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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

このQ&Aのポイント
  • 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを捉えることであり、善とは見えるものを見えると言い、見えないものを見えないと言うことである。
  • 悪とは善の対極に位置するものであり、悪とは偽ることや物事を捻じ曲げることである。
  • 偽ることは悪である理由として、偽ることによって真理の探究ができなくなるからである。偽ることはいかなる場合でも悪であり、最大の悪は神や仏、天国、地獄を語ることである。なぜなら、それは見えないものを見えると言うことであり、偽りであるからである。

質問者が選んだベストアンサー

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  • BlurFiltan
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回答No.9

#2の者です。 > この哲学カテではな、回答者は質問し、 > 質問者が回答するちゅー決まりなんじゃ。 あ~,そうでしたか。 そういうルールとはつゆ知らず。。。 では質問です。 私のフィーリング的には, 正に質問者さま(回答者さま?)は私と同じ感性を持っているように思います。 いと嬉し。 しかし他の方も書かれていらっしゃいますが「嘘」と「悪」とは違うと思うんです。 (だって 違う誤 として存在するんだもの...。) (嘘も方便って言うし...。) 質問者さま(回答者さま?)は同じ意味のように扱われていますが これは「意見のすり替え」と捉えられる可能性も十分あります。 この点はいかに? それとぉ~! もう一つ。すんません。 ご質問(ご回答)やご回答(回答のお返事?)何だか禅宗っぽいのですが, 禅宗とは宗教ではないのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしと同じ感性の人間など五万に一人おるかどうかやと思うが。 >(嘘も方便って言うし...。) その嘘も方便ちゅーのが問題なんや。 えーか、よー聞け。 嘘も方便ちゅーのは中国や日本などアジアの国々で培われた発想で方便の一つなんや。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではのーて全くの悪なんや。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 >禅宗とは宗教ではないのでしょうか? 禅宗はあかの宗教や。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。  

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その他の回答 (64)

  • kurinal
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回答No.35

Ano.34です。 「(必ずしも合理的とは言えないであろう)宗教に縋るよりは、心理カウンセリングやセラピーのほうがマシ」と言えるかもしれないと思って、書かせて頂きました。 どうも、このQ&Aで何か書くと、「ご質問者様ご自身のことについて書いている」と思われてしまうようですが、私としては、「もっと、困っている人」を念頭に書いているつもりです。 精神医学や心理学も「20年前から何も変わっていない」ということではなくて、「精神的な健康(状態)」ということについても、考え方は変わってきていると思います。 それは、少なくとも「100(完全にアウト)か、0(完全にセーフ)か」では、ないのです。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、えーか。 精神とか心ちゅーもんは自分で培うもんや。 自力本願でないとあかん。 宗教にしろ、心理カウンセリングやセラピーにしろこれらは全て他力や。 人は他力本願でなく自力本願でないといかんちゅーことや。 これは夏目漱石が晩年に言うた言葉や。 さすが漱石は偉大やと思う。 「人の道」は漱石のこの理念を基にわしが進化発展させたものなんや。  

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  • kurinal
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回答No.34

