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悪という概念の役割について

悪という概念の役割について 江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

みんなの回答

noname#189246
noname#189246
回答No.8

つまり、魂は無限の過去と未来を持つから、時間が意味を持たないということです。 地球の時間は最初から存在しません。現世の人間が「時間」としただけです。だから消失もありません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#189246
noname#189246
回答No.7

霊は創造されていません。無限の過去より存在してきました。そしてこれからも無限に続いて行きます。なぜなら、時間が存在しないからです。だから、霊の創造主は存在しません。現象を創造する存在はあります。それは無限の高みから下へと働く力です。それが霊性進化のために働く現象です。例えば、ある高級霊が現世にある自然現象を起こすとすると、それはより高い霊から働いてきた善の感識によってなされます。その霊はそうしたいのだからそうしているのですが、それはそこに善を感じるからです。しかし、霊の存在自体は創造されたのではなくて、無限の過去から存在しているのです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 時間が存在しないということと、創造されていないということは別ではないでしょうか。 今地球の時間が消失したとしても、地球が創造されてはいないということにはならないと思うのですが。

noname#189246
noname#189246
回答No.6

神は完全ではありません。全ての魂を総じて神と言います。全ての魂に宿っている利他的エネルギーが、あの世でつながっています。だから全ての魂は神とつながっていると感じ、全ての魂は神の一部だと言えるのです。 霊性が最高級と呼ばれている部分があります。現世の日本では天照大御神という呼び名で表現されています。普通の人霊に感識出来るのは、いかに霊界の人霊と言えどもここまでが限界のようです。実はそれ以上も存在するようですが、まぶしすぎて分からないという霊言しか、今のところありません。 それはすべて高級自然霊を指して呼ぶことです。人霊から見て、限りなく完璧に近い高級自然霊はあります。霊性には無限の高みがあるようです。それは、数が無限なのと同じで、疑問が無限なのと同じで、物質の根源が無限なのと同じです。だから、完全無欠の「神」があるのではありません。あくまでも霊の高みが連なって行くだけです。 実は、人間の魂にも天照大御神と日本では呼ばれているような霊の波動はあります。これが善意であり利他的精神です。善意そのもの、利他的精神そのものは完璧です。全ての魂にはそれが宿っています。これをもって全ての魂は神の一部と言えます。しかし、それをどの程度発揮出来るのか、どんなスケールで働けるのかによって霊性が上下するのです。全ての魂は完璧さを内蔵していながら発揮しきれないので、不完全です。天照大御神と日本では表現されている部分は、それを最も限りなく完璧に近いスケールで発揮出来ると、人霊には感識出来る霊なのです。 というわけで、天照大御神も、イエスも、仏陀も、アラーも、ゼウスも全て霊性の高い霊の呼称であるに過ぎず、完璧な神様ではありません。あの世ではそうなっていると思います。 全ての霊は霊性を高めようとします。それは性質です。やることがないと退屈になるのは向上心です。超高級霊も人霊も皆同じく高まろうとします。自らが高まるためには下の霊を導くという仕事もあります。人間には「性質です」としか説明しようがありません。それ以上掘り下げようとすると人霊の理解を超えます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >全ての霊は霊性を高めようとします。 これを定めた存在がいるはずではないでしょうか。 もっと言えば霊を創造したした存在です。 つまり、神を超えた存在(神の創造主)です。

