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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。)

善悪の存在とコミュニケーションについての考察

このQ&Aのポイント
  • 善悪の存在について問いたい。神を見た人や神と話した人は存在するのか。善悪の定義や区別は人間どうしで共有できるのか。
  • 善とは人間の共生を保ち守ることであり、その善が健康であることやコミュニケーション能力を持つことによって成り立つ。悪は善を傷つけることやコミュニケーションを閉鎖する行為と捉えることができる。
  • コミュニケーションが堂々巡りになり、同じことの繰り返しになる場合は実質的にコミュニケーションの鎖国政策と見なせる。ブロックすることも対話を閉鎖していると言える。神を見たことや神と話したことを前提としつつ話を進める場合は難儀なことがある。

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noname#137337
noname#137337
回答No.12

こんにちは。 社会の善悪を書き飛ばします。 人が社会的な生き物であるとはいえ、社会的であろうとする仕組みが人体内にあるなら、細菌類に善玉と悪玉があるように、社会菌にも善玉と悪玉があり、社会や社会人や社会観にも、悪性の悪玉のと良性の善玉のとその中間の中間のもありそうで、中間はめんどくさいから置いて、 善い社会と、悪い社会とでは、人々の持つ善悪観や社会観や期待される人間観が異なります。 善い社会(や善い社会観を持つ人)にあっては、社会の側が人間や自然に適応し、ありのままの自然や人間に合わせて変化するものですが、 悪い社会(あるいは悪しき社会観の持ち主ら)においては、自然や人間を社会に適応させようとし、既存する社会の仕組みに合わせて人間を剪定し、教育し、判断します。 善い社会は他の社会にたいしてそれらをそのままで放置しますが、悪い社会は他の社会をこちらの都合に即して変化づけようと働きかけます。過干渉です。お節介。変態を強いる破壊的なもの。変態。変態強制。歪めねじまげ。過開発。変節強迫。変哲。変。 他者や他社会に過干渉な、悪い社会やその中の悪い社会人(善悪観や社会観が洗脳されている)は、せっせと自他を自らの社会に適応させようとし、そうすることを善しとし、干渉が増長します。適応を強いられ過適応状態のよい子な悪玉人間なんかが、なんか変だなと感じると鬱などをわずらうか引きこもるなどしてストップします。自宅や、トイレや、河原や、病院や相談サイトの哲学カテゴリーなどに入り浸り、そこでひとりストップしているのをよそに、元気な悪玉社会人たちは活動を続け、口頭やメディアや行為自体によって互いに洗脳しながら悪玉社会観を唯一の営み方として持続し、悪性の破壊的な過干渉活動を社会の活力とか呼んで、充実した人生を活き活きと歩みます。当たり前のことを当たり前にひたむきにせっせと悪玉社会人生を全うしていきます。 ストップしている病人たちは、うんざりしながら自分もはやく治って元気な悪玉社会人みたいにならないと巣作り子作り繁殖できないと思い、悲しくあんまりやる気の出ないまま就職活動したりします。 ひるがえって善い社会や善い社会人というか人は、属する社会が自然や人間に適うよう社会のしくみを微調整します。自他が自他のありのままを認めますから、他の社会や人などから脅かされませんし、認めてもらうために過度な労苦が要りません、つまり恋人ができやすく、そして各々や関係方法に微妙な美が前提として期待されます。健やかすぎて病人がえらく際立ち、仕事がわりと地味でひまです。人が社会に属するのではなく社会が自然環境や人に従属します。

bragelonne
質問者

お礼

 ははんははんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  精神分析関係のご議論では わたしから見てあぶなっかしいと思うところが散見されましたが 人間および社会を捉える基礎の視点も手堅くまた分析の視点も ひじょうにうまいところを突いておられる。まづは こう思いました。  ★ 善い社会(や善い社会観を持つ人)にあっては、社会の側が人間や自然に適応し、ありのままの自然や人間に合わせて変化するものですが・・・  ★ ひるがえって善い社会や善い社会人というか人は、属する社会が自然や人間に適うよう社会のしくみを微調整します。自他が自他のありのままを認めます・・・  ☆ うならせるものがあると思います。     社会的な次元における善悪観として 抽象的にしてしかも現実的ではないかと思いました。人が主人公だという原則だと思います。これに傷をつけひびを入れる思いとおこないは 悪であると。  ただし どうでしょう このあと いわゆる現実主義の考え方にも向かって行っているように見えます。  わたくしから見てそれは 理論ないし哲学における世界現実の理論的な整理としては 物分かりのよさのほうに片向いたかに思われます。そのほうが 理論的であり哲学としての現実性をしめしているのだとおっしゃるかも分かりません。  いわく:  ★ 人が社会的な生き物であるとはいえ、社会的であろうとする仕組みが人体内にあるなら、細菌類に善玉と悪玉があるように、社会菌にも善玉と悪玉があり  ☆ 微妙な物言いを 質問者ながら 提出しますが こうです。  1. 《人が主人公である》という原則にもとづき行動するならば ひとつには 悪玉人間のその悪行について 理由を添えて批判します。  2. もうひとつには その悪としての行為をも――たしかに善玉菌と悪玉菌との併存のもとに人体がすこやかであるというかぎりでその類似において――原則の実現のために活用しようとします。  3. そのような努力の結果 たとえば原則にしたがう人びとが 社会の三分の一で これに共感する(ただし浮動している)人びとが 三分の一 そして残りは 悪玉菌のままの場合だという情況になったということと そしてそうではなく 原則をかかげつつも 初めに《社会菌にも善玉と悪玉があり》という状態をそのまま認めることとは 別だと考えます。  ★ ~~~~~  (あ) ひるがえって善い社会や善い社会人というか人は、属する社会が自然や人間に適うよう社会のしくみを微調整します。  (い) 自他が自他のありのままを認めますから、  (う) 他の社会や人などから脅かされませんし、  (え) 認めてもらうために過度な労苦が要りません、  (お) つまり恋人ができやすく、  (か) そして各々や関係方法に微妙な美が前提として期待されます。  (き) 健やかすぎて病人がえらく際立ち、仕事がわりと地味でひまです。  (く) 人が社会に属するのではなく社会が自然環境や人に従属します。  ~~~~~~~~  ☆ まづ (か)の《美》については 《各々や関係方法に前提として期待される》《微妙な美》が現われるということですが 一見すると そうではなく 《社会のそれぞれの場において社会のほうが それぞれの人に美の感覚についても合わせるようになる》とも推測されますが ここはよくは分かりません。  たぶん それほど深堀して展開すべきことでもないと返されるかも分かりませんが はっきりしませんでしたとお伝えします。  (き)は どうでしょうか。反措定を出しておきます。  (き‐a ) 仕事が休みとの区別がついていて わりとめりはりのある仕事ぶりになります。  (き‐b) 健やか人間が増えて おそらくいまの病人の半数は或る日或る時何を思い立ったか 忽然と起きあがって 自由な生活を享受するようになる。  ★ ストップしている病人たちは、うんざりしながら自分もはやく治って元気な悪玉社会人みたいにならないと巣作り子作り繁殖できないと思い、悲しくあんまりやる気の出ないまま就職活動したりします。  ☆ これは 《原則にのっとるふつうに良い社会》とは別に 《善い人間と悪い人間とがそのまま併存する善い社会》のナラワシにのっとった見方であろうと考えます。  人間についてもしストップ状態が起こるとしたら その活動のストップ状態についての分析は するどいと思いました。借用したいほどです。

