善と悪についての問答

このQ&Aのポイント
  • 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを捉えることであり、善とは見えるものを見えると言い、見えないものを見えないと言うことである。
  • 悪とは善の対極に位置するものであり、悪とは偽ることや物事を捻じ曲げることである。
  • 偽ることは悪である理由として、偽ることによって真理の探究ができなくなるからである。偽ることはいかなる場合でも悪であり、最大の悪は神や仏、天国、地獄を語ることである。なぜなら、それは見えないものを見えると言うことであり、偽りであるからである。
回答を見る
  • ベストアンサー

善と悪についての問答

善と悪についての問答   問う人:  善とは何や。 「人の道」:   善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人:   では悪とは何や。 「人の道」:   悪とは善の対極にあるもんや。  つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人:   偽るとはどういうことや。 「人の道」:   偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人:   なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」:   偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人:   如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」:   そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人:   最大の悪とは何や。 「人の道」:   最大の偽りや。 問う人:   最大の偽りとは何や。 「人の道」:   神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人:   なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」:   だから言うたろ。  見えんもんを見えると言うことは偽りや。  聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。  知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」:   どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人:   はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」:   では最大の悪が何かも分かったか。 問う人:   はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」:   皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。      

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • BlurFiltan
  • ベストアンサー率91% (1611/1754)
回答No.9

#2の者です。 > この哲学カテではな、回答者は質問し、 > 質問者が回答するちゅー決まりなんじゃ。 あ~,そうでしたか。 そういうルールとはつゆ知らず。。。 では質問です。 私のフィーリング的には, 正に質問者さま(回答者さま?)は私と同じ感性を持っているように思います。 いと嬉し。 しかし他の方も書かれていらっしゃいますが「嘘」と「悪」とは違うと思うんです。 (だって 違う誤 として存在するんだもの...。) (嘘も方便って言うし...。) 質問者さま(回答者さま?)は同じ意味のように扱われていますが これは「意見のすり替え」と捉えられる可能性も十分あります。 この点はいかに? それとぉ~! もう一つ。すんません。 ご質問(ご回答)やご回答(回答のお返事?)何だか禅宗っぽいのですが, 禅宗とは宗教ではないのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしと同じ感性の人間など五万に一人おるかどうかやと思うが。 >(嘘も方便って言うし...。) その嘘も方便ちゅーのが問題なんや。 えーか、よー聞け。 嘘も方便ちゅーのは中国や日本などアジアの国々で培われた発想で方便の一つなんや。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではのーて全くの悪なんや。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 >禅宗とは宗教ではないのでしょうか? 禅宗はあかの宗教や。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。  

その他の回答 (64)

回答No.65

やだなー、私は自分の意見が正しいと断定した話はしていません。 それだけあなたが私の話を理解していないだけ。 ~がこうなのでこうゆう風に考えているとか、個人的にはこう思う、的な言い方をしていたと思いますが。 良いですか、それは逃げているのではなく、常に考えを修正する為の余地をのこしているからです。 しかし、あなたの話には、その余地が在るようには思えないので、断定、決めつけなのではないでしょうか。 実際人の話、全く理解してねーしね。 あそれと悪の話でしたね、嘘偽りのない悪ですね、では結果的な悪と悪意のある悪を部分的にチョイス初級編を2例ほど。 例えば、2.3歳の子供の話、 兄が弟が持っているモノを、単に欲しいから無理やり奪ったとします。 当人同士の間では善悪は存在していないのかもしせません。 ですが、一般的に、私たちの視点から見ると兄のした行為は悪いことになります、しかしそこに嘘偽りはなくむしろ純粋に、欲しいモノを手に入れただけなのです。 例えば、2.3歳の子供の話、 姉妹がいて、妹ばかり周りの人間がかわいがり、それを見ていた姉が妹をいじめたとします。 姉のした行為は悪ですが、やはりそこにも、嘘偽りはなく、そうしたいからそうすると言う心境的には複雑ですが欲望的には単純な理由の行為。 そして、本人は気付いていないかもしれませんが、妹に対する嫉妬と言う悪意が存在していると思います。

