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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

このQ&Aのポイント
  • 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを捉えることであり、善とは見えるものを見えると言い、見えないものを見えないと言うことである。
  • 悪とは善の対極に位置するものであり、悪とは偽ることや物事を捻じ曲げることである。
  • 偽ることは悪である理由として、偽ることによって真理の探究ができなくなるからである。偽ることはいかなる場合でも悪であり、最大の悪は神や仏、天国、地獄を語ることである。なぜなら、それは見えないものを見えると言うことであり、偽りであるからである。

質問者が選んだベストアンサー

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  • BlurFiltan
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回答No.9

#2の者です。 > この哲学カテではな、回答者は質問し、 > 質問者が回答するちゅー決まりなんじゃ。 あ~,そうでしたか。 そういうルールとはつゆ知らず。。。 では質問です。 私のフィーリング的には, 正に質問者さま(回答者さま?)は私と同じ感性を持っているように思います。 いと嬉し。 しかし他の方も書かれていらっしゃいますが「嘘」と「悪」とは違うと思うんです。 (だって 違う誤 として存在するんだもの...。) (嘘も方便って言うし...。) 質問者さま(回答者さま?)は同じ意味のように扱われていますが これは「意見のすり替え」と捉えられる可能性も十分あります。 この点はいかに? それとぉ~! もう一つ。すんません。 ご質問(ご回答)やご回答(回答のお返事?)何だか禅宗っぽいのですが, 禅宗とは宗教ではないのでしょうか?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしと同じ感性の人間など五万に一人おるかどうかやと思うが。 >(嘘も方便って言うし...。) その嘘も方便ちゅーのが問題なんや。 えーか、よー聞け。 嘘も方便ちゅーのは中国や日本などアジアの国々で培われた発想で方便の一つなんや。 しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではのーて全くの悪なんや。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。 >禅宗とは宗教ではないのでしょうか? 禅宗はあかの宗教や。 やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。  

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その他の回答 (64)

回答No.25

 “次元”が違いすぎるのではないでしょうか。  私が落とすか、あるいはg34さんにあげてもらうか、しないと話がかみ合わないように思います。  せっかくの高尚な質問を、俗っぽいご返事で返してしまっては、もったいなく思います。

g3452sgp
質問者

お礼

  次元が違うかどうかは分からんで。 あんたは宇宙人やないやろ。ちゃんと足は付いとるやろ。 この世界で生きとる人間やないんか。 そーやったらまず役所や警察へ行って人情が通るかどうか知るべきやないんか。 ちゃんと筋道通った話をしとるつもりやで。    

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  • -72
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回答No.24

以前質問者様が、「幽霊について」という質問で、No19様の回答に対するお礼で >風邪薬が効くかどうかは科学的には何も証明されてはいません。 これは、偽りでは無いのですか? No17の私の回答に対する >はっきり申しまして幽霊とかオカルトは個人が作るものではなく、社会によって人為的に生み出さ>れ、個人がその上に居座るものです。 どのような根拠で?本当にそうだとしたら、超心理学やサイ科学は誕生しなかったと思うのですが。 No16様に対する >幽霊は坊主によって作られたと思います。 >幽霊がいれば坊主は安心である。 >幽霊がいないと坊主の生活は成り立たないのです。 何故そう決めつけるのですか?坊主が日本に来る前から、古神道が霊を認めていたわけですが。 質問者様の幽霊の定義である >「幽霊とは死者の生き還りである。その姿形は、万人によって確認できる。」 生き返った時点で幽霊では無いと思うのですが? No20の私の最後の回答に対する >魔術、神秘行、気功法、中国仙道、陰陽五行、八卦理論および諸々のオカルトに浸る前に行うべ>きことがあります。 >正しい心を持ち「人の道」を歩むということです。 私はオカルトに浸かっているのでは無く、事実を述べただけです。 陰陽五行を否定すると云うことは、その上に成り立つ東洋医学を否定することと同義だと思います。

