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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:救いについての問答)

救いについての問答とは?

このQ&Aのポイント
  • 救いを求めれば救われることはあるのか。神や仏に救いを求めることとはどういう意味なのか。宗教漬けになっても救われることはないのか。これらの問いに対する答えをまとめています。
  • 救いを求める先は自分自身であり、自力で救うしかないことを知ることが大切です。宗教漬けになっても救われることはなく、救いを求めることは自力本願であることを理解しましょう。
  • 救いは自分に求めることが重要であり、宗教漬けになるだけでは救われることはありません。他者に訊いて考えを共有し、自分自身で救いを見つけることが必要です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

>救われるとは、 人が自身の身に起こった出来事の顛末を全て理解し、納得し、その結果として満たされること、因果応報の理を知り納得すること、顛末の全てが宇宙の法則の結果であることを知り納得すること、そして満たされること。  と、言ってますが、それなら、どうかすりゃ念仏で救われるんじゃないかな? 普通に考えりゃ自分に宇宙の法則を求めたってしょうがないじゃない。宇宙の法則は物理学と数学と天文学の皆さんにまかせるのが当然でしょうに。  そんな救いなら、たとえば仏教なら仏教のストーリーと世界観があって、たくさんの人がそれを知ってるわけだし、その世界に自分もあるのだと思えることで納得できることは多々あるだろうよ。 今は世界観があまりにも多様だから、あなたのように感じる人もそりゃあいるでしょう。  と、思いました。  でも質問文だけなら、 問う人 あれ?そもそも私は救われたいんでしたっけ? 人の道 知らん、自分で求めれ 問う人 あ、この世に救いなんてもともと無いですよね。 人の道 そのとおりや、がんばれ。  という流れをつけたくなりました。  さらに妄想はいると、 この世に救いはない。 でも医者はインフルエンザワクチンくれるしなぁ、→医者が病気から救ってくれるのかもしれん。 でも社長は給料くれるしなぁ→社長が貧困から救ってくれるのかもしれん。 でも友達が電話くれるしなぁ→友達が孤独から救ってくれるかもしれん。 とーちゃんは、妻は、ご近所さんは・・・ そうか!救いは身近にあったのだ! と説くマンガならたくさんありそうな予感。 独り言なのでポイントはいりません。

g3452sgp
質問者

お礼

  >そうか!救いは身近にあったのだ! ハイ、仏陀一丁出来上がり  

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その他の回答 (25)

回答No.26

g3452sgp さん、回答へのお礼等の書き込みがないですし、閉じられると中途半端なので 天国とか、地獄とか、仏陀はどのように考えていたか触れておきます。 有名な話なので、知っている人も多いと思いますが、「仏陀 毒矢のたとえ」で検索すれば 色々引っかかってきます。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&biw=1280&bih=608&q=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%80%80%E6%AF%92%E7%9F%A2%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq= 一例を挙げると、以下のサイトが上手くまとまっています。 或る人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。 かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。 しかし矢にあたったその当人が、「わたしを射た者が、王族であるか、 バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。 またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。・・・」と語ったとする。   それでは、この人は、こういうことを知り得ないから、やがて死んでしまうであろう。 それと同様に、もしも或る人が「尊師がわたしのために〈世界は常住であるか、常住ならざるものであるか〉 などということについて〔いずれか一方に〕断定して説いてくれない間は、 わたしは尊師のもとで清らかな行ないを実修しないであろう。」と語ったとしよう。 しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、 そこでその人は〔毒がまわって〕死んでしまうであろう。 (中略) この経の意図するところは、実に明瞭であります。 現実に苦悩の矢にあたって苦しんでいるのに、世界は常住であるかどうかとか、 魂は永遠であるかどうかなど、おかしな話ではないか。 まず、その苦悩を解決するのが先決だというのです。 そして、その解決法が、四諦(したい)の教えであります。 「これは苦しみである」(苦諦:くたい) 「これは苦しみの起こる原因である」(集諦:じったい) 「これは苦しみの消滅である」(滅諦:めったい) 「これは苦しみの消滅に導く道である」(道諦:どうたい)。 この四つの真理を断定して説いたというのです。  結局行き着くところは、形而上学的な思弁ではなくて、八正道の実践ということになります。  八正道の実践は、中道のことでありますから、詮じつめていえば、空に住することになってしまいます。 http://sammy-p.at.webry.info/201002/article_24.html 仏陀は、現実の問題を救済することが大事で、あの世とか宇宙が有限とか無限とかそのような形而上学的な問いを 考える事は、現実の救済を遅らせることと考えていたようです。 あの世はあるのかないのか」といった観念的な質問に対しては答えずに、ただ沈黙されたといい、 これを仏教語では「無記答」といいます。 無記とは答えない、無回答ということですが、悪事を為しながら知らんふりすることとはちがいます。 無記答で、検索すると色々な事が分かります。 http://www.google.co.jp/search?q=%96%B3%8BL%93%9A&hl=ja&source=hp&aq=f&aqi=g10&aql=&oq=&gs_rfai=&num=20 >結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。 とは、違うと思いますよ。答えを持っていなかったのではなく、積極的に答えなかったというのが正解のようです。 それから、推定できるように宇宙が有限とも言っていませんからね No8の回答へのお礼の 宇宙の法則  今この瞬間に厳然として存在するこの宇宙について、  何故宇宙はこの宇宙なのか、  ・  ・  等の探求は、救済から遠いと仏陀が嫌うものだと思います。

