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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

このQ&Aのポイント
  • 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを捉えることであり、善とは見えるものを見えると言い、見えないものを見えないと言うことである。
  • 悪とは善の対極に位置するものであり、悪とは偽ることや物事を捻じ曲げることである。
  • 偽ることは悪である理由として、偽ることによって真理の探究ができなくなるからである。偽ることはいかなる場合でも悪であり、最大の悪は神や仏、天国、地獄を語ることである。なぜなら、それは見えないものを見えると言うことであり、偽りであるからである。

質問者が選んだベストアンサー

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  • BlurFiltan
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回答No.9

#2の者です。 > この哲学カテではな、回答者は質問し、 > 質問者が回答するちゅー決まりなんじゃ。 あ~,そうでしたか。 そういうルールとはつゆ知らず。。。 では質問です。 私のフィーリング的には, 正に質問者さま(回答者さま?)は私と同じ感性を持っているように思います。 いと嬉し。 しかし他の方も書かれていらっしゃいますが「嘘」と「悪」とは違うと思うんです。 (だって 違う誤 として存在するんだもの...。) (嘘も方便って言うし...。) 質問者さま(回答者さま?)は同じ意味のように扱われていますが これは「意見のすり替え」と捉えられる可能性も十分あります。 この点はいかに? それとぉ~! もう一つ。すんません。 ご質問(ご回答)やご回答(回答のお返事?)何だか禅宗っぽいのですが, 禅宗とは宗教ではないのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしと同じ感性の人間など五万に一人おるかどうかやと思うが。 >(嘘も方便って言うし...。) その嘘も方便ちゅーのが問題なんや。 えーか、よー聞け。 嘘も方便ちゅーのは中国や日本などアジアの国々で培われた発想で方便の一つなんや。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではのーて全くの悪なんや。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 >禅宗とは宗教ではないのでしょうか? 禅宗はあかの宗教や。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。  

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その他の回答 (64)

  • eld3399
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回答No.15

善と悪で構成されている証拠です。

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  • BlurFiltan
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回答No.14

#9です。 発見の報告で~~す。 > やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 そ,そうでしたか。。。 でも そう言われてみて 私もその点(同じ感性ではない点)を見つけましたぁ! > 悪とは善の対極にあるもんや。 私は 悪とは善の対極にある とは思っていません。 すべてのものに対極など存在しない。 そう思っています。 単純な話, 私は酒は好きなんですけど,それと同時に自分の中に酒が嫌いな自分も持ってるんです。 単純な話, 私は男なんですけど,それと同時に自分の中に女も持ってるんです。 単純な話, 緑色の紙に,赤色の光を当てると緑色の紙が赤っぽく見えるんです。 単純な話, 私は生きているつもりなんですけど,それと同時に自分の中には死者だらけなんです。 ・例えば肉体 私の肉体から水分を取り除くと ほとんどの大部分 99.9999999999% は死者及び他の生者の分泌物からできています。 私? 私なんてどこにもいない。 死者 や 生者 の分泌物が私というカタチを作り上げているだけ。 それ以上でも以下でもない。  →死は生の対極ではなく その一部(全部)として存在する。 ・例えば精神 言わずもがな 私の精神のほとんどの大部分 99.9999999999% は死者及び他の生者の精神からできています。 私? 私なんてどこにもいない。 死者 や 生者 の精神が私というココロを作り上げているだけ。 それ以上でも以下でもない。  →死は生の対極ではなく その一部(全部)として存在する。 全てのものに対極などありません。 唯一 その点だけが 違っていることに気付きました。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、えーか、よー聞けよ。 善と悪はちょうど磁石のN極とS極みたいなもんや。 お互いに対極にあって反発するだけで決して引き合うことはない。 そーゆーもの同士のことや。 決して交わったりはせんのや。 そこが善の美しいところであり、悪の醜いところなんや。 そーゆーふうに考えれば分かることや。 対局するものは他にもある。  白玉と黒玉  水と油  猿と犬  共産党と自民党  日本と北朝鮮    ・    ・  他にもまだまだある    ・    ・ どーや、対局するものはいっぱいあるちゅーこと分かったろう。 >単純な話, >私は男なんですけど,それと同時に自分の中に女も持ってるんです。 >単純な話, >私は生きているつもりなんですけど,それと同時に自分の中には死者だらけなんです。 これとその後に続く文面については見んかったことにする。 ただ気持ち悪いだけやから。 一度病院に行って診てもらうことや。 それしか言えん。  