g3452sgp
質問者

お礼

風邪薬の話が気になるか。そんなら話そう。 風邪薬ははっきり言って効かん。 これはわしが身をもって体験済みやから自身があるんや。 風邪薬は全く意味がないと言ってえー。 わしはだいたい年に2回ほど風邪をひくんやが、ある年に試しに実験してみたんや、風邪薬を飲むとどうなるか、飲まんとどうなるかと。 結果的には風邪薬を飲もうが飲むまいが約4日で風邪は治ったんや。 つまり風邪薬を飲めば早く治るんかちゅーとそんなことは無いちゅー事が分かったんや。 この実験は3年ほどやってみたが結果は全く変わらんかった。 それでわしは確信したんや。風邪薬は全く意味の無いしろもんちゅーことを。 それ以来わしは風邪薬など飲まんことにしたんや。それで全然なんともないんや。何の不自由もない。 これはわしが身をもって体験したことやから自身をもって言えるで。 幽霊とオカルトの話についてはテレビ局、特にアホな民放テレビが女子中高生とか主婦をターゲットに年中幽霊やら、オカルトの番組作って放映しとる事実を考えればこれはもー社会がビジネスでやっとることくらい考えんでも分かることや。 幽霊は苦心惨憺して坊主が作ったもんちゅーことは明らかや。 坊主の話を聞いてみればすぐに分かることや。何せ坊主は幽霊、死霊の話になると俄然勢い付くんや。 坊主は幽霊の話になると水を得た魚のように喜んで語るで。 特に耳無し法一の話をするときなんぞはもう有頂天や。   陰陽五行で病院が成り立つか聞いてみい。    

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回答No.23

 「思想と哲学が正しい」とは“理性”の世界。  人間は、理性のみにての行動はできません。  “情”が“意志”に大きな影響を与えます。  だから理の面からの「正思」による行動が正しいと云えても、総括して「人の道」を説いているとは思えないのです。

g3452sgp
質問者

お礼

  この世界で情けが通ずるかどうかはまず役所や警察に聞いてみい。  

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  • magga
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回答No.22

<<仏教は方便の世界や。嘘をつくのも方便、お経を唱えるのも方便、真理については言わず語らず押し黙る、これも方便、つまり全てが方便ちゅー訳や。世の全てを方便で片付けようとするのが仏教や。>> 仏教といっても数多ある思想宗教のグループネームとして一般的には使われている言葉です。 それを人括りにして決め付けるのはいかがなものかと・・・ あなたの論理、思索を見る限り、パーリ語の初期経典を詳細に学ばれたことはないでしょう。 と憶測いたします。 知らないのに知ったように何かを決めつけることは「偽り」といえましょう。 少なくとも「範囲を限定する」「~ゆえにこのように考える」などとしなければ 偽りを語るものといわれてしまうこともあるでしょう。 <<その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。しかし全てを方便で片付けとったら後には何が残る。不可解な世界が現れるだけと思うがそーやないか。嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。ほんとにそれでえーか。>> ここは共感しますw 無根拠に意図的に嘘偽り語ることは賞賛に値しませんw 根拠なき決め付けは、科学的論理的理性的に真理の探究をなそうとする人にとってはゴミですからね。 あるかないかわかっていないことに関して「ある」「ない」と言うことも。 <<「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。>> 「人の道」さんの論理には欠点が穴が矛盾が決め付けがいまだあるとは思いますが。 嘘偽りはよくない。ということに関してはそのとおりだと思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

