• ベストアンサー

悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。

 悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。  だから 悪は ない。存在しない。  善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。  またその傷つける行為のことである。  善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  これを問います。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

こんにちは。 ☆悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。 ◇ということを前提にして、すこし考えてみます。 美しい女の人、イケメンを見て、 性的な気持ちをおこすのは、人間本性でしょう。 これにしたがい行動をすることは、 本来、否定されるものではない。 であるとするならば、 結婚している人の場合、 不倫や浮気はどうなるのか。 不倫したい、浮気したいという気持ちや、その行動を抑えることは、 人間の善性を歪めることではないのか。 当事者(浮気・不倫をする男女)間の合意は最低限、必要ですが、 この同意があれば、 浮気や不倫をしないことが、悪ということになりはしまいか? 浮気や不倫をするときに《やましさ》を感じるとしても、 これは、 旦那さんならば奥さん、奥さんならば旦那さんへの背徳行為、 その信義則、婚姻という契約の不履行に対する罪悪感であり、 たぶんに後天的なもの、社会的なものでしょう。 人工的なものです。 自然に反している、と言ってもいい。 この件について、 いかがお考えですか? つまり、 《不倫・浮気》をすることが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか、 そうではなく、 《不倫・浮気》をしないことが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか? もちろん、 善のへそ曲がりとしての《悪》と、 社会的に取り決められた《わるい行為》を、 別なものとして、分けて考えることもできますけれども・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  美しい女の人、イケメンを見て、  性的な気持ちをおこすのは、人間本性でしょう。  ・・・  結婚している人の場合、  不倫や浮気はどうなるのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じつは これは    【Q:婚外子は 差別されているのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8274657.html  において 関連する主題として考えました。  結論として 次のように考えます。  ○ (不倫の問題)   1. 浮気をされる配偶者(またすでに子がいればその子たち)に対して 浮気をする夫または妻そしてそれぞれその相手は 裏切り行為をおこなうことになる。  2. おそらく《婚姻》は ふつうに生きることが善であるのと同じようにいわば《いのち》の動態として 生きる善であると考えられる。これを裏切ることになる。自分自身の心をも むろん 裏切る。  3. それゆえ いわゆる(新造語ですが)ヤマシサ反応が起きる。胸がさわぎ心はゆらぎ 顔は赤らみ舌はしどろもどろになってもつれる。良心もいたむ。  4. このヤマシサ反応なる感性が 心のやすらぎと善とをおしえている。  5. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   不倫したい、浮気したいという気持ちや、その行動を抑えることは、   人間の善性を歪めることではないのか。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その感情を 先の感性がしのぐ。  6. やめよと言われたら やめたくなくなるのが人情。というわけで 卓越せる感性をもさらにしのぎ行かんとする奥の手が 出て来る。  7. この感性に反旗をひるがえすのは じつは・じつに 理性である。  いわく: そんなことを言ったって エロースは 生きるチカラなり。これをないがしろにするのは 感性および理性の死を意味する。それに あやまちを犯すのが 人間スサノヲなりと と。(この場合は スサノヲ人間語を利用して論陣を張る)。  8. おそらく 不倫をやりたい人は 離婚してやればよいでしょう。われには別のいのちの動態があるのだ。よりよいわが善なる人生を目指すのだと。  9. ◇ 背徳行為、その信義則、  ☆ これは 基礎としての生活善にかかわっているものと思います。それとしてのヤマシサ反応は 第一次的な人間の感性であると。  10. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   婚姻という契約の不履行に対する罪悪感〔は〕   たぶんに後天的なもの、社会的なものでしょう。   人工的なものです。   自然に反している、と言ってもいい。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは どうでしょう。  たとえば 婚姻は善なりというのは 一般的な原則です。その原則にのっとったという場合にも マチガイはあり得ると思われます。ひょっとすると このマチガイを侵したということに気づいたという場合が あるのかどうか? これが ひとつの論点なのでしょう。  つまり 《契約の不履行》とそれへの心の痛みといった観点は 《婚姻の善なること》に対して二次的な・手続き上の問題であり得るとは考えられます。     11. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   つまり、   《不倫・浮気》をすることが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか、   そうではなく、   《不倫・浮気》をしないことが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 婚姻をめぐってのわがイノチとしての善を 見直すことがあるか? こういう問いであると考えます。  12. 一般的には あやまちうる人間という条件が ひとつあるでしょうし 個別・具体的には おのおの当事者の主観に問題はあつまって行くものと考えます。  13. こたえは 一般論としては出ないということだと思います。(うまく逃げた)。  14. (8)は それだけを取り出すと 投げやりなかたちで発言しているようですので その点 いちおう注意してくださいとおことわりしなければならないかと思います。

