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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

このQ&Aのポイント
  • 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを捉えることであり、善とは見えるものを見えると言い、見えないものを見えないと言うことである。
  • 悪とは善の対極に位置するものであり、悪とは偽ることや物事を捻じ曲げることである。
  • 偽ることは悪である理由として、偽ることによって真理の探究ができなくなるからである。偽ることはいかなる場合でも悪であり、最大の悪は神や仏、天国、地獄を語ることである。なぜなら、それは見えないものを見えると言うことであり、偽りであるからである。

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回答No.9

#2の者です。 > この哲学カテではな、回答者は質問し、 > 質問者が回答するちゅー決まりなんじゃ。 あ~,そうでしたか。 そういうルールとはつゆ知らず。。。 では質問です。 私のフィーリング的には, 正に質問者さま(回答者さま?)は私と同じ感性を持っているように思います。 いと嬉し。 しかし他の方も書かれていらっしゃいますが「嘘」と「悪」とは違うと思うんです。 (だって 違う誤 として存在するんだもの...。) (嘘も方便って言うし...。) 質問者さま(回答者さま?)は同じ意味のように扱われていますが これは「意見のすり替え」と捉えられる可能性も十分あります。 この点はいかに? それとぉ~! もう一つ。すんません。 ご質問(ご回答)やご回答(回答のお返事?)何だか禅宗っぽいのですが, 禅宗とは宗教ではないのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしと同じ感性の人間など五万に一人おるかどうかやと思うが。 >(嘘も方便って言うし...。) その嘘も方便ちゅーのが問題なんや。 えーか、よー聞け。 嘘も方便ちゅーのは中国や日本などアジアの国々で培われた発想で方便の一つなんや。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではのーて全くの悪なんや。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 >禅宗とは宗教ではないのでしょうか? 禅宗はあかの宗教や。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。  

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その他の回答 (64)

回答No.45

 理解しているが故の回答でしたが、  最後の一文は“蛇足”だったかも。

g3452sgp
質問者

お礼

  そーか、理解してくれてたか。 ならえー。 メデタシ、メデタシや、  

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回答No.44

 動物でも子孫を残すために人間が見ると、残酷と思えるような行動をとるときがあります。  でもそれは、本能ゆえ。  でも人間は・・・・・  残酷な気持ちに駆られると、それがもっと、もっとと、エスカレートしてしまう精神構造を持っています。  冷静ならばその“悪”に気がつくはずなのに、なぜ?  それは「情」という心が育っていないから。  また、  人の心の「情」が育つような社会でなければならないのに、気がつけば右も左も“管理社会”。  だから息が詰まります。ストレスがたまります。  そして警察官も役所の職員も、“私人”であるときは「情」のある行動が取れる人たちなのに、管理社会を構成する一員であるゆえに「無情」になってしまう。  なぜこんな社会を作ってしまったのでしょう。        

g3452sgp
質問者

お礼

  >なぜこんな社会を作ってしまったのでしょう。 あのなあ、えーか。 ここでその答えを議論しとるんやろが。 そしてその答えは既に出とるんやろが。 それに気付かんのか。 その答えとは人が「人の道」を歩まんからこうなったちゅーことや。 人が「人の道」を歩めばこんなことにはならんで済んだんじゃ。 人が「人の道」を歩むことを忘れ、宗教漬になって嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るようになった辺りから人は情けを失い、世の中狂いだし、不可解な社会が生まれたんや。 嘘も方便などと訳の分からんことを言いまくるくそ坊主どもを野放しにしておいたそのツケがこの有り様なんじゃ。 だからわしはそのことをずーっと始めから言い続けとるんや。 それに気付かんのか。 それが理解できんのか。     

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回答No.43

No.40に対する息子からの手紙・・・ 父さんは、おじいちゃんの言葉を否定していたけれど、おじいちゃんだけが見聞きできたことが正しくて、誰もそのことに気がつかなかっただけなのかも知れないよ。 それと、 >>> 善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 <<< ということが「人の道」になるのなら、やっぱり、おじいちゃんにとっては、 「神や仏、天国、地獄を語ること」 が、おじいちゃんにとっての「人の道」だったんだね。

g3452sgp
質問者

お礼

  えーか。 何かを語るちゅーことは相手がおってのことや。 もし、そのおじいちゃんが神や仏、天国、地獄を語ったんやったら、そのおじちゃんは神や仏、天国、地獄をその目で見、その耳で聞いておらなあかん訳や。 だからこれを語るときそのおじちゃんは神や仏がどういうもんやったか、天国、地獄がどういう所やったかを自分の目で見、自分の耳で聞いた通りのことを相手に話さんとあかんのや。 自分の目で見た通り、自分の耳で聞いた通りの話も出来んで神や仏、天国、地獄を語ったとしたらこれは嘘八百並べて作り話をしたちゅーことになる。 そうなったらそのおじいちゃんはただの宗教漬になったクソ爺ちゅーことになる。 勿論それでえーちゅーんやったら神や仏、天国、地獄を語ることは「人の道」を歩むことになる。 ほんとにそれでえーんやな、嘘偽りはないな。  