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回答No.13

 たびたび失礼します。 >>中国や日本などのアジアの国々では嘘偽りを方便などと言うて多用する文化がある。  確かにありますね。私もこの「嘘も方便」という使い方には以前から疑問を持っていました。嘘=方便ではありません。方便の良い例としては落語の『芝浜』が挙げられます。  酒ばかり飲んでいる魚屋の男が芝浜で大金の入っている財布を拾います。家に帰って妻に酒を買いに行かせてどんちゃん騒ぎをしますが、眠ってしまったらしく目が覚めると拾ったはずの財布見つかりません。妻の言葉によって「財布を拾ったこと」は夢であったと知らされます。それから男は改心して酒を止め、懸命に働き立ち直り、独立して自分の魚屋を構えるまでに出世しました。そんなある大晦日の夜のこと、妻から実は妻が財布を隠していたという事の真相を知らされ、妻が男の好きだった酒を勧めます。すると男は飲もうとしません。そこで妻は、 「なぜ飲まないんだい?」 と尋ねると、男は 「また夢になるといけねぇや」  というのがサゲです。このサゲは「とたん落ち」に分類されますが、私は「どんでん落ち」のほうが正しいように思います。なぜなら、この「また夢になるといけねぇや」という男にとっては「財布を拾った」という現実が夢で、「財布を拾ったのは夢だ」という妻の嘘が現実になっているからです。私はこれが「方便」であって、嘘を付く側に方便はなく、それを受け取る側が真実と受け止めたとき方便になると考えています。 >>しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではなく、全くの悪なんや。  しかし、『芝浜』も悪ということですね。しかし、嘘偽りはそれほど単純ではないようです。科学哲学者野家啓一氏はこんな例を挙げています。東北自動車道の交通事故を取り上げたとしても、単純にありのままを話すにしても、運転手、同乗者、目撃者、警察、新聞記者等々立場の違いに応じて、その語りに微妙なまたは決定的な違いが生じるはずですと述べておられます。一体誰が嘘うを付いているのでしょうか。  なぜこのような事態が起こるかといえば、人間の認知システムに問題があります。人間はビデオテープの如くにありのままを写し取るように認知しているわけではなく、五感による電気刺激を脳の中で再構成することで外界を認知し、そこに誤差が生じるのです。つまり、 >>善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 私達がこの認知システムに頼っている以上、物事を有るがままに捉えることなど決してできるものではありません。  しかもそれを記憶したとしても、覚えているものはいつの間にか変容してしまいます。認知心理学者仲真紀子氏は、実際に体験していないことでも、まるであったかのように思い出されることがあるとし、これを「虚偽記憶」、「偽りの記憶」とも呼んでいる。  また、神経生物学者ロジャー・スペリー氏の分離脳(右脳と左脳が障害や手術によって分離しているもの)患者の研究では、分離脳患者が椅子に座って言う状態で左耳(右脳と繋がっています)に「歩きなさい」というと、患者は椅子から立ち上がってあることします。この時右耳(左脳と繋がっています)「あなたは何をしているんですか?」と問うと「のどが渇いたので」等々のそれらしい理由をつけます。これは、左脳の「物語システム」オフには出来ないからだそうです。  しかし、問題なのは上に挙げた例はすべて正常な脳の人間にも日常的に起きていると言うことです。つまり、嘘を付くように出来ているわけですよ。   >>知らんもんを知らんと言う。 >>こっちの方が正しいに決まっとる。 >>これは誤魔化しようのないこと、宇宙の法則や。 >>この正しいことを捻じ曲げようとする心が悪を生むんや。  では、前々からお聞きしたかったことをお聞きします。以前の質問の中にg3452sgpさんのお言葉の中に、 >>神道における天国、地獄は高天原です。 >>高天原の中に天国、地獄があり、人は死ねば高天原に行くのです。 >> 古事記において高天原とは天上の世界、神々の宿る場所であり、イザナギの神、イザナミの神のふるさとです。 >>従って、人は死んで天に昇り神さまのいる世界へ行くというのであれば、そこは高天原以外にはないでしょう。 とありました。こんな思想があるのかと驚いて『古事記』や本居宣長や平田篤胤等の古典から、神道系の新興宗教の書籍をずいぶん読み直してみたのですが、人も神も死者は「黄泉」「黄泉の国」に行くものであって、高天原に行くと言う記述が見られません。また、高天原に地獄と極楽があるという記述も見られません。これは一体どのような方のどのような思想をもとにして述べられたご意見ですか??教えてください。   急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