その他の回答 (11)

  • hekiyu
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回答No.11

こんにちわ。 これはどうでしょう? 人間は単体では生きていけない、というのを通り越して 単体では人間足り得ない。人間になることは出来ない。 人間は人間社会の中にあって初めて人間となる。 狼に育てられた人間は、二足歩行も出来ないただの動物。 人間はこのように創られている。 だから、人間は社会を構成しその一員となる ことを前提として創られている。 そうプログラムされている。 このように、人間と社会とは密接不可分の関係にある。 社会は人間がつくるものだが、人間も社会あっての人間である。 社会は人間存在にとって必要不可欠である。 その社会は、人間相互の協力を必須とする。 故に、協力は人間存在についての「基本的善」である。 bragelonne さんの、心、てのは、この協力しようとする心であり 善であるが、これを傷つけるのが悪。 ☆「何で助け合わなければならないのだよ? とか 協力ったって やりたいヤツが勝手にやればいいぢゃないか? とか言ってくるのではないか」  ↑ そんな訳で、私のいう協力、てのはこの問題とは次元が異なると思います。 もっと人間存在にとって基本的な協力。 そうなると、あれですかね。 端的に、人間存在にとってプラスになるものを善とすれば 良いのかな・・・? あまり哲学的でないですね。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回も――正直にもうせば―― お行儀がよすぎるというように感じました。すみません。はっきりものを言う性格です。  ★ ~~~~  人間は単体では生きていけない、というのを通り越して  単体では人間足り得ない。人間になることは出来ない。  人間は人間社会の中にあって初めて人間となる。  狼に育てられた人間は、二足歩行も出来ないただの動物。  ~~~~~~~  ☆ おそらくいぢわるの虫を身中長く飼っている向きにとっては 一たん人間になったあとの社会における人間の――助け合いといったことをめぐっての――あり方を問題にしているのだと反論してくるでしょうね。  つまりいちばん酷い事例を挙げてみるなら:  ○ 自分のしりぬぐいは しっかりと自分でするものだ。もしそれも出来ない人間であれば この社会の中にふつうに生きることは出来ない。われわれにも血がかよっているので おなさけをめぐんでやるが つまり食べるために何がしかの援助を惜しまないという姿勢でいるにはいるが それでも山の中にでも閉じこもってひとり生きていけ。  ☆ こんな宣告を出して来るでしょうね。  つまり:  ○ なるほど あんたの言うように  ★ ~~~~~~  人間と社会とは密接不可分の関係にある。  社会は人間がつくるものだが、人間も社会あっての人間である。  社会は人間存在にとって必要不可欠である。  その社会は、人間相互の協力を必須とする。  ~~~~~~~  ○ というのは 当たっている。正解である。だが それも 他人に頼るのみであるような人間には その協力を最小限にとどめてしかるべきだ。山の中に入って 修行でもして来い。  ☆ こうなると  ★ 故に、協力は人間存在についての「基本的善」である。  ☆ というときの《基本的善》は 人によって・人に応じて 享受することができるのだ 格差はあってしかるべきなのだ とほこらかに宣言するでしょうね。  でも 基本的善とその損傷としての悪 この概念づけは 認められたみたいです。しかも 社会的な次元において。  どうなんですかねぇ。  いちおうこれでよいと考えることもできましょうし いやまださらにその先を一歩すすめておければなおよいと考え得ましょうし。  これは 質問者も分からなくなって来ました。一歩すすめるべきその先は それがあるとしたなら 何でしょう。  みなさんからも ご見解をつのることにしたいと思います。ううーん。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.10

bragelonneさんの考えが解ったような気がします。 人間には言語能力が予め備わっている、という 説があります。 これと同じように、助け合って生きて 行かねばならない人間には、お互いに協力する ていう能力が、予め備わっているのではないか。 お互いに協力する為には、言語があった方が 便利だ。 互いに尊重し合うことも、協力の前提だ。 善とはそういうことだ。 このような理解でよろしいでしょうか。 質問者さんに質問、するてのも変な感じですが ご容赦願います。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。手放しで おおっ!と応じたいところですが わたしにはいぢわるの虫が起きて来ます。  その虫をへきゆさんのご見解に対して仕向けるというのではなく そうではなく いま問い求めて来た善悪観――特には 社会関係という次元におけるそれ――に対しては まだまだ風当たりがつよいと思うのです。  中には いぢわるな見方をする向きもあちこちに睨みを利かせているのではないか。  つまりそのような批判を先取りして 防御の網を張っておく必要を感じました。  つまり 今回のへきゆさんのご見解は そのような物陰からの批判の矢を考えると 上品すぎます。と思います。  それでなくとも 昨今は 《自己責任》という言葉が大手を振って歩いています。これは あらかじめ責任をすでに負ったかたちで念入りに行動せよといった意味かと思っていたら そうではなく 被害をこうむったからと言って それは自分の行動の結果であり自分の責任の範囲におさめるべきものだといった考え方なのだと知りました。つい最近知りました。つまり 早く言えば 自業自得だから自分たちだけで処理せよという風潮らしい。他人に頼るなと。  そんな世の中の動きを考えに入れると たとえば  ★ ~~~~  人間には言語能力が予め備わっている、という  説があります。  これと同じように、助け合って生きて  行かねばならない人間には、お互いに協力する  ていう能力が、予め備わっているのではないか。  ~~~~~~  ☆ というふうにいわゆる善意にもとづいて理論を立てるということには 慎重でなければならない。こう思ったというものです。  何で助け合わなければならないのだよ? とか 協力ったって やりたいヤツが勝手にやればいいぢゃないか? とか言ってくるのではないか。  そのような向きをも説得しうる理論は なにか?  そうですね。  ★ 人間には言語能力が予め備わっている、という説があります。  ☆ ここから出発するのは よいでしょうね。  次には 人は人 それぞれが多様性の中に存在しているといった前提を置きましょうか。  そうしますと 十人十色であるが 互いに《ことば》を使って 分かり合える部分がかなりある。  そうすると たとえば人のおこなった結果をほかの人間が背負わなければならないのはごめんだという場合にも そのことを言葉を使って伝えることになる。つまり話し合いが 大事である。  すなわち 人それぞれが自由に振る舞ったならその結果をその人が自分に引き受けることは当たり前だというかたちで 互いに社会にともに生きる。この共生をよいこととすれば そのために互いに話し合いをつうじて了解し合うことも大切である。  その意味では われわれはみな  ★ 助け合って生きて行かねばならない人間  ☆ である。さいわい しかもそのときには  ★ お互いに協力するていう能力が、予め備わっているのではないか。  ☆ と考えられるが どうか? とでも持ちかけるのでしょうか。  もう一歩すすめるなら  ★ ~~~~  互いに尊重し合うことも、協力の前提だ。  善とはそういうことだ。  ~~~~~~  ☆ どぢゃ? と話しかけましょうか。  どうでしょう? もしそれでよかろうということでしたら もっと現代人に合った言い方に直してくださるとありがたいです。