回答No.64

ふむふむ、あなた自身がそう考えたりそう言った事を基準に思考する固体だと言う事は理解しました。 しかし、私は違う基準や考え方を積み重ねてきたので、そう言う決めつけ見たいな考え方が出来ないようです。 自分と言う人間を基準に考えて見ると、善悪の元は欲望とか思考見たいなモノだと思います、何によって自分を満たすのか、その性質の形の一部として善悪が存在しているように思います。 なので私の中では、悪は悪、嘘偽りは嘘偽りで別のモノと認識しているわけです。 まあ、ご自分がそれが正しくて変える余地が無いというならそれはそれで良いんじゃあないですか、個性って事ですよね。 ただ私の視点から見ると、理屈に合わない考え方に見えるだけです。他の人には他の見方が在るでしょうしね。

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか、一つ言うとく。 わしの言うことを決めつけ見たいな考え方と言うが、自分の考えは決めつけではないとどうやって判る。 人の考えることを決めつけとか何とか言うのはそー簡単には出来んはずやぞ。 わしは悪意があるところには必ず何処かに嘘偽りがあると言うとるんじゃ。 これを決めつけと言うんか、これが決めつけやちゅーことを示せるんか。    

回答No.63

No.61です >>> No.61 お礼欄 なるほどなー。 やっぱそうやったか。 マンガ人生を歩んどったちゅーことやな。 <<< 「猫のゆりかご」 著者:カート・ヴォネガット 翻訳:伊藤 典夫 ハヤカワ文庫 。。。 マンガ?ではないですので、あしからず・・・ >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%81%AE%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%94 『猫のゆりかご』(ねこ -、Cat's Cradle)は、1963年に出版されたカート・ヴォネガットのSF小説。軍備拡張競争をはじめとする様々な標的を風刺しながら、科学、技術、宗教といった問題を探求する。シカゴ大学は、ヴォネガットの元々の修士論文を却下したが、1971年に『猫のゆりかご』をもってヴォネガットに人類学の修士号を授与している。 <<<

g3452sgp
質問者

お礼

  すまんなー  

回答No.62

ん~、人の話を理解して、ちゃんとした答えが出ているならば、考えを改められるけど。 その得体のしれない、確信と思いこみだけでで答えられても、考えの変えようはないよね。前にも言ったけど、そう言う意味では、神様信じて疑わない人とあまり変わりないですよ。 良いですか、嘘偽りが無いこと・真理を追究することそれを善だとあなたは言います。そうだとするならば、悪意を持ち、言わなくてものいい事を嘘偽りが無ければ言ってもそれ自体は善だと言うことだと言う事になってしまうのではないでしょうか。 また、単に自分の欲望をかなえる為だけに、周りを犠牲にしても、追い求める真理が善と言えるのでしょうか。 それが善であるためには、善意が必要で、そしてそれらを正しく判断し行動する為に、真理の追究が必要だと言う事だと個人的には思うのですが。 なので善は善であり、「嘘偽りがないこと」が善だと言うのは物事を正確に理解していないと言う事ではないでしょうか。

g3452sgp
質問者

お礼

>、悪意を持ち、言わなくてものいい事を嘘偽りが無ければ言ってもそれ自体は善だと言うことだと言う事になってしまうのではないでしょうか。 えーか、 ここに大きな見落としが有るのに気付かんのか。 悪意を持つ時点で必ずどこかに嘘偽りが生まれとるんや。 嘘偽りの無いところに悪意など決して生まれはせんのや。 えーか、 この宇宙はこの上なく正確無比にできとるんや。 だからこの宇宙の有るがままを有るがままとして捉える限り、決して悪意など生まれはせんのや。 この事を理解できん限り善を知ることはできんのや。  

回答No.61

>>> No.59 補足欄 k_jinenさんは何処の宗派かな。 <<< http://okwave.jp/qa/q5578099.html の回答番号No.41を参照願います。 (以下、同回答からの一部引用) http://bokonon.gozaru.jp/wboko.html >>> 「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である」 「馬鹿なことはやめろ!すぐこの本を閉じるのだ!<フォーマ>しか書いてないんだぞ!」 「<フォーマ>を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」 <<<