noname#189246
noname#189246
回答No.5

魂は自らの性質のために霊性を上げようとします。魂には向上心があります。それは全部で神自身の向上心でもあります。全ての魂は神の一部なのです。 霊性が上がることによって、前回答で述べた、光の強さと利他性と波動の精妙さと幸福度が上がります。 全体で一つの魂、というイメージは少し違和感があるかもしれません。一つの魂は「再生して人生を過ごした一回分の記憶」です。これを霊と言い、守護霊にもなります。現世の人間には主護霊、指導霊、支配霊、補助霊などの守護霊がつきますが、多くが自分自身(個性が同一ということ)の過去世です。補助霊だけは現世で縁のあった別の人です。霊は皆自分の意識を持っているようです。自分の過去世でさえ、現世の人間とは別の、独立した人格として「わしが守護しているこの者はうんたら…」と、まるで別人のような見方をします。 では「個が無い」「全体で一つ」とはどういうことなのでしょうか。あの世には言葉がありません。全てテレパシーです。イメージの共有が出来ます。思いを共有することが出来ます。私はこれによって全体で一つなのだと理解しています。一つの魂にとっては領界に限界があります(前回答で述べた、上はまぶしすぎて下は暗すぎるということですね)が、それぞれのつながりを考えるなら、全てはつながっていると思われるのです。 個に分かれて生活を送っている現世の者には、それがどういう状態なのか理解しきることは出来ないのです。イメージに限界があるのです。 魂には上下があります。思いを共有することが出来るということにおいて、全ての魂はつながっていると言えます(一つの魂から見たら領界に限界があるというのは先に述べました)。しかし、魂には個性もあるのです。現世で「個に分かれている」というのは、別の魂の思いが読めない、感じられないということです。霊界においては、肉体という牢獄=個から解き放たれた魂があります。別の魂の思いがテレパシーによって感じられるようになります。しかし、その人生の経験の記憶によって形成された、個性は残っています。一つの魂とは一つの人生経験の記憶であり、それによって形成された個性であると思います。 魂は一つの人生を終えると、狭義の類魂に融合します。狭義の類魂は自分自身(個性が同一のもの)です。そして魂の成長によって狭義の類魂が少し肥やされます。これが霊性進化です。魂の上下は広義の類魂において言えるものだと思います。狭義の類魂は自分自身の個性だから、霊性も同一のものです。しかし、広義の類魂(他の全ての魂)は別の個性ですから、霊性も違います。 というわけで「全体で一つ」と言っても「一人きり」であるということではありません。 あの世とは、言葉では簡単に表現できることもあるかもしれませんが、現世と感識作用が異なるので、イメージで理解するのは難しいと思います。現世は肉体の感覚が全てです。あの世にはテレパシーがあり、いわば、魂たちの思いそのものが全てであると思います。 しかし、あの世がどうなっているのかを、今完全に理解する必要はありません。現世に生まれたのは、わざわざ苦しみの肉体に閉じ込められて霊性を上げるためなのです。霊言がもたらされるのは、人間が生きる方向を指し示すためです。軌道修正です。あの世がどうなっているのかを現世の人間に完全理解させるためではありません。 魂は自らの性質のために、霊性進化しようとし、現世に生まれます。現世は苦しみの世界にしておくために、あの世のことが分からないようになっています。現世の人生は多くとも100年、あの世は永遠の世界です。いつも住んでいる当然のあの世がどうなっているのか、と考えることに時間をかけすぎるのはもったいないことです。ある程度概要が分かったら、ひたすら苦しみの人生を耐え抜くことです。たった100年しかない人生なのだから。 というのが霊言からもたらされたことでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >魂は自らの性質のために霊性を上げようとします。魂には向上心があります。それは全部で神自身の向上心でもあります。全ての魂は神の一部なのです。 なぜ神が今更向上心を持つ必要があるのでしょうか。 神もまた人と同じように不完全であるということでしょうか。

noname#194289
noname#194289
回答No.4

悪というのは、ある既定のルールが尊重されるとして、それに反するものをいうのではないでしょうか。逆にいえば悪があればそのルールが尊重されているということになると思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そういう見方もできますね。