  • hekiyu
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回答No.9

○ ★ 善悪てのは人間社会の秩序維持の為に「後から」造られたものですから  ☆ この見方には 上の定義としては 反対するでしょうね。自然本性にそな     わった心としての善およびそれの対抗概念である悪を捉えています。 ○ 「 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうこ とは 負の善・すなわち名づけて悪である」 「たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷 行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろにな ったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても)。そういう共 通の感覚が観察される。  このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいは イツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本 性として人間に共通であると推し測られる」      ↑ ○おのれの心に逆らわないことが善・・ この「おのれの心」 てのは、自然本性として人間共通に備わっているもの という理解でよろしいでしょうか? もし、そうなら、次のような疑問が出てきます。 即ち、 ウソをつくと顔が赤くなったりするのは、そう教育されたからでは ないでしょうか。 産まれて、母親、父親、兄弟姉妹、友人・・などから記号、情報を受け入れ 人格が形成されて、フーコーの言う、パノプティコンができたからでは ないのでしょうか。 従って、自然本性とは言えないのではないでしょうか。 現代の脳科学では、脳はOSが入っているだけで、あとは白紙だ てことになっているようです。 人間の自然本性なら、狼に育てられた人間にも、この善悪の観念が存在する はずですが、現実にはこれは否定されております。 実際には二足歩行もできなかったと。 人間は、人間社会に育って、初めて人間になる、てのが構造主義の 帰結ではなかったかしら? 従って、人間の存在自体善とは言えないのではないでしょうか。 仮に、存在が善であるとしても、その存在を相手が認めることも即善とするのは 飛躍ではないでしょうか。 我想う故に我あり、から我の存在は疑いない、とするようなもので 疑いないのは「我想う」とする思考そのものではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ウソをつくと顔が赤くなったりするのは、そう教育されたからでは / ないでしょうか。  ☆ ここらあたりが 今回の焦点でしょうね。  ★ 人間の自然本性なら、狼に育てられた人間にも、この善悪の観念が存在する / はずですが、現実にはこれは否定されております。  ☆ ですから 自然本性は 潜在性としてあり 潜在的な力としてそなわっている。とみることには異論はないのではないでしょうか。  ですから いきなり反論するなら:  1. 生まれてから物ごころがつくころまでに得ることになる情報 それはおそらくまづは言語能力の開発と言語慣習への習熟といったことに役だっているのではないか。  2. 言いかえると おのれの発言の際にウソをつくかどうか つまりおのれの心に逆らうかどうか これは 受け取って来た情報の内容のいかんにかかわらず 成り立つことではないか。  3. すなわち 心に逆らってウソをつくときには 生まれつきの自然本性が潜在する状態から顕在するようになって 胸騒ぎをさせたり顔を赤らめさせたりする。のではないか。  4. 環境のあたえる情報のおよぼす影響よりも 身と心としてのおのれの自然本性としてそなわった力のほうが その影響に負けざるを得ないという判断を情況判断とともに下すこともあるほど 境地が上であるのではないか。  5. もしそうならば おのれの発言についてウソかどうかを判定する能力は 環境による情報注入など教育効果によってもたらされたというよりも 生まれつきの自然本性にそなわると見られるのではないか。  6. そうして このウソ・イツワリについての知覚による自動判定とも言い得るほどの能力は 自然本性であって この自然本性は 人びとに共通であると考えられる。共通感覚および共同主観が成り立つであろう。  7. この自然本性の能力にかんがみて 心にさからわず従うことを 善と呼んだ。逆らう場合を 負の善として悪と呼ぶ。――そしてその限りで 善の基礎としての人間存在 これをも善と見なす。そこから 社会的な関係性の次元について考えて行く。・・・  8. ★ 人間は、人間社会に育って、初めて人間になる、てのが構造主義の / 帰結ではなかったかしら?  ☆ おそらくその指摘によって示されるところは たとえば上の(4)の示す内容に対応していると考えられないか。   すなわち その中の《社会におこなわれているその慣わしもしくは行為形式に とりあえずにでも倣って従うことが当面の必然性であると考えられることがしばしばある》ということの判断を言っているのではないか。それに対しては 自然本性そのままに《おのれの心に従うか逆らうか》ということの判断のほうが 先行していると考えられるのではないか。  9. ★ ~~~~~~~~~  我想う故に我あり、から我の存在は疑いない、とするようなもので  疑いないのは「我想う」とする思考そのものではないでしょうか。  ~~~~~~~~~  ☆ そのコギトによりは 《あやまつ・あざむかれる( fallor )なら我れあり》――あやまちに気づくとき人は我れに還る その我れに存在がある――とする説のほうが 根源的であるように考えます。  【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html  その回答No.6に その詳細を書いています。あやまちに気づき我れに還るというとき人は 《われ考える》という行為を交えています。  一気に全部についてお応えできたかと思います。どうでしょう。