bragelonne
質問者

補足

 本居宣長は おそらく初恋の人と 再婚しています。  次の記念館の記事では 否定する様子ですが すでに婚姻の成ったものを離縁してまで 初恋の女と結ばれたかったのではないかと推測したいものがあります。  ▲ (宣長記念館の記事) ~~~~~~~~~~~~~~    http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/kekkon.html   △〔最初の結婚すなわち村田ふみとの結婚は〕僅か3ヶ月での破局である 。 〔宣長から離縁している〕。  離婚の理由は不明。  〔初恋のひとである〕草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。・・・   △  離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘〔の〕女(むすめ)・たみとの縁談話起こる。  たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。  宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 草深たみは はじめすでに嫁いでいたところ 夫が 宣長の村田ふみとの結納が成って程なくあとに亡くなっている。といった事情もあるようです。  この仮説を発表したのは 日本語学者の大野晋ですが(『日本語の世界』にややくわしい記事あり) 大野は妄想癖があるという批判的な見方もありますので その一例をも掲げておきます。  ▼ (田中久三のサイト:宣長の結婚) http://tanaka0903.net/?p=9372

その他の回答 (6)

回答No.7

異次元の相手に恋をする この世とあの世 いるんだけどいない いないんだけどいる 目をつむれば現れる 触れようとしてもすりぬける 掴みようのない相手 そんなあなたに恋をする