g3452sgpさん、今晩は。 「「心理カウンセリング」や「セラピー」であれば、無責任ではない」 と思いました。

g3452sgp
質問者

お礼

  自分の精神状態について人に相談に行く、カウンセリングしてもらうなどわしにはとても想像できんことや。 これはもう完全なる精神の奴隷状態やと思う。  

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回答No.33

 片方だけ回答ありがとうございます。もうしばしお付き合いください。 >>インド風に「人は他人に迷惑をかけている」、「人は他人に嘘をついている」と教えなさいちゅーことやな。  いいえ、違います。私は「人間は嘘を付かずにはおられない」という大前提を否定する必要はないと申したいのです。先に挙げたひろさちや氏の説は好例かと思いましたが、間違った印象を与えてしまったようで申し訳ありません。  では、違う例を挙げたいと思います。先の回答の中にも「情」という事について述べておられる方がいらっしゃいますが、g3452sgpさんは >>深い情けをもった者のみが嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることができるんや。 と述べておられますが、これはそうとは言い切れません。社会心理学者アッシュ氏の実験があります。これにはまず二枚の紙が用意され、一枚目の紙には、線が一本記されています。もう一枚の紙には、三本の線が書いてあり、(1)には一枚目の紙に書かれた線より極端に短い線、(2)には一枚目の線と同じ長さの線、(3)には(1)よりは長いが一枚目の紙の線よりは明らかに短い線が記されています。「一枚目のの紙に記された線と同じ長さの線を、二枚目の紙の中から選びなさい」という課題なのですが、普通の視力の持ち主ならば馬鹿げた実験です。同時の七人の被験者が参加し、一人ずつ回答してきます。実は、六人目の被験者以外はサクラの被験者です。最初は「なんてばかばかしい実験だ」と思っていたとして、一番目の人が(3)と答える。「目が悪いのか」と思っていたら、二番目の人も(3)と答える。何と自分の前の被験者が全員が(3)と答えたとして、どれくらいの人が(2)と答えられるでしょか。この実験では、50人中37人もの人が前の人にあわせて回答をしたと言われます。では、間違いを選ぶ理由は二つ、一つは「多数派が間違っているのだが、自分だけ少数派になるのは気まずい」、もう一つは「多数派の解答のほうが正しい可能性が高い」の二つでした。後から、この実験は何度もおこなわれていますが、この実験解結果にほとんど差はないようです。これは、「同調」という現象ですが、情などの関係性を重んじる民族である日本人はより同調率が高く、サクラ被験者が自分の所属する集団の人物であればより高くなると言う研究結果もあります。(ボンド.R氏とスミス.P.B氏)  つまり、深い情けをもってしまうが故に、物事の有るがままを有るがままとして捉えることが出来ず、嘘偽りを申すのが人間ではありませんか。やはり、人間は「嘘を付かずにはおられない」という前提があるのではないでしょうか。それとも、この大前提はg3452sgpさんもお持ちなのでしょうか?? >>だいたいインド人が道を歩いとるとインド人やとすぐに分かる。 >>つまり強烈な民族性と物の考え方を持っとるちゅーことや。  すごいですねぇ。よく海外交流ボランティアに参加していますが、人を見る目がないようなので話を聞いてみないとインドの方とバングラディッシュの方やインドネシアの方やスリランカの方なんか、見ただけでは区別が付きません。 >>日本人が真似しよー思うたところでとても真似などできるもんやない。  そういった海外の方と交流をしていて聞いたのは、東洋人の区別は付かないが「あれは、日本人だ」ってすぐ分かるって言ってましたよ(笑) >>そんなもんを目の当たりにしたらインド人の教えなどたちどころに吹っ飛んでしまうわ。お手本にするようなもんなど何もない。  そうですねぇ。MTVの調べによればアルゼンチン、ブラジル、中国、デンマーク、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、日本、メキシコ、南アフリカ、スウェーデン、イギリス、アメリカの中で若者が幸福を感じている国の1位がインドでした。日本は10位です。若者が希望を持てない国日本の私達は、お手本にするようなもんなど何もないね。 >>だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。  前前回の問いの中で行為者の過剰検出について述べたところで申しましたが「誰かに見られている」というのは非常に不快なものです。しかも「見られていると」いう感覚を安定した形で保ち続ける神や霊・妖怪等の宗教的概念が、「あって欲しい」という願いの形というのは無理があるのではないでしょうか? 急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。また、私にとってはこちらの方も重要なのですが g3452sgpさんのおっしゃる神道において死者は高天原に昇るという考え方は、どのようなものを根拠にされているか? どうぞお教えください。重ねてお願いいたします。 合掌 南無阿弥陀佛