  • michael-m
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回答No.8

神は人の中に存在する、対面する相手を神と思えという教えがあります。別に新興宗教ではなく昔からの教育です。となれば私たちは常に神とあっていることになります。 神のように尊い存在にそんなに簡単に会えるわけ無い。心が清くなければ会えない。というのであればこの世に会ったと自称する者ほど嘘つきはいないでしょうね。そのものは自分は神に匹敵するほど心が清いと自慢しているわけですから。本当に心の清い人が自慢などするとは思えません。 つまり、「神を見た」というものの中には絶対的に神を見たものは居ない。逆に「神を見た」と言わない人の中に真に神を見たものが居ると思います。 善悪とは何でしょう 知人の自称“悪魔崇拝者”は「この世に絶対善は存在しない。善は時と場所と状況によって変化する相対善のみが存在する」と言いました。私も基本的のこれに賛同します。 人は神を直視する事は出来ません。「悪と言う名の現象があるのみ」であれば相対的に「神(善)という名の現象があるのみ」でしょう。 でも象徴的なものはアチコチで見れると思います。そのひとつが「太陽」です。 太陽は何も意図しません。タダ燃えているのみです。それを恵みと感じるか災いと感じるかは受ける私たちの主観です。 つまり、神は存在するけど存在するだけです。善も悪も含めて、それは私たちがどう受け止めるかにかかっているのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 みかえるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  勘違いをなさっているのでは?  ★ ~~~~  神は人の中に存在する、対面する相手を神と思えという教えがあります。別に新興宗教ではなく昔からの教育です。となれば私たちは常に神とあっていることになります。  ~~~~~  ☆ これは どんな人に対しても 自分に対するのと同じように向き合って その人と対話をしなさい。こういう教訓です。  たとえみすぼらしかったり自分よりも何らかのかたちで劣っていると見えたりしても まったく同じ人間であり 一人ひとりは掛け替えのない存在であり 自分とまったく同じなのだ。肝に銘じなさい。といったことを伝えようとすることわざです。  人を見下げたり蔑んだりしてはいけないと言うために 《神》を持ち出して話をつくっています。 こうだからと言って  ★ 私たちは常に神とあっていることになります。  ☆ などとほんとうになりますか?  ★ ~~~~~~  神のように尊い存在にそんなに簡単に会えるわけ無い。心が清くなければ会えない。というのであればこの世に会ったと自称する者ほど嘘つきはいないでしょうね。そのものは自分は神に匹敵するほど心が清いと自慢しているわけですから。本当に心の清い人が自慢などするとは思えません。  ~~~~~~~  ☆ そういう場合もありましょうが 一般に言葉として《われ神を見たり》と言う人は とうぜんのごとくその主観の内でそういうことが起きたと言っています。ただそれだけだと考えます。  そのとき ヒラメキ(インスピレーションないし直感および直観)の場合には あり得ると認めています。(No.1お礼欄)。  ただし 《見た》と言う場合は ヒラメキとは違うこともあります。一般に違っています。なぜなら 《直感》の場合と似ていますが この直感のときには人は何らかのイメージを得るものと思われます。つまり 神にかかわっている何かです。直観ともなると そのイメージ直感の中身が 或る程度分かってそれを言葉にして表わせるということになって来ます。  イメージ直感も預言のような直観も 基本的にいま扱っているのは インスピレーションに属するものです。つまり何らかのさま(様)またはかたちで 神とつながっているという場合です。  ところが《神を見た》という主観内面における体験は その《見た》というコトだけなのだと考えられます。なぜなら 何か混沌としていたとしても意味につながるものがあったとしたら それは イメージ直感や預言直観として捉えなければならない。つまりそれは《神を見た》とは言っておらず それとは別様の体験なのです。(一般に《見た》ではなく 《聞いた》という場合が多いでしょう)。  ★ 〔* 神と〕会ったと自称する者ほど嘘つきはいないでしょうね。  ☆ そういう場合もあるでしょうが 一般にはとにもかくにも《見た》という知覚体験なのでしょう。それはそれとして たとえまぼろしであったとしても 人に言いたい。ということ。そして おそらくこの《見た》体験は それだけなのだと考えます。まったくそれだけということです。《見た》ということ・見たと人に言いたいということ これだけのことだと考えます。  たしかに――別の視点からいまの文章を受けとめるなら―― わたしたちは 神を見るためには《心が清められねばならなかった》と言い得る主題はあります。《心のきよい人はさいわいだ。神を見る》ゆえ。  けれども これもそれも 言わば将来すべきこととして受け取るべきことでしょうね。いまは 言ってみればその予感がする。そういうことだと思っているとよいのだと考えます。  二つの段落を経て 基調は一変します。  ★ つまり、「神を見た」というものの中には絶対的に神を見たものは居ない。逆に「神を見た」と言わない人の中に真に神を見たものが居ると思います。  ☆ 質問者は すでに見解を述べました。神を見るという予感をいまは覚えることはある。その見神体験じたいは 将来すべきこととして臨む。いまは鏡をとおしておぼろに見ているとか言っていますね。  ★ 「この世に絶対善は存在しない。善は時と場所と状況によって変化する相対善のみが存在する」  ☆ このことはすでにこれまでのやり取りで 幾度も触れて来ています。あしからず。  ★ 人は神を直視する事は出来ません。「悪と言う名の現象があるのみ」であれば相対的に「神(善)という名の現象があるのみ」でしょう。  ☆ これは 意味が取りにくいですね。たぶん こうでしょう。すなわち《神は 人間の言葉では表わし得ない。ただ仮りの表現として――というのは ヒラメキは事実としてあると考えられるから そのときに《神》につながっていると感じられたその知覚を頼りに―― 言葉にしてみている。その仮りの表現としての現象があるのみ》と言いたいのでしょうか。  あとは 余韻を残しておきます。余韻でお応えをしたかたちになればよいと思います。どうでしょう。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