回答No.5

ふむ 韓国ドラマ「根の深い木」 ちょうど ↓ のような話が描かれてた。 パンドラの話に繋がるのかな? 箱の中…

回答No.4

こんにちは。 ───────── 無恆產而有恆心者 惟士為能。 若民 則無恆產 因無恆心。 苟無恆心 放辟 邪侈 無不為已。 及陷於罪 然後從而刑之 是罔民也。 焉有仁人在位 罔民而可為也? 是故明君制民之產 必使仰足以事父母 俯足以畜妻子 樂歲終身飽 凶年免於死亡。 『孟子』 梁惠王上 7 ───────── 《bragelonne語》に置き換えるならば、  《士》、《仁人》、《君》 → アマテラス市民  《民》 → スナノヲ村民 スサノヲ村の民は、救いようのない、バカ、ハッキリ言って、犬畜生!! だっけ、 アマテラス市民(為政者・官僚側)が制(コントロール)しなければならない、 という前提論理があることを忘れてはいけません。 蔑みに基づく憐れ、そして、この憐れみに基づく主張なんです。 《AーS》連関、論理なんです、 これは。 スサノヲ村の民は、 ホントーは犬畜生に等しき存在ではあるけれど、 それでも、 家族、同族、《宗族》くらいは大切にする。 財産が無ければ、これらの人々を養うために、盗みも殺人も行う。 だから、 貧乏な状態においてはいけない。 産業を興して、貧乏な状態に置かなければ、 父母、妻子を大切にするという《礼》の基本くらいは守れるかもしれないし、 その大切さを少しくらいは理解できるかもしれない、 という、 とっても《ありがたいオシエ》なんです、 これは。 だから、 アマテラス市民は、 《みずからの保身》のためにも、 これに努めなければならない!! 中国スワノヲ村民を、《犬畜生》から《オオカミ》にしてはいけない。 血に飢えた《オオカミ》は、アマテラス市民に従順な《イヌ》とはちがい、アマテラス市民を噛み殺す・・・。 中国3千年、四千年の歴史の知恵であり、中国において今も昔も変わらない、徹底的なリアリズムに基づく、不変の政治思想、哲学、《官僚心得》なんです、これ。 これは、スサノヲ村の民のための教えではないんです。 で、 統治側がこれに失敗すると、食べるに困ったスサノヲ村民は反乱をおこし、王朝が交代する。 アマテラス市民のクビが本当に飛ぶ!! 《老子》なんぞは、 「聖人不仁 以百姓爲芻狗 」 《芻狗・すうく》、つまり、ワラのイヌとすら呼んでいる(笑)!! ───────── 芻狗 【イヌ(犬)】より …殷代の祭場跡や墓底から出土した多量の犬骨もこの風習の盛行を裏づける。《老子》,《荘子》天運篇などに見える〈芻狗(すうく)〉は快気祈願や厄払いのために神前に供えるわら細工の犬のことで,周代から三国時代ころまで行われたらしく,犠牲の代用品といえる。雨乞いに犬を殺して井戸や泉に投じたり,犬を城門にはりつけて邪気を防ぐ〈磔(たく)〉も行われた。… http://kotobank.jp/word/%E8%8A%BB%E7%8B%97 ───────── 中国スサノヲの村民・犬畜生が、知恵を持つと、ロクなことがない。 だから、 『老子 八十章・小国寡民』で語られるように、 分断統治をし、徹底的な愚民化政策をせよとなる。 儒教や老子のオシエというのは、 本当は、 オッカナイ、 《オ・シ・エ》!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。  そもそもからの《絶対的な〈アマテラス公民‐スサノヲ市民〉逆立連関》なる社会体制ですか。  いや スサノヲは 市民ですらなく 村民。市民としては アマテラス市民がいて その雲の上に アマテラス公民がいると。  主権の存するスサノヲ人間の上に立つアマテラス人種。それが 社会形態としては 逆立ちしている。  いやはや。  恒産ならびに恒心を基礎として じみちに生活をいとなむ。と じつは 思って(読んでしまって)いました。  なんだか スサノヲ市民もアマテラス公民も皆ひっくるめて 凡夫であり 無明の地獄にのたうちまわっていて われ独りだけが 世界を自在に生きるとのたもうたお方に似ているような 。・・・  日本では その神話にもとづくかぎり まだアマテラスは スサノヲの実の姉であるという条件がついてまわっているのですが ほとんどこのことも忘れ去られているでしょうか。  《スサノヲ人間語》――あやまちうる人間の人間なる存在いっぱいにひろがる人間語――と違って 《アマテラス語》は 普遍性を追究していて 片や科学語を成し 片や人格語を形成し いづれもあやまち得ない(また 神聖にして犯すべからざる)とうときものと 一般には されています。  アマテラス普遍語によって成ったとうときあやまち得ざるオシエを 後生大事に戴いているという現状を憂えます。  ありがとうございました。

回答No.3

その通り。ふつうに日常生活をじみちに生きる対極。 つまり、bragelonneの存在が悪そのものということだな。最悪とか極悪とか。   年末か年明けに久しぶりに名古屋に行くことになりそうです。楽しみだぎゃぁ。

bragelonne
質問者

お礼

 そんなにほめてもらっても。

回答No.2

日常生活を地道に生きる事と、善悪は関係ない。 ↑ そうかな? 地道に生きるってことは… 地道ってことだから コツコツ 何かしら働きながら暮らしていく様が目に浮かぶ ワーク・ライフ・バランス ↑ バランスを欠くと具合悪くなるよね? とは、いえど このバランスを保つことがなかなか難しい。 無恒産而有恒心者、惟士為能。 若民、則無恒産、因無恒心。 苟無恒心、放辟邪侈、無不為巳。 及陥於罪、然後従而刑之、是罔民也。 焉有仁人在位、罔民而可為也。

  • tomoka_m
  • ベストアンサー率9% (15/151)
回答No.1

日常生活を地道に生きる事と、善悪には何の関係性もない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(趣旨説明欄) 善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  ☆ これが ここでの《善》の定義です。  《いのち》としての存在 存在としての《いのち》 これを《善》としたいとも思うのですが 具体的な《生活》を推し出すことにしています。  もっとかんたんに言うならば 《生きること》 これが ここでの善の定義です。色をつけて《よく生きること》。  これに反することは 善の損傷行為であり かんたんに一語で《悪》と呼ぶ。  つまり 悪は 単なる呼び方の問題であって そのことに何も実体のようなものはない。こういう主題を問います。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう