ヨーロッパ人の真理論は成っていない

このQ&Aのポイント
  • ヨーロッパ人の真理論について研究し、代表的な説を紹介する。
  • 真理の整合説や明証説、実用説などさまざまな真理の理論が存在する。
  • 真理の概念は相対的であり、主観的な要素も含まれることがある。
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ヨーロッパ人の真理論は成っていない

 ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

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回答No.14

お久しぶりです。とても勉強させていただきました。  さて、真理についてですが、真偽を問題にするとややこしいので、最初の段階では、それを捨象します。それと主観、客観も捨象します。つまり、以下の文には、ところどころで言葉に明示しますが、4つのケースがあるということです。(追記:善悪も捨象してますので8ケース) (a)真理から真を捨てれば、その概念の内容の型(タイプ)は、物象や事象でははなく、理象(理論)です。  真偽定まらぬ、相対的にして多数の(主観的/客観的)理論の流れがあります。  理論A1→理論B1→理論C1・・・  理論A2→理論B2→理論C2・・・   ・・・ (b)この次元の流れがあるのとは別に、  理論A1→理論B1→理論C1・・・   ↓    ↓   ↓  実践A1、実践B1、実践C1・・・  理論A2→理論B2→理論C2・・・  ↓    ↓   ↓  実践A2、実践B2、実践C2・・・   ・・・ という縦の流れがあります。予測どうりの成功も、また不測の失敗も、主観的にも、客観的にも生じます。 (c)それに、 唯一の絶対的理論    ↓ 唯一の絶対的実践 というのが、人間の能力を超えたところにあるのかもしれません。そのため、もしあったとしても人間には有用ではありません。たとえば「我が意識、生ずも滅するも、我関せず」という気がします。 (d)横の流れにとらわれていると、理論の実用性は偶然的になるかと思います。縦の流れ、実践を意識すれば、少なくとも蓋然性は高まるでしょう。  実践するという現実、そこに関わりがある、役に立つ理論(実用説)は支持され、(理論と実践の対応説)も支持されます。(整合説)のみの主張は批判されるでしょう。しかし、役に立つ理論(実用説)が支持されるということは、これはつまり「真なる理論」が尊重されるということでもあるのですから(整合説)も必要とされます。理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。  加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。 (e)理論の実践ということを考えて見ると、自然科学の理論は、その技術的な範囲内でいい線いってます(倫理的にではなく、事実とよく対応する理論と運用といいう意味で)。  これは西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。  コヒーレンシーは、(詳しくないのですが)概して言うと、光学機器の性能の示す基本的な特性で、光の波長や位相や振幅が一貫していて変動しないことや、他の波長の光と重ね合わせて利用するときの、相互の波長や位相や振幅の調和性(整合性)。その時間的な一貫性、空間的な調和性の精度の高いものが機器として高品質ということから、真理の有用性をいろいろ類推してみるとよいと思うのです。  理論的命題をひとつの波として思い描けば、その調和・整合性が理論(推論)の妥当性であり、一貫性は理論の一貫性(実用すれば現実の再現性、事実との必然的一致になる)。事実との対応によって理論が真になるのではなく、対応する事実に適用する理論が真であることが、理論が結論する事実との対応を生むのです。  理論の前提(こういう条件の時にというコトワリ(断り))     ━前提事実との対応━      断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題)      あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。      前提の真偽を事実対応させるというのは理論面でなく運用面で。     ↓  理論の結論(その時にはこうなるというコトワリ(事象分割))     ━結論事実との対応━      真なる理論は、正しく運用されれば、事実が理論の結果に必然的に対応する。    (6)(7)については。どちらも不採用。  P→(P→T)は真だけど、P←(P→T)は偽なので、同値じゃない。だから執筆者の誤解じゃないのかと思うんですね。 フレーゲ 「同値テーゼ」:「「文Aの表す思想は真である」の思想は、「文Aの表す思想」と同一である」 http://daigakuin.soka.ac.jp/assets/files/pdf/major/kiyou/18_jinbun1.pdf ラムジーと真理の余剰説 http://www.u.tsukuba.ac.jp/~hashimoto.kouji.fu/paper/Ramsey_on_Truth.html  あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用)  そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。 フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。  命題・・・形式・・・・・・・(実用)理論形式 事象・・・内容(意義)・・・(実用)理論を認識する思考(概念構造の整合性が重要) 現実・・・内容(意味)・・・理論を実用のものとする真偽判断(整合性の観点が重要) 現実・・・内容(意味)・・・理論の実践(運用基礎、前提条件を遵守) 現実・・・内容(意味)・・・理論に従う事実の再現 (5)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。ただし、前提条件は合意に基づいても良い。約束を守るという仮定のもとに結論が事実と一致する。事実と一致しなければ、合意あるいは理論の運用が疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。 (3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。理論の結論が一致しなければ、前提の明証性か、理論の運用を疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。 よって、合意性と明証性は理論の前提に関する条件として採用。 (8)規約主義は不勉強で、思うところなし。 「神の真理」には口を閉ざします。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんにちは。そう言えば 先日どこかでお名前をお目にかかったと思っていましたが 考えてみればずいぶんお久しぶりにもなるかと思います。まづは なつかしいですね。(論理学としては この質問の主題をあまり考えていなかったものですから なつかしいと言いますか 論理学の視点からもお聞きする姿勢になっているべきだったというような)。  ご回答をありがとうございます。  なにしろこのたたき台について オボカタ・タイプだと言われてしまいましたので張り切ってさらに精進してまいります。  