noname#189246
noname#189246
回答No.3

霊界における善悪とは、魂の優劣による比較表現だと思います。現世の人間に分かり易いように、善だの悪だのと表現しているだけで、霊界においては、要は階層の上下のことなのです。 スピリチュアリズムには「階層の法則」というのがあります。魂が永遠に住まう霊界は、光の世界であり、形象がありません。「ありません」とするとまた短絡的になってしまいます。霊界の光でも形象があるような中間的な状態もあります。本当は界を単純に区切ることが出来ないのです。しかし、それでは多くの現世の人間にとって難解なので、分かりやすいように世界を現世、幽現界、幽界、霊界以上に分類したのです。実は霊界まで達することが出来た魂は幽界の形象と霊界の光の世界を行ったり来たりすることが出来ます。魂は自分が達することが出来た境涯以上の世界には行けませんが、下の世界には行けるからです。それでも、あまりにも離れた世界には下でも行くことは出来ません。 霊性の上下には縦と横があります。魂は霊界から現世に魂を派遣し霊性を上げようとしますが、現世、幽界、霊界と環境を変えて行くことは、一時だけの魂の状態だと思います。これは横であると思います。イエスだって罪人だって、現世に産まれたことは産まれたのだから、現世から幽界へのプロセスは霊性に関係なく通らなければならないのです。 縦とは、永遠の魂の住居である霊界における霊性の高さのことです。縦の方が本当の霊性の高さを意味しているのだと思います。 霊性の上下を決定する概念はなんでしょうか。現世の人間にはとても難しいのですが、霊言から各々が勝手に想像するしかないようです。あの世では当然の感覚として分かることのようですが、現世の感覚では完全に理解することはできないようです。キーワードとしては、「波動の精妙さ」「光の強さ」「幸福感」「やる仕事の大きさ」などがあげられるようです。 「波動の精妙さ」 世界は波動です。魂も波動です。波動が細かければ細かいほど、霊性が高いと言えます。現世は波動が最も重くて荒い物質の世界です。神界に近づけば近づくほど波動が細かくなっていくようです。 「光の強さ」 魂は元々光り輝く存在です。その光とは、利他的な意識と直結しているようです。光をくすませているのは利己的な意識です。魂は利己的な意識を減らし、より光り輝くという願望を持っています。そのために現世に魂を送って研磨するのです。現世において、魂は苦しみによって利己的意識を減らして利他的意識を増して霊界に返ります。 「幸福感」 霊性が上がれば上がるほど、幸福感が増すらしいです。心のマイナス要素である、利己的意識から出る苦しみを減らしたからでしょう。 「仕事の大きさ」 守護霊の話が出ていますが、霊性が上がれば上がるほど受け持つ仕事のスケールが大きくなるようです。仕事とは全ての魂が霊性を上げて行くために働くことです。守護することの管轄が大きくなります。例えば、人霊の霊性を一挙に上げようとするイエスのような高級霊とその霊団などもあるし、自然霊(現世に生物として生まれたことのない霊)では、高級なものほど大災害を担当します。大災害はカルマの清算であって霊性進化の営みの一環です。全ての霊は霊性を上げようとする願望があるので、自ら喜んで仕事を営みます。仕事を通じて自らの霊性も上がるし、担当する魂の霊性も上がります。 ところで、あの世では魂のあいだの関係が希薄という認識をされているようですが、これは逆です。現世は個に分かれています。現世での魂は自分自身の世界しかなく、他者のことは想像するしかありません。あの世には個がありません。全ての魂がつながったひとつの心です。全ての魂が神の一部とはこのことです。全てで一つの心なのです。これはお互いに呼応し合う魂同士の強い結びつきがあるということだと思います。簡単に言えば、心が読めるのです。そこで、善悪、優劣も現世より即座に分かってしまい、劣悪な方は恥ずかしくてみじめな思いをするでしょう。現世での立場の優劣は霊界には通じません。おおむね立場が逆転することが多いようです。 一つの魂は全体を見渡すことが出来ません。限界、「及ぶ範囲」というのが決まっています。親和力によって「及ぶ範囲」が変わります。及ぶ範囲から外れると、上はまぶしすぎて耐えられないし、下は暗く重苦しくて耐えられません。全体で一つというのは、連環がそう成しているということです。 利己的意識と利他的意識は、一つの魂から見た表現です。全体から見たら、全てが自分自身であるため、他己の区別がありません。 一つの魂とは一度の人生経験を現世の感覚で区切ったものです。本来は「一つの魂」は全体の記憶の一部に過ぎません。全体は類魂です。さらに、類魂を同じ個性で区切ったものを「狭義の類魂」と言います。これは自分自身という個性が、現世に再生し続けたりして、延々と霊性進化をしてきた歴史です。しかし、歴史の元をたどれば、全ての魂が同一になって行きます。この視点から見た全体を「広義の類魂」と言います。 上をもって善と呼び、下をもって悪と呼びます。しかし、言葉そのものが現世だけのものなので、感覚で自然に感じるだけです。言葉に執着して理屈を展開すると関係ない物事にハマるでしょう。 ところで、善意が独善かの裁定は動機によって自分自身が感じることなので、現世での結果は関係ありません。あの世では動機(心)が全てであり現実は一時のことに過ぎません。だから結果は無意味です。ですが、魂が成長するためには結果を目指すということが発生する現世に生まれます。 あの世では「善意は本質的に独善」というような難しい言葉には意味がありません。言葉自体存在しないので、感じるしかありません。善意は善意です。動機が全てなのですから。結果がどうなるかは関係ないのですから。また、動機に独善という利己主義があったとしたら、それは善意ではありません。利己主義です。ある善意の性質は自分自身でも分かるし、他の魂にも即座に分かってしまいます。独善という利己主義なのかどうなのか、また、本物の善意だったとして、どの程度のスケールの善意なのか。あの世とはそういうことがすぐ分かってしまう明白な世界だと思います。言葉の展開ではなく、感じるのです。 全ての魂が全体で一つの心であるということにおいて、「善意は本質的に独善」と呼ぶなら、それは間違いではないと思います。しかし、ご質問によるとそこまで深い認識における言葉よりも、魂を自分自身という一つの個として捉えた上で述べられているような気がするのですが、そうなるとおかしな言葉ということになります。善意は善意です。独善は利己主義で善意ではありません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一つ質問してもいいですか、 >魂は霊界から現世に魂を派遣し霊性を上げようとしますが これは何のためですか? 霊性が上がることによって何が起きるのでしょう。 全体として一つの魂なら上下もないと思うのです。 例えるなら、この地球で私が一人きりの存在になったら私の性格の善し悪しに何の意味があるでしょう。