g3452sgp
質問者

お礼

  仏教は方便の世界や。 嘘をつくのも方便、お経を唱えるのも方便、真理については言わず語らず押し黙る、これも方便、つまり全てが方便ちゅー訳や。 世の全てを方便で片付けようとするのが仏教や。 その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。 しかし全てを方便で片付けとったら後には何が残る。 不可解な世界が現れるだけと思うがそーやないか。 嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。 ほんとにそれでえーか。 「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。  

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  • magga
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回答No.12

<<善とは究極的には物事の有るがままを有るがままとして捉えること。>> 私もそのように思いますよ。 <<これが「人の道」における善の解釈や。そして悪とは善の対極にあるもの、偽るもの、物事を捻じ曲げようとするもの。これが「人の道」における悪の解釈や。この善と悪の捉え方が「人の道」の根幹をなすものであり最も重要なんや。>> しかしながら「人の道」さんの思索方法には論理的な穴・矛盾が多くあるようにみえます。いささか踏み込みすぎている。言えないことについて無根拠に決め付けるところがあるまだ不完全な論理であるようにみえます。 <<この「人の道」はわしの思想と哲学の集大成なんや。わしが長年こころを込めて作り上げた思想と哲学の最終成果物や。日本中の宗教が束になっても及ばんようなコンテンツがぎっしり詰まっとる。>> パーリ語仏典に記される、真理の護持の態度ぐらいは学ばれた方がいいかもしれません。 御釈迦様が固定の信仰を持っていない人々に語った部分だけでも読めば、思索に役立つと思いますよ。 人間の認識の過程を鑑みた、理性的科学的態度とはいかなるものか・・・。 「人の道」が自己の見解にしがみつくものでなく、自己の見解の矛盾点を明らかにされることを喜ぶ柔軟な真理の探究者としての道であるなら学ぶものも多いと思います。 <<「人の道」において文明とはこの善と悪の捉え方そのものなんや。文明が発達するにつれ善と悪の捉え方は「人の道」が説く善と悪に近づくんや。今は見えんもんでも、えーメガネを掛ければ立派に見えるようになるんや。真理の探究とはそーゆーメガネを作り上げることなんや。「人の道」とはそれを実践することなんや。>>    悪を抱える「人の道」というシステムをよりよいものにするために、がんばってくださいね。 ~一切の生命があるがままを捉えられますように~