さてあたまから読み継いで行って 次の見方になるほどと思いました。:  ★ 理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。  ☆ 整合性のない内容は まづ理論とは言わないでしょうし その内容が事実や事象と対応していないなら 理論の整合性は 絵に描いた餅ですし またその対応のあり方が 実用性に乏しい場合には あまり理論が求められないのかも分かりません。    実用性は ただしどうも 類としての問題ではなく 種ないし〔個別だとは言わないとしても〕特殊の場合に問われるというようには思います。つまり 二次的な問題であるかとも考えます。  あるいは もう一点思ったのは 理論と言っても じつは実践や現実の事象について要素を抽象しつつ形づくるのでしょうから 実践や事実との対応性がないというのも じつはおかしい。たぶん既成の理論を突き抜けるあたらしい内容のことが焦点となっているのでしょうか。つまり 理論の実践化においてはです。  かくして:  ★ 加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。  ☆ この場合の《真理》は 《事実》を認識した理論内容が広く整合性にも対応性にもそして実践性にも富んでいるという意味であり わたしの用語では《真実》ですが そのとおりにわたしも考えます。  なぜ《目の開いた人》の場合でも 真理と言わず真実と言うかと言えば  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   (c)それに、   唯一の絶対的理論     ↓   唯一の絶対的実践  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という《絶対性》を持つ理論も実践も 現実にはないと見るからです。この《絶対性》については 《非知》として《真理》を当てています。どうでしょうか。  ★ これ(自然科学の実践性)は西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。  ☆ ええっとですね。舌足らずの早とちりだったんですが それでも言おうとしたことは 自然科学が けっきょく良きにつけだけではなく悪しきにつけても 要素還元の志向性がきつ過ぎる場合が多い。という一点でした。  カジノを日本にもつくるかどうかが課題になっていますね。自然科学的にその経済社会的な理論を打ち建てて実践面でどうかと考えるわけですが いろいろ考えられているようです。  マカオや韓国にもあるそうですね。そこより魅力的な(?)施設が出来るか? 世界の賭け事好きを呼び寄せられるか?  施設をつくったときその地域の商店街はさびれてしまう事例がある。そのことを考えると カジノを含むリゾート施設が新しい雇用を生むとしても 経済効果はプラスマイナス差引ではそれほど期待できない。  あるいは ギャンブル依存症の人間を一定数において生むという経験事例が観測されている。  日本人がお客となるのでは 全体の GDP を押し上げることは出来ないと予測されている。  つまり 要素による分析は 捨てたものではなく実践的であり実用的です。と同時にそれら要素の側面だけから考えても よい判断は得られないかも知れない。高度に政治的な観点から・いえ と言うよりは生活世界の観点からしっかりとした判断をする必要があるのではないかと思います。いつもそれだと言うわけではありませんが やはり直観も大事だと思います。  もっと実際のこととしては その現地に暮らす人たちの考えをよく練って行くことが大事なのではないか。それには 科学的な理論としての判断資料が必要である。こういうことだと思います。  ★ コヒーレンシー  ☆ にはそういった光学の現実性があったのですか。(そう言えば ついこのあいだ デ-コヒーレント理論と言うのを聞いたばかりです。記憶にマチガイがなければ 光子がぶつかって量子がさだまった状態になるそのような確定は 人間のおこなう認識による場合だけには限らない。とか)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   ━前提事実との対応━     断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題)     あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは きびしく言うと自然科学の場合ですよね。モノ・コトを扱う場合だと思うのです。  想定外のことが発生することを 社会科学や人文学では 大前提としなければならない。というより一般に科学ないし理論としては 一定の前提事実について法則性を取り出すのでしょうし 例外なる事態の発生についてはその《想定》も限られたものとしてもう良しと見限るのだと思います。  ★  ~~~~~~~~~~~~~~~  あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用)  そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《真理》は たぶんそのまま学問の世界では使われ続けると思いますが わたしの区分としては《相対的なものごとについての真実》のことだと捉えて 同意します。  そしてもし相対真実だとすれば 理論(つまり人間による事実認識)と事実とは 互いに同等の重要性において位置づけられるとも考えます。どちらが優位であるといった見方はしない。もし言うとすれば 人間は奇妙なる事実の発生につきその事実のほうに重きを置いて捉えなければならないと思われます。    ★ (6)(7)については。どちらも不採用。  ☆ このフレーゲとラムジーにつきましては 参考論文を読んで補足欄にて――あまり分からないと思うのですが――応答いたします。多少時間がかかると思います。  ★ フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。   ☆ このあとでもさらに考えますが ということは《意義》は出来るだけいわゆる《客観性》に近づいたと見なされるところの〔ふつうは主観的な〕《意味》のことである。でしょうか?  ただし 《再現》をめぐる《意味》は 客観的な意義に重なるとも思えて来ますが。・・・  ★ (5)(真理の合意説)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。  ☆ ううーむ。この場合の《合意》とは 理論内容について妥当であると同意する――主観を共同化する――ことだと思うのですが どうなのでしょう。約束というような意味合いがからまっているのでしょうか?  言いかえると 《同意ないし合意》が・つまりその判断が間違っていたということもある。というだけのことだとは思うのです。もっともここに《整合性》を入れて捉えなければ 話はあまり始まらないとは思われます。  ★ (3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。  ☆ けっきょくですが 明証性だけでは 整合性があるとは限らない。という問題に帰着するのではないかと。どうでしょうか。  ★ (8)規約主義は不勉強で、思うところなし。  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  ☆ 確かに個々の《言語》にそれほどにまで特殊性を持たせるのなら 言語どうしの相対性が崩れるかも知れませんね。  ★ 「神の真理」には口を閉ざします。  ☆ あぁ。ここにわたしの言う狭義の真理が出て来ました。  