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回答No.25

とても有名な話なので、知っているかも知れませんが。 仏教の説話に、我が子を失って悲嘆に暮れる若い母の物語がある。 なんとかして赤ん坊を生き返らせてほしいと母親は会う人ごとに訴えていた。 人々は彼女に同情し、ゴータマ・シッダールタという評判の高い僧に頼めば、 奇跡を起こして子供を生き返らせてくれるかもしれないと勧める。 希望に燃えた母親は、死んだ子供を抱いて仏陀に会いに行く。 「それは気の毒な話だ。赤ん坊を生き返らせてあげるから、村へ帰って芥子の実を二、三粒貰ってきなさい」 と指示する仏陀の言葉に従い、彼女は喜んで走り去ろうとすると、 「ただしその芥子粒は、今まで死者を一度も出したことのない家から貰ってこなければならない」と仏陀は付け加える。 半狂乱の母親には仏陀の真意はまだ計り知れない。 村にとって返した彼女に、村人は喜んで芥子粒を提供しようとする。 しかし第二の条件に対しては、「とんでもない。うちでは父や母だけでなく、子供も亡くしている」 というような返事しか聞くことができない。 最初のうちは希望を捨てずに尋ね歩くが、家から 家を駆けめぐるうちに、彼女にも仏陀の言葉の意味がわかってきた。 ほとんど村をまわった頃には彼女の狂乱も消え去り、心の平安を取り戻したという。 ttp://www.iii.u-tokyo.ac.jp/blog/media/8/20101102-2011-L.pdf からの抜粋 このことから、宗教が現実逃避とはとても思えません。 逆に、徹底して不幸と向き合い逃げることの出来ない現実として受け入れるように仕向けている気がします。 >---------- 宗教の本質 ---------- >    十ヶ条 >四.宗教は心地良いものであり、悩み、苦しみからの逃避手段です。 これは、誤っていると思います。 悩みは逃避しても逃避できると限った物ではない。 逆に、悩みと真摯に向き合う。そういう苦しさを要求していると感じます。 悩みを背負って生きていく覚悟を決めたその時、救われるものだと言う気がします。