★共生と言えば たとえば生命のとうとさや 一人のひとの存在の掛け替えのな さということを含みます。それゆえに考えれば それは善であると言えるととも に ほぼ絶対の善です。それ以外に考えられませんから。 ↑ 絶対でしょうか? 自分で肯定しておいて何ですが。  掛け替えが無いのは人間だけに限らないし、必ず死ぬ人間の生命がそれほど尊いのか(死ぬから尊いという考えもあるでしょうが)という疑問も沸くところです。 そういうイデオロギーに侵されているだけ、そういうパラダイムに囚われているだけ という言い方はできないでしょうか。 神が死んだ現在(私は人間が殺したんだと思っていますが)絶対という言葉は使うな、という意味は解ります。 ただ私は、絶対を(1)例外が存在しないこと(2)相対的でないこと、の意味で使ったつもりでした。 ★ 善悪の彼岸なる存在というのは―― 無根拠なのである。 ↑ これはキリスト教文化圏最大の欠陥である、という人がいますね。 神そのものを根拠づけることは出来ないから。 新井白石もその趣旨の記録を残しています。 これに対して仏教では無が出発点ですから そういう理論的欠陥は無いわけです。 ★初めに規範があるから それに合わせて人びとは行動 しているというわけではない。 ↑ これはその通りだと思います。前に書いたように行為が先にあって、それを抑制、奨励する為に規範てのが造られたんでしょうから。 ★殺傷行為は 物理的には被害をへその曲がっていない人に対しても与 え得ますが その心を傷つけることはあり得ない。 ↑ ここがよく解りません。 殺傷行為の結果、心が変化した場合、心を傷つけたと言えませんか? ひどいことをされて、人生観や考え方が変わった、てようなことは無いでしょうか? ああそうか。それは自傷行為ということになるのんですね。 変えたのはあくまでも自分である、と。 ★ 殺傷行為は ひとつに話し合いをないがしろに しているという・善への反抗行為であり もうひとつにも 明らかなように共生 を阻み台無しにしてしまう行為である。よって定義によると 悪である。 ↑ 揚げ足をとるようですが。 充分に話し合いをしていれば殺傷してもそれは善になるのでしょうか。 共生の為に傷つける、ということは悪なのでしょうか。 ○ 善悪てのは人間社会の秩序維持の為に「後から」造られたものですから 秩序維持を超えて普遍的な意義づけをしようと するのがそもそも困難ではないでしょうか。 善悪の概念は、秩序と関係の無いことには無力となる可能性があります。 自分の庭の草を引き抜く行為は、社会秩序と関係ないので、善悪は無いのだ、 と考えることはできないでしょうか。 事実ウィトゲンシュタインなんかは善悪の定義づけは不可能としているようです。 だから神を持ち出す他ない訳で、しかしそれは異教徒には通用しないし、 神殺しをした人間にも通じない。 尚、日本の神道では善悪ではなく、清浄という概念を使っています。 清浄というのは、魂の存在や高揚をいいます。そして魂は万物に宿るとしています。 例えば、自分の庭の草を引き抜く行為は、草の魂を汚すので、 他の魂の為という正当な理由が無ければ不浄ということになり、 抑制すべきだ、になると思います。 勿体ない、というのは経済的効率性を謳ったものではなく、 魂が宿っているのだから粗末に扱うな、ということだと理解しています。 つまり、この清浄か否かは人間だけではなく、 動植物さらに無生物総てに通じる概念です。 その意味で、善悪よりも普遍的だと言えるでしょう。 これに対してキリスト教文化圏では、草などに魂は認めませんし、 人間は特別な存在で、他は総て人間の為に存在するのですから、 人間だけに通じる善悪という概念を導入せざるを得ず、 庭の草を引き抜くことが善か悪か、 と問われると困惑してしまうのです。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  大きな主題をあらためて提起なさったと考えます。  こういう場合には 一つひとつ個別に対処してその応えを積み上げて行くのがよいと思い そうします。    §1 善でも悪でもないものごと  簡単なように見えることから始めます。  ★ 自分の庭の草を引き抜く行為は、社会秩序と関係ないので、善悪は無いのだ、 / と考えることはできないでしょうか。  ☆ そういう場合はあると考えます。   ☆☆(No.2お礼欄) ~~~   たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います)。  ~~~~~~~~~~  §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (1) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。  (2) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわち名づけて悪である。  (3) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても)。そういう共通の感覚が観察される。  (4) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (5) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (6) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく 存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが 善であるとなる。  (7) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。     *  さてここで  ★ ~~~  充分に話し合いをしていれば殺傷してもそれは善になるのでしょうか。  共生の為に傷つける、ということは悪なのでしょうか。  ~~~~~  ☆ どうでしょう。《充分》の度合いを問わずとも 《話し合い》が善だとするときには 話し合いを壊すこと・あるいは話し合いをする主体である存在を抹消すること これは 悪です。  話し合いにおいて《共生のために 傷つける》という結論は出ないはずです。出ても それは悪であり無効だというのが 共同主観(常識)だと考えられるはずです。  ★ 善悪てのは人間社会の秩序維持の為に「後から」造られたものですから  ☆ この見方には 上の定義としては 反対するでしょうね。自然本性にそなわった心としての善およびそれの対抗概念である悪を捉えています。  手形の期日までにおける決済であるとか 恋人の約束ないし政党の公約を破ることとか こういったことは ウソの問題です。  ★ 必ず死ぬ人間の生命がそれほど尊いのか  ☆ 《人間の生命》ということを取り上げて それについてとうといのか。どれだけとうといのか。といった筋道では考えていないわけです。順序が違います。  人間には自然本性に自由意志がそなわっていて この自由は わが心に逆らわない自由もあれば 逆らう自由もある。それらに当てはめて ウソをつかないとウソをつくという二つの場合を取り出し これらを 主観にとっての善と悪だと規定した。そのとき もし善をとうとぶのである限り 主観とその基礎である身ないし存在 これも 善であるとなります。  おそらく このように存在は善であるというところから 人間の生命は掛け替えのないものであり とうといのだという考え方が出来たのでしょう。  つまり 順序が違っているとは考えます。  掛け替えのない存在は その限りで 普遍的なことであり その普遍がつねに成り立つ――つまり 人間は掛け替えのない存在であるという見方のほかには考えられない――とすれば ほぼ絶対でしょう。  ★ ただ私は、絶対を(1)例外が存在しないこと(2)相対的でないこと、の意味で使ったつもりでした。  ☆ 《例外が存在しないこと》は 普遍性があることですが ほんとうにそうなのであれば 《相対的でないこと》とともに それは《絶対》です。  絶対は 人間にはそれが何であるか・どんなであるかは分かりません。分かるか分からないかが分かりません。そうでなければ 絶対とは言いません。  ★ 掛け替えが無いのは人間だけに限らないし  ★ ~~~~  例えば、自分の庭の草を引き抜く行為は、草の魂を汚すので、  他の魂の為という正当な理由が無ければ不浄ということになり、  抑制すべきだ、になると思います。  ~~~~~~  ☆ これは まづそういう考えを持つことは自由です。そして そのときにも  ★ 魂は万物に宿るとしています。  ☆ というのは じつにこれを人間がそう判断しているということになります。その意味で 善悪は 主観による〔つまり(1)〕という見方に立ち この《魂の宿り》説じたいについては それが共同主観になりうれば 普遍性があるということになります。  みんながそうは思うものではないとなれば  ★ そういうイデオロギーに侵されているだけ、そういうパラダイムに囚われているだけ / という言い方はできないでしょうか。  ☆ できます。となります。実際の結果は 知りませんが。  ★ 神が死んだ現在(私は人間が殺したんだと思っていますが)  ☆ 絶対である神は 死ぬも死なないもありません。人間の知っているところの生死を超えています。人間の規定するところの善悪を超えています。人間の経験的に知っているところの有る無しを超えています。(だから 有神論と無神論とは 互いに同等です。人間が神を有ると言っても無いと言っても 絶対としての神については へっちゃらだからです)。  人間が 絶対としての神を殺し得るわけがありません。  《神は死んだ》という文句は 《人間のあたま(精神)に巣食う観念の神が もうそんなものを頭の中にかこっていても 意味がないというかたちで 死んだのだ》と言ったまでです。《観念の神》は 偶像の神と同じく 初めから死んでいます。人間が勝手につくったおもちゃの神でしかありません。  まったくのナゾである絶対の神(もしくは 無い神)も 人間は やはり主観において或る種のヒラメキをつうじて 仮りに捉えたその姿を人間の言葉であらわして見ようとします。  ☆☆ 善悪の彼岸なる存在というのは―― 無根拠なのである。  ☆ となります。  ★ 神そのものを根拠づけることは出来ないから。  ☆ これを精確に言うならば 《神を人間が根拠づけることは出来ない。ただし 神は人間や世界の根拠であるか根拠でないか そのことすら人間には分からないので 仮りに〈無根拠〉だと言ってみる》ことに 問題はないと思いますよ。  ★ これに対して仏教では無が出発点ですから / そういう理論的欠陥は無いわけです。  ☆ 《無》とは何か? とただちに問わなければならなくなりましたが おそらく上に《無根拠》と言ったことと違わないでしょう。  ただし《出発点》という規定も きちんと扱わねばなりません。人間が捉えることのできる出発点や原点ではない。けれども 仮りにそのように言ってみておくといった但し書きを添えることになると考えます。  ★ キリスト教文化圏では、草などに魂は認めませんし  ☆ 集団としての宗教についてはわたしは知りませんが――つまり クリスチアニズムを弁護するいわれは何らありませんが―― たとえば《世界のすべては 神からの手紙である》というような言い方をします。その媒介は いわゆる霊です。聖霊なる神です。《絶対》というのは 普遍であり遍在するものです。仮りに説明するとすればです。

回答No.6

建て前上の利害関係の在り方を共有するべく、仲間なのか否かの峻別の為に、 ルサンチマンの発想の様に、相対的な仮想敵達を外部へ排除してきたせいで、 善悪の判断基準の文化的な傾向が出来上がったのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  要するに  ★(要約) 自分らと仲間たちとだけで 社会の大勢を築き その人間たちの力によって社会を運営して行きたいと強く思い強く願う一群の人びとがいた。かれらは ものごとについて自分たちの考える善悪の基準をつくり これによって思惟・内省=生産・行為の形式をかたちづくって来たのだ。  ☆ というところでしょうか?  あとはその善悪の基準ないし文化の優勢な判断基準の中身については その一群の人びとの考えによって世界のそれぞれの地域あるいは時代において異なっている。  それだけのことだ。と。  たぶん その一群の人びとは 自分の心においてウソをつきイツワリを育てているのでしょうね。  ★ ルサンチマン  ☆ はそれらの人びとからはみ出した者たちにおいて育まれるものだと思っていましたが そのいわゆる支配階級の人びとも けっきょくはその善悪観ないし文化様式がルサンチマンにもとづく。こういうご見解でしょうか?  あるいは  ★ 相対的な仮想敵達を外部へ排除してきたせいで  ☆ というように排除は その同じ社会の周縁部分の場にではなく《外部へ》ですか。そこまでやるという場合には その社会は異質な思考形式を持つ人びとがいなくなって まもなくほろびるというように思えるのですが そういう場合もありますか。  ありがとうございました。