g3452sgp
質問者

お礼

  なるほどなー。 やっぱそうやったか。 マンガ人生を歩んどったちゅーことやな。 やっぱ人生はマンガのほーがえー。 ・・・・ ヤスジは今頃どうしとるんやろなー。  

回答No.60

あは、今までの質問回答を少しでも理解してほしくてそう言う風にしたのですが無駄だったのね。 馬の耳に念仏ですか。 まあ、良いとしましょう。 分かる人には分かるし、分からん人には分からん、それだけの事ですから。 個人的には善とは善意であり、悪とは悪意の事だと考えています、もちろん結果てきな善悪も存在するとは思いますが、まあ、それはそれですよね。 なので嘘偽りを言わないのは、善ではなく嘘偽りを言わないと言うのが在るがままの形ではないでしょうか。 何故なら、悪意をもって、それを行えば、周りに迷惑をかっけ結果的な悪を生み出すことも出来るからです。 さらに付け加えるなら、たとえ善意を持って行ったとしても、相手の受け取り方や、状況によって結果的な悪の発生をよく見ます。 だから、私は思う、善意を持って行う嘘も必要だと。 嘘は嘘、本当は本当が本来ののあるがままの形で、何故そうなったかと言うときに、善悪とかそれ以外のなんとかの構成物資がでてくるんじゃあないのでしょうかね。もちろんこれは、見方の一つですけどね。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、 この世には完全なものなど存在せんのや。 善と悪についても同じや。 完全な善、完全な悪ちゅーもんは無いんや。 だからいきなり結果だけを考えるのは間違いなんや。 大事なのは結果を求めるプロセスや。 完全なる善に至ろうとする過程、即ちプロセスが大事なんや。 完全無欠なもんは存在せんとしてもそれを求めることは可能なんや。 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えること、これもプロセスや。 プロセスなら実現可能なんや。 しかしこの善を実践するのは簡単ではないんや。 なぜなら善を実践するには深い情けが要るからや。 また高度な善に至るには宇宙に対する深い理解、真理の探究が求められるんや。 だから言うとるんや、善を実現するには高度な文明の発達が必要やと。 善とは文明そのものなんや。この善の実現水準が文明のレベルを表すんや。 そして悪とは善の対極にある逆のプロセスちゅーことや。果てしなく偽り続けようとする心や。 えーか、 善悪ではものごと推し量れん、善悪は物事のほんの一部に過ぎんみたいなこと言うとるが、その考えは変わらんか。 わしにはここから先はもう人間性の問題としか言いようがないんや。  

g3452sgp
質問者

補足

  えーか、 ここでわしが自己主張しとるように見えるか。 そう考えたら大きな間違いや。 真理の探究のためには見とーないもんも見なあかんときがあるんや。 善を知るには悪を知らんとあかんからや。 悪の何んたるかをとことん知ることによって善が判るようになるんや。 わしが宗教漬になった人間を観ようとするのもそのためや。 宗教漬になった人間が何を考え、何を語り、最後にどう振る舞うのか、しかと見届ける必要があるんや。 えーか、 悪を知るにはその悪と対面せんとあかんのや。 それも善を追求するアクティビティの一つなんや。  

回答No.59

No.56です。。。 >>> No.56 お礼欄 「感じた」、「感じられた」ちゅー言い回しは宗教漬になった者が使うもんやろが。 「人の道」を歩む人間はそーゆー言い方はせんのや。 「人の道」を歩む人間は、自分の眼で見、自分の耳で聞いたことしか語らんのや。 <<< シマウマが鳴くところを「見る」ことはできますが、 >>> 例えばサバンナに住むシマウマは集団で祈祷するんや。 <<< は「見る・知る」ことはできません。 >>> 例えばサバンナに住むシマウマは集団で祈祷するように見える(思われる) <<< は、可能です。 http://okwave.jp/qa/q5578099.html 荘子抄:「魚の楽しみ」 での、荘子と恵子の問答を成立させているのは「断定している」ことにあります。すなわち「見えていないこと・聞こえていないこと・分かっていないこと」を「さも、見えている・聞こえている・分かっている」かのごとくに「断定」して述べ立てることが論争の原因になっています。 そういったことがシマウマの祈祷概念と相同だと思われたからこそ「良回答の20ポイント」をいただけたのだと思っていました。。。今からでもできることなら、「良回答」から外していただきたいところです。 宗教問題の根本が「そういった断定」にあると見抜かれたところは「すごい」と思っているのですが、御自身が宗教漬けに直結する「断定」を推奨しておられるのであれば、言うべき言葉も失ってしまいます。 。。。残念です。。。

