神 信仰および宗教についての一般理論

このQ&Aのポイント
  • 神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論
  • 真理と事実と真実についての考察
  • 信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである
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神 信仰および宗教についての一般理論

 神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

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noname#187416
noname#187416
回答No.7

質問とか 清い信仰と汚い宗教というのは観念的じゃないの? 信者が無為・無思考になって信じる状態になったり、集団で思考をよして世界をありのまま感じ真理ともにあろうとする教団もあったら? 教えや組織構造と信仰との両立があったら? 信仰者はいつも清く元気でないといけないの? 神や真理は部分的にでも思考対象になることないの?(非思考の庭以外で) もし神や真理が現実世界そのもので汎神論なとき、個体の思考範囲にに限界があっても、部分的には信じることと考えることとが同次元で重なる? 神や真理がはたして経験事実次元より高次元にあるか同次元にあるかは分からなくない?分かるの? 精神錯乱というけど… 信仰者も信者もそうなる前にそうなるくらいの辛さを抱えていたかも(という観念としての信者観や信仰者観がある) 信者は精神錯乱してるといってもしばしば社会生活してるし、もし多少錯乱してても限定的だと思う(非信者や信仰者もメンタル病むし) 宗教団体はなんか理屈が変だし人間観からいって気持ち悪いけど 宗教に頼らないともっと広範囲に錯乱するのかも(精神安定剤としての宗教) 障害や症状が増悪する一因は症状への囚われで、相手を精神錯乱者と見なすとその錯乱や関係断絶が増悪すると思う 宗教神・教義≒薬・処方箋≒信仰対象・信仰? 宗教信者が神を薬(万能薬)だとみなし、教義を処方箋と捉えそれらに頼り、宗教の効用をあてこむ、辛いので焦り、強く処方箋に期待する、安らぎへのショートカットはしたいし(宗教に期待する効能)教団なりの安らぎと恐怖心の植えつけがある(デメリット) 一人で信仰する人々の場合も、神(とか非思考の庭とか)に頼る(信じることの効能を期待する?) 個人的信仰のデメリットは何かないの? メリットやデメリットのようなものがあってもそれが信仰によるものか分かる? 分からない場合なぜ信仰するの? 6.7.8.にある教えの絶対化は、神威を幻想しやすいヒト一般に容易に起きそう(神と理屈はどこにでもつく。個人的信仰者にも) 非思考の庭とそこで受け入れる対象が神や真理という証はあるの? 信仰も宗教も身体性や理論や辛い事情があると思う 自分が頼る薬は効果ある(あって欲しい)から自他ともにこれ飲むべきだと思いがち 無信仰で無宗教な自分は信仰や宗教の効能を軽んじたい 他者の幸福は目的でないし他者が得る効能を自分が得られないと思うと損な感じだし 自らの信仰や宗教の形態への思い入れがあるあまり、同じ信仰形態をとらない者は破滅せよと願いさえする? 信者も信仰者も真理を都合良く利用してる? 非思考の庭は薬みたいに効能ある? 神に何か特定のか予測不能な機能性を当てこむの? 信仰や非思考の庭がもしないとどうなるの?考えが休まらなくて疲れる? それとも信仰と思考は次元が違うから、二律背反じゃないから同時にもできるの? あと市民の国連ておじさんの思想なの? 市民国連は宗教排斥が理念なの? 外交官というおじさんの正体が実は本当のおじさんであることはまだ秘密なの? なぜ秘密なの?ここでの対話の意図に理解が得られづらいのは秘密を秘密にしてるせいもあるんじゃないの?とかよく思うけど 秘密保護法の後半部分には反対 -)