noname#180065
noname#180065
回答No.5

善悪と言う言葉があるから。 確かにそうですね。 私がそんな2つで分けてもと言ったところで、 言葉が存在して、悪と戦う戦争が繰り返されていますよね。 善と悪の二元が具合が悪いと言う事での質問。なるほど。 そこまでに至っておりませんでした。 回答が質問になってしまいましたね。すみません。 丁寧にお付き合いいただいて。 話し合いを拒んだり、拒絶が善のマイナスが悪。 理論的に答えられない自分は悪なのか?と考えさせられます。 批判ではありません。客観的に考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 理論的に答えられない自分は悪なのか? と考えさせられます。  ☆ 恐れ入ります。感服いたします。  ★ 私がそんな〔* 善と悪との〕2つで分けてもと言ったところで、 / 〔* 善と悪という〕言葉が存在して、悪と戦う戦争が繰り返されていますよね。  ☆ 善にもとづく正義の戦争であり正義のための戦争だという題目が掲げられます。  共生する本人たちがいなくなるという事態について どう説明するのでしょうか。国家に身を寄せる人びとを守るためだという答えが返って来ましょうか。  なかなか厄介ですね。  さらにあたらしい展開がみつかりましたら ご投稿ください。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.4

>おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか? ・一言に“神”と言っても、様々な捉え方が有ると思います。 仏教では“神”の存在を「善神」と「悪鬼」に立て分けます。 ※長くなるので、詳細の説明は省きます。  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか? ・何処までの心理に善悪を求めるかによると思います。 人間と言ったって、「人間」の範疇を抜け出せないのなら、 せいぜい憲法の制定にとどまるでしょう。  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか? ・善と悪との定義づけが出来れば、可能だと思います。  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか? ・貴方の仰る事は、少し部分的な感じがします。というのも、 この“人間の存在”をどう説明するかという事です。 実は仏教はこの存在を明言しています。さらに、人間は 何故存在するのかも、説かれています。 ※ここも長くなるので、詳細は省きます。  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか? ・上記でも書きましたが、究極の目的、大善とは衆生 救済に有ります。  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか? ・悪とは正を滅しようとする働きである。  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか? ・この設問は、どうとらえれば良いのでしょうか? 外交政策の観点においての話し合いととらえれば 良いのでしょうか? もし、そうだとしたら、政治家では有りませんが 対話と行動により世界を平和へと導いた人間が 現実にこの日本に存在していますが。  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか? ・仰る通りだと思います。しかし、“対話”と一口に 言ったって、人間対人間ですので、その人の境涯 以上の対話にはならないでしょう。 ※先日の、宮城県知事との話などは、対話にもなって いなかったように思いますが。  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか? ・先にも書きましたが、“神”の定義というか思い込みも あると思いますが、認識の違いがあれば当然話にもなら ないでしょう。  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか? ・人によりけりだと思います。 私は良く好きでF-1を見ていますが、ある時のレースで アイルトン・セナは“神を見た”と言っていました。 次元は違いますが、仏法では、諸天善神といって、法華経 の行者を守るとされる神の働きが説かれています。 この神は、法華経を広めゆくものを、天の作用や人の身に 入り助ける事があります。こういった体験でしたら、多くの 人が感じている部分はあるのではないでしょうか。 ■私は、創価学会の壮年部に属しています。あくまでも 仏教的解釈や、私自身の日々の研鑽の中で判断できる 事をベースに回答をいたしました。 文面が多少長くなることにつきましては、省略いたしました。 質問者様が今後御自身で研鑽していただくか、別建てで 御質問いただけますれば、幸いかと存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 けいえすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  S 学会の方とか。じつはわたしも若いときにかかわっていました。学生時代で終わったという意味です。高校のときの同級生もその頃仲間でした。かれは引き続きメンバーに残ったことなどからその後一たん別れて 先月と今月の二度ほどおよそ四十年ぶりに会いました。  とは言っても新しい情況は まだあまり尋ねなかったですし ほとんど何も知りません。  わざわざ述べたのは 休日気分からとそして 教学のことならだいたいは知っていますよという意味です。忘れていることも多いでしょうが 思い出せばだいたいは分かります。  そうですね。個別にお応えしてまいります。  ★ ~~~~  アイルトン・セナは“神を見た”と言っていました。  次元は違いますが、仏法では、諸天善神といって、法華経  の行者を守るとされる神の働きが説かれています。  ~~~~~  ☆ セナが言う神は おそらくクリスチアニズムのそれだと思われますが 問題は二つの角度から見るのがよいでしょう。  回答No.1へのお礼欄に書いたことですが 《神を見た。神と話をした》という言明と《神を感じた》というそれとは 区別しています。後者は ヒラメキであり 霊感と言うと何ですがインスピレーションであり 直感および直観のことを言うと見て そのまま認めています。  前者の《見た・話をした》は――けっきょくのところは後者のヒラメキについても同じなのですが―― そのあとどうなるか? でコトは決まってくると考えます。その体験を 人にも分かるように言葉で表現できるか? あるいはその体験じたいを表わし得なかったとしても その体験を基にして自己ないし社会ないし世界を見ると どのように見えるか? これをやはり人びとに分かるように表わし得たならば その体験が生きる。こう考えます。  つまり見たというだけでは 判断がつき難い。こう考えます。  ★ 諸天善神  ☆ はただブラフマニズムから借用した(配下に取り込んだ)だけのことですから 放っておきます。  神は 無根拠のことです。  そうだとすれば じつは主宰神ブラフマンは 類型的に神であり得ます。その他のものはすべてブラフマンの分身だと見るべきでしょう。  ★ 仏教では“神”の存在を「善神」と「悪鬼」に立て分けます。  ☆ これが 《神》と言っていますが みな分身であり この質問で言う《神》とは別でしょう。  ☆☆ 鎖国政策  ☆ というのは コミュニケーションを一方的に閉じる動きのことです。たとえば法華経しか眼中にないとすることによって――それだけなら ただ集中しているだけのことですが―― ほかの信仰の形態を頭からけなしムヤミヤタラにしりぞけようとすることです。  今回のご回答の中でいちばん分からない文章は   ★ ・悪とは正を滅しようとする働きである。  ☆ です。《正》とは何か? という問いをただちに誘発します。まさか I 先生の思想がそれだとはおっしゃらないでしょうね。  《正》とは  ★ 究極の目的、大善とは衆生救済に有ります。  ☆ ということでしょうか? でも衆生は分かるとして 《救済》とは何ぞや? とまたまた定義が必要になります。  ★ ~~~~~  ・貴方の仰る事は、少し部分的な感じがします。というのも、  この“人間の存在”をどう説明するかという事です。  実は仏教はこの存在を明言しています。さらに、人間は  何故存在するのかも、説かれています。  ~~~~~~~  ☆ 人間の存在は いま・ここにこうして話をしているわたしおよびあなた あるいはほかの読者を含めた参加者 あるいはその人びとと同じく話し合う人びとを言います。《そのとき・その場にいる存在》 これだけの内容で定義しています。  別建ての質問は いまどうするか分かりません。取り敢えずご回答を寄せてくださったことに感謝いたします。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