  思想と理念を備えるもんは、枝葉の辺り、つまりどうでもよい細部について不平不満は言わんもんじゃ。  

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回答No.21

 私のお尋ねしたことはことごとく、お答えいただけないのが非常に残念ですが、しばしのお付き合いをお願いいたします。 >>「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。  私にはそうとは言い切れません。  もう数年前になりますか。こんな場面に出くわしました。一人の若い方が、大きなイヤフォンをつけて電車の中に入ってきました。私は少しはなれた所に立っていたので気にならなかったのですが、その若い方の隣にいた初老の男性が「音がうるさいので、音を下げてください。」と声をかけました。すると、隣に居た若い方は「お前に迷惑をかけて覚えはない」とすごんでおりました。  なぜこのような事が起きるのか?。宗教学者ひろさちや氏によれば、日本人は「人に迷惑をかけるな」と教えてきました。しかしある時、「人に迷惑をかけるな」と教えることについてインドの新聞記者の方に「日本人はおかしい」と言われたそうです。そこで、インドではどのように教えるのか?と尋ねると、「インドでは「人は他人に迷惑をかけている」と教えます」と答えらられそうです。  「人に迷惑をかけるな」というのは、まったくその通りですし、それ自体は間違っているわけではない。しかし、この教え方では「人間は人に迷惑をかけずに生きていける」と考えて、「人間は他人に迷惑をかけずには生きていけない」と言うことを忘れてしまいます。すると、私の体験したような「自分は迷惑をかけないで生きているんだと」思い上がった若い方が現れるわけです。なおかつ、自分が他人に迷惑をかけていないと思い込んでいる人は、他人から受ける迷惑には敏感ですし、大変それを嫌います。自分は人に迷惑をかけずに生きているのに、あの人はオレに迷惑をかけると相手の迷惑には寛容になれないと言います。  しかし、インドの「人は他人に迷惑をかけている」という教え方は、「他人に迷惑をかける私」というものが前提に存在しています。その時、私達はすでに他人から許していただいているのです。そのことをしっかりと知るのが「宗教心」とひろさちや氏はおっしゃいます。すると、できる限り人に迷惑をかけないようになろうという思いが生まれ、他人からかけられた迷惑にも寛容になっていくと言います。そんな教え方が「人は他人に迷惑をかけている」という教え方なのです。 >>”嘘偽りはよーない”  私もこれについては賛成です。しかし、人間はそれほど単純ではありません。嘘偽りと言ってもたくさんの種類の分け方があり、その分け方によって嘘も多種多様です。自分を守る嘘、自分を良く見せる、優位に立つ嘘、社会生活や対人関係を円滑にする嘘、相手を守る嘘、相手を陥れる嘘、騙す嘘、自分自身を騙す嘘、本当のことであったけれどもいつの間にか嘘になってしまった嘘、自分では無意識に出ている嘘等々たくさんあります。こういったたくさんの嘘偽りを持たずに生きていられる人間なんて存在していません。この質問の回答の中で私は人間の前提条件である「人は嘘を付かずにはおられない」という事を記してきたつもりです。  しかし、g3452sgpさんは「一切の嘘偽りは許されない」というご意見のようですね。しかし、それでは、「人に迷惑をかけるな」と同じではないでしょうか?人間は人間が思っているほど賢い動物ではありません。「人間は嘘を付かずにはおられない」という前提条件を失った「嘘を付くな」という教え方は、「自分は一切嘘を付かない人間だ」という思い上がりや「他者の嘘への非寛容」を生むのではないでしょうか? >>仏教は方便の世界や。  へぇへぇ、まったくその通りです。 >>その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。  少なくとも私は方便から抜け出せません。 >>嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。  これは良く分かりません。私は自分の嘘が方便だなんておこがましい事は、口が裂けても言えませんよ。「導かれた」と聞き手が感じ取ったときに嘘は方便になりますが、私には人を導く力などありません。私が救われ導かれる側の人間でございます。私の口から出る嘘は、罪悪以外の何者でもありません。  急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。出来れば、 (1)「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないという事や」のは間違いですか? (2)g3452sgpさんのおっしゃる神道において死者は高天原に昇るという考え方は、どのようなものを根拠にされているか? この二つについてどうぞお教えください。 合掌 南無阿弥陀佛