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  (7)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  精神錯乱というけど…  信仰者も信者もそうなる前にそうなるくらいの辛さを抱えていたかも(という観念としての信者観や信仰者観がある)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は 具体的で特定しています。  《経験思考と判断とでまとめたオシエは あくまで考える対象である。それを 信じると言ったり信じよと言ったりするのは 気が狂っている》という物言いです。このように特定してください。  ★ 信者は精神錯乱してるといってもしばしば社会生活してるし、もし多少錯乱してても限定的だと思う(非信者や信仰者もメンタル病むし)  ☆ 信者の具体的な生活における事態は 措いておいてあります。宗教の成り立ちについて その成り立ちにおいて精神が錯乱したからでないならば 宗教はあり得ない。こういう弾劾です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  宗教団体はなんか理屈が変だし人間観からいって気持ち悪いけど  宗教に頼らないともっと広範囲に錯乱するのかも(精神安定剤としての宗教)  障害や症状が増悪する一因は症状への囚われで、相手を精神錯乱者と見なすとその錯乱や関係断絶が増悪すると思う  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 具体的な活動を捉えて問題を指摘することもあり得ますが いまはそれは取り上げません。成り立ちについての問題にしぼっています。それを明らかにし得れば じっさいのモヤモヤは ぜんぶ吹き飛ぶでしょう。  (8)  ★ ~~~~~~~~~~~~~  宗教神・教義≒薬・処方箋≒信仰対象・信仰?  宗教信者が神を薬(万能薬)だとみなし、教義を処方箋と捉えそれらに頼り、宗教の効用をあてこむ、辛いので焦り、強く処方箋に期待する、安らぎへのショートカットはしたいし(宗教に期待する効能)教団なりの安らぎと恐怖心の植えつけがある(デメリット)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり  ★ 宗教信者が神を薬(万能薬)だとみなし  ☆ ここでアウトです。《薬》は 経験事物です。《神》は 経験事象を超えています。  そう見なすのは自由ですが それによってひとに迷惑をかけることは自由ではありません。  その宗教がなければ 自分で考えて行動するならば もっと自由でやすらぎの得られる生活が出来ます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  一人で信仰する人々の場合も、神(とか非思考の庭とか)に頼る(信じることの効能を期待する?)  個人的信仰のデメリットは何かないの?  メリットやデメリットのようなものがあってもそれが信仰によるものか分かる?  分からない場合なぜ信仰するの?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一たん非思考の庭に神を受け容れたあとは 神に何でも願えばよいと思います。《聖なるアマエ》。  デメリットが出たならば その内容を把握して対処するでしょうね。  ありうる・起こり得るデメリットをも飲み込んで 神を受け容れるのでしょうね。いやなら 神などはいないとして《無い神》を受け容れればよいのですから。有る神も無い神も 互いにまったく同等の神です。因果関係から自由な場では 有る無いをも超えています。むろん善悪などをもです。  だから たぶん デメリットは出ないでしょう。メリット・デメリットをも超えていましょう。  (9)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  6.7.8.にある教えの絶対化は、神威を幻想しやすいヒト一般に容易に起きそう(神と理屈はどこにでもつく。個人的信仰者にも)  非思考の庭とそこで受け入れる対象が神や真理という証はあるの?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ そうですね。問題は 《マゼコゼ》です。マゼコゼでなければ あやまちが一つふたつくらいあっても 大したことではないでしょう。  神=真理は 無根拠です。証拠も論証もありません。あっても 人間には知り得ません。  (10)  ★ 信仰も宗教も身体性や理論や辛い事情があると思う  ☆ やはり宗教については その成り立ちをどこまでも問題とします。そのほかの事情は うっちゃっておいてかまわないと考えます。  ★ 自分が頼る薬は効果ある(あって欲しい)から自他ともにこれ飲むべきだと思いがち  ☆ 《思いがち》というその思いは 思考の問題です。もし神を受け容れることを薬と言うのなら それを飲むのは 或る種の仕方で 賭けです。何も考えません。考えたとしても それが薬と関係するのかどうか そのことがいっさい分かりません。  しかも もっとわたしの考えを交えて言うなら 薬として神を飲むとしても そう飲むようにするのは じつは 自分ではなく 神のチカラによる。ということではないかと思っています。  (11)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  無信仰で無宗教な自分は信仰や宗教の効能を軽んじたい  他者の幸福は目的でないし他者が得る効能を自分が得られないと思うと損な感じだし  自らの信仰や宗教の形態への思い入れがあるあまり、同じ信仰形態をとらない者は破滅せよと願いさえする?