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回答No.42

んー、そう言う単純明快さは好きですが、現実はそうじゃあ無かったりするんですよね。 なぜかと言うと、一つ真実を求める為には、より多くの角度でモノを見たり、考えたりする必要があるからです。これって説明必要ですか?文章が長くなるので例はあげませんが。 そして、物事をあるモノをあるモノと捉えようとする為には、感情を抜きにした客観性が必要になってくるからです。 例えば、それら、行うとき人は、意識するにしろしないにしろ、感情を抜きにした人格?が形成され、その時間は感情を抜きにしたモノなわけです。 さらに、その中で、善悪とは何かとか、愛とは何かをより理解していくうちに、一般で言う人間らしさが内面から損なわれていくのです、と言うより別の何かに変化していると言った方がいいのかも知れません。 これ見た目では分からないですよ、分かる人もいるけどね。 って言うか、別の意味で壊れている人の方が多いですけどね。 あなたにとって、宗教活動をしている人間は全て同じに見えるのかも知れませんが実は「似ていて非なる物」の存在もその中には、有るのです。

g3452sgp
質問者

お礼

  人間性を失わせるものちゅーのは、真理を探究する精神とは無関係や。 情けや人間性が無くては深く真理を探究することは出来んのや。 この人間性を失わせるもんちゅーのは人間を組織や集団の中で機械的に考え判断し動くように飼いならすことにあるんや。 役所の職員とか警察官とか小中高校の教員とかは皆、何を行うにも機械的に考え判断し動くように飼いならされとるんや。 役所の職員などは何の話をしてもおよそ人間性を失った生き物やちゅーことは直ぐ分かる。 だからこういう人間とは窓口以外の所では付き合えんちゅーことや。  