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.11

>見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 えーか、よー聞け。 真理の探究がしたけりゃ、真理の探究ちゅうが何であるか判ってなくちゃならんのや。もし始めから真理が何であるか判ってたら真理の探究なんてする必要がないんや。だから探求しようちゅうんや。そんな判ってない未熟な段階で、見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんなどとたわけたことを言っとるようでは、真理の探究なんてでけんのや。何かをぶち破って新しい世界を見付け出そうとしている時には、そんな未熟もんが見えるとか見えんと言ったって始まらんのや。 えーか、よー聞け。 真理を探究しているときは、自分には見えているか見えていないすら判っていないんや。だから、物を創る時には決意がいるんや。見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと言う決意がいるんや。その決意は大変な賭けなんや。そんな決意は、あんたみたいな馬鹿正直でかつ、崖から飛び込んでみるだけの度胸のない奴には中々でけん。そんな、度胸のない奴には、見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言う誰にでもできることしかでけんのや。 えーか、よー聞け。 ところが、そんな度胸を持っているお方達には、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと一大決心をした時に、突然今まで見えなかった物が見えて来たり、今まで見えていた物が見えなかったりする全く新しい世界がでけてくるんや。そんな時、人類は大発見し、新しい真理が判るようになって来たというのが、あんたみたいな度胸のない奴らには判らん人類の歴史やったんや。だが、これは勿論大変な賭けなんや。その賭けに敗れて討ち死にしたお方達の死体が人間の歴史の中には累々として居るんや。でも、その賭けをやらんと、真理の探究などでけんのや。 だから、真理を探究したいんやったら、討ち死にを覚悟して、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんという度胸がいるんや。そんなもん、けつの穴の小さい奴らには中々でけんので、凡人には真理を探究することがでけんのや。もし真理を探究したいんやったら、「人の道」みたいな役に立たんもんは捨てて、犬畜生みたいに野たれ死に、討ち死にする覚悟がいるんや。感性の問題やない、度胸の問題や。そんなこと、えー加減に気付かなあかんで。 先人達が血の涙を流しながら、石に齧り付きながら、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと一大決心してこの世界の真理を解き明かして来た人類の歴史をよー咀嚼せいや。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、一つ言うとく。 真理を探究したいんやったら、「人の道」みたいな役に立たんもんは捨てて、犬畜生みたいに・・・・なんちゅーこと言うもんやないで。 えーか、よー聞け。 「人の道」ちゅーのはな、真理の探究そのものなんや。 真理の探究のために「人の道」があるんや。 この「人の道」はわしの思想と哲学の集大成なんや。 わしが長年こころを込めて作り上げた思想と哲学の最終成果物や。 日本中の宗教が束になっても及ばんようなコンテンツがぎっしり詰まっとる。 えーか、よー聞け。 今は見えんもんでも、えーメガネを掛ければ立派に見えるようになるんや。 真理の探究とはそーゆーメガネを作り上げることなんや。 「人の道」とはそれを実践することなんや。  

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.10

<<あんたが言う「あるかないかわからない」ちゅー議論のやり方はただの逃げに過ぎん。えー加減これに気付かなあかんで。>> 証拠論拠がない限り「あるかないかわからない」という態度をとることは逃げだとは思いません。 科学的論理的に思索をなすならこのようにしかなりえないと考えます。   その先に、嘘八百並べる輩がこの論理を【使って】追求を逃げるのかもしれませんがw それと「あるかないかわからない」という分析的な態度自体は関係ありません。 餌を食べた犬に噛まれたからといって、餌に文句言ってもしょうがないでしょう。 <<全く破廉恥なものの考え方で、悪と呼ぶ以外に呼びようがない。>> 知らないのにもかかわらず知っているのかの如く「ある」「ない」と決め付けることは、 あなたの論理では、偽りで悪となると感じますよ。 <<神や仏、天国、地獄、死後の世界についても同じや。見たこともなく、聞いたこともないもの、この地球上の誰一人としてその存在を確認できぬものについて存在すると前置きし物語るのが宗教や。>> 全く論理的にも現実的にも成り立たないような世界観を持って、その世界観で現実をみようとし、それを他者に押し付ける輩もいますが、、、 何かの体験があって、それを見たという人に対し、あなたは見ていないとはいえないのが現実です。 しかし、見たからとて事実でないでしょう? 幻覚でも本人は見ているものですからw 指摘すべきは「あなたは見ていない!」という偽りの決め付けではなく、見たからとて事実とはいえない、決め付けられないという指摘でしょう。 そこに概念が加わったら、その論理的矛盾などの指摘もできます。 <<全て偽りであり、先の幽霊、UFO、宇宙人と同レベルなんや。>> 全て偽りであると知っていないのにもかかわらず、偽りであるというならそれは偽りでしょうね。 <<「人の道」では偽りは諸悪の根源なんや。>> この問答にでてくる「人の道」さんも「人の道」における諸悪の根源である偽りをしているのですね。 偽りを無くすことには個人的には大賛成です^^ 精進いたしましょう。 ~一切生命が偽りなくあれ~

g3452sgp
質問者

お礼

  善とは究極的には物事の有るがままを有るがままとして捉えること。 これが「人の道」における善の解釈や。 そして悪とは善の対極にあるもの、偽るもの、物事を捻じ曲げようとするもの。 これが「人の道」における悪の解釈や。 この善と悪の捉え方が「人の道」の根幹をなすものであり最も重要なんや。 「人の道」において文明とはこの善と悪の捉え方そのものなんや。  