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 宗教は 論外です。  無信仰というのは (8)で触れましたように 無い神を非思考の庭に受け容れたことです。  つまりは じんるいのすべての人にとってあてはまる一般理論です。  ★ 同じ信仰形態をとらない者   ☆ は いないという理論です。  信仰の効用・効能は 《真理はきみたちを自由にする》に収斂することでしょう。  《幸福》は 信仰が成ったあとのあなたの実存――生きる動態――に そのまま幸福としてか・ほかのいかなる状態としてかを問いませんが あります。  (12)  ★ 信者も信仰者も真理を都合良く利用してる?  ☆ 《真理を・神を 都合よく利用している》という場合は 人間のことですから あり得ましょうね。  ★ 非思考の庭は薬みたいに効能ある?  ☆ 《自由になるチカラがあたえられる》と言うと 抽象的ですから 元気になる。です。わが心の燈心に火がともされます。  ★ 神に何か特定のか予測不能な機能性を当てこむの?  ☆ これは 分かりません。知りません。知り得ません。  ★ 信仰や非思考の庭がもしないとどうなるの?考えが休まらなくて疲れる?  ☆ 神を知らなかったという状態にあります。神を知ると――つまり神を知らなかったときにおいて 想像する場合を例にしているのですが 神を知ると―― 世間や周りの人びとやなかんづくおのれみづからと和解することができると思えるような予感があったのではないかと思います。  ということは 神を知らなかったときでも じつは あなたの心はどこかで神を知っていた。と表現しうる状態にあった。のではないか。  ★ それとも信仰と思考は次元が違うから、二律背反じゃないから同時にもできるの?  ☆ マゼコゼでなければ いろんな場合があり得て いろんな考えをすればよいのだと思います。  (13)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  あと市民の国連ておじさんの思想なの?  市民国連は宗教排斥が理念なの?  外交官というおじさんの正体が実は本当のおじさんであることはまだ秘密なの?  なぜ秘密なの?ここでの対話の意図に理解が得られづらいのは秘密を秘密にしてるせいもあるんじゃないの?とかよく思うけど  秘密保護法の後半部分には反対  -)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 秘密保護法については よく分かりません。政府与党なら そうとでもすると思うだけです。  《外交官》は 比喩です。じつは へまをやらかしたかも知れません。つまり (11)で《★ 同じ信仰形態をとらない者 ☆ は いないという理論です。》と言っているからには 《外交官とそうでない者との区別》は あり得べからざる差別になってしまう。すみません。まちがえました。(何年か前のかつてのキャッチフレーズです)。  ★ 市民の国連  ☆ は 考えていません。それよりも 国家という二階建て構造のそのアマテラス公民圏なるお二階さんたちは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還しなさいと言っています。国連は 補助としてやれることがあれば やってくれればよいでしょう。  主権の存するムラ(市町村)が 主役として社会を主導するかたちです。インタムライズムと言います。  各国のムラどうしも チカラを合わせて インタナショナルなインタムライズムへと推し進める。  おとなりの国のムラどうしが 言わばスサノヲイズムに立って チカラを合わせて行こうという生活共同の仕方です。  企業を巻き込まなければならないようです。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  一文づつ反応するにまかせて 応答してまいります。  (1)  ★ 清い信仰と汚い宗教というのは観念的じゃないの?  ☆ 信仰は ひとりの人間の主観内面に起こるコトです。そのコトの中に ひとは《きよらかなおそれを抱く》ことがある。――こう言ったまでです。  信仰と宗教とを区別すると言っていますが わざわざこのように《清い信仰と汚い宗教》といった対比をしようとは思っていませんし していません。  そう受け取られ得たとしたら どうか? たぶん 《汚い宗教》という規定は していないはずです。そうは解釈し得ないように書いているつもりです。  つまり 宗教のそもそもの成り立ちについて 考えているわけであり そのとき《汚い・醜い》といった実際の宗教の活動などの側面については まだ何も言っていないかたちですから。(いままでに宗教に触れた場合にも 《商売》だというふうに言って来ていますが いちいち汚いというような規定はしていません)。  ★ 観念的じゃないの?  ☆ 観念とは おもに経験世界における自然現象や社会事象からその概念が 初めには取り出されて来ているところ さらにそこからその概念のみで推論を繰り広げる場合に言うと思うのですが いまの場合 とりわけそういう指摘を受ける気遣いはないと考えます。例証も論証もしませんが。(反論を俟ちます)。  (畏れというのは 一般にも聞く言葉ですね。きよらかなとつけたのが 気に食わない? 聖なるアマエと言えば どうでしょう?)  (2)  ★ 信者が無為・無思考になって信じる状態になったり、集団で思考をよして世界をありのまま感じ真理ともにあろうとする教団もあったら?  ☆ そもそも《信じる状態になる》ことは ひとえにその人みづからの・そして独りだけの行為です。ワタシの主観動態なる問題です。  ですから そもそも宗教組織にあってそういう状態になったりするというのは ヒエラルキアの階段をつうじて一般に命令関係として成るというわけですから そのこと自体が 非人道的な事態です。  ★ 集団で思考をよして世界をありのまま感じ真理ともにあろうとする  ☆ 《無為・無思考になって・・・思考をよして世界をありのまま感じ》るというところに限れば 問題ありません。経験的なものごとをあつかうのみですから 酔狂な同好会といった感じの集まりです。  その中で《真理とともにあろうとする》や《集団で信じる状態になる》が ひっかかります。良心・信教の自由から見て ほぼアウトです。  ちなみに 《非思考》と《無思考》とは 別です。後者は 思考が無いと言っています。非思考は 思考は思考で おこなっていてもよいのです。思考や感性のほかに 非経験の場つまり真理を受け容れた庭が 非思考として成っているというものです。まるで 別です。  ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (3)  ★ 教えや組織構造と信仰との両立があったら?  ☆ オシエは なるほど信仰から その動態の過程でヒラメキをつうじて得られた観想や思惟を概念化・理論化・体系化したものです。ですが それは すでに思考の緑野という経験領域に移行していますから まるで非思考の庭なる生きた動態とは別のものになっています。オシエは 蝉の抜け殻であり 信仰は蝉の本体です。  ★ 組織構造  ☆ と言いますか 要するに組織一般とは 信仰は別に競合や敵対の関係にはありません。非思考の庭とは別の次元における経験的なものごとについて 互いのコミュニケーションを図って活動するわけですから。  ところが 組織が その成り立ちそのことにおいて神ないし信仰をかかげそのような非思考の問題によって人びとのあいだに権限関係をかたちづくる――そんなことは じっさいには出来ませんが・つまりそのヒエラルキアは 人間が勝手に自分の考えや意向で作ったものに過ぎないのですが――その場合には 問題でない部分がない事態になります。  (4)  ★ 信仰者はいつも清く元気でないといけないの?  ☆ きよらかなおそれを抱くということと カザリ≒シガラミの世の中を泥に浸かって生きることとは 両立します。  信仰とは 元気があたえられることである。というひとつの定義――派生的な規定――をしています。  落ち込んだとき ただちにか・やがてか つねに元気が 泉の水のごとく湧き出てくるという実際にかんする規定です。病気になったら成ったで その状態で元気が出るという意味です。(不治のやまいにも奇蹟が起きるという意味で 言っているのではありません)。    (5)  ★ 神や真理は部分的にでも思考対象になることないの?(非思考の庭以外で)  ☆ ありません。  あるのは たとえば《神》というのは いまではその語源がわかりづらいので 措いておきますが たとえば《真理》というなら その言葉にはすでに意味がふくまれています。ですから――ということは 神や真理やの言葉は あくまで《神=真理》を指し示すための補助線であるに過ぎないということですが―― それでも 《真理》とは何か? といった《思考》が ともなわれて来ることは 人間の気持ちとしてあり得ます。じっさい そのようにして思考をしています。  つまり補助線を増やす作業になります。《真理はきみたちを自由にする》という補助線がすでに引かれています。  あるいは 真理とは その真理〔の内容〕がすべてにおいてすべてである状態というのが ひとつのイメージであるとか。  因果関係から自由である状態。つまりさらには 世界の歴史のあらゆる因果関係を知っているので あのときアイツは これこれのことを言ったが それは あれそれの事情があったからだったのかと知ることが出来る状態。こういうイメージです。  (6)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  もし神や真理が現実世界そのもので汎神論なとき、個体の思考範囲にに限界があっても、部分的には信じることと考えることとが同次元で重なる?  神や真理がはたして経験事実次元より高次元にあるか同次元にあるかは分からなくない?分かるの?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 経験世界における思考と 非経験の場を受け容れた状態としての非思考とが重なることはありません。  ○ 《非思考=非知》ということ ~~~~~~~   経験世界     可知      既知      未知     不可知(知り得ないと知った)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし 非経験の場なる真理は いわゆる絶対です。無限です。ということは 相対性で有限の経験世界とは 次元が違うと考えられます。  しかもその結果 絶対なる真理は――神は―― この相対的な経験世界に言ってみれば介入しているかも知れません。絶対の次元が相対の次元を 言わばつつみこんでいるかも知れません。ニュートリノのごとく いつも突き抜けて通って行っているかも。あるいは よく言われるように・また汎神論が持ち出されてくる理由であるかのように 遍在しているということかも分かりません。  同次元ではなく 異次元なのですが(そしてこれは そういう想定です) 神のほうからはこちらにやって来てあたかも同次元にあるかのごとく振る舞う・・・かも知れません。  (なぜ想定するかは 神という言葉が一般に持たれ用いられているからです。神とは何かを 哲学は哲学しなければなりません)。  すべては おのおの主観の内で どうであるか どうなのかなと思っているといったことがらなのでしょう。  主観の外には 出かけません。出かける・つまり表現の自由にもとづき自己表現をすることも自由ですが その《神の介入》論を主観共同化することは 無理でしょう。できたとしたら 神が何であるかが分かったときです。  (つづく)