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。 / フレーゲ  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。 / フランク・ラムゼイ  ☆ これらについて 次の文献を参照して思ったことを述べてまいります。  ◆ 平 石 美 喜 子:フレーゲ論理主義の認識論的意味付け  ■ 橋本康二:ラムジーと真理の余剰説  (そ) ◆ ( p.376 ) ~~~~~~~   真なる思想の表現は真なる真理値を意味しているので、フレーゲによれば、真である真理値を‘2^2=4’や‘(1+1)2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことができる。また同様に、偽なる思想の表現は偽である真理値を意味し、‘1^2=4’や‘3^2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことが可能である。この真理値には、真か偽かという二つしかない(真偽二値の原理)。  それでは、同じく数4を意味しているのにも関わらず、‘2^2’‘4’‘(1+1)^2’とでは表され方が異なることについてどのように説明するのか? フレーゲはこの相違を「意義 Sinn」と名付けた。そしてこのような表現のことを真理値の「名前 Name」とし、真理値の名前の意義を「思想」と呼ぶことにした(GGA §2)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことに――つまり 意味と意義とに――違いはないとわたしは考えます。  (た) ◆ ( p.378 ) 何らかの記号が意味する対象そのものは意味であり、他方、表示されたものの与えられる仕方を含み、対象と記号の間に位置するものが、意義である。  ☆ すなわち シルシとわれ あるいは 対象とわれ これらの間に位置するものも 大きく広くかつふつうに《意味》です。あるいは《意義》と言ってもよい。  (ち) おそらく日本語では区別する必要はないと考えます。《表示方法 あるいは 自己表現の仕方》 これらの内容も 意義であり意味です。  (つ) 言いかえると シルシが〔誰もに認められているかたちで〕持つ意味は そのシルシ(≒ことば)を用いる主体であるわれとのあいだで――ということは結局 文脈にかかわって――いくつかの異なった意味にもなります。これを 意義と言ってもよいでしょうが 日本語では 意味です。区別する意味がないと思います。  (て) ◆ ( p.379 結びに代えて) ~~~~~~~~  算術的真理についてフレーゲが述べたことから、算術的真理の正当化は如何にして証明されうるのか?  その根源はどのようなものなのか?  その方法の妥当性がどのように求められるのか?  そして、  論理学や算術の哲学がどれほど有用であるのか?  という問題に対する解答が垣間見えるのではなかろうか。あくまで客観的に推論されることで獲得されるということによって、心理主義や経験主義に拠ることなく認識するという可能性を示唆しているのではないか、と筆者は考える。  概念記法によって、判断から原初的論理的真理へ推論する。そのことで、人間が一体どのようにして認識を獲得するのか、あるいは拡張するのか? その認識は妥当であるのか? という問題について考察することが可能になるだろうからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここには 意味はないと考えます。 《原初的論理的真理》とは 公理のことだそうです。論証以前に真だと見なされる命題。そこへ概念記法によって推論すると言っても 何も言ったことにはなりません。  (と) もともと 《その認識は妥当であるのか? という問題について考察する》ことから出発したものです。  (な) 《客観的に推論される》と安易に言い過ぎです。  ■ ( 1. 序) ~~~~~~~~~~~~~~  本論文では二つの区別をもうける。  一つは、命題の真理と信念の真理の区別である。  これは、実質的真理論が真理性質を帰属させる存在者(真理の担い手)の種類に関する区別である。  簡単に言うと、命題とは物質と異なる形而上学的な存在者であり、信念とは心理的生理的な人間の状態の一種である。  もう一つは、真理をめぐる存在的議論と言語的議論の区別である。  これは、世界のあり方を検討する中で出てくる真理に関する議論を、我々が現に所有し使用している「真である」という述語の意味に関する議論から区別するものである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (に) わたしはこの区別も要らないと考えます。あるのは 《事実》と《われ》と《シルシ(≒ことば)》であって それらのカラミとしての関係は ワレが存在するかぎり・表現者として介在するかぎり 《存在者にとっての主観的な意味》が問題になる。こう考えます。  (ぬ) すなわち 《命題》と《信念》とは つねに絡まっています。  (ね) すなわち 《存在者》と《言語表現》とも つねに切っても切れない関係にあります。  (の) 《「真である」という述語の意味》は 表現の主体であるワレの意志や意図とつねに絡まっていると見ます。その主語なる対象にしても ワレと絡まっています。  (は) その表現者なるワレの意図は むろん相手やその情況に応じて 意味を変えたかたちで 発せられます。それは 活きています。  (ひ) ワレの意図としての意味が初めに来て あとは 相手とのあいだで・つまりは相手がどう受け取るかで さらに初めの意味が――活きたかたちで――変化する場合があります。誤解があれば それも――事実として起こったかぎりで―― 真実の意味でしょうし さらにこの誤解をただすことも ワレにとっての真実の意味になると考えます。  (ふ) 成功ゆえの真実説(《サクセス真理論》)もそしてあるとすれば失敗ゆえの真実説(フェイリャ真理論)もあり得るはずです。その意味では 《実用(有用)真理論》は 二次的な議論であると考えます。