g3452sgp
質問者

お礼

あのなあ、えーか。 高天原の話を格別に気にしとる様に見えるが、なぜこんなもんを一々気にする必要があるのかわしには皆目見当がつかんわ。 高天原ちゅーのは所詮作り話やろが。神道にしろ仏教にしろ、宗教ちゅうもんは何かストーリーを作らんことには話が始まらんのや。 そんなもん当たり前やろが。 神道は多神教の世界やから八百万の神を拝み、彼らの住み家を考えんとあかんのでそれを高天原としたんや。それだけのことや。 えーか、古事記も日本書紀もただの童話の世界なんや。 そんなもんに何か思想的なもんとか、現実的意味を求めようと考える人間がいたとしたらそいつは完全な精神薄弱児や。 高天原をどう描こうとそれは個人の自由やろが。 高天原にノーパン喫茶があると考えようが、ソープがあると思おうが全く自由なことでそれを一々問うのは全く意味の無いあほのやる事や。  

g3452sgp
質問者

補足

  えーか、 とにかく言うとくがインド人とかヒンズーなんぞは近寄らんほうがえー。 わしに言わせれば、インドとかヒンズーなんちゅーのは化け物の世界や。 何せ2千年もカースト漬けになっとった連中や、何を考えるとるか分からん。 そんな化け物みたいなもんに首突っ込むもんやない。      

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  • kurinal
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回答No.32

・・・身に覚えがあるかどうか、ということでしょうか。

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか、一つ言っとく。 無責任な人間は「人の道」を歩むことはできん。 わしは無責任やない。 嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語る者は間違いなく無責任や。 だからこうい者は「人の道」を歩むことはできんのや。 無責任な人間は植木等だけで十分やと思う。    

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  • kurinal
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回答No.31

g3452sgpさん、今晩は。 ・・・しかし、現に「それ」で救われた人が居る、ということを熱っぽく語られる方も居られます。 私としては、それを「素晴らしいですね」と評価することはあっても、「デタラメに過ぎない」と突き放すことは、出来ません。 「一番悪いちゅーこと」は、「もっと「無責任」な態度」に関することなのではないでしょうか。

g3452sgp
質問者

補足

  無責任? ひょっとしてわしのことを言うとるんかな。  

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  • magga
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回答No.30

<<思想と理念を備えるもんは、枝葉の辺り、つまりどうでもよい細部について不平不満は言わんもんじゃ。>> 自己の思想・理念を正しいと決め付け、その正しさを基準に、あるものごとについて「どうでもよい細部」と決め付け、非論理的・無根拠において、「ない」と決め付ける。 我の思想は正しいと「決め付け」 どうでもよい細部と「決め付け」 非論理・無根拠にて「決め付け」 私にはこのような決め付けの態度こそが「宗教漬になって嘘八百並べる」行為であると思います。 「道の人」が言われる「一番悪いこと」がそこにあると感じますよ。 「無根拠に決め付け、嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語る(「ある」「ない」について)」のが一番悪いのではないのですか? 偽ることで真理の探究が出来なくなると僕も思いますよ。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

  仏教にもいろいろなもんがある。 浄土真宗、日蓮宗、密教、創価学会、・・・・その他、数え上げれば数百は出てくると思う。 原始仏教にとり付いた者たちが各々2000年の時間をかけて養生、派生させた結果や。 お互い罵りあっとるのも多い。 しかし「人の道」にすればこれらは全て枝葉の辺り、どうでもよいことに過ぎんのや。 神や仏、天国、地獄を語ることに明け暮れる者に過ぎん。  