その他の回答 (7)

noname#187416
noname#187416
回答No.8

汚い宗教観の例は、以前質問者さんが教会の児童性虐待への非難を書いていたこと 聖なるも清らかなも清潔指向だと思うけど 単純な清濁の差を設けてないなら反論ない 世の中や教団では哲学者よりそれ以外の人の方が多いから、信じるという言葉の厳密な使い方は一般に普及しないと思う 地動説が普及してからも人々は太陽が昇る沈むと言うし、信じるの慣用も保存される でも哲学カテゴリだから哲学辞典の話か… 秘密は秘密みたいですが なぜ

bragelonne
質問者

お礼

 きるらきる12さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 単純な清濁の差を設けてないなら反論ない  ☆ ええ。清濁・浄不浄で分けるのは 相対性なる経験世界の――或る意味で――つねですが そしてにわかにそのナラワシを超えることも人間にはむつかしいですが やはりつねにその二項対立を超えたところにも目を配っていたい。といったところですかね。  エレミヤ書の質問のほうで ねむりねこさんからクレームがついたように 善悪・正邪の区別と分裂といった問題点が まだ課題としてのこっていますが――つまり 浄不浄をかんたんに乗り越えることが出来るとも言えないと思うのですが―― 理論の前提に二項対立を持ってくることはありません。  ちなみに 清濁併せ呑むというのも よく引き合いに出され いいことわざだと思われているかも知れませんが そういう妥協のかたちは これをも 嫌います。原則を筋としてとおし あとは相手や情況の問題としてやむを得ない妥協をおこなう。となるでしょうか。  水清ければ魚住まずとも言いますが 濁っていて汚くてもだいじょうぶなんだとも言えないはずですから。  ★ 汚い宗教観の例は、以前質問者さんが教会の児童性虐待への非難を書いていたこと  ☆ これは 清濁や浄不浄の観点を出さないでも 問題であり 犯罪であると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  世の中や教団では哲学者よりそれ以外の人の方が多いから、信じるという言葉の厳密な使い方は一般に普及しないと思う  地動説が普及してからも人々は太陽が昇る沈むと言うし、信じるの慣用も保存される でも哲学カテゴリだから哲学辞典の話か…  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁ そんなところでしょうか。  たぶん 欧米では この《信じると考えるとの峻別》は 流行ると思います。そこから 日本へも火がつくかも知れません。それでは 弱いのですが。  ★ 秘密は秘密みたいですが / なぜ  ☆ これは うっかりパスしてしまったみたいです。  ★★(回答No.7) ~~~~~~~~~~~~~  外交官というおじさんの正体が実は本当のおじさんであることはまだ秘密なの?  なぜ秘密なの? ここでの対話の意図に理解が得られづらいのは秘密を秘密にしてるせいもあるんじゃないの? とかよく思うけど  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしが キリスト・イエスに出会って元気になったという話ですね。クリスチャンとは言わないけれど キリスト者であるということ。  そう言えば――いえ 秘密ではないですよ―― 最近は触れないで話をしているかも知れません。ローマ教会を批判しているので 余計に信徒ではないと見られるようになったかも知れません。  そう言えば 駐地球・神の国大使館に勤務する外交官であるということ。このような人間としての識別は 必要ないのですが いまの質問のように《信じると考えるの区別》や《信仰と宗教との峻別》の問題があるとするなら 《外交活動》そのことは 大いにまだまだ必要である。と見なければならない。――このことも はっきりとは言えていませんでしたね。  学問として 常識をやぶるあたらしい説を出して行くのだといった言い方をしていました。その上に・またはその基礎に 《正体》があるのですが この《正体》は ただあくまで主観としての自己表明ですから 秘密を公表する仕方やタイミングが大事だとも思います。  必要なときに言わなかったことはなかったと思っているのですが どこか引っ込み思案でよわい姿が見られましたか。    こんな感じでしょうか。  あぁ。キリスト者であると最初に言って 質疑応答の議論をすすめるなら 相手も前もってその前提はあたまの中に入れて発言するようになる。つまり クリスチアニズム批判をそのままでは受け取らずに どこか中間点として合意するところを見い出そうとするかも知れない。  ――しかし その正体が秘密になっていると 相手は 初めからこの野郎と言って見下してしまって 批難合戦になりがちである。こういったところなんですかね。  考えてみれば このほうが おもしろいかも分かりません。相手も その正体を出すわけですから。いぢわる史観です。

  • kurinal
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回答No.6

こんばんは。 >「信仰の偽造物」 そこまでは立ち入らない、って感じなんですが。

bragelonne
質問者

お礼

 なぜでしょう。  ご回答をありがとうございます。

noname#197435
noname#197435
回答No.5

宗教は「信じる」ことが前提なのでそれを逆に利用されて良からぬ方向にもいくことがありますが、充分役立っているのです。なじんでいるからその良さがわからないだけです 話は落ちますが、立ち小便が多い場所に神社の鳥居の紙を張って置くと絶大な効果があります・・・やっぱり信じているんですね 質問者さんのようにねじ曲がった精神を「ごく普通の善人」に変える宗教に巡り会えるといいですね

bragelonne
質問者

お礼

 のうまーく30tさん ご回答をありがとうございます。  ほかのところでもやり取りしましたが いちばんの問題は  ★ 宗教は「信じる」ことが前提なので  ☆ というとき それはオシエを信じるというかたちを採っていることだと見ています。オシエは 考えるものです。  神は信じるものです。そしてこの場合には 宗教とは言わず 信仰と言います。この区別がつかないということは 精神錯乱に落ち入っているものとしか考えられません。  ★ ・・・なのでそれを逆に利用されて良からぬ方向にもいくことがありますが  ☆ というときには 宗教の組織の中で あたかも《信じる》の深い浅いなどを基準として 権限が決められその階層によって 組織の構造もつくられて行きます。ヒエラルキアです。  この権限関係には――むろん さからってもよいのですが・より妥当性のある内容を求めて 権限の下の者が上の者に対して口答えをしてもよいのですが―― 一般には逆らえないとなります。それは 権限の問題ではなく 信じるの度合いによって あろうことか 人間の価値の上下関係が決められているかになっているからです。  つまりは 宗教の組織は その初めのツクリからして 非人間的な反自由の体制になっている。こういう《良からぬ方向に行っている》と考えます。  ★ 充分役立っているのです。  ☆ ものを言わぬ――何があっても 何をされても どれだけ巻き上げられても ものを言わぬ――おとなしい羊を大量生産することに役だっています。  ★ 話は落ちますが、立ち小便が多い場所に神社の鳥居の紙を張って置くと絶大な効果があります・・・やっぱり信じているんですね   ☆ これは なるほど確かに宗教という土壌があって起きることだと認めますが その内実は けっきょくそのように《教育》されているというだけのことです。いわゆるマインドコントロールであるでしょうし 洗脳でもあります。  あるいはまた 宗教のオシエに関係づけてしか 公共の場でのマナーがまもられないのなら それこそその人びとを動物扱いしている。ことになるでしょう。  たぶん そこまで《もの言わぬ・ごく普通の善人》が大量生産されているということは まづ考えられませんから ひるがえって考えるには その人びとは そういうふうにオシエをさづけ振る舞うように誘導する宗教人間に対して おまえさんたちは いつまで 人を動物扱いすれば気が済むんだい? これまでも・ここまでも おまえさんたちにつき合ってマインドコントロールにかかったフリをして来たが いったいぜんたい おまえさんがたは 人間を何だと思っていなさるんですかい?・・・という声を いまにも挙げようとしている。こんなところでしょう。  宗教は 精神錯乱の産物です。    