g3452sgp
質問者

補足

文明が発達するにつれ善と悪の捉え方は「人の道」が説く善と悪に近づくんや。   

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回答No.8

 どうも、毎度失礼します。お盆間近で法務がございましてどこまでお付き合いできるか分かりませんが、私の思うところを記させていただきます。 >>つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 >>善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 >>善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 >>善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 私もこれには賛成するところです。ただ、「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないと言うこと」はどうなるのでしょうか??  認知科学における宗教研究において、宗教の起源のひとつは「信じる」ということ以上に「感じる」ことにあるのではないかといわれています。前回の私の回答の中でも記させていただきましたが「行為者の過剰検出」というやつです。人間の認知システムは進化の過程において捕食者や獲物を過剰に検出するようにカスタマイズされています。居ないものを居ると感じるのは、非合理的なことではなく生き残るために必要な合理的なシステムだったわけです。そして、宗教における行為者の概念(神や仏等々)は、行為者の過剰検出の延長線上におあるのではないかといわれています(重複になりますので、行為者の過剰検出については前回の解答をお読みください)。  この行為者の過剰検出が現れた例としては、昔やってた『のんのんばぁとおれ』という水木しげる氏の幼少期のドラマに登場した「べとべとさん」という妖怪が挙げられます。夜道を一人歩いていると、誰かにつけられて居るような気配を感じる。そんな時はべとべとさんがついて来ているといいます。その時に「べとべとさん、どうぞ前をお通りください」と目を瞑り頭を下げてると、後ろからついて来る気配がなくなったように感じる。これも、一つの行為者の過剰検出の例ではないかと私は考えています。  では、この「感じる」ということは偽りなのでしょうか。獲物を「感じる」、捕食者を「感じる」、べとべとさんを「感じる」、神を「感じる」と言うことを、「感じない」というのは偽りではないのでしょうか??  また、人間特徴を語る上で極めて重要な能力は「事実に反することを想像できること」がその一つです。この能力があるからこそ「推論」というものが成り立っていて、普段の生活の中の「社会相互作用」行動をおこす前にいくつかのシナリオを検討して、より良い反応を得られるであろうと想像することが出来るわけです。実際に私達は、ここに居ない人物についてだけでなく、純粋に想像上の人物(私はシャーロキアンの端くれなので、ホームズについてなら一晩中語れます)についても、推論が可能なのです。このような能力は三歳くらいの子供から出現します。例えば、「目には見えない友達」というのがその一つです。  心理学者ジョリー・テイラー氏の研究によれば、この目には見えない友達との関係は、空想と現実の混同を意味しないと言います。発達心理学において、現実と空想を区別のテストにおいては、目には見えない友達を持っている子供の方が、空想と現実の区別がはっきりしていることが分かっています。また、同様に目には見えない友達のいる子供は直感的心理学をうまく使わないと解けない問題では、他の子供よりも良くできるものが多かったそうです。このようなことから、テイラー氏は目には見えない友達が、社会的心のトレーニングの機能を担っていると言う仮説を立てておられます。  認知科学者パスカル・ボイヤー氏は宗教を持つには、人間であれば誰もが持っている標準的な心が必要であり、特別な心は必要ないと述べておられます。神・天国・地獄と言った概念は、そんな普通の人間の普通の心から成り立っている。心理学者トム・ウォール氏の実験に寄れば「想像上の動物を描いてください。しかもできるだけ、おかしなものを描いてください」と問われても、十本脚の動物であれば右足五本左足五本、四目であっても右に二つ左に二つといったシンメトリに描かれる場合が多かったと言います。つまり、想像上の動物であったとしても現実の動物の延長線上にしかないのです。エマニエル・カント氏も通常の概念構造が、見かけには何も制約されないように見える想像力の飛躍のための発射台の役目を果たすと述べております。 >>見えんもんを見えると言うことは偽りや。 >>聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。 >>知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。   さて、本当にこれは「悪」なんでしょうか??人間はこういう能力を持っているから人間なのであり、宗教もそれによる産物でしかありません。それを否定するのであれば、人間の認知機能が間違っているのかもしれませよ。 合掌 南無阿弥陀佛

g3452sgp
質問者

お礼

  >>見えんもんを見えると言うことは偽りや。 >>聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。 >>知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。  > さて、本当にこれは「悪」なんでしょうか?? 間違いなく悪や。偽りは例外なく悪でござる。 見えんもんを見えんと言う。 聞こえんもんを聞こえんと言う。 知らんもんを知らんと言う。 こっちの方が正しいに決まっとる。 これは誤魔化しようのないこと、宇宙の法則や。 この正しいことを捻じ曲げようとする心が悪を生むんや。  

g3452sgp
質問者

補足

  中国や日本などのアジアの国々では嘘偽りを方便などと言うて多用する文化がある。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではなく、全くの悪なんや。  

