• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.13

 たびたび失礼します。 >>中国や日本などのアジアの国々では嘘偽りを方便などと言うて多用する文化がある。  確かにありますね。私もこの「嘘も方便」という使い方には以前から疑問を持っていました。嘘=方便ではありません。方便の良い例としては落語の『芝浜』が挙げられます。  酒ばかり飲んでいる魚屋の男が芝浜で大金の入っている財布を拾います。家に帰って妻に酒を買いに行かせてどんちゃん騒ぎをしますが、眠ってしまったらしく目が覚めると拾ったはずの財布見つかりません。妻の言葉によって「財布を拾ったこと」は夢であったと知らされます。それから男は改心して酒を止め、懸命に働き立ち直り、独立して自分の魚屋を構えるまでに出世しました。そんなある大晦日の夜のこと、妻から実は妻が財布を隠していたという事の真相を知らされ、妻が男の好きだった酒を勧めます。すると男は飲もうとしません。そこで妻は、 「なぜ飲まないんだい?」 と尋ねると、男は 「また夢になるといけねぇや」  というのがサゲです。このサゲは「とたん落ち」に分類されますが、私は「どんでん落ち」のほうが正しいように思います。なぜなら、この「また夢になるといけねぇや」という男にとっては「財布を拾った」という現実が夢で、「財布を拾ったのは夢だ」という妻の嘘が現実になっているからです。私はこれが「方便」であって、嘘を付く側に方便はなく、それを受け取る側が真実と受け止めたとき方便になると考えています。 >>しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではなく、全くの悪なんや。  しかし、『芝浜』も悪ということですね。しかし、嘘偽りはそれほど単純ではないようです。科学哲学者野家啓一氏はこんな例を挙げています。東北自動車道の交通事故を取り上げたとしても、単純にありのままを話すにしても、運転手、同乗者、目撃者、警察、新聞記者等々立場の違いに応じて、その語りに微妙なまたは決定的な違いが生じるはずですと述べておられます。一体誰が嘘うを付いているのでしょうか。  なぜこのような事態が起こるかといえば、人間の認知システムに問題があります。人間はビデオテープの如くにありのままを写し取るように認知しているわけではなく、五感による電気刺激を脳の中で再構成することで外界を認知し、そこに誤差が生じるのです。つまり、 >>善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 私達がこの認知システムに頼っている以上、物事を有るがままに捉えることなど決してできるものではありません。  しかもそれを記憶したとしても、覚えているものはいつの間にか変容してしまいます。認知心理学者仲真紀子氏は、実際に体験していないことでも、まるであったかのように思い出されることがあるとし、これを「虚偽記憶」、「偽りの記憶」とも呼んでいる。  また、神経生物学者ロジャー・スペリー氏の分離脳(右脳と左脳が障害や手術によって分離しているもの)患者の研究では、分離脳患者が椅子に座って言う状態で左耳(右脳と繋がっています)に「歩きなさい」というと、患者は椅子から立ち上がってあることします。この時右耳(左脳と繋がっています)「あなたは何をしているんですか?」と問うと「のどが渇いたので」等々のそれらしい理由をつけます。これは、左脳の「物語システム」オフには出来ないからだそうです。  しかし、問題なのは上に挙げた例はすべて正常な脳の人間にも日常的に起きていると言うことです。つまり、嘘を付くように出来ているわけですよ。   >>知らんもんを知らんと言う。 >>こっちの方が正しいに決まっとる。 >>これは誤魔化しようのないこと、宇宙の法則や。 >>この正しいことを捻じ曲げようとする心が悪を生むんや。  では、前々からお聞きしたかったことをお聞きします。以前の質問の中にg3452sgpさんのお言葉の中に、 >>神道における天国、地獄は高天原です。 >>高天原の中に天国、地獄があり、人は死ねば高天原に行くのです。 >> 古事記において高天原とは天上の世界、神々の宿る場所であり、イザナギの神、イザナミの神のふるさとです。 >>従って、人は死んで天に昇り神さまのいる世界へ行くというのであれば、そこは高天原以外にはないでしょう。 とありました。こんな思想があるのかと驚いて『古事記』や本居宣長や平田篤胤等の古典から、神道系の新興宗教の書籍をずいぶん読み直してみたのですが、人も神も死者は「黄泉」「黄泉の国」に行くものであって、高天原に行くと言う記述が見られません。また、高天原に地獄と極楽があるという記述も見られません。これは一体どのような方のどのような思想をもとにして述べられたご意見ですか??教えてください。   急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

g3452sgp
質問者

お礼

  仏教は方便の世界や。 嘘をつくのも方便、お経を唱えるのも方便、真理については言わず語らず押し黙る、これも方便、つまり全てが方便ちゅー訳や。 世の全てを方便で片付けようとするのが仏教や。 その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。 しかし全てを方便で片付けとったら後には何が残る。 不可解な世界が現れるだけと思うがそーやないか。 嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。 ほんとにそれでえーか。 「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。  

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