noname#187416
noname#187416
回答No.4

顕正会会員が「(数年以内に全人類を信者にするという)使命がこの命に突き刺さってまいりましたー」と言うの、たぶんあんまり考えてないと思う 故・日蓮の万能に自身を委ねきってるようなのは、信じてるって状態じゃないの? 個人的信仰と集団宗教はどちらも神に関する信念=想定で、その信念の内容・想定の対象・身を委ねる先が、恵みのありかとしての非思考の庭だったり、イメージされる日蓮だったりするだけで、個人的なのも集団的なのもどちらも信仰なんじゃないの 個人的信仰における神への想定内容を一般理論化し共有するのは集団宗教の生成過程じゃないの

bragelonne
質問者

お礼

 きるらきる12さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ簡単なうたがいから見てまいります。  ★ 個人的信仰における神への想定内容を一般理論化し共有するのは集団宗教の生成過程じゃないの  ☆ ですからこの《一般理論》は 個人における信仰つまりその主観内面に言わばおさめられる・想定上の神 についての探究です。  まだ 集団としての宗教については 何も述べていませんが 《主観における神ないしその信仰》が あつめられると 集団の宗教になる――ことは あり得ません。それは あり得ません。  主観の内におさまる神――それは わが心なる非思考の庭として成っています またそれは 人間が生きているからには 動態です――が どうして わが主観の外に出て ほかのひとの主観と合わさってしまうことがありましょうか。    もしあるとすれば それは 一般に信仰から得られた神についての観想やら思索 そしてそれらからさらに理論化した観念の体系 つまり神学なりオシエなりですね このオシエをもとにして集まるところに始まります。  オシエをオシエとして捉えるかぎりでは つまり神にかんする神学であったとしてもすでに思想であり神をふくむ哲学であるしかないと捉える限りでは そこでは《想定》や《非合理なる飛躍》があるとじゅうぶん知っているからには その前提で勉強会やらをひらいても かまわないわけです。自由です。  ところが このオシエを――趣旨説明欄の(7)(8)にしるしたように―― それは言わば神を説明するための補助線であるというのに それを聞かず すでに神そのものとしてしまう。そんなことをすれば 考えるによって思い込みを生むことでしかないのに これをあやまって《信じる》と言ってしまう。このマゼコゼないし錯覚が起こります。  オシエを神とすることは ただの観念の神であり 精神錯乱であると考えます。  思考と想像の産物が 神となってしまっている。思考と想像の範囲に神がおさまってしまう。つまり 神をすでに 自分の思うがままに欲するがままにあやつろうとしてしまう。自分たちにのみ都合のよい神ができあがってしまう。  こういう問題を腑分けしてその内実を明らかにすることが 第一章であると考えました。  ★ 故・日蓮の万能に自身を委ねきってるようなのは、信じてるって状態じゃないの?  ☆ これも 信じるではなく 思い込みです。  《日蓮の万能》ということをその人が思考しておりこれを概念として理念として《観念の神》としている。そういう人間のつくった神であり それをつよく思い言わば念じることが 《信じる》であると錯覚しています。  ★ 個人的信仰と集団宗教はどちらも神に関する信念=想定で、その信念の内容・想定の対象・身を委ねる先が、恵みのありかとしての非思考の庭だったり、イメージされる日蓮だったりするだけで、個人的なのも集団的なのもどちらも信仰なんじゃないの  ☆ まづ《信じる(信仰)》と《信念 あるいは 信条》とは 別です。後者は すでに初めから《考える》の問題です。  信じるも 言わば よっしゃという一瞬の思いをともなって えいやっとその神を受け容れるといったかたちを採り得ますが やはりそこでは 思いも考えも知的な経験行為は かかわりません。わづかに《受け容れる》という意志行為のみは はっきりと経験行為としてともなわれます。  《信念や信条》は すでに命題やオシエを前にしており これを受け留め考えた結果 自分の行動指針や行為形式とするに到ります。そのオシエが たとえ神にかかわった文章から採り出されたものであったとしても すでに経験合理性にもとづく思惟の対象となってしまっています。つまり 《考える》の問題に移行しています。信じるではなくなっています。  ですから 《信念》に身をゆだねると言ったとしても また《めぐみの在りか》なのだと言ったとしても そこには あくまで《考える》が介在しています。  《イメージされる日蓮》なら すでに 想像の世界に属します。信じるは お呼びではありません。  こういったふうに 個人と集団とは区別されます。そしてそれは 事実じょう 《信じる》と《考える》との区別より明らかになることがらです。   宗教は むしろ人間の思いをじっさいには世界に実現させてやろうとすることです。  ちいさくは ルサンチマンを癒して欲しいと思ったり その組織の中で権限関係の階段をのぼり部下を持つことによって 言わば多少とも支配欲を満たしたいと思ったりするところに 変な自己実現が求められています。  その指導層に到っては 支配欲そのものによってみづからがすっかり支配されてしまったすがたを呈している。こういうことだと見ます。   宗教にかんしては それとして 批判していくという課題があります。  信仰は そうではなくあくまでひとりの個人が きよらかなおそれを抱いて 人間としての自分の思いを超えたところに生きる場を問い求める生き方です。(そのために このカザリとシガラミの世の中にどっぷりと浸かって しかるべき批判をくりひろげます。駐地球大使館に勤務する外交官としてのように)。