その他の回答 (14)

回答No.15

>実用性が二次的  そう受け止めるのがふつうでしょうね。 >整合性のない内容は まづ理論とは言わない  いいえ、整合性のない内容を(誤って、偽って)理論と言うことはよくあることです。それを問題として批判と してはそれでいいでしょう。 >その内容が事実や事象と対応していないなら 理論の整合性は 絵に描いた餅です  意を汲めば、おっしゃるとおりです。 >その対応のあり方が 実用性に乏しい場合には あまり理論が求められない  そうだと思います。 ここにきて思うこと。 実践を鍵語として何らかの同意があるということですが、全体的な論点の違い、というより意図の違い、に目を向けると、真理というものの主観的了解が、思考の対象とするものか、信仰の対象とするものかでしょう。 回答者の立場として道を譲れば、人は神を信じ、神が真理として万象を支配し、私が生かされているという事実を知る。だから真理説は成ってないとおっしゃる。僕自身群盲の一人だったということですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 実践を鍵語として何らかの同意があるということですが、全体的な論点の違い、というより意図の違い、に目を向けると、真理というものの主観的了解が、思考の対象とするものか、信仰の対象とするものかでしょう。  ☆ ええっとですね。《信仰の対象》は 神です。神もしくは絶対・非知などとして説明されうる真理です。  つまりは 信仰は――非思考の庭というごとく―― 《非対象》を対象とした《受け容れ行為》です。わが心に庭が成るというかぎりで 受け容れるというのは 経験的な意志行為です。ただし何を受け容れるか? 何が何だか分からないナゾをです。  もっとも 人間はよくしたもので 《神》なら神という言葉を受け容れます。あるいは その名でオホモノ( m )ヌシの神であるとかヒトコト( e )ヌシの神であるとか――つまりはあたかも e = mc^2 ――を受け容れます。ブラフマンでもブッダでもすべては互いに同等です。《無い神》も 神の名のひとつです。やはり同等です。  事実をめぐる認識はすべて 《主観真実》であると考えます。つまり 《思考〔および感覚〕の対象とするもの》です。  ★ 回答者の立場として道を譲れば、人は神を信じ、神が真理として万象を支配し、私が生かされているという事実を知る。だから真理説は成ってないとおっしゃる。僕自身群盲の一人だったということですね。  ☆ いえ。それは 違います。おそらく 上の説明でご理解いただけたかと思います。  はっきり分かれているという意味です。  ○ 非知なるナゾ ~~~~~~~~   経験事象     可知       既知       未知     不可知(知り得ないと知ったもの〔数学の定理か何かであるのだとか〕   非経験の場 (これは 想定です)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  ○ (非知なるナゾなる神をひとは受け容れる=信仰) ~~~~    信じる:非知:非思考の庭:ヒラメキ    -----------------    考える:経験知:思考の緑野:コギト    感じる:知覚:感性の原野:直感  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  経験事象にかんする認識が 真実です。人間の・わたしの主観真実です。  ですから 真理説=神学と そして経験科学としてのこの《真実論= 事実認識の妥当性を競う》とははっきりと分かれている。こういう見方です。  分ければ うんとすっきりすると思いますから。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.13

>この非知を 《真理》として想定します。 bragelonneさんが言う真理の意味をよく理解できないのですが 真理の対応説とか真理の整合説などで用いられてる真理の意味とひょっとして異なるのではないのですか? 真理という同じ言葉で表現してますけど、ヨーロッパで語られてきた真理とは別の概念を bragelonneさんが真理と呼び、それを根拠にヨーロッパの真理観は間違ってると屁理屈をこねてるように見えます ヨーロッパで用いられてきた真理の意味とbragelonneさんが言う真理の意味が等しいことを示せますか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  わたしから見れば ヰキぺ氏の用語としての《真理》が 《絶対普遍の真理》とそして《相対的・経験的世界における事実認識としての真実》とのふたつの概念をふくむというあいまいな用法になっています。  ▼ 人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。  ☆ これは 《絶対普遍の真理》のことです。  あとはほとんど全部 《相対的な真実》のことを言っています。(1)から(8)までの真理説における真理は 相対的な真実のことです。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.12

>ええ。そうですよ。そのナゾです。 人間に分かるか分からないか分からないことがどうして真理だと言えるんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《人間に分かるか分からないか分からないナゾ》は 《非知》です。  ○ 《非知》とは? ~~~~~~~   経験事象     可知       既知       未知     不可知(知り得ないと知った)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この非知を 《真理》として想定します。  非知=真理は ふつうに言って《神》のことです。  神を――いろんな名で呼ばれますが 《無い神》をもふくめてその神の名を――心に受け容れるなら そのときわが心には《非思考の庭》が成ります。  受け容れる対象は 非知ですから 人間が思考することを超えています。ゆえに 《非思考》と言います。つまり これが 《信じる》というコトで いわゆる信仰です。  ただしこのとき《神の名を受け容れる》というのは――非思考という傍らで―― 人間の意志行為です。心にいだくという経験的なおこないです。  ちなみに《無い神》という名を受け容れるという場合をも含むと言いましたが これは もっと簡単に言えば 《いかなる神の名をも受け容れない》という意志による振る舞いを言っています。要するに 《神なんかわたしは信じない》という場合です。    つまり 神は非知ですから 《信じない・受け容れない》と言っても この《非知》が非知として人間の前に措定されていることは 消え去りません。つまりは 《信じないと信じた》ことを意味します。つまりは 《無い神を信じた》ことになります。  言いかえると 非知たる真理としての神は その存在が有るか無いかは人間に分からないのですから ひとが信じようが信じまいが その措定はありつづけます。よって いわゆる有神論があれば無神論もあるのですが これらはいづれも互いに同じことになります。大きく広く《信仰――わが心なる非思考の庭――》を内容としています。  無神論の場合には 一たんこのことを確認したあとでは 非思考の庭などといったことにこだわりません。放っておくことでしょう。  すなわち 真理なら どんな場合にも真理でありどの人にとっても真理であるのでなければなりませんが このように真理は・つまり神は あらゆる場合に普遍的に真理として 想定されたかたちであり続けます。  ナゾですね。

回答No.11

研究会のつもりで、雑談だよ。 > ★ ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。  ☆ 認識の落ち入り得るマチガイですね。人間の能力には限界があるから。 自らがとことん正直である事には、限界という境界は無いよ。 これは自らをありのままに表すことである。 そんなやつは他人らバカにされるがな。 自らがバカなのを理解するのが賢者だとか何とかはな、実のところ世の中では俺様はバカ呼ばわりされるだろう。 嘘をついたら、認識の間違いで、世の中に合わせたら錯誤でだよ。 ホラ話と言っているがね、私の言う、 私は死を超克した。 俺様は悪魔を愛する。 観念世界で恐怖ポケモンとお友達になった。 アマテラスさんは俺の女だ。 全て本気だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  前半のご議論は 昔から似たような問題が論じられて来ています。  ちょっと筋が違うかも知れないけれど 《誠実》とは何か? どこまで誠実であるべきか? といった主題です。  すなわち   ★ 自らがとことん正直である事には、限界という境界は無いよ。 / これは自らをありのままに表すことである。  ☆ という命題にかかわっています。  一般に日本人は 自分のことについては よいことに触れるとき八掛けくらいに控えめで言います。  ぎゃくに相手のことについては よいことに触れるとき二割り増しくらいに ふくらませて言います。  これは 《正直》ではないのか? 誠実でないと言うべきか? という問題です。  《主観真実》を どこまでストレートに言うのがよいか? です。  ・ そこにお金がある。 / あそこに山がある。  というような文を取ってみても どこまでが 事実についての主観真実であって どこからが主観真実ではあっても 別の話をこの山やお金の話にかこつけて言おうとしているのか。という問題もあります。  自分は 誠実をとおす。としてもです。相手や世間のほうでは いろんな《主観真実》の表わし方がある。という事情を踏まえて 議論をすすめることもありだと考えられます。  というようには考えたりします。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.10