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回答No.24

zakky74でございます。 >あのなあ、zakkyよ、この読み違いはハンパではないんや、よー考えてくれ。 僕が受け取った世界を共有しますから読み違いがある様でしたらご指摘下さい。 まず僕は次の様に尋ねました。 >>>>>>自分と神や仏が完璧に統合共存されている状態でしたら、即ち自分は神や仏と一体の状態でしたら、その状態で救いを求めても救われる事は無いのでしょうか? この問に対してのお応えの中で、 >>>>>未だ神になった人間など一人もおらん。 とありましたが僕は、これを言い切る根拠は無いと判断しています。 でも、もしかしたらg3452sgpさんなりの根拠があるのかもしれない、とそこに興味が湧きました。故に、こう尋ねます。 >>>>ではg3452sgpさんが、未だ神になった人間など一人もおらんと言い切る理由、若しくは根拠をお聞かせ下さいませ。 そしたら、以下のお応えをしましたね。 >>>そんなもん簡単なことやないか。考えてもみい・・・を立派に証明しとるんや。 これを僕は、この様に解釈しております。 例えば、歴史上を振り返るとお釈迦さまやイエス・キリストの様な人たちを含めた多くの人間がおりますが、もし神になった人間が一人でもいたら、そこから宇宙森羅万象を理解・説明・納得できる理解方式・認識方式が広がっているだろう・・・と。 真理の探究が終わっている状態だから、宇宙の法則が全て透明化されて、その法則に沿って宇宙森羅万象を説明する事が出来る筈だ・・・と。 神になった人間がいたら、即ち真理の探究が既に終わって宇宙の法則が全て分かっている状態が、2500年前や2000年前に起きているならば、少なくとも今の時代には真理の探究は終わっている状態だから、宇宙の法則は勿論、宇宙森羅万象が理解・説明・納得が出来ているし、抽象的な何かにしがみついたり盲信したり漬かる必要が無くなっている筈だ、と。 ところが現代を見てみるとどうかと言うと、未だに抽象的な何かにしがみつき、盲信し、漬かっている人が大勢いるし、実際まだまだ宇宙の法則で未解明な事が多いところを見ると、真理の探究が終わっているとは言えない。 だから、未だ神になった人間など一人もおらん事が証明されている・・・と。 この様に僕は受け止めております。いかがでございましょうか?ハンパない読み違いがどこにあったのかを是非ご指摘下さいませ。 さて、現段階では僕は読み違いとは思っておりませんので、僕がg3452sgpさんのお応えを受けて、どう思ったかを共有しますね。 g3452sgpさんは、歴史を振り返って、2011年の時点で未だに宇宙の法則が解明されていないと思っていますが、例えばですが1996年に真理の探究が終わった人物がいて、宇宙の法則が解明された可能性は本当にないのでしょうか? 2500年前を取り上げると現代までに2000年以上も期間がある訳ですから、地球上余すとこなく伝わりきっている筈だ・・・と思い易いかもしれません。 それは理解できますが、1996年に真理の探究が終わり、そこから広がりだして15年が経過している状態だけれども、未だg3452sgpさんのところにまでは広がっていない・・・という可能性は本当に無いのでしょうか? この場合、g3452sgpさんは「未だに神になった人間など一人もおらん・・・」とは言い切れません。神になった人間はいるのですが、g3452sgpさんが知らなかっただけ、g3452sgpさんが出会っていないだけ、という可能性が残されている訳でございます。 故に、次の様に尋ねました。 >>つまり、真理の探究は既に完了しており、宇宙の法則について明々白々な理解を得ている状態だけれども、未だそれが広がる過程であり、g3452sgpさんが触れていない状態だ・・・という事実。そんな事実が既に起きている可能性も往々にしてあるのではないでしょうか? この問に対して、g3452sgpさんは納得する筈です。 なぜならば、その事実を確認するには68億人全員に確認作業を行うまでは、「未だに神になった人間など一人もおらん・・・」と言い切れないからです(実際、確認作業はなさっていないでしょう?)。 ただ、g3452sgpさんはこの論理に納得なさらずに、もしかしたら強引に、無理矢理、言い切ってくるかもしれません。 僕はその事を予測し、 >>その可能性が無いのでしたら、根拠をご提示下さい。 とお伝えした上で >>思い≠事実、ではありませんよね? >>g3452sgpさんの思い≠事実 >>g3452sgpさんの判断≠事実 を確認した訳でございます。 事実は思いや判断とは違うものです。事実は68億人に確認する事で明らかになるのではないでしょうか?

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回答No.23

>あのなあ、 >だからわしは言うとるんや、宗教漬けになると必ずこーなると。 私は、特定の宗教を信仰していません。

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回答No.22

問う人: >仏陀が神、天国、地獄について何を語ったか言うてみい。 「人の道」: >仏陀の周りにいる人々は神、天国、地獄について知りたいと思った。 >しかし、仏陀は神、天国、地獄について何も語ることは無かった。 >結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。 と、自分で回答しています。 私の答はいらないでしょう?