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回答No.41

 またよろしくお願いします。 >>宗教ちゅーもんは、人間が作り出したもんや。  そうですね。それには賛成です。  しかし、 >>宗教は社会が作り出した代物や。 >>真っ白な状態の人間にとっては神や仏、天国、地獄の考えなどは絶対に浮かんでこんもんや。 というのは、おかしいのではないでしょうか。「社会」とはなんでしょうか?社会ということであれば、人間以外の動物も社会を形成していますが、宗教を生み出してはいないようです。人類の社会という事でいえば、約400万年前の人類の祖先であるアルディピテクス・ラミダスなどの化石が発見され以来、二足歩行の理由について子育て仮説やプレゼント仮説と呼ばれる学説が発表され、それなりの社会を形成していたことがわかってきています。しかし、現在の「宗教」と呼ばれるほど発達していないとしても宗教的概念が形成されている痕跡となると、約60万年まえのホモ・エレクトスまで来なければ今の所見つかっていません。偶像崇拝の痕跡となると、25万年前のネアンデルタール人の「月の女神」ではないかと言われる像があります。  こう考えますと社会が宗教を生んだという事も出来ますが、そもそも社会生活を送っていた人類がなぜ宗教を生んだのかが分かりません。社会と宗教が同時発生したと言うのであれば「宗教は社会が作り出した」というので良いのですが、人類はそもそも社会生活を送っていました。この神や仏、地獄や天国などの宗教的概念を生み出す社会と、それ以前の宗教的概念を生み出さなかった社会とどのような違いがあるのでしょうか。私は元々もっていた「行為者の過剰検出」に、進化による前頭葉の発達による高次の「推論システム」があるのではないかと考えているわけです。  ただ、g3452sgpさんは前回の問の中で「宗教は人類誕生と同時に自然発生した」と述べられる中で >>数百万年前の原人の時代にまで遡る必要はなく、およそ人間の文化が歴史的に認められるようになった時期(おそらくは数千から数万年前)をもって”人類の誕生”とします。 としておられますので、私のいう事には興味がないのでしょうが、数千から数万年前であれば社会も宗教も、そもそもあっておかしくない証拠が出て来ているのに、先の答えには違和感を覚えます。 >>だから殆どの人間は幼いころから既に宗教を吹き込まれておって、真っ白な状態の人間を探すのは難しいんや。 >>しかし仮にここに真っ白な状態の人間がおったらそいつには神や仏、天国、地獄の認識はなく、ましてやそんなものが存在すると感じるなんちゅーことは有り得ないんや。 >>だからこーゆーもんは全て外から吹き込まれたイメージに対する願望の表れに過ぎんものを感じると思い込んどるだけなんや。  なるほど。確かに人類の進化において「前の代の知識を次の代に伝えることが出来る」というのは重要です。宗教的概念に関しても同じことが言えることには賛成です。しかし、それは宗教というものが出来上がってからの話ですよね。では、宗教が出来上がる前は?と考えると「外から吹き込まれたイメージに対する願望の表れに過ぎんものを感じると思い込んどる」という事は出来なのではいえません。宗教的概念の形成初期において「感じる」ものを宗教的概念としていったと考えるべきではないでしょうか。そうであるならば、そもそも人間には宗教的なものを「感じる」という感覚があるとはいえませんか?言えないのであれば、宗教形成の最初期に一体何が起こったというのでしょうか?? >>しかしあんたの御かげで宗教漬になった人間がどんなことを考え、どんなふうに振る舞うかちゅーことがこれでよー分かったわ。  いえいえ、私は好奇心に正直なだけですよ。私は「人の道」理解したいのです。もし、お釈迦様が生きていたとしたら、聞きたいことが山ほどありますがもう故人ですから、経律論を当たるしかありません。しかし、「人の道」はg3452sgpさんに直接聞けるのでほんとに楽しいですよ。今回の質問は質問ではなくg3452sgpさんに分からないことを聞いていく形式と思っています。 >>皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。 という思想があるという事は分かりました。しかし、私が知りたいのは「一番悪い」ことではなく全てです。「人の道」でいう所の「嘘偽り」とは、どこからどこまでを指し、どういった段階をもって「宗教漬けになって嘘八百を並べる」ことが一番になるのか。二番は何か、三番は何か。知りたくてしょうがないんです。先の回答に挙げた事例は「嘘偽り」でしょうか?? >>あんたの御かげや。わしは益々「人の道」が正しいことを確信したんや。  いえいえ、どういたしまして。 誤字脱字乱文どうぞお許しを。 合掌 南無阿弥

g3452sgp
質問者

お礼

  >社会ということであれば、人間以外の動物も社会を形成していますが、宗教を生み出してはいないようです えーか、一つ言うとくことがある。 宗教は人間だけがやるもんとなぜ言えるんや。 なぜそんなことが分かる。 人間以外の動物も宗教やっとるで。 例えばサバンナに住むシマウマは集団で祈祷するんや。 それから腹を空かしたライオンが久しぶりに餌にありついたときは涙を流しながらその餌を食うんや。 もしかすると彼らの方が人間より立派な宗教家かも知れんのや。 >「人の道」でいう所の「嘘偽り」とは、どこからどこまでを指し、どういった段階をもって「宗教漬けになって嘘八百を並べる」ことが一番になるのか。 どこからどこまでもあるかい。 己の心に背いてあらぬことを一言でも言えば「嘘偽り」となるんや。当然のことやないか。 己の心に背いて有りもしないことを考え、神や仏、天国、地獄を語った時点で既に宗教漬になっとるんや。 そんなケチくさい事を根掘り葉掘り訊いてどうする。  

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回答No.40

>>> 善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 <<< かつて、そのように行動し、建前を嫌い、本音を押し通し、多くの困っている方々に手を差し伸べ、一方で宗教の道にはまり込んだ方を、少なくともお一方存じ上げております。 残念なことに、そのお方は、おそらく視覚器官と聴覚器官に問題があり、その人にしか見えなかった光景、その人にしか聞こえなかった声を聞き取られたのだと思います。 その人は、自身の「偽・善」に照らし合わせ、押し黙ることを止めて、積極的に話すことを決意された方でした。 たとえそれが幻覚・幻聴であったとしても、その光景とその音声は、その人にとっての「真実」です。 悲しいことに、その人は、肉親や医者や周囲の人々の言葉を理解する力を持ちながら、それらが幻覚や幻聴だということは決して信じず、自身にとっての「真実」を貫き通しておられます。 「見えるんだから・聞こえるんだから」・・・ 幾度私がその人にとっての真実が他者にとっての真実ではないことを繰り返し強く伝えたことでしょう。。。いつの日か、その言葉の向こう側に、語り手の心情を深く見据え、手を握りしめるしか手だてのない自分自身を想像するだけです。。。 その日がいつ来るのかは分かりませんが、それほどの時間はないのでしょう。。。 。。。父よ。。。不甲斐なき息子を許し給え。。。 貴方の言葉を、私は、はねつけます そうして 貴方の思いを、私は、受け継ぎます そうすることが、私にとっての「善」であると、私自身が信じているからです。。。