こんにちわ。 過去の質問を読んでみました。 こういうのはどうでしょう? 「話し合ったりして共生するところの存在」→絶対善 「これを傷つけること」→絶対悪 この意義付けで、例えば殺人などの善悪が判断できるのか? そこで、相対善、相対悪、という概念を持ってきます。 相対善てのは絶対善により導出された 規範などを意味します。 相対悪は、この相対善を傷つけることをいいます。 殺人は、絶対善により造られた相対善を傷つけるから相対悪である。 相対悪だから、場合によっては相対善となる。 正当防衛はその例である。 これで総ての事象を説明できるかしら・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん 一夜明けまして――もう昼も過ぎましたが――こんにちは。ご回答をありがとうございます。そして過去の質疑応答を読んでくださって感謝します。  そうですね。  基本的に言って   ★ 絶対  ☆ という言葉にはそれを用いるのに注意が必要ではないか。まづこうは思います。    ただ へきゆさんは この言葉を《万人が同意するところの決まりとしてよい》 したがってそれほど普遍的なことであるのだから 絶対だと言おうとなさっている。こうは受け取りました。  ★ ~~~~~  「話し合ったりして共生するところの存在」→絶対善  「これを傷つけること」→絶対悪  ~~~~~~~  ☆ たとえば憲法にしても そこでの自由の規定についてみても 抽象的に表現して普遍性にもとづこうとしていますしその規定の内容を示そうとしています。そのように抽象的な表現のかたちで 普遍性のある取り決めをしておいたらどうだろうといったご提案かと思います。  じっさい質問者もそういう趣旨です。  ううーん。  ただしたとえばいま一つわづかに 躊躇しているそのわけは――いいアイディアが思い浮かびました―― No.2のまたたびさんとのやり取りで 次のように考えたところがあります。  すなわちまたたびさんが  ◆ (回答No.2) 物事全てを善悪で判断すると、やはり競争で共存はないかと。  ☆ との懸念を表明されたことについて 次のように反応しました。《共生と話し合い》を基準としておくとよいというそのわけとして:  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~   ○ 競争を取り上げてみるなら やはり共生のための競争はだいたい善であろう。   ○ あるいは そのときにも《共生のため》というそのことの中身を実際にみんなで《話し合い》 その上で決めるものである。そういう善を目指そう。   ☆ といったかたちになるかと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりやはり 人間の考え決めることですので 《共生》を基準とすると決めたことについても《共生のために話し合い》が必要になる。こういうふうに話が落ち着くとするなら 《絶対》という言葉はあまり使わないほうがよい。  共生と言えば たとえば生命のとうとさや 一人のひとの存在の掛け替えのなさということを含みます。それゆえに考えれば それは善であると言えるとともに ほぼ絶対の善です。それ以外に考えられませんから。  それでも 言い回しとしては どうでしょう 絶対という言葉は控えるべきでしょうかねぇ。というのも 絶対とか永遠とか不可変性とか無限とか至高の善とかというのは 神にこそ添えられる言い方だと思われるからです。人間の思いやおこないについては当てはめないのがよろしかろうと。  言いかえると   ○ ここで善あるいは悪と言っているのは いづれも相対善のことであり 相対悪のことである。  ☆ となると思います。  さて 具体的な事例についての思索です。  ★ ~~~~~~  この意義付けで、例えば殺人などの善悪が判断できるのか?  そこで、相対善、相対悪、という概念を持ってきます。  相対善てのは絶対善により導出された  規範などを意味します。  相対悪は、この相対善を傷つけることをいいます。  ~~~~~~~~~  ☆ ふたつ重要なことがあると思います。  (1) おそらく言わんとするところは同じであるのに何を言いたいのかと言われかねないことなのですが 精確を期したいと考えて述べます。  ★ 相対善てのは絶対善により導出された / 規範などを意味します。  ☆ この一つ目の事柄の内のひとつとして:  (1-1)  ★ 絶対善により導出された  ☆ という概念をどう処理するかです。つまりこのことは  ☆☆(趣旨説明) ~~~~  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば   ~~~~~~~~~~~~  ☆ という推理にかかわっています。つまり質問者としては むしろ  ○ 神なる絶対善から導入する・しないとはかかわりなく 経験思考において考えよう。  ☆ という意味を持たせたかったところです。  ○ 神は――そして至高なる善というのは・つまりは経験的相対的な善悪の彼岸なる存在というのは―― 無根拠なのである。  ☆ と見ておきたかった。無根拠から導入するのならば むしろ普遍性が担保されるのではないかという見とおしがあります。(つまり 言わんとするところは けっきょく同じところに帰着するような話なのですが)。(でも いわゆる無神論の見方によっても――こうして 無根拠からだと言っておけば―― 同じ土俵で議論ができると見積もってのことです)。  (1-2) もうひとつに  ★ 規範  ☆ という――やはりこの場合も――言葉にこだわります。取り決めたものに普遍性があれば 《規範》という言い回しを用いてもそれほどわるくはありません。それにもかかわらず 規範という言葉には 規則と同じように《従わなければならない》といったイメージがありませんか? もしあるとすれば それは避けたい。  なぜなら この善悪観は――社会的な共生と話し合いを基準として立てる善悪観は―― 自由に思惟し自由に行動するところの生活態度(思想)であると見るからです。自由な自己表現が先にあって その結果 この基準に普遍性があれば あたかも規範のようにはたらいていると見ることにもなりますが 基準を人びとの話し合いで取り決めた結果 社会習慣としてちょうど規範としてのように作用している。のであって 初めに規範があるから それに合わせて人びとは行動しているというわけではない。  細かいところですが これを言いたいために規範を先行させたくない。こんな思いと考えでいます。  (2) 二つ目の重要だと思う事柄は こうです。  ★ 相対悪は、この相対善を傷つけることをいいます。  ☆ これについて 細目としてのこだわりですが  ○ 相対善――人間存在あるいは 自然本性とも言う。つまり善――は 自分の心におけるへそ曲がりとねじれによってでなければ その心が傷つくことはない。  ☆ この主題については これもまたたびさんとのやり取りですが 別の質問でのそれとして こういう考えを述べました。  ☆☆(【Q:人は 人のあやまちを赦すことができるか】) ~~~  ――No.8お礼欄――   わたしたちは加害行為をこうむったら むっとしますしその怒りを隠すこともありません。・・・  晴れた空に雲が出たり雨さえ降ったりするでしょうが それも元からのにっぽん晴れの確認と再生への試練であって その間こころが傷ついたり落ち込んだりするということではないと考えます。  (心理的に・つまり大海の表面に波風が立つようなかたちで 気が沈むことはあります)。  (そして 自分にも出発点に 心のねじれがあった場合には ちょっとした傷もつき落ち込むこともあります)。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 自分がへそを曲げたのなら それによって心はそれなりに傷つく。けれども 外部や他人から迷惑や害をこうむっても それだけでは 心が傷つくことはない。  あるのは 自傷行為のみである。このことの確認をしておきたいと思いました。    つまり 殺傷行為は 物理的には被害をへその曲がっていない人に対しても与え得ますが その心を傷つけることはあり得ない。という考えです。へそが曲がっていて 他人からの殺傷行為を招いたとすれば 加害者だけではなくその被害者も 両者それぞれどの程度にかを別として どちらも自傷行為であって心は損なわれる。こう考えます。  二つの点を終えてですが  ★ ~~~~~  殺人は、絶対善により造られた相対善を傷つけるから相対悪である。  相対悪だから、場合によっては相対善となる。  正当防衛はその例である。  ~~~~~~  ☆ 《相対善と相対悪》の問題は もういいとして 正当防衛の問題ですね。  そして この緊急避難が正当化されるのは おっしゃるように《善悪》がともに人間の世界では相対的なことであるからだと言ってよいと思われます。  この正当化されるという推論については 保留しましょうか。わたしも法律論をも交えた全体としての議論を承知しているわけではありません。  この質問の中で どなたかくわしい方がいらっしゃれば投稿していただいてもよろしいでしょうし あるいは質問を別にもうけて問うことにするかとも考えられます。いまはフリーハンドでいることにします。  いまかんたんに思ったことは 殺傷行為は ひとつに話し合いをないがしろにしているという・善への反抗行為であり もうひとつにも 明らかなように共生を阻み台無しにしてしまう行為である。よって定義によると 悪である。  この悪である殺傷行為を阻むために やむを得ず殺傷行為という悪を手段に用いることが 正当防衛において正当化されるか またどのように正当化されるか このことは わたくしの力にあまりますので取り敢えず保留とします。  ごちゃごちゃしましたが。