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回答No.21

g3452sgp氏のサイトで、宗教に言及しているところをコピーしておきます。 宗教に対して、どういう認識であるか知ってほしいと思います。 ---------- 宗教の本質 ----------     十ヶ条 一.宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。 二.宗教は全世界に隈なく分布し、その数は数千にも数百万にも及びます。 三.宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。 四.宗教は心地良いものであり、悩み、苦しみからの逃避手段です。 五.全ての宗教は宇宙は有限であると説きます。 六.宗教は人の死に際を整えるための儀式です。 七.宗教はもともと人間社会を統治する道具として生まれました。 八.宗教は利益を追求するものです 九.儀式や統治の道具としての宗教は力を失い、宗教の時代は終わりに近づいています。 十.宗教の次に来るもの、それは「人の道」、つまり真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 ttp://www.geocities.jp/g3452sgp/honsitsu.html

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回答No.20

恐ろしい。あなたは、怖いくらいに無知で誤っている。 >仏陀というのは、何も言わず語らずの人間や。 >何も言わず語らずの人間は神、天国、地獄について多くを語らず、否定もせんのや。 仏陀は、数多くのことを弟子に語っています。 仏陀の教え http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&biw=994&bih=453&q=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88&aq=5&aqi=g10&aql=&oq=%E4%BB%8F%E9%99%80 なのに、あえて、神、天国、地獄を語っていないのです。 あなたの、宗教は神、天国、地獄からなるという言う内容は、誤っていることになりませんか? 、

g3452sgp
質問者

お礼

  仏陀が神、天国、地獄について何を語ったか言うてみい。  

g3452sgp
質問者

補足

えーか、  仏陀が神や仏、天国、地獄について何を語ったか、答えが出とるんならそれを自分の口で言うてみい。  

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回答No.19

あなたが作ったと思われるサイト、には以下の記載があります。 ---------- 宗教の本質 ----------    十ヶ条 >三.宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。 仏陀は、神、天国、地獄の存在について、何も語っていません。 弟子のそれらに関する問いについて、返事をしていません。 つまり仏陀は、神、天国、地獄を否定しているといえるわけです。 そのことを知って、上のようなことを書いているのですか? 知らないなら、削除すべきではないでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  仏陀というのは、何も言わず語らずの人間や。 何も言わず語らずの人間は神、天国、地獄について多くを語らず、否定もせんのや。    

g3452sgp
質問者

補足

  仏陀の周りにいる人々は神、天国、地獄について知りたいと思った。 しかし、仏陀は神、天国、地獄について何も語ることは無かった。 結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。  

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  • -72
  • ベストアンサー率33% (14/42)
回答No.18

>仏陀が犯した愚行を示すのは簡単なことや。 仏陀が悟ったなんちゅーアホなこと言うから、麻原彰晃なんちゅー愚かもんが出てきて最終解脱したとか言うストーリーが出来上がったんや。 どんな教えにも、都合良く間違った解釈をする馬鹿は居るものだよ。 アンタも言いたいことが相手に伝わらない時ってあるだろう? 仏陀は、救いやら奇跡やらを、完全に否定してるからね。 >これは麻原彰晃とオーム真理教だけではない、似たよーな輩はこの世界には五万とおるんや。 そんなことは仏教界の歴史を振り返れば直ぐに判るはずや。 俺は、最近の新興宗教や、神や仏拝むだけの宗教に価値が有るなんて言ってないんだよ。 馬鹿が都合よく仏拝めば救われると、改変したのが仏教の歴史だよ。 >オーム真理教は未だ健在なんや、今でも麻原彰晃を最終解脱したちゅーて拝んどる者はいっぱいおるんや。 だから言うとるんや、宗教ちゅーのはこーゆーもんやと。 だ~か~ら~馬鹿を見ただけで、全てを知った気になるな。 大体他人を拝んで救われるわけ無いだろうが。 >仏陀が悟ったことによって得たもんがあるかどーか、我々凡人には分からんのでそれを探求する・・・、なんちゅーことを言うとるが、この話ロジック的に考えて少しおかしいとは思わんのか。 「分からないことは、頭から否定せず、探求すべきである」 どこか間違ってるなら、説明してくれ。  