g3452sgp
質問者

お礼

  そーか、やっと分かってくれたんやな。 「人の道」が正しいちゅーこと、分かってもらえたと思う。 メデタシ、メデタシや。  

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回答No.39

ちなみに、私は、無宗教なんですけどね。 なので、あなたとは逆に、善悪と言うものに対してはあまり、意味を重要視していません。それこそ、沢山ある、モノの見方感じ方の一つと言うところ。 宗教に関して言えば、その中にある、隠れた真実や、考え方など、色んな意味で得るモノがあるとういうのも確かだと、思いますがね。 しかし、真実を求める事が大切と言う考えは賛成。 だけど、それを求める思考を積み重ねると言う事は、ある意味人間性を失うと言う事とも言える。

g3452sgp
質問者

お礼

  真理の探究により人間性を失うことはない。 真理を探究すればますます人間性は豊かになるんや。 逆もしかりや。 嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るようになると人間性を失うんや。 宗教漬になった人間の顔を眺めてみるとえー。 お経を唱える者の顔、駅前でパンフをもって立っている人の顔を見てみい。 皆んな無表情な顔をしとることが分かる。 完全に人間性を失っとる証拠や。

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回答No.38

 またまたよろしくお願いします。 >>神や仏、天国、地獄があると感じたと言う者がおったら、それはその人の五感で感じたちゅーんやのーて単にその人の願い、神や仏、天国、地獄があってほしいという願いを述べておるに過ぎんのや。  神や仏の存在を「感じる」というのは、「行為者の過剰検出」が関わっていることは申し上げていますが、それはどのようなシステムかはまだ議論の段階です。  例えば、五感の中でも聴覚が関わっていると言う説です。NICTユニバーサルメディアセンターの研究チームは、音が人の気配感生成に関わっていることを示しています。その理由としては人間の脳の設計は古い脳をほとんどそのままの形で残した上に新しい脳を乗せていく形で進化しています。例えば、「盲視」という現象はここから起こります。盲目の人であっても、知覚的な経験が意識ののぼることがないけれども、視覚刺激への何らかの応答を示すことがあります。これは、人間は本来大脳皮質の後ろにある第一次視覚野において網膜からの情報が処理されますが、両生類などは中脳の部分で視覚を捉えていたようで、このシステムが脳には残ったままの状態であることから起きる現象です。これは視覚以外でも聴覚触覚などでも確認されています。古い脳を残したままであるという事は、哺乳類の祖先であるラオレステスは恐竜の起きている昼間を避けて、夜活動するようになっていったそうです。夜は視覚に頼ることができないため聴覚を発達させまわりを認識していました、このような脳の活動は私達が意識できない所で今でも働いていて、これが「行為者の過剰検出」の一つの要因ではないかという説。  または、五感ではないと言う説もあります。東京大学の滝口清昭氏の説よれば、例えば犬は飼い主を何百メートルも離れた場所で察知して尻尾を振ることがあるそうですが、人間も犬ほど精密ではなくともこういう能力があるそうです。これは生体電位と言われる体内の電気的な状態から生じるもので、準静電界と呼ばれるものが関係していると考えられます。準静電界の状態は人間が体を動かすと変化します。そうしたものを感じる器官として、体毛と内耳が挙げられます。皮膚にある細かい産毛のような体毛の先端は小さな電気刺激に対しても極めて敏感で、ぞくっとするような感覚を引き起こします。物音や空気の動きよりも先に、この刺激を感じる事もあるそうです。内耳は内部にある有毛細胞が振動することによって、電気的な成分が増幅されている可能性があるといわれています。(けど、これは五感の中でも触覚なんじゃないか著私は考えたりもしています)これも、「行為者の過剰検出」をあらわす仮説の一つです。  では、なぜその感じたものが「神」や「仏」になるかを考えると、錯視という現象に良く似ていると考えています。錯視で有名なのはの心理学者ガエタノ・カニッツァにより発表された「カニッツァの三角形」という図形がありますが、描いていないはずの三角形が浮かび上がって見えると言う錯視です。これは人間の脳が足りない部分を勝手に予測して補ってしまうことをあらわしています。これは、先に述べた「行為者の過剰検出」の作用によって何かの気配を感じる、しかし気配の主が居ない。そこで、脳はその足りない部分を補おうとした結果生まれたのが「神や仏を感じる」という感覚ではないかと考えています。  このように「居てほしいと思う」から「感じる」のではなくて、「感じる」から「居るのではないか」と考えてしまうのではないでしょうか。ですから、 >>だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。 とはいえず、「神や仏を感じる」という事はやはり「感じる」という事が先に立っての無意識的な推論であって、「居ることを願う」ことが先にたって「感じる」というものではないと考えます。 >>古事記も日本書紀もただの童話の世界なんや。 そんなもんに何か思想的なもんとか、現実的意味を求めようと考える人間がいたとしたらそいつは完全な精神薄弱児や。  先の質問は思想的とか現実的意味なんてどうでもいいのです。「神道では・・・」と前置きをして、述べられていたので神道の体形の中にそのような思想が文献的に確認が出来るのかということです。 >>高天原をどう描こうとそれは個人の自由やろが。高天原にノーパン喫茶があると考えようが、ソープがあると思おうが全く自由なことでそれを一々問うのは全く意味の無いあほのやる事や。  つまり、でっちあげを否定するためには、でっちあげの根拠をもって否定してもかまわないという事ですか??それって「嘘偽り」ではないのでしょうか??   急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