g3452sgp
質問者

お礼

  その論文の中で何か結論が出てくるちゅーんやったら大いにその論文を展開してもらいたいと思う。 もちろんその結論にターゲットを絞ってちゅーことで。 浄土真宗では神や仏、天国、地獄についてどう捉えておるんかちゅーことについて結論を示してくれると期待する訳や。 「第十節 帰結」では何が語られるんかな。 ちゃんと結論示してくれるな。 早くその答えが知りたいな。  

g3452sgp
質問者

補足

   baka-hageさんは浄土真宗のお坊さんちゅーことは分かったが、k_jinenさんは何処の宗派かな。 まさか創価学会ちゅーことは無いと思うが。    

回答No.58

いや~なんかホント凄いですね。 これ、質問でなくて、自己主張したいだけなんですね。 では一つだけお尋ねしたい、私の善悪の捉え方が何がどう間違っているのかを。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、だから言うとるやろが。 善悪など重要ではない、どーでもえー事ちゅーその考え方に問題が有るちゅーとるんや。 つまり思想も理念もない、たたのミーハーやちゅうことや。 ”では一つだけお尋ねしたい、私の善悪の捉え方が何がどう間違っているのかを。”と訊くのはやな、善悪について答えをもっとる人間が訊くことやろが。 何の答えももっとらんミーハーがそんなこと訊いてどうする。 全く呆れ果てるやつや。  

g3452sgp
質問者

補足

  えーか、 これは自己主張とは言わんのや。正しいことを述べていると言わなあかん。  

回答No.57

 いやー、ありがとうございます。 >>あくまで浄土真宗では神や仏、天国、地獄についてどう捉えておるんかちゅーことについて語ってもらいたいんや。  こちらのほうは色々細かいことを言えばきりがないのですが、「佛とはいかなるものか」「浄土とはいかなるものか」というようなことについては仏教全般においては「佛身佛土論」と呼ばれるものになります。実は私これからそれについての教科書に出来るような論文を書く予定だったのですよ。とりあえず、レジュメをまず提出させていただきます。 阿弥陀佛佛身佛土論の展開(仮) はじめに 第一章 通仏教的な佛身論  第一節 序論  第二節 インドにおける仏陀観  第三節 中国日本における仏陀観  第四節 佛身論発達の段階  第五節 佛身の種類および意義 第二章 阿弥陀佛を中心とした佛身論  第一節 序論  第二節 龍樹菩薩の阿弥陀佛佛身論観  第三節 天親菩薩・曇鸞大師の阿弥陀佛佛身論観  第四節 七高僧以外の中国における佛身論観  第五節 道綽禅師・善導大師の佛身論観  第六節 恵心僧都源信・法然上人の阿弥陀佛佛身論観  第七節 親鸞聖人の阿弥陀佛佛身論観  第八節 浄土真宗における佛身論観の展開  第九節 帰結 第三章 通仏教的な佛土論  第一節 序論  第二節 仏教における輪廻思想の展開  第三節 佛土の意義  第四節 原始浄土思想の展開  第五節 諸仏浄土の種類 第四章 極楽浄土を中心とした佛土論  第一節 序論  第二節 浄土三部経に説かれる処の極楽浄土  第三節 竜樹菩薩の極楽浄土観  第四節 天親菩薩・曇鸞大師の極楽浄土観  第五節 七高僧以外の極楽浄土観  第六節 道綽禅師・善導大師の極楽浄土観  第七節 恵心僧都源信・法然上人の極楽浄土観  第八節 親鸞聖人の極楽浄土観  第九節  浄土真宗の烈祖たちの極楽浄土観  第十節  帰結 総結  おわりにー宗教心理学の立場からの考察ー 題名も変わったり、章の内容も変わるとは思います。資料等々を集めるのに苦労をしておりまして、書きあがるのに時間はかかると思いますがお付き合いいただけるなんて本当にありがたいです。よろしくお願いします。  急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

g3452sgp
質問者

お礼

  その論文の中で何か結論が出てくるちゅーんやったら大いにその論文を展開してもらいたいと思う。 もちろんその結論にターゲットを絞ってちゅーことで。 浄土真宗では神や仏、天国、地獄についてどう捉えておるんかちゅーことについて結論を示してくれると期待する訳や。 「第十節 帰結」では何が語られるんかな。 ちゃんと結論示してくれるな。 早くその答えが知りたいな。   

回答No.56

No.40 & No.43です >>> No.41お礼欄からの引用 人間以外の動物も宗教やっとるで。 例えばサバンナに住むシマウマは集団で祈祷するんや。 それから腹を空かしたライオンが久しぶりに餌にありついたときは涙を流しながらその餌を食うんや。 もしかすると彼らの方が人間より立派な宗教家かも知れんのや。 <<< これは、 http://okwave.jp/qa/q5578099.html にて質問者様が「感じられた」ことであって、(質問者様が)直接「見たり・聞いたりした(即ち直接経験した)ことではない」ということは、強調すべきだと思います。 特に「動物も宗教やっとるで」とか「シマウマは集団で祈祷するんや」とかいった「断定句」は、「人の道」から外れるのではないでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか、よー聞け。 「感じた」、「感じられた」ちゅー言い回しは宗教漬になった者が使うもんやろが。 「人の道」を歩む人間はそーゆー言い方はせんのや。 「人の道」を歩む人間は、自分の眼で見、自分の耳で聞いたことしか語らんのや。    

関連するQ&A

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 欲望には悪と善の因が。 善の方はしかし?

    欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。 そこから悪としての争いの因が生まれたりします。  しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。 そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。 解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。 反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。 それなら議論しましょう。

  • 神についての問答

    神についての問答 問う人: 神とは何や。 「人の道」:  神とは宇宙の法則や。 宇宙の法則のことを神と呼ぶ。 これを仏と呼ぶ者もおるが呼び方などどーでもえーことや。 問う人: 神は語るのか。 「人の道」:  宇宙の法則は自ら語ったりはせん。 万有引力の法則が自ら語ることが無いのと同じや。 問う人: 念仏を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  念仏を唱えると神から遠のく。 問う人: お経を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  お経を唱えると神の放つ光が眩しくなる。 だから眼を閉じ、神に背を向け、神から遠のいて行く、そして最後にはアホになる。 問う人: 神に姿形はあるか。 「人の道」:  神に姿形はない。 宇宙の法則に姿形などは無いんや。 万有引力の法則に姿形がないのと同じや。 問う人: では仏像を彫って拝んだりするのはなぜや。 「人の道」:  それは神や仏が何たるかが判らん輩のやることや。 形に捉われるちゅーことほど愚かなことはない。 問う人: 大仏様を拝むと神に近づくんか。 「人の道」:  あのなあ、えーか。 大仏などの仏像を拝むのは偶像崇拝ちゅーてな、イスラムの国々ではおよそ人間のやる所業の中で最も卑しい行為と見なされておるんや。 嘘やと思うたら試しにサウジアラビアのモスクの前辺りでこれをやってみい、たちどころに警察に連行されてそれこそ犬畜生扱いされること間違いなしや。 問う人: では神に近づくにはどうすればえー。 「人の道」:  眼を開くことや。 「目ざめよ!」ちゅー人もいる。 そして真理を探究することや。 どうや、これで神が何か判ったか。 問う人: はい、よー分かりました。 神は宇宙の法則なんで念仏やお経を唱えても神には近づかんちゅーこと、よー分かりました。 「人の道」:  皆にも聞く、神に姿形はなく仏像を彫って拝んだところで神には近づかんちゅーこと、よー判ったな。  

  • 救いについての問答

    問う人:  一つ訊いてもえーか。 「人の道」:  何でも訊いてみい。  ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人:   救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   救いを求めれば救われる。 問う人:   神や仏に救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   それは違う。  神や仏に救いを求めても救われはせん。 問う人:   神や仏に救いを求めんで何に求める。 「人の道」:   あのなあ、  神や仏に救いを求めるちゅーのは完全な筋違いや。 問う人:   神や仏に救いを求めるのが何で筋違いなんや。 「人の道」:   えーか、  神や仏に救いを求めるのは神や仏に漬かろうとする心が生むんや。  神や仏に漬かろうとする心は決して救われることは無い。 問う人:   では何に救いを求めればえー。 「人の道」:   えーか、昔からよー言うやろ。  天は自ら救わんとする者を救うと。  これはつまり救いを求める先は自分ちゅーことや。自力本願や。  漱石も晩年にはそー悟ったんや。  どーや、これで 神や仏に救いを求めても救われんちゅーこと判ったか。 問う人:  はい、判りました。  やっぱ漬かっとっては救われはせん。 「人の道」:   救いは何に求めるかも判ったか。 問う人:  はい、判りました。  救いは自分に求める、自力本願以外にはない。 「人の道」:   宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いんや。  もしこれが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人:  宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。