回答No.3

こんにちは。 真理、真実、事実の分類、 ん~、困ってしまう。 わたしの携帯に入っている和英辞典だと  真理:truth  真実:truth, reality  事実:fact, truth, reality ネットで調べると、  事実:fact  現実:reality  真実:truth ギリシア語、英語、フランス語、ドイツ語などでは、 真実と真理を示す言葉は、同じようなんですよ。  ギリシア語 ἀλήθεια  ラテン語 veritas  英語 truth  フランス語 vérité  ドイツ語 Wahrheit なので、 『ん~』と唸ってしまいます。 サンスクリットでは、《satya》。これは、《as:有る、存在する》から作られた言葉ですので・・・。 現在、手がかりがなくて、ちょっと手詰まり状態です。 わたしの頭の中では、 《真理》≒《真実》 ですのでね~。 どちらも、理性の対象であり、理性が関与するもの。 わたしは、《正しいモノ》と考えられるもの、そのように推測・判断できるもの以外、原則として、《真理》とは呼びませんし、 《非思考》、《非経験》のものは、はなから、《真理の対象》として除外してしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 これら――真理・事実・真実――なら 中立で分かりやすいと思ったのですが。・・・  ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ギリシア語、英語、フランス語、ドイツ語などでは、 / 真実と真理を示す言葉は、同じようなんですよ。  ☆ いちばんの目安は 真実については 《主観真実》と言えますが 真理については たぶん 言えません。主観を超えていると見られているからだと思うのです。  普遍真理を表わすことが出来るのではないでしょうか。  真実は 主観の数ほどある。ひとりの主観にあっても ときと場を移せば 違う真実が表明されることさえがある。  こういった区別は おおむね コモンセンスであると思ったのですが。  ちなみに原理は 経験世界の中でも 言うと思いますが 経験世界を超えたところの法則は やはり原理と言えば 真理との対応がうまく行くかと考えます。  つまり 原理が 非経験の場にも経験世界にも用いられるのと同じように 真理も そうであるという見方です。  経験世界における法則は 特には 法則なり原則なりの語が用いられると考えます。  主観真実と普遍真理 この用法を一般的なものと見なし得れば 認めてもらえるのではないかと考えます。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.2

No.1です。 あなたは自分勝手な人間ですね。 お互い様という立場ではありません。 回答をどうぞなど反省なし。

bragelonne
質問者

お礼

 そんなに回答を寄せにくいことでしょうか。  それなら 仕方がありません。  ご投稿をありがとうございました。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.1

いろいろな人達に回答を求めるなら、回答をよろしくお願いしますというように丁寧さがほしいですね。 回答をお願いする立場でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。  回答を書き込んで読んでもらう立ち場でもあるでしょう。  情報交換ということなのですから。  つまり お互いさまだと思いますよ。  それにこの問いの場合は みんなに共通の主要な課題のひとつであると思うので ともに取り組みましょうという心つもりから ていねいさを出してはいませんが 信頼を置き合って問い求めて行きましょうという魂胆でいます。  ご回答をどうぞ。

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     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • ヨーロッパ人の真理論は成っていない

     ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。