g3452sgp
質問者

お礼

   あのなあ、えーか。 宗教ちゅーもんは、人間が作り出したもんや。 自然界にはもともと宗教なんちゅーもんは無かったんや。 宗教は社会が作り出した代物や。 真っ白な状態の人間にとっては神や仏、天国、地獄の考えなどは絶対に浮かんでこんもんや。 しかし残念ながらこの人間世界は地球上の至る所すでに宗教が蔓延っとる訳や。 だから殆どの人間は幼いころから既に宗教を吹き込まれておって、真っ白な状態の人間を探すのは難しいんや。 しかし仮にここに真っ白な状態の人間がおったらそいつには神や仏、天国、地獄の認識はなく、ましてやそんなものが存在すると感じるなんちゅーことは有り得ないんや。 だからこーゆーもんは全て外から吹き込まれたイメージに対する願望の表れに過ぎんものを感じると思い込んどるだけなんや。   >でっちあげを否定するためには、でっちあげの根拠をもって否定してもかまわないという事ですか??それって「嘘偽り」ではないのでしょうか?? しかしあんたの御かげで宗教漬になった人間がどんなことを考え、どんなふうに振る舞うかちゅーことがこれでよー分かったわ。 あんたの御かげや。わしは益々「人の道」が正しいことを確信したんや。  

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回答No.37

そもそも、人間は、捉えられるモノと、捉えられないモノとを比べると、圧倒的に捉えられないモノの方が多いのに、あるモノをある様に本当に捉えることが出来るのだろうか。 出来るとすれば、それは、捉えられる部分だけでしかなく、あまりにも不完全なものでしかないと思うのですが。言い換えればそれは、不完全な善であり悪であるとも言えると思うのです。 したがって、質問の「人の道」の答えは正とは言えないと、言う事になりますよね。

g3452sgp
質問者

お礼

そーゆーふうに始めから逃げてはいかんのや。 そーゆー物言いは明らかな逃げのパターンで、宗教漬になった人間が採る典型的な態度や。 もちろんあらゆるものを完全に捉えるちゅーことは今の人間にはできん。 あらゆるものを完全に捉えるには真理の探究を地道に実践することにより少しづづそれに近づいてゆく、これしか方法はない。 人間は全知全能ではないから当然や。 しかし真理の探究を実践することは意味があるんや。 なぜなら今までは捉えることのできんかったもんが徐々に捉えきれるようになるからや。

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回答No.36

 同感!    既成の宗教は勇気を出して、文化遺産と受け止めることにしませんか。    そして、これからの宗教は、誰もが持っている“情”を根本に置くことにするのです。  そうなれば、宗教という世界に新たなる発展を期待できます。  これからの宗教は、我々が持つ他を思いやる心“やさしさ”を根本理念とし、好ましい宗教を発展させたいものです。  なぜかといえば、好ましい心=優しさ(情)、が悪いことをしたり、考えたりするはずはないからです。  そうなれば、良かれと思って入った教団に、疑問を感じる教えを受けたときも、その自身のやさしい心=情、に問うようにすれば、おのずと正しい判断ができます。  でもそんな理念を掲げる理想的教団、が現れるものでしょうか。  もし現れたなら、その教祖はg34さんかもしれませんね。  柄の悪さはそのままで・・・・・?