>どうですか。 人間には分かるか分からないかが分からないことが真理ってことですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。そうですよ。そのナゾです。  ご回答をありがとうございます。

noname#207067
noname#207067
回答No.9

ちょうど原理主義の質問をしたところなので 思いついたことを。 戒律を守る。 書いてあることを守る。 言行を一致させる。 真理の対応関係がここにもあると思いました。 差異の話は別の機会に。

bragelonne
質問者

お礼

 それは 主観真実の問題です。  ご回答をありがとうございます。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.8

いろいろな真理説を批判してますけど、全然意味のない批判になってますよ というのも批判の根拠となるbragelonneさん自身の真理説が書かれてないからです だからイデアや真理の整合説がダメだダメだと言っても、なぜダメなのか、どういった説に立って 批判をしてるのか不明なのでbragelonneさんの批判は批判の体を成していません 中身がないことには批判しようがないので冗談だと思ったのですが 他の回答者はどうもマジに受け取ってるようなので一応つっこみを入れておきます

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ いろいろな真理説を批判してますけど、全然意味のない批判になってますよ / というのも批判の根拠となるbragelonneさん自身の真理説が書かれてないからです  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。   ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ だからイデアや真理の整合説がダメだダメだと言っても、なぜダメなのか、どういった説に立って / 批判をしてるのか不明なのでbragelonneさんの批判は批判の体を成していません  ☆☆ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうですか。

回答No.7

親切しとくよーん。 私も君から言われたが、君もまた、旧人類の墓標をいつくしむあまり、自らの命題をおろそかにする回り道があるよーん。 今回の言葉の節々にそれを感じるよーん。 まあいいんじゃないかと俺様は決め込んでるよーん。 全ては莫大な懸賞金のためだ。 自らを誇りにするためだ。

bragelonne
質問者

お礼

 懸賞金ってのは ノーベル賞か何か?  ★ 旧人類の墓標  ☆ しかまだまわりには見えませんよ。    ご回答をありがとうございます。

回答No.6

あんたは静かに思索すべき時で、余計な事を言いたくない気もするが、お邪魔するよーん。 >  あやまち得ないものではなく そうではなく あやまち得る実際とあやまち得ないという理念とを綜合したかたちにして しかもこのアヤマチということ自体からまったく自由な場を想定する。これが 真理です。 真理の言いだしっぺの西洋に真理不在ならどこに真理概念の言いだしっぺがいるのか不明になるが、あんたに何かしかの見解があると言うのなら、ちゃんと商売にしろ。

bragelonne
質問者

お礼

 いや 《永遠不変にして 普遍だ》と言えば それは《真理》です。そういうふうには 言われて来ています。  ただしそのことを この目に見え手に触れ得る経験世界におけるものごとと一緒くたにして議論しようとするものだから 話がこんがらがる。  これを交通整理しました。  本命の人が来たから とくとご覧あれ。  ご回答をありがとうございます。