noname#180065
noname#180065
回答No.2

神に詳しくはありませんが、 神=善悪しか存在しないのでしょうか? 神は善悪を判断する審判員。 物事全てを善悪で判断すると、やはり競争で共存はないかと。 人間、世界を全てを2沢で判断出来るでしょうか? ふと、考えの前提に疑問を感じました。 すみません。

bragelonne
質問者

お礼

 またたびさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 人間、世界を全てを2沢で判断出来るでしょうか?  ☆ この善悪を定義しておくといった発想あるいは思考方法が問題である。こういうご見解かと思います。  そうですね。さらに質問の趣旨を次のようにご説明してまいりたい。こう考えます。  基本的に言えば   ○ 善悪という言葉があるから それを哲学として整理しておきたい。  ☆ というノリです。  たしかに初めに《神》を出して話をすすめていたりしますから 神につながり善とそして悪といった構図を 質問者じしんが描いてしまっていると見られてしまうかも知れません。  いづれにしましても そういう道筋からの思考方法や説明の方式もあると思います。  そしてここで言っているのは   ○ 世の中では《悪》という言葉を気軽に使っているが じつは悪という実体はない。その現象は起きているが 悪という存在はない。  ☆ のではないかという問いかけです。(回答者によっては 神学やあるいはこのあと投稿がありましたがブディズムの教理をめぐって ご見解を示していただいてもかまわないと思っています)。  考えてみれば 世間では結構この善悪の取り扱いで苦労しているのではないでしょうか?  たとえば人間万事塞翁が馬ということわざを持ち出して 災難を悪と見立てれば 悪はやがて善になり 善と思っていたものが悪になる――というふうな議論を展開する場合も見られます。  あるいは 昔から性善説か性悪説かで議論が絶えません。両方がありうるとすれば いったいどう常識として捉えればよいのか。(日本社会では 性善説に立って規則などをつくっており 悪意による違反は 想定外だったとか言ったりすると思いますが では 性悪説もけっきょくは含むということなのか? といぶかしんでしまいます)。  あるいは 言わずと知れた善悪二元論が 消えたりまた浮かんで来たりしている風景もヨーロッパないしいわゆるキリスト教圏のなかで見られるのではないでしょうか?  元は ペルシャのザラトゥシュトラの教説から始まると言われます。つまり出発点が 善神と悪神との二つの根元が存在するというもので ただしこの場合は 最終的には世界の最後で善神が悪神に勝つという物語だったと思いますが これが 例のマニ教において一時猛威をふるったと言いますし あるいは やはり例のグノーシス主義が れっきとした善悪二元論です。カトリックからは 異端とされ 物理的な力で弾圧もされたようですが 考え方として現代にも継がれて来ているのではないでしょうか?    その一つとしては あのユングの四位一体なる神の説です。三位一体の神が 至高の善として存在すると言われるところへ いやいやそれでは足りないのだ 悪魔という同等の力を持った悪神が 第四位の神として存在すると見なければならないのだと言い出しました。  日本では 河合隼雄がこれを継いでいるかのように文章を書いています。(河合は一般に自説を述べるとき ものをはっきり言いません。はっきり言っていても 中身はよく見てみると案外まとまっていません。あいまいなままだと気づかされることがあります。他説の批評では 合理的な指摘をおこなっているようですが)。  ですから  ★ 人間、世界を全て善悪の二者択一で判断出来るでしょうか?  ☆ という問いは この質問の持つところですし だからと言って  ○ 善は悪 悪は善。世のなか神は 善と悪との二元である。  ☆ というのも どうも具合いがわるいと思っての問いかけです。  この質問が前提する善悪観は 回答No.1でのやり取りを参照いただくと手っ取り早いと思いますが そこに但し書きをいまつけ加えます。  たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (善か悪かに関係なく その判定をしないものを 無記と言うかとも思います)。  ところが 端的に言って ウソは 善であることを放棄して(あるいは破って)表現されることではないでしょうか? おそらくそのときの《善》とは その人の主観においておのれの心にさからわないその意志内容だと捉えられます。逆らう場合が 負の善であり これを名づけて悪と言うのだと。  そうして 今回の質問では この善悪観を少し広げて一般的な社会性の次元でも有効なかたちを模索したものです。  No.1でのやり取りで明らかになったように:  ○ 共生する存在――人間存在――を善と見なし その《共生》のための思惟や行動を善と規定する。そして特にはその思惟や行動の中で 《話し合い》という行為を取り出しておく。  ○ したがって この話し合いをはぐらかしたり拒んだり閉じたりする行動とその発想としての考えは 善のマイナスとして悪と規定する。  ☆ こんな感じです。  ですから もしこの提案がやはり勇み足だったと分かれば 引っ込めなくてはなりません。そういう質疑応答を望んでいます。  さて  ★ 物事全てを善悪で判断すると、やはり競争で共存はないかと。  ☆ 質問者の感覚としましては 世間がすでに《競争社会であり共存共栄といった思いが薄らいで来ているのではないか》と思って それでは善とは何か悪とは存在しないのではないかを考えておきたい。考えておくと 案外その競争もやわらぐか あるいは別の意味や基礎にもとづく競い合いになるのではないか? そういう見とおしのもとに問うてはいます。  言いかえると:  ○ 競争を取り上げてみるなら やはり共生のための競争はだいたい善であろう。  ○ あるいは そのときにも《共生のため》というそのことの中身を実際にみんなで《話し合い》 その上で決めるものである。そういう善を目指そう。  ☆ といったかたちになるかと考えます。  ★ 神  ☆ については そうですね。たとえば次のような見方を提出してさらに問い求めを深めて行っていただければと思います。  ○ 神は善人にも悪人にもひとしく雨を降らせる。両者をひとしく日は照らす。  ○ ただし 神は いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。  ○ 風は気ままに吹く。  ☆ あとの二つは 神がえこひいきをすると言っているのですが これらを合わせて 神は善悪の彼岸なる存在だと思われます。

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