• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:善と悪についての問答)

善と悪についての問答

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.21

 私のお尋ねしたことはことごとく、お答えいただけないのが非常に残念ですが、しばしのお付き合いをお願いいたします。 >>「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。  私にはそうとは言い切れません。  もう数年前になりますか。こんな場面に出くわしました。一人の若い方が、大きなイヤフォンをつけて電車の中に入ってきました。私は少しはなれた所に立っていたので気にならなかったのですが、その若い方の隣にいた初老の男性が「音がうるさいので、音を下げてください。」と声をかけました。すると、隣に居た若い方は「お前に迷惑をかけて覚えはない」とすごんでおりました。  なぜこのような事が起きるのか?。宗教学者ひろさちや氏によれば、日本人は「人に迷惑をかけるな」と教えてきました。しかしある時、「人に迷惑をかけるな」と教えることについてインドの新聞記者の方に「日本人はおかしい」と言われたそうです。そこで、インドではどのように教えるのか?と尋ねると、「インドでは「人は他人に迷惑をかけている」と教えます」と答えらられそうです。  「人に迷惑をかけるな」というのは、まったくその通りですし、それ自体は間違っているわけではない。しかし、この教え方では「人間は人に迷惑をかけずに生きていける」と考えて、「人間は他人に迷惑をかけずには生きていけない」と言うことを忘れてしまいます。すると、私の体験したような「自分は迷惑をかけないで生きているんだと」思い上がった若い方が現れるわけです。なおかつ、自分が他人に迷惑をかけていないと思い込んでいる人は、他人から受ける迷惑には敏感ですし、大変それを嫌います。自分は人に迷惑をかけずに生きているのに、あの人はオレに迷惑をかけると相手の迷惑には寛容になれないと言います。  しかし、インドの「人は他人に迷惑をかけている」という教え方は、「他人に迷惑をかける私」というものが前提に存在しています。その時、私達はすでに他人から許していただいているのです。そのことをしっかりと知るのが「宗教心」とひろさちや氏はおっしゃいます。すると、できる限り人に迷惑をかけないようになろうという思いが生まれ、他人からかけられた迷惑にも寛容になっていくと言います。そんな教え方が「人は他人に迷惑をかけている」という教え方なのです。 >>”嘘偽りはよーない”  私もこれについては賛成です。しかし、人間はそれほど単純ではありません。嘘偽りと言ってもたくさんの種類の分け方があり、その分け方によって嘘も多種多様です。自分を守る嘘、自分を良く見せる、優位に立つ嘘、社会生活や対人関係を円滑にする嘘、相手を守る嘘、相手を陥れる嘘、騙す嘘、自分自身を騙す嘘、本当のことであったけれどもいつの間にか嘘になってしまった嘘、自分では無意識に出ている嘘等々たくさんあります。こういったたくさんの嘘偽りを持たずに生きていられる人間なんて存在していません。この質問の回答の中で私は人間の前提条件である「人は嘘を付かずにはおられない」という事を記してきたつもりです。  しかし、g3452sgpさんは「一切の嘘偽りは許されない」というご意見のようですね。しかし、それでは、「人に迷惑をかけるな」と同じではないでしょうか?人間は人間が思っているほど賢い動物ではありません。「人間は嘘を付かずにはおられない」という前提条件を失った「嘘を付くな」という教え方は、「自分は一切嘘を付かない人間だ」という思い上がりや「他者の嘘への非寛容」を生むのではないでしょうか? >>仏教は方便の世界や。  へぇへぇ、まったくその通りです。 >>その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。  少なくとも私は方便から抜け出せません。 >>嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。  これは良く分かりません。私は自分の嘘が方便だなんておこがましい事は、口が裂けても言えませんよ。「導かれた」と聞き手が感じ取ったときに嘘は方便になりますが、私には人を導く力などありません。私が救われ導かれる側の人間でございます。私の口から出る嘘は、罪悪以外の何者でもありません。  急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。出来れば、 (1)「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないという事や」のは間違いですか? (2)g3452sgpさんのおっしゃる神道において死者は高天原に昇るという考え方は、どのようなものを根拠にされているか? この二つについてどうぞお教えください。 合掌 南無阿弥陀佛

g3452sgp
質問者

お礼

  つまり我々日本では普通の「人に迷惑をかけてはいかん」、「人に嘘をついてはいかん」と教える代わりに、 インド風に「人は他人に迷惑をかけている」、「人は他人に嘘をついている」と教えなさいちゅーことやな。 これはとんでもない戯言やね。 こんなこと教えたら社会は荒れ狂うで、ほんまにえらいことになるで。 全く問題にならんわ。 えーか、その理由はこうや。 まず我々日本人とインド人は同じやないちゅーことや。 インド人がこう教えるから日本人もそれに従うべきなどとは思わん。 そんなにインド人の心がえーと思うか。 わしはそうは思わん。 世界にはインド人だけやのーて他にも様々な考え方の人間がおるんや。 はっきり言ってインド人の社会と文化は世界でも特殊な方やと思う。 だいたいインド人が道を歩いとるとインド人やとすぐに分かる。 つまり強烈な民族性と物の考え方を持っとるちゅーことや。 日本人が真似しよー思うたところでとても真似などできるもんやない。 また彼らの真似など更々する必要はないんや。 インド社会が日本よりも精神的に豊かで、彼らの方が道徳的、倫理的に優っとるとは思わん。 インド人の社会は日本以上に大きな現実問題、凄まじい社会矛盾を抱えておるんや。 乞食も泥棒もいっぱいおるし貧富の差は日本と比べても桁違いや。 そんなもんを目の当たりにしたらインド人の教えなどたちどころに吹っ飛んでしまうわ。 お手本にするようなもんなど何もない。 頼むから冗談も休み休み言ってくれ。  

g3452sgp
質問者

補足

  >「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないという事や」のは間違いですか?   神や仏、天国、地獄があると感じたと言う者がおったら、それはその人の五感で感じたちゅーんやのーて単にその人の願い、神や仏、天国、地獄があってほしいという願いを述べておるに過ぎんのや。 だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。    

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