g3452sgp
質問者

お礼

  つまり我々日本では普通の「人に迷惑をかけてはいかん」、「人に嘘をついてはいかん」と教える代わりに、 インド風に「人は他人に迷惑をかけている」、「人は他人に嘘をついている」と教えなさいちゅーことやな。 これはとんでもない戯言やね。 こんなこと教えたら社会は荒れ狂うで、ほんまにえらいことになるで。 全く問題にならんわ。 えーか、その理由はこうや。 まず我々日本人とインド人は同じやないちゅーことや。 インド人がこう教えるから日本人もそれに従うべきなどとは思わん。 そんなにインド人の心がえーと思うか。 わしはそうは思わん。 世界にはインド人だけやのーて他にも様々な考え方の人間がおるんや。 はっきり言ってインド人の社会と文化は世界でも特殊な方やと思う。 だいたいインド人が道を歩いとるとインド人やとすぐに分かる。 つまり強烈な民族性と物の考え方を持っとるちゅーことや。 日本人が真似しよー思うたところでとても真似などできるもんやない。 また彼らの真似など更々する必要はないんや。 インド社会が日本よりも精神的に豊かで、彼らの方が道徳的、倫理的に優っとるとは思わん。 インド人の社会は日本以上に大きな現実問題、凄まじい社会矛盾を抱えておるんや。 乞食も泥棒もいっぱいおるし貧富の差は日本と比べても桁違いや。 そんなもんを目の当たりにしたらインド人の教えなどたちどころに吹っ飛んでしまうわ。 お手本にするようなもんなど何もない。 頼むから冗談も休み休み言ってくれ。  

g3452sgp
質問者

補足

  >「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないという事や」のは間違いですか?   神や仏、天国、地獄があると感じたと言う者がおったら、それはその人の五感で感じたちゅーんやのーて単にその人の願い、神や仏、天国、地獄があってほしいという願いを述べておるに過ぎんのや。 だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。    

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.20

>そこが善の美しいところであり、悪の醜いところなんや。そーゆーふうに考えれば分かることや。対局するものは他にもある。 対局するもんは他にも一杯在ることはわかったんやが、年寄りのあんたなんか若いもんと比べてどう見ても醜いやんか。やっぱあんた悪なんか。 んっにゃ、それとこれとは違う、見てくれの問題ではあらへん、心、心なんやなんて屁理屈捏ねて醜いあんたは醜くないなんて言い草で、お互いに対極にあって反発するだけで決して引き合うことのないあんたの年寄りの醜さを 理屈とは理屈でないと理屈言い ってなことはいかんで。 正直がそんなに良いんか。 よかろかの 色気爺に 浮気癖 痴漢行為に 子育て放棄 「人の道」たあ、いろいろあるやん。ただ娯楽のために狩りをしたり、引きこもったり、そんなことするの人間だけや。そしそんなことする連中は皆自分の心に嘘付かずに正直にやってる。畜生は娯楽で殺したりせん。畜生は互いに助け合い、自分の身を呈して仲間を守ることをちゃんとやってる。でも、正直に人前で交尾するやん。 あんたの言ってること聞いとると、正直がええ、嘘付かないのがええと言っとるが、じゃあ正直に人前で交尾するのがええんか。好きなもんは好き、やりたいことはやりたいって言うのが「人の道」たあ、あんた支離滅裂やで。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、えーか。 はっきり言うがこれまでに回答寄せたもんの中で一番畜生に近いのはあんたや。 あのなあ、よー聞け。 一つ分かったことはな、わしは畜生の考えにはついていけんちゅーことや。 畜生は「人の道」は歩めんのや。 まともな人間しか「人の道」は歩めん。      

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回答No.19

ん~この問答根本的な部分が・・・・、今の世の中、善悪を語る上で、問題ありだと思うが。 善悪って、そう言うもんではないと思うけど。むしろ、物事を考えたり、判断する為の基準の一つとして考えた方がええんでないの。 善意を持って宗教真面目にやっている人まで、悪人呼ばわりするのは、ただの偏見。

g3452sgp
質問者

お礼

  >善悪って、・・・・物事を考えたり、判断する為の基準の一つとして考えた方がええんでないの。 嘘か本当かちゅーのは物事を考えたり、判断する為の立派な基準やろが。 あのなあ、えーか、一つ言うとく。 回答するときはちゃんと自分の答えを準備して示さんとあかんで。  