g3452sgp
質問者

お礼

  >「分からないことは、頭から否定せず、探求すべきである」 しかしなー、少し考えてみい。 「仏陀は悟ったことによってこれこれの真理を発見した、我々はその真理が正しいかどーか、本物なのかどーか探求する。」 これなら真っ当であり、探求の価値があると言える。 ところがなー、 「仏陀が悟ったことによって得たもんが有るかどーかは判らん、また得たものが有ったとしてそれが何かは我々凡人には分からんのでそれを探求する。」 この流れは明らかにおかしいと言うとるんや。 その証拠に、仏陀の所に適当にAさん、Bさんと入れてもう一度考えてみい。 何かがおかしいと気づくはずや。  

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noname#128939
noname#128939
回答No.17

救われていますね。  こんばんは。 寝るときに、枕を求めます。そばに枕があれば与えられます。 朝起きて、誰かと挨拶を交わしたいと思えば 近くに知った人がいれば、与えられます。 あたりまえの事ですが、これはすべて 仏教でいうところの{ 縁 }だそうな。 昔のお坊さんの言葉に { 縁によって、知るがよろし }というのがあります。 経験から学びなさい、すべてのものに仏性がある事を。 そんな意味だと思います。 たぶん、{ すべてのものに宇宙が有る }と 同じ意味だと思うんですよ・・・よくわかりませんが。 だから救いについては、多くを語らず、街へ出て あらゆるものに、ありがたいと感じる他にありません。 実際、空腹のときにコンビニに行けば お金を払うだけで、パンが与えられるのだから。 なんか、お金の話ばかりですみません。  

g3452sgp
質問者

お礼

  >だから救いについては、多くを語らず、街へ出て あらゆるものに、ありがたいと感じる他にありません。 pixsfineさん、 あんたはここでえー事言うた。 あんたは救われたんや。  

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      悟りました。 神も、仏も、奇跡も、霊も、あの世も、輪廻も、來世も、念仏も、お題目も、偶像も、御本尊も、無も、空も、・・・全ては人が心の中に描いた願いであることが分かりました。 もーこれ以上何も考えることはあるまい。  

  • 審判の日

    問う人:  一つ訊いてもえーか。 「人の道」:  何でも訊いてみい。  ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人: 審判の日は来るんか。 「人の道」: 審判の日は必ずやって来る。 問う人: なぜ審判の日はやって来るんや。 「人の道」: 自然界の掟、宇宙の法則は漬かろーとする心を戒めるためや。 漬かろーとする心が悪を生むことを悟し、宗教漬けになることを戒めるためや。 問う人: 審判の日にはどーなる 「人の道」: 宗教漬けになったものは、己が長い間漬かっとったことを悟る。 そして、 漬かろーとする心が、神や仏を造ったことを知る。 漬かろーとする心が、天国、地獄を求めたことを知る。 漬かろーとする心が、有を無であると願い、無を有であると願ったことを知る。 漬かろーとする心が、無限なる宇宙を否定したことを知る。 漬かろーとする心が、真理の探求を放棄したことを知る。 漬かろーとする心が、形や権威に縛られたことを知る。 漬かろーとする心が、正しいことを諦めたことを知る。 問う人: 宗教漬けになったものは、裁きを受けたあとどーなる。 「人の道」: 魂の抜け殻となる。 思想も哲学もなく、全てを失い路頭に迷う宗教難民となる. 審判の日には魂の抜け殻となった多くの宗教難民が生まれる. あ~何ちゅー哀れ、 あ~何ちゅーあほらしさ. 問う人: 審判の日を逃れるにはどーすればえー。 「人の道」: 今さら何を訊く、その答えは言わずと知れたこと。 問う人: そーか、「人の道」を歩めばえーんや。 「人の道」: そのとーり、「人の道」を歩めばえー。 もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 「人の道」を歩めば審判の日は気にせんでえーちゅーこと、皆はどー思うか訊かしてくれ。  

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?