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.7

偽るとは 見えるものを「見ていない」と言い、見えないものを「見える」と言うこと。 聞こえるものを「聞こえない」と言い、聞こえないものを「聞こえる」と言うこと。 知っているものを「知らない」と言い、知らないことを「知っている」と言うことや。 無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 語るべきを語らず、語らざるべきを語ること。 ☆ ならば、あるかないかわからないことについて 知らないのに「ない」ということは偽りでしょう。 知らないのに「ある」ということも偽りでしょう。 「このように考える」「このように信じている」「あるかないかわからない」 というなら偽りではないでしょう。 ☆ もし知らぬのに「死後がない!」といったとき もし死後がないなら、知らぬのに知っていると偽った上で、たまたまその主張があっていたことになるでしょう。そして偽った行為の結果もでないでしょう。 もし死後があった場合、知らぬのに知っていると偽った上で、全く事実と違う主張をしていたことになります。そして偽った行為の結果がでるでしょう。 もし行為自体に結果がでないというなら、偽りが悪であるということも、全ての善悪も意味をなさなくなるでしょう。 行為とは何か、言葉・身体・思惟の行為のことです。 ☆ そして人が見た聞いた語るものについて、他者が偽りであると示すすべはない。 そのすべがないのにもかかわらず 自らが知ったかのごとく他者の知覚は偽りだと決め付けることは極限の偽りである。 しかし、その認識の外の概念見解の矛盾は指摘できましょう。 ☆ 偽ることは真理の探究が出来ない。 そのとおりですね。 ☆ 何か思索の役に立てば幸いです ~幸福であれ~

g3452sgp
質問者

お礼

偽りはこの世にはなんぼでもある。 とくに最近の世の中は偽りに満ちておる。 幽霊に会った、UFOを見た、宇宙人と一緒に暮らしたなど嘘八百並べる輩は五万といるんや。 もちろんこういったもんが存在せんことは証明できん。 そういう証明は出来んことになっとるんや。 そしてこういう嘘八百並べる輩はこの証明出来んちゅー性質を利用し、その上に居座って堂々と嘘八百並べとるだけなんや。 全く破廉恥なものの考え方で、悪と呼ぶ以外に呼びようがない。 神や仏、天国、地獄、死後の世界についても同じや。 見たこともなく、聞いたこともないもの、この地球上の誰一人としてその存在を確認できぬものについて存在すると前置きし物語るのが宗教や。 だから宗教はいるかもしれん、いないかもしれんと語るものではなく明確にいると前置きした上で語りかけるもんや。 だからこーゆーもんは全て偽りであり、先の幽霊、UFO、宇宙人と同レベルなんや。 最初のところで最近の世の中は偽りに満ちておると言うたが、オレオレ詐欺、金融詐欺、保険詐欺、マルチ商法とかこの世の中嘘偽りに満ちておるが、その根っ子は全てこういった偽りを許す心から生まれるんや。 「人の道」では偽りは諸悪の根源なんや。

g3452sgp
質問者

補足

   あんたが言う「あるかないかわからない」ちゅー議論のやり方はただの逃げに過ぎん。 えー加減これに気付かなあかんで。    

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回答No.6

物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー増大 =淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。 それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。 つまり、「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。 それは肉体に付属した感覚器官に基づくものゆえ、短絡的・即物的になりがち ですが、3つの点で、そうではありません; 1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率だけでなく、  それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、麻薬的な感覚的快感  とは反対の方向性を持つ。(意味的深さ) 2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」によって  人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。(時間的長さ) 3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の成立に、  社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、社会全体の  自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。(空間的広がり) こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』の要因= 社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、権力(地位)、 宗教(善悪)、慣習(正義)、など、他律的に行なう時、先入的価値が生じるのです。 いわば「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して、自己チューなまま安易に 社会化する社会システムのための、必要悪です。 ゆえに、社会性が発達するほど、近似的なシステムによる歪みが増大し精神的に 荒廃していくのです。

g3452sgp
質問者

お礼

  つまり宗教とは「人生を通算した充足量」の最大化のため短絡的衝動のコントロールを放棄し、麻薬的な感覚的快感に走り、「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して、自己チューなまま安易に社会化する社会システムの奴隷となり、神や仏、天国、地獄を語ることに明け暮れるようになるちゅーことや。  