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回答No.18

 「人の道」の説く“善”は仏教で言う善的世界の中の「正見(正しくものを見る)」に相当します。  「善」は“見る”だけでいいのでしょうか。  頭の中で考える「善」だけでなく、行動あるいは行為における「善」もとりあげなければ片手落ちではないかと思いますが。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、えーか。 「人の道」ちゅーのはな、机上の空論ではないんや。 人が人として歩む正しい道のことや。 なので当然正しい目で見て、正しく考え、正しい判断をし、そして正しく行動することなんや。 ただ思想と哲学が正しければ、それに続く行動は自然に正しいもんになるんと違うか。 そうは思わんか。  

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  • BlurFiltan
  • ベストアンサー率91% (1611/1754)
回答No.17

#16ですが ご親切に回答ありがとうございます。 「ご親切に」などと書くと,それを「皮肉」と取る方もいらっしゃいますが そういう意味ではなく文字通りの意味です。 > 全てが灰色になってもえーんか。 私の中では全て(万物かも)はそもそも灰色なんです。 > 見えんもんを見えると言うことは偽りや。 > 聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。 > 知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。   ↑それはごもっともです!     だから私はこう思います↓ そもそも灰色に見えるものを白や黒に見えるということは偽りや。 つまり白や黒に見えないものを白や黒に見えるということは偽りや。 白でないものを白ということは偽りなんや。 そんな感じです。 すべては 白黒はっきりせず混沌としています。 100%の白 などこの世には存在しません。 100%の黒も。

g3452sgp
質問者

お礼

  >そもそも灰色に見えるものを白や黒に見えるということは偽りや。 もちろんその通りや。 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 これに従えば灰色は灰色でないとあかん。 当然そうなるんや。 勘違いしたらあかんで、灰色を白にするとか黒にするとかそんなことは言うとらん。  

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  • BlurFiltan
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回答No.16

#14です。 つまりいわゆる単なる二元論者に収束するってことですか。。。 う~ん 残念。 というか ふつーに 危険な話(短絡的な話) をしてただけ...? なんだか腑に落ちませんが。。。

g3452sgp
質問者

お礼

  あのなあ、よー聞けよ。 前に嘘も方便の話があったが、これで説明するのが一番分かりやすい。 この嘘も方便ちゅー考え方が一番問題なんや。 こんなもんを一度持ち出すと後はろくなことはない。 白黒はっきりさせる精神が必要なんや。 全てが灰色になってもえーんか。 政治家は灰色を好むがそれではいかんやろ。 そもそも善と悪の中間ラインを渡り歩こうなんちゅー考えはけしからんのや。  

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    問う人:  一つ訊いてもえーか。 「人の道」:  何でも訊いてみい。  ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人:   救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   救いを求めれば救われる。 問う人:   神や仏に救いを求めれば救われるんか。 「人の道」:   それは違う。  神や仏に救いを求めても救われはせん。 問う人:   神や仏に救いを求めんで何に求める。 「人の道」:   あのなあ、  神や仏に救いを求めるちゅーのは完全な筋違いや。 問う人:   神や仏に救いを求めるのが何で筋違いなんや。 「人の道」:   えーか、  神や仏に救いを求めるのは神や仏に漬かろうとする心が生むんや。  神や仏に漬かろうとする心は決して救われることは無い。 問う人:   では何に救いを求めればえー。 「人の道」:   えーか、昔からよー言うやろ。  天は自ら救わんとする者を救うと。  これはつまり救いを求める先は自分ちゅーことや。自力本願や。  漱石も晩年にはそー悟ったんや。  どーや、これで 神や仏に救いを求めても救われんちゅーこと判ったか。 問う人:  はい、判りました。  やっぱ漬かっとっては救われはせん。 「人の道」:   救いは何に求めるかも判ったか。 問う人:  はい、判りました。  救いは自分に求める、自力本願以外にはない。 「人の道」:   宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いんや。  もしこれが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人:  宗教漬けになって御経や念仏唱えたところで決して救われることは無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。