g3452sgp
質問者

お礼

  そーか、やっと分かってくれたか。 まったくその通りで今の宗教には情けが無いんや。 情けが無いから嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るようになったんや。 中には方便などというて面倒くさい理屈を捏ね回そうとする輩もいっぱいおる。 しかしわしに言わせればこれらは全てままごと遊びの類にすぎん。 少し考えれば戯言に過ぎんことはすぐに分かる。 はっきり言うて今の宗教には自浄能力ちゅーもんがないんや。もう限界点にきとるんや。 だから他に残されたもんは何かちゅーことになるが、それは当然「人の道」しかないんや。  

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    欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。 そこから悪としての争いの因が生まれたりします。  しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。 そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。 解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。 反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。 それなら議論しましょう。

  • 神についての問答

    神についての問答 問う人: 神とは何や。 「人の道」:  神とは宇宙の法則や。 宇宙の法則のことを神と呼ぶ。 これを仏と呼ぶ者もおるが呼び方などどーでもえーことや。 問う人: 神は語るのか。 「人の道」:  宇宙の法則は自ら語ったりはせん。 万有引力の法則が自ら語ることが無いのと同じや。 問う人: 念仏を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  念仏を唱えると神から遠のく。 問う人: お経を唱えると神に近づくんか。 「人の道」:  お経を唱えると神の放つ光が眩しくなる。 だから眼を閉じ、神に背を向け、神から遠のいて行く、そして最後にはアホになる。 問う人: 神に姿形はあるか。 「人の道」:  神に姿形はない。 宇宙の法則に姿形などは無いんや。 万有引力の法則に姿形がないのと同じや。 問う人: では仏像を彫って拝んだりするのはなぜや。 「人の道」:  それは神や仏が何たるかが判らん輩のやることや。 形に捉われるちゅーことほど愚かなことはない。 問う人: 大仏様を拝むと神に近づくんか。 「人の道」:  あのなあ、えーか。 大仏などの仏像を拝むのは偶像崇拝ちゅーてな、イスラムの国々ではおよそ人間のやる所業の中で最も卑しい行為と見なされておるんや。 嘘やと思うたら試しにサウジアラビアのモスクの前辺りでこれをやってみい、たちどころに警察に連行されてそれこそ犬畜生扱いされること間違いなしや。 問う人: では神に近づくにはどうすればえー。 「人の道」:  眼を開くことや。 「目ざめよ!」ちゅー人もいる。 そして真理を探究することや。 どうや、これで神が何か判ったか。 問う人: はい、よー分かりました。 神は宇宙の法則なんで念仏やお経を唱えても神には近づかんちゅーこと、よー分かりました。 「人の道」:  皆にも聞く、神に姿形はなく仏像を彫って拝んだところで神には近づかんちゅーこと、よー判ったな。  

  • 救いについての問答

    問う人:  一つ訊いてもえーか。 「人の道」:  何でも訊いてみい。  ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人:   救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   救いを求めれば救われる。 問う人:   神や仏に救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   それは違う。  神や仏に救いを求めても救われはせん。 問う人:   神や仏に救いを求めんで何に求める。 「人の道」:   あのなあ、  神や仏に救いを求めるちゅーのは完全な筋違いや。 問う人:   神や仏に救いを求めるのが何で筋違いなんや。 「人の道」:   えーか、  神や仏に救いを求めるのは神や仏に漬かろうとする心が生むんや。  神や仏に漬かろうとする心は決して救われることは無い。 問う人:   では何に救いを求めればえー。 「人の道」:   えーか、昔からよー言うやろ。  天は自ら救わんとする者を救うと。  これはつまり救いを求める先は自分ちゅーことや。自力本願や。  漱石も晩年にはそー悟ったんや。  どーや、これで 神や仏に救いを求めても救われんちゅーこと判ったか。 問う人:  はい、判りました。  やっぱ漬かっとっては救われはせん。 「人の道」:   救いは何に求めるかも判ったか。 問う人:  はい、判りました。  救いは自分に求める、自力本願以外にはない。 「人の道」:   宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いんや。  もしこれが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人:  宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。