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noname#117439
noname#117439
回答No.5

心象を言葉で表すことは悪ではない。 なぜなら、生きてこそである。 心がうるおってこそである。 よって今回の論説は却下。 でなおせ。

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     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 欲望には悪と善の因が。 善の方はしかし?

    欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。 そこから悪としての争いの因が生まれたりします。  しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。 そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。 解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。 反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。 それなら議論しましょう。

  • 神についての問答

    神についての問答 問う人: 神とは何や。 「人の道」:  神とは宇宙の法則や。 宇宙の法則のことを神と呼ぶ。 これを仏と呼ぶ者もおるが呼び方などどーでもえーことや。 問う人: 神は語るのか。 「人の道」:  宇宙の法則は自ら語ったりはせん。 万有引力の法則が自ら語ることが無いのと同じや。 問う人: 念仏を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  念仏を唱えると神から遠のく。 問う人: お経を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  お経を唱えると神の放つ光が眩しくなる。 だから眼を閉じ、神に背を向け、神から遠のいて行く、そして最後にはアホになる。 問う人: 神に姿形はあるか。 「人の道」:  神に姿形はない。 宇宙の法則に姿形などは無いんや。 万有引力の法則に姿形がないのと同じや。 問う人: では仏像を彫って拝んだりするのはなぜや。 「人の道」:  それは神や仏が何たるかが判らん輩のやることや。 形に捉われるちゅーことほど愚かなことはない。 問う人: 大仏様を拝むと神に近づくんか。 「人の道」:  あのなあ、えーか。 大仏などの仏像を拝むのは偶像崇拝ちゅーてな、イスラムの国々ではおよそ人間のやる所業の中で最も卑しい行為と見なされておるんや。 嘘やと思うたら試しにサウジアラビアのモスクの前辺りでこれをやってみい、たちどころに警察に連行されてそれこそ犬畜生扱いされること間違いなしや。 問う人: では神に近づくにはどうすればえー。 「人の道」:  眼を開くことや。 「目ざめよ!」ちゅー人もいる。 そして真理を探究することや。 どうや、これで神が何か判ったか。 問う人: はい、よー分かりました。 神は宇宙の法則なんで念仏やお経を唱えても神には近づかんちゅーこと、よー分かりました。 「人の道」:  皆にも聞く、神に姿形はなく仏像を彫って拝んだところで神には近づかんちゅーこと、よー判ったな。  

  • 救いについての問答

    問う人:  一つ訊いてもえーか。 「人の道」:  何でも訊いてみい。  ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人:   救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   救いを求めれば救われる。 問う人:   神や仏に救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   それは違う。  神や仏に救いを求めても救われはせん。 問う人:   神や仏に救いを求めんで何に求める。 「人の道」:   あのなあ、  神や仏に救いを求めるちゅーのは完全な筋違いや。 問う人:   神や仏に救いを求めるのが何で筋違いなんや。 「人の道」:   えーか、  神や仏に救いを求めるのは神や仏に漬かろうとする心が生むんや。  神や仏に漬かろうとする心は決して救われることは無い。 問う人:   では何に救いを求めればえー。 「人の道」:   えーか、昔からよー言うやろ。  天は自ら救わんとする者を救うと。  これはつまり救いを求める先は自分ちゅーことや。自力本願や。  漱石も晩年にはそー悟ったんや。  どーや、これで 神や仏に救いを求めても救われんちゅーこと判ったか。 問う人:  はい、判りました。  やっぱ漬かっとっては救われはせん。 「人の道」:   救いは何に求めるかも判ったか。 問う人:  はい、判りました。  救いは自分に求める、自力本願以外にはない。 「人の道」:   宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いんや。  もしこれが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人:  宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。