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回答No.29

 心の持つ要素に「理性、意志、感情」が挙げられます。  私の文では理性と意志という言葉を使っているので、感情をわざと“情”と表現しても理性、意志とセットで使われる“感情”の事であることは分かってもらえるのではないかと思いましたが、それを「情け」と受け止められてしまったようです。  感情にはよく「喜怒哀楽」があるといいますが、“情け”は「哀」にあたるかと思います。  その“情け”は感情ですが、感情のすべてを言い表しているとはいえません。  同様に精神、心を語るのに「理」の面からだけで語るのではなく、「情」も含めなければならないと思ったのです。  g34さんはいわゆる「教祖」なるものを毛嫌いしているようですが、「人の道」教の“教祖”的要素がありそうな印象を持ちました。質問文やご返事にその“感情”が現れています。  ということはg34さんの「理性」も「感情」の影響を大きく受けているのでしょう。  わたしがg34さんの問いに反応したのは、一部分を取り上げてそれが全体であるかのように語ろうとしてる、と思ったからでした。  g34さんの質問文における主張は「正見」に相当するのではないでしょうか。  それは人間が正しく生きるための一つの要素であり、その意味では間違ってないと思います。

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか。 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 この善を行うには何が要る。 深い情けが要るんや。 深い情けをもった者のみが嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることができるんや。 えーか、少し考えてみい。 人を騙したり、嘘偽りを並べるっちゅーのは情けがないからそーなるんやないか。 人を思いやる情けがあれば嘘八百並べたりはせん。 嘘八百並べる者が何をやっとるかよー見てみい。 お互い争いばっかりやっとる。 情けをもった人間は嘘八百並べたりはせんのや。 情けをもった人間が「人の道」を歩むんや。   えーか。 情けの原動力は何や。 それは正義感や。 正しい道を歩もうとする心や。 えーか。 正義感の原動力はなんや。 それは真理を探究する精神以外にないやろが。  

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回答No.28

 いやあ、白熱していますね。NO.4で回答した者です。  今まで質問者さんと回答者さんのやりとりを見ていて感じたことは、それぞれにとっての「真」や「善」の意味が異なっているようだ、ということです。  私は「真」と「善」とはまったく別のものだと思いますが、質問者さんはその二つを同じようなものとして捉えているのでしょう。そして私の見解ではやはりそれは誤解であると思います。  質問者さんは「真」こそ「善」だ、といっていますが、そういえるのは質問者さんがそもそも「真」と「善」を区別して捉える、という考え方を放棄しているためです。質問者さんは今までのご自身の経験から「真=善」という質問者さんにとっての確信に到達したのでしょうが、それは質問者さんにとっては真実でも、他の人にとってはそうではないのです。  質問者さんの主張を支える論理は、自分がそう確信したのだからそれが真実なんだ、というものばかりで説得力に欠けます。質問者さんが「真」を求めているなら、自分が何を伝えようとしているのか正確に語る必要があるでしょう。悟りきったような婉曲表現はもうお腹いっぱいです。平明な表現で、どこまでも正確に語ってください。  なぜ「真」が「善」なのですか? なぜそれを確信したのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか。 真理ちゅーもんはな、常に単純なものなんや。 善についても同じや。 物事の有るがままを有るがままとして捉える。 この善の教え自体は全く単純や。 しかしこの単純なことを実践するのが難しいんや。 この善を実践するには深い情けが要るからや。 真理とは常にそーゆーもんや。  

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回答No.27

No.19です。 うん、だから嘘か本当かを基準に考えるのが間違いだと言う事。 だってね、本人が本当だと思って言っている事は、嘘って言えないしょ。 そもそも、何でも突き詰めていくと、本当って何が本当か分からないところもあるしね。

g3452sgp
質問者

お礼

  本当に何が本当か分からんちゅーのか。 それは深く考えすぎるからや もともと深く考える必要はないんや。 えーか。 真理ちゅーもんはな、常に単純なんや。 善についても同じや。 嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉える、これで十分なんや。 これが一番正しいんや。   

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回答No.26

 究極とか思想理念とか軽々しく使ってますが  どこかで仕入れてきた言葉ですか?  真 と 善 は、文字が違い、音が違い、意味も違うと思うのですが。

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     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

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    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。