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.2

こんにちは。 わたしは、江原氏の著書は読んでいませんが、スピリチュアルな観点から書かせていただきます。 まず、悪がリミッターだというあなたのご意見は、大体当たっていると思います。 わたしの表現を書きますので、あなたのお考えの参考になればと思います。 神は、すべてです。善も悪も、神のものです。 たとえば、聖書的には、悪魔さえもけっきょく神の支配下にあるのだと聞きます。 ゲームをするときは、制限(あなたのおっしゃる、リミッター)をつけることで、楽しむことができます。 劇をする時も、悪役や困難があるからこそ、愛や幸福が輝きます。 制限がなければ、それは楽で楽しいばかりですが、いずれはあきてしまうのでしょう。 善、悪、というのは人間や個人の主観ですが、ゲームや演劇の監督の立場からすると、同じように重要な役割です。 この世で行われているのも、一種の芝居、ゲームであり、同じようなことが言えると考えています。 >天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 私は江原さんのおっしゃる天上人という方がどのような方かは存じませんが、 目の開かれた人は、どの存在も、自分の役割を遂行しているだけだと知っています。 それぞれが、与えられた運命の役割を生きる(自分らしく生きる)ことが、人生の成功です。 (たとえ失敗のように見えても) そして自分自身も、与えられた役割を遂行することが目的であることを知っています。 >彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 目の開かれた人にとっては、悪人とよばれる人もまた、自分の役割を忠実に遂行している罪のない人たちです。 その人たちが自分の役割を遂げることを、応援するのみです。 自分自身の運命の遂行と干渉し合うならば、遠くから見守るでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 同じ質問でも哲学のカテゴリとこのカテゴリではだいぶ回答内容が違いますね。

  • dondoko4
  • ベストアンサー率12% (1161/9671)
回答No.1

守護霊、地獄、天国なんてありません。 悪とか善は、人間の世界だけ。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 『選民思想』とは善なのですか?それとも悪なのですか?

    只今、選民思想について調べていたのですが、 調べているうちに選民思想が善なのか悪なのか分からなくなってきたので、質問します。 まず『善』の方ですと、ユダヤ人関連がそれにあたります。 『ユダヤ教においては、選民であるという考え方は、ユダヤ人が神と契約を結ぶために選ばれた人々である』という、迫害され続けてきたユダヤ人に対する『救い』の言葉として、選民思想という単語が存在しているようです。 そして『悪』の方ですと、テイルズオブデスティニーのミクトランがそれに該当します。 『極端な選民思想の持ち主。 天上王を名乗って徹底した恐怖政治で天上全体を支配していた。 地上の民に全く価値を認めておらず、選ばれた民である自分たち天上人が穢れている地上とその民を完全に支配(或いは抹殺)するべきであると考えている』 このように、天上人の為なら地上の民など皆殺しにしてもいいと公言しております。 どちらも『選民思想』という単語を使っているにも関わらず、こうも意味が違います。 因みに私は『選民思想』という単語は後者のミクトランのような人物の事を指す単語―――要約すると、神とかに選ばれた民以外は死のうが苦しもうが構わないという思想―――とばかり思っていたので、前者のユダヤ人に対しての使われ方には驚きました。 果たして、選民思想は善なのでしょうか?悪なのでしょうか?