 それよりは育った環境などの環境的要因がその人格形成に大きな影響を与えている と思います。  サイコパスについては、《共感》を司る脳の活動性の低さは指摘されているようですが、脳の共感機能をまったく有していないというわけではないので、「その発達課程に起因している」と考えるのが、自然であると思います。  つまり、生まれついての《毒麦》はいない、ということになるかと思います。 ~~~~~~~~~   ○ ヒトの中には 絶対に分かり合えないヒトがいる可能性が高い。  こういうことなのでしょうか? つまり《悪人》とは言わずとも 《コミュニケーション不全》は 現実にありうる。のだから それはあきらめよという答えなのか? ~~~~~~~~~ う~ん、現実を見ると、YES。《バカの壁》は確かに存在する。これは認めざるを得ない。 しかし、その《バカの壁》の高さが乗り越えられないほどの高さかどうかは、実際に話し合ってみなければわからない。ひょっとしたら乗り越えられる高さかもわからない。だから、コミュニケーションは重要である。 少しずるいですけれども、こういうところで(ポリポリ)。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ところで、Wikipediaのサイコバス・精神病質に、 ──────────── エミール・クレペリンによるとサイコパスのひとつに「空想虚言者」という類型がある。 1. 【想像力が異常に旺盛で、空想を現実よりも優先する】 一見才能があり博学で、地理・歴史・技術・医学など、何くれとなく通じていて話題が豊富であるが、よく調べるとその知識は他人の話からの寄せ集めである。 2.【弁舌が淀みなく、当意即妙の応答がうまい】  好んで難解な外来語や人を脅かす言説をなす。 3.【人の心を操り、人気を集め、注目を浴びることに長けている】  自己中心の空想に陶酔して、他人の批判を許さない。 自ら嘘をついて、いつのまにかその嘘を自分でも信じ込んでしまうのである。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA ──────────── がありまして、 ネコめは、「そうか、オレはサイコパスだったのか」とおもわず苦笑!! お後がよろしいようで(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ますますむつかしくなって来ましたね。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  サイコパス。その他もろもろ。この主題については専門家と同じようにくわしいひとがいるのですけれどね。  ◇ つまり、生まれついての《毒麦》はいない、ということになるかと思います。  ☆ これは うっかりしていました。  ◇ サイコパスについては、《共感》を司る脳の活動性の低さは指摘されているようですが、脳の共感機能をまったく有していないというわけではないので、「その発達課程に起因している」と考えるのが、自然であると思います。  ◇ 犯罪者家系として名高いジューク家、カリカック家の家系があることはありますが。。。  ☆ こういうのも知りませんでした。テレビドラマにもなるようなのですかね。  ◇ ~~~~~  う~ん、現実を見ると、YES。《バカの壁》は確かに存在する。これは認めざるを得ない。  しかし、その《バカの壁》の高さが乗り越えられないほどの高さかどうかは、実際に話し合ってみなければわからない。ひょっとしたら乗り越えられる高さかもわからない。だから、コミュニケーションは重要である。  少しずるいですけれども、こういうところで(ポリポリ)。  ~~~~~~~  ☆ これは コミュニケーションが重要である点に留意しておきます。    この場でのコミュニケーション不全の事例を――こちら側からだけの説明になりますが―― さらけ出しておこうかと考えました。資料となるかどうかは分かりません。わたし自身の覚え書きとしてこの場を借りてしるします。  A1さん: わたしの説明を別の意味に解しつづけそれをとおした。二十回ほどその押し問答を繰り返して 《自分(A1さん)は あなた(ぶらじゅろんぬ)が言うように政治家に向いているようだから そうしてみる》と言って来なくなった。わたしはこの人に政治の話を持ちかけたことなど一回もないのに。  S1さん: いくらかのやり取りの末わたしが結論らしき見解を出したとき この人は《やっぱりわたし(S1さん)の言った通りになったね》と言い いったいどうした?と尋ね返すと 《またいつでもわたし(S1さん)のアドバイスを聞いてみてください》と言い放ったきり やり取りは途絶えた。  F1さん: 言語学のことでやり取りをした。この人の提出する話題や見解についてわたしは 自分の考えを述べた。そんなやり取りがつづき ところでわたしの見方についてはどうですかと尋ねてもお茶を濁すのみ。なんで?と問うと 先送りするようなことを答えて もう来なくなった。  N1さん: 最初のころわたしが要領が分からなかったとき 何のかんの言う投稿をして来た。回答ではないので衝突した。コミュニケーション不全だという意味のことを言ってやったら そのことをわびて撤回せよと言う。それが出来ないなら ゆるさないと言う。これを繰り返して 不通となった。  K1さん: キリスト教の具体的なありさまについて非難する。教会制度における欠陥などはわたしもむしろ同じく述べている。ただ神の概念が 違っている。いくら指摘しても聞く耳を持たない。百回くらいその押し問答をおこなった。  I1さん: ズラシの名人。いくら妥当なことをこちらが言っても 自分の考えがマチガイだったということになるなら 絶対に引かない。微妙に論点をズラしてどこまでも攻撃してくる。これをわたしはヒキコモリではなく押し籠もりだと命名した。  C1さん: アマテラス公民圏‐スサノヲ市民社会から成る二階建て構造を どうしてもみとめない。アマテラシテ(=象徴つまり天皇)についてはしゃべらない。武士が台頭した封建制度の社会で このアマテラシテからは自由な国の体制が出来た。これを現代にも受け継いでいると言い張る。  M1さん: C1さんの賛同者。  H1さん: 支離滅裂。

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     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 善にも悪にも交じれない

    私は善にも悪にも交じれないと感じます。 優しくて素敵な人と知り合うチャンスもありました。しかしいつまでたっても対等になれず、一緒にいれて嬉しいのに、苦しいのです。相手の心の美しさが、自分の邪心を際立たせたり、その方の潔癖さに心の中でたじろいでしまうのです。その人の優しさや純真さや潔癖さに触れる度に、仮面を被ってしか一緒にいられない罪悪感やむなしさを感じます。 かと言って悪口を言ったりいじめや悪事を働くことに罪悪感を感じない、それを楽しむような人と一緒にいても苦しく、恐怖を感じます。 そんなことはしたくない、そんなことをして喜びを感じる人間になりたくないという思いが強いです。しかし、妬みや嫉みという感情は大いに理解でき、それを持ってしまうのが人間だという思いも持ってしまいます。 この優柔不断さが自分でも嫌でクリスチャンの友人に話すのですが、善と悪を選択出来ない者は両方に引っ張られてボロボロになる、賢い人と歩めと言われました。 善にも悪にもなれない、中立にいるような人間は結局は一番の悪なのでしょうか。 戦いも主張もしない傍観者は一番の卑怯者なのでしょうか。 両方の考えに感化されて、自分の本当の気持ちもよくわからくなりました。

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

     次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。