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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.38

 またまたよろしくお願いします。 >>神や仏、天国、地獄があると感じたと言う者がおったら、それはその人の五感で感じたちゅーんやのーて単にその人の願い、神や仏、天国、地獄があってほしいという願いを述べておるに過ぎんのや。  神や仏の存在を「感じる」というのは、「行為者の過剰検出」が関わっていることは申し上げていますが、それはどのようなシステムかはまだ議論の段階です。  例えば、五感の中でも聴覚が関わっていると言う説です。NICTユニバーサルメディアセンターの研究チームは、音が人の気配感生成に関わっていることを示しています。その理由としては人間の脳の設計は古い脳をほとんどそのままの形で残した上に新しい脳を乗せていく形で進化しています。例えば、「盲視」という現象はここから起こります。盲目の人であっても、知覚的な経験が意識ののぼることがないけれども、視覚刺激への何らかの応答を示すことがあります。これは、人間は本来大脳皮質の後ろにある第一次視覚野において網膜からの情報が処理されますが、両生類などは中脳の部分で視覚を捉えていたようで、このシステムが脳には残ったままの状態であることから起きる現象です。これは視覚以外でも聴覚触覚などでも確認されています。古い脳を残したままであるという事は、哺乳類の祖先であるラオレステスは恐竜の起きている昼間を避けて、夜活動するようになっていったそうです。夜は視覚に頼ることができないため聴覚を発達させまわりを認識していました、このような脳の活動は私達が意識できない所で今でも働いていて、これが「行為者の過剰検出」の一つの要因ではないかという説。  または、五感ではないと言う説もあります。東京大学の滝口清昭氏の説よれば、例えば犬は飼い主を何百メートルも離れた場所で察知して尻尾を振ることがあるそうですが、人間も犬ほど精密ではなくともこういう能力があるそうです。これは生体電位と言われる体内の電気的な状態から生じるもので、準静電界と呼ばれるものが関係していると考えられます。準静電界の状態は人間が体を動かすと変化します。そうしたものを感じる器官として、体毛と内耳が挙げられます。皮膚にある細かい産毛のような体毛の先端は小さな電気刺激に対しても極めて敏感で、ぞくっとするような感覚を引き起こします。物音や空気の動きよりも先に、この刺激を感じる事もあるそうです。内耳は内部にある有毛細胞が振動することによって、電気的な成分が増幅されている可能性があるといわれています。(けど、これは五感の中でも触覚なんじゃないか著私は考えたりもしています)これも、「行為者の過剰検出」をあらわす仮説の一つです。  では、なぜその感じたものが「神」や「仏」になるかを考えると、錯視という現象に良く似ていると考えています。錯視で有名なのはの心理学者ガエタノ・カニッツァにより発表された「カニッツァの三角形」という図形がありますが、描いていないはずの三角形が浮かび上がって見えると言う錯視です。これは人間の脳が足りない部分を勝手に予測して補ってしまうことをあらわしています。これは、先に述べた「行為者の過剰検出」の作用によって何かの気配を感じる、しかし気配の主が居ない。そこで、脳はその足りない部分を補おうとした結果生まれたのが「神や仏を感じる」という感覚ではないかと考えています。  このように「居てほしいと思う」から「感じる」のではなくて、「感じる」から「居るのではないか」と考えてしまうのではないでしょうか。ですから、 >>だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。 とはいえず、「神や仏を感じる」という事はやはり「感じる」という事が先に立っての無意識的な推論であって、「居ることを願う」ことが先にたって「感じる」というものではないと考えます。 >>古事記も日本書紀もただの童話の世界なんや。 そんなもんに何か思想的なもんとか、現実的意味を求めようと考える人間がいたとしたらそいつは完全な精神薄弱児や。  先の質問は思想的とか現実的意味なんてどうでもいいのです。「神道では・・・」と前置きをして、述べられていたので神道の体形の中にそのような思想が文献的に確認が出来るのかということです。 >>高天原をどう描こうとそれは個人の自由やろが。高天原にノーパン喫茶があると考えようが、ソープがあると思おうが全く自由なことでそれを一々問うのは全く意味の無いあほのやる事や。  つまり、でっちあげを否定するためには、でっちあげの根拠をもって否定してもかまわないという事ですか??それって「嘘偽り」ではないのでしょうか??   急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

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質問者

お礼

   あのなあ、えーか。 宗教ちゅーもんは、人間が作り出したもんや。 自然界にはもともと宗教なんちゅーもんは無かったんや。 宗教は社会が作り出した代物や。 真っ白な状態の人間にとっては神や仏、天国、地獄の考えなどは絶対に浮かんでこんもんや。 しかし残念ながらこの人間世界は地球上の至る所すでに宗教が蔓延っとる訳や。 だから殆どの人間は幼いころから既に宗教を吹き込まれておって、真っ白な状態の人間を探すのは難しいんや。 しかし仮にここに真っ白な状態の人間がおったらそいつには神や仏、天国、地獄の認識はなく、ましてやそんなものが存在すると感じるなんちゅーことは有り得ないんや。 だからこーゆーもんは全て外から吹き込まれたイメージに対する願望の表れに過ぎんものを感じると思い込んどるだけなんや。   >でっちあげを否定するためには、でっちあげの根拠をもって否定してもかまわないという事ですか??それって「嘘偽り」ではないのでしょうか?? しかしあんたの御かげで宗教漬になった人間がどんなことを考え、どんなふうに振る舞うかちゅーことがこれでよー分かったわ。 あんたの御かげや。わしは益々「人の道」が正しいことを確信したんや。  

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