回答No.5

ウィキペディアから、西欧の真理観を引用して、それに独断と偏見でコメントを付け加えただけの、理研の小保方晴子女史のコピペ論文のよう。 だから、どうぞご勝手に、と言いたいところですが、いちいち反論しているヒマはないので、いくつか言えば、 「真理の対応説」は古代アリストテレスから、現在まで神学者・哲学者がさんざん議論してきて、それを論破できないものだから、あなたに簡単に数行で片づけられたくない。 大人が子供に対して、「そこにお金があるから、それを君にあげる」と言っても、子供が「そんなこと言うけれど、お金なんかどこにも無いじゃないか。おじさん、ウソついてらあ」と言われたら、大人のいう「そこにお金がある」という言明は虚偽なのです。 だから「真理の対応理論」なんて、子供でも知っていることです。 それに対してあなたは「主観の共同化」だとか、「地域を越えて、歴史を越えて、共有されるなら」とか、「民主制の理念」とか、そんなことは不必要なのではないですか? あなたは「このことはその人ひとりの主観的な真実だから、他の人の主観によって検証される必要があるから、そこでは主観の共同化がある」という。 「そこにお金がある」という言明は主観的な真実なのですか? そして子供が「お金があるというけどどこにも無いじゃないか」と返事をするのも主観的な真実なのですか? 主観なんか関係ないので、大人は「そこにお金がある」と指示しているだけだし、子供も「お金がない」と同じように指示しているだけで、主観は介入していません。 あなただって、こう言っているのではないか? 「あなた、昨日デパートにケリーのバッグがあると言っていたでしょ? 今日デパートに行ったら、あなたの言ったとおり、ありました。あなたの言っていたことは本当だったのね」と。 あなたの言っていた「ケリーのバッグがある」という言明は実際にデパートに行って、ケリーのバッグがあることを確かめられれば、その言明は真なのです。 また、母親が「ちょっと、そこに砂糖があるでしょ? それを取ってちょうだい」と言われて、私が目の前に砂糖があるのを確かめ、それを取って母親に渡せば、母親の「そこに砂糖があるでしょ?」という言明は真なのです。 この「真理の対応理論」をどうやって論破ができるか? 出来ないと思います。 だからアリストテレスから2500年、誰もがそれを正しいとして信じてきたのです。 あなたはプラトンの「イデア」ではダメだという。 「イデア」なる絶対真理の世界から、この仮象としての経験世界の物事を演繹して来てはダメである、と。 たぶんプラトンの「イデア論」を誤解しているのだと思いますが、「イデア」というのは演繹的に見出されたものではなく、個物の、質料(ヒューレー)の対立を弁証法によって止揚し、種から類へと概念の階段を昇り、最高で普遍的な概念に至り、それを「イデア」と言ったのですから、「イデア」は個物を包含し、帰納法的に見出されたものです。 「真理と想定したものをイデアと名づけた」ものではありません。 プラトンにとって「イデア」は真の実在です。 ラムジーの「真理の余剰説」というのは、例えば次のような言明です。 「あそこに山がある、という言明は真である」 「あそこに山があるというのはウソではなく、本当だよ」 私たちは何か言う時にいちいち「・・・・・本当だよ」だなんて言いません。 「チャリティーの原則」によって、私たちはその人の言うことをウソではないと思っているのですから、「・・・本当だよ」は余計です。 「そこに山がある」とだけ言えばいい。 その言明は真であることを含意しているのですから。 私は真理の整合説というのは、間違っているかもしれませんが、後期ウイトゲンシユタインの「哲学探究」でいう使用説(慣用説)と同じだと思っています。 たとえば、将棋があるとして、その中の「歩」が前にだけ進めて、横にも後ろにも進めないのは将棋というゲームの中でのみいえることで、他のゲームではかららずしも言えない。 つまり、「歩」という言葉が真なのは、その「歩」が属する全体としてのゲームに依存するので、対象に依存するのではない、ということ。 個人と個人の間で、相手を殺すことは犯罪ですが、戦争で相手を殺すことは犯罪ではなく、むしろ推奨されること。 つまり殺人が悪になるのは、そのコンテクストによるので、自体的に殺人が悪いわけではない。 そこからウィトゲンシュタインは真理は「言語ゲームである、言語ゲームによって真であったり、真でなかったりする」と言いました。 たとえばサッカーというゲームでは、ボールを手で持つことは違反ですが、ハンドボールではボールを手で持つことは違反ではない、むしろ持つことが必要でさえある。 真理は「真理の対応理論」が言うように外部の事実と対照する必要はない。 これが私の考える「真理の整合説」。 あなたは「意識にとって明証的に現れるのが真理というのが明証説」と言い、デカルトとフッサールを上げていますが、デカルトは神が人間に「生得観念」として理性を付与したのだから、理性的認識は先天的・ア・プリオリに明証的である、とは言いましたが、「意識に明証的に現れるのが真理」とは言っていませんし、またフッサールも、そもそも明証的なんて言葉を使っていないし、意識に現われるのが真理だなんて言っていません。 外的世界の総措定を判断停止に置き、内的世界に還元して、純粋意識の「志向性」によって、世界を構成する、と言っているだけです。 かれが真理だというのは端的な知覚です。 私がそれを見たり、触れたりできたなら、それは真理なのだ、と。 あといろいろ言いたいことがありますが、もうくたびれたので、やめます。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ラムジーの「真理の余剰説」というのは、例えば次のような言明です。  「あそこに山がある、という言明は真である」  「あそこに山があるというのはウソではなく、本当だよ」  私たちは何か言う時にいちいち「・・・・・本当だよ」だなんて言いません。  「チャリティーの原則」によって、私たちはその人の言うことをウソではないと思っているのですから、「・・・本当だよ」は余計です。  「そこに山がある」とだけ言えばいい。  その言明は真であることを含意しているのですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《・・・というのはウソではなく、本当だよ》と当人は言いたかった。それが 主観真実である。というだけの話です。  《「そこに山がある」とだけ言えばいい。その言明は真であることを含意している》というふうには・それだけの考えでは 自分の主観真実を表明したことにはならないと――主観的に――思ったというだけのことです。  言いかえると 要素還元主義の弱みが現われた推論でしょう。  ★ 私は真理の整合説というのは、間違っているかもしれませんが、後期ウイトゲンシユタインの「哲学探究」でいう使用説(慣用説)と同じだと思っています。  ☆ ぢゃあ ヰキぺの解説(解釈)とは別に そういう見解もあるとすればよい。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、将棋があるとして、その中の「歩」が前にだけ進めて、横にも後ろにも進めないのは将棋というゲームの中でのみいえることで、他のゲームではかららずしも言えない。  つまり、「歩」という言葉が真なのは、その「歩」が属する全体としてのゲームに依存するので、対象に依存するのではない、ということ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ またまた子どもでも分かる理論ですね。  ★ 個人と個人の間で、相手を殺すことは犯罪ですが、戦争で相手を殺すことは犯罪ではなく、むしろ推奨されること。  ☆ 違います。人殺しは 人間の意志行為として――単純にヤマシサ反応〔としての感性=良心〕にさからうという理由によるということですが―― アヤマチです。緊急避難やあるいは 戦争が共同自治なる政治行為として――おそらく変な共同主観として――認め合われているかぎりで アヤマチだが咎められない。というだけの話です。例外事例です。  ★ つまり殺人が悪になるのは、そのコンテクストによるので、自体的に殺人が悪いわけではない。  ☆ これは 論証がむつかしい主題です。課題です。けれども 《殺人が悪かったり悪くなかったりする》という見方は 必ずしも共同主観とは成っていません。  ほかの国の人たちはいざ知らず日本人兵士たちは ほんとうに悔やんだのです。たとえ戦争という《大義》のもとであったとしても・殺さなければ殺されるという情況にあったのだとしても ひとをころしたことに どう考えても拭い切れない悔いをおぼえたのです。これも 共同主観です。コモンセンスです。  ★ そこからウィトゲンシュタインは真理は「言語ゲームである、言語ゲームによって真であったり、真でなかったりする」と言いました。  ☆ 当たり前です。ゲームには規則が前もって取り決められます。(成文でなくても取り決めがあり得ます)。取り決めに従って セーフかアウトかが決められる それだけのことです。  ★ たとえばサッカーというゲームでは、ボールを手で持つことは違反ですが、ハンドボールではボールを手で持つことは違反ではない、むしろ持つことが必要でさえある。  ☆ だから?  ★ 真理は「真理の対応理論」が言うように外部の事実と対照する必要はない。 / これが私の考える「真理の整合説」。  ☆ 規則とは対照するのですよね? 整合するかどうかが判定されますよ。  ★ あなたは「意識にとって明証的に現れるのが真理というのが明証説」と言い、デカルトとフッサールを上げていますが、  ☆ これは ヰキぺ氏がそうしているのに従ったまでです。真理ではなく 主観真実だとは言っています。  ★ デカルトは神が人間に「生得観念」として理性を付与したのだから、  ☆ いかにそのことが ルネくんの主観内面において光り輝く明証性を持った命題であるとしても それは ひとつの主観真実です。  もっとも自然本性として 身と心とがあり 感性と理性とが人には備わっているという議論は おそらくふつうに共同主観でありえているでしょうが。《神》を持ち出すところが あらそわれます。  ★ 理性的認識は先天的・ア・プリオリに明証的である、とは言いましたが、「意識に明証的に現れるのが真理」とは言っていませんし、またフッサールも、そもそも明証的なんて言葉を使っていないし、意識に現われるのが真理だなんて言っていません。  ☆ そうではなく:   ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~   (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言ったのです。  ▲ 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であってヰキぺ氏も  ★ 「意識に明証的に現れるのが真理」  ☆ とは言っていません。恒常的に真理(じつは 主観真実)であるという言い方ではありません。  そうしてもしこの《(3) 真理の明証説》が デカルトやフッサールに当てはまらないのだとすれば そういう見解として承っておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  外的世界の総措定を判断停止に置き、内的世界に還元して、純粋意識の「志向性」によって、世界を構成する、と言っているだけです。  かれが真理だというのは端的な知覚です。  私がそれを見たり、触れたりできたなら、それは真理なのだ、と。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それを主観真実だとこちらは言っています。  ただし《もののあはれを知った》というときには ひとつにそのままこの見える経験世界に対応するようなものごとについての主観真実のことがあります。  そして同じくそのとき もうひとつに この経験世界を超えたところのナゾについての直観があったという場合もあり得ます。  ブラフマン神と呼ぶ《真理》とわが心における《非思考の庭》なるアートマン(霊我)とが 梵我一如というごとく一体であるとさとったという場合もあり得ます。  むろん 主観真実です。(ところが このアートマンは ブッダター(仏性)と言いかえられて ひろく人びとの心に受け容れられています。うんぬん。)  ★ あといろいろ言いたいことがありますが、もうくたびれたので、やめます。  ☆ 疲れが取れたら またどうぞ。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「真理の対応説」は古代アリストテレスから、現在まで神学者・哲学者がさんざん議論してきて、それを論破できないものだから、あなたに簡単に数行で片づけられたくない。  ☆ 中身で勝負しなさい。《数行で片づけられてしまった。残念》と言ったも同然。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  大人が子供に対して、「そこにお金があるから、それを君にあげる」と言っても、子供が「そんなこと言うけれど、お金なんかどこにも無いじゃないか。おじさん、ウソついてらあ」と言われたら、大人のいう「そこにお金がある」という言明は虚偽なのです。  だから「真理の対応理論」なんて、子供でも知っていることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《子どもでも知っている「真理の対応理論」》を持って来て デカルトの仮説を正当化しようとしたのは あなた。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  それに対してあなたは「主観の共同化」だとか、「地域を越えて、歴史を越えて、共有されるなら」とか、「民主制の理念」とか、そんなことは不必要なのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 中身で勝負しなさい。《おまえのかあちゃん でべそ!》と負け惜しみを言うだけではなく。  ★ あなたは「このことはその人ひとりの主観的な真実だから、他の人の主観によって検証される必要があるから、そこでは主観の共同化がある」という。  ☆ そのとおり。  ★ 「そこにお金がある」という言明は主観的な真実なのですか?  ☆ 本人が嘘をついていると知っていてそう発言する場合もある。ただし それを――ウソと分かっていても――どうしても言いたい だから言おうとしたということは その人のそれなりの主観真実。《真実》というのは マチガイを言い当てていることにも遣います。  ★ そして子供が「お金があるというけどどこにも無いじゃないか」と返事をするのも主観的な真実なのですか?  ☆ もちろん そうです。子どもは そういう事実認識をしたということであり その認識に――むろんアヤマチの可能性もありなのですが――自分でマチガイないという明証性を得ているかぎりで 主観真実として現われている。こう見るわけです。  ★ 主観なんか関係ないので、大人は「そこにお金がある」と指示しているだけだし、子供も「お金がない」と同じように指示しているだけで、主観は介入していません。  ☆ 《指示する》のは 誰ですか? それは 人間の知解や意志の行為とは関係のない何か自然現象なのですか? 指示するために主観における何の事実認識もなく手や指が動いたとでも言うのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あなただって、こう言っているのではないか?  「あなた、昨日デパートにケリーのバッグがあると言っていたでしょ? 今日デパートに行ったら、あなたの言ったとおり、ありました。あなたの言っていたことは本当だったのね」と。  あなたの言っていた「ケリーのバッグがある」という言明は実際にデパートに行って、ケリーのバッグがあることを確かめられれば、その言明は真なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その確認できたというモノが 《ケリーのバッグ》と言っても品種が違っているのに同じ製品だと勘違いした場合などが別様に考えられますが ほんとうに本当だったとした場合には そうなります。  最初の発言は その発言者における主観真実であったのだが これを他の人が 実地に確かめた。ということ。  ところで ここまででは 一向に批判とは言っても――看板をかかげているだけであって――まったく成っていないよーーん。全滅だよーーん。  ★ また、母親が「ちょっと、そこに砂糖があるでしょ? それを取ってちょうだい」と言われて、私が目の前に砂糖があるのを確かめ、それを取って母親に渡せば、母親の「そこに砂糖があるでしょ?」という言明は真なのです。  ☆ そのとおり。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この「真理の対応理論」をどうやって論破ができるか?  出来ないと思います。  だからアリストテレスから2500年、誰もがそれを正しいとして信じてきたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何を言ってんですか。事実と認識が過不足なく対応しているなら 認識内容は――最初の認識者における主観真実を超えて―― 主観が共同化される。そのかぎりで 発言された認識内容は 一般的にも真実であったとなると言っています。  わたしが批判したのは 認識(思考)という行為が 事実(存在)とひとしいとか一致するとか そういう意味でこの《真理の対応説》を援用したことに対してです。明らかなマチガイです。(その援用はマチガイだったとあとで訂正したようですが。それでも結果としては 観念の神なる雲の中であたかもこの《思考=存在》説が通用するのだと 再説されたようです)。  ★ あなたはプラトンの「イデア」ではダメだという。 / 「イデア」なる絶対真理の世界から、この仮象としての経験世界の物事を演繹して来てはダメである、と。  ☆ そうです。  ★ たぶんプラトンの「イデア論」を誤解しているのだと思いますが、「イデア」というのは演繹的に見出されたものではなく、個物の、質料(ヒューレー)の対立を弁証法によって止揚し、種から類へと概念の階段を昇り、最高で普遍的な概念に至り、それを「イデア」と言ったのですから、「イデア」は個物を包含し、帰納法的に見出されたものです。  ☆ もしそうならなおさら《絶対》としての真理にはふさわしくありません。《帰納法的に見出されたもの》であるイデアから 同じ仮象世界におけるものごとを演繹して議論をしてみせても 話にはなりません。行ったり来たりしただけです。  ★ 「真理と想定したものをイデアと名づけた」ものではありません。  ☆ 《想定したものではない》から ダメだと言っているのです。  ★ プラトンにとって「イデア」は真の実在です。  ☆ ですから 《非知・絶対》かそれとも《知の対象である経験的な相対世界における〈真の実在〉》かを提唱者が決めるべきです。  (つづく)

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第六章 さとりとは 何か  1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。  2. 真理とは 変わらざる真実である。  3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。  5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。  6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。  7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。  8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。  ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。  賛成だとしても 添削をもどうぞ。  9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

  • コギトと アリストテレスの真理の対応説

     真理とは何か? これを《対象とその認識とが対応すること》と説いたのは アリストテレスであると言われます。  これは いわゆる経験合理性としての妥当性というような意味において 事実認識が《信憑性を持つ ないし 真実である》ということを言おうとしているようです。  ヰキぺの《真理》なる主題のもとには アリストテレスについての解説が 《経験事実についての真実》だけではなく 《経験世界を超えた場としての真理》についても触れていますので その項目を全部引いたあと問いをかかげます。(5)を問います。  ▲(ヰキぺ:真理) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86#.E3.82.A2.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.86.E3.83.AC.E3.82.B9_.E5.AF.BE.E5.BF.9C.E8.AA.AC.E3.80.80  § 2 歴史   § 2.1 古代  § 2.1.3. アリストテレス 対応説   (1) アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。    (2) まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にしたのである。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。  (3) ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。  (4) そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。  (5) そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていたのである。  (6) そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。  (7) 例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。  (8) 例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成していないのであるから、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となるのである。  (9) 彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。  (10) アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  質問( a ) ▲ (5) ・・・判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され・・・  ☆ この《真理の対応説》についてですが 《思惟と実在の一致》の当否を問います。これは 事実についての認識が その事実としての《実在》に言葉による表現として対応しているということを言っているのではないですか?  ( b ) すなわち 《事実についての認識》について 《真であるかどうかが問われる判断》を経て来ているとは言っていますが それは要するに事実認識の妥当性が問われているということであるのではないか?  ( c ) 妥当な事実認識は その対象とされた事実(つまりヰキぺの解説では 実在)とその認識内容ないしその説明内容や規定内容と過不足なく対応している。つまり マチガイなく事実(実在あるいは存在)を 合理的に説明しているという意味ではないか? つまり 《真理の対応説》がです。  ( d ) つまり (5)では 《思惟と実在との一致》というふうに《一致》という表現を用いていますが これは何も《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。  これを問います。どうでしょう。  なお (9)項における《神》の定義について ご見解がある場合 あるいはその他その他の論点についてもそうである場合には そのお考えを述べてください。互いに問い求めます。

  • プロタゴスの相対主義について

    「人間は万物の尺度である」と主張したプロタゴラスの相対主義についてなのですが、こちらで否定されている絶対の「真理」の意味とは、正しさや道理といったもので、人によって、それらは違うということですか? 下記でいう(1)の意味で、〔哲〕の意味では、ないですよね? (1)正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。 (2)〔哲〕(価値を慮外にして)事態の真相。真。その基準については諸説ある。(1)思想と事物の一致、すなわち判断や命題が存在と正確に対応すること(対応説)。(2)ある命題(思想)が他の諸命題と矛盾せず整合性があること(整合説)。(3)プラグマティズムでは、ある思想が有効な働きや結果を示すこと。 ⇔偽

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 【論理学】同値式導入規則について

    論理学を独学し始めた者です(「演繹定理」についても質問させて頂いております)。 テキストに記載されていた「同値式導入規則」について、具体例として 記載されていた内容が理解できません。 (使用テキスト:論理学入門~三浦俊彦 日本放送出版協会) まず、テキストの記載には、同規則については下記のようにありました。  主演算子が≡であるトートロジーの左辺と右辺は、任意の命題の中で  互いに置換可能である。A≡Bがトートロジーであるとき、真理関数的命題Cの  中に出てくるAをBで置き換えた命題をDとすると、CからDを推論してよい。 と書かれ、具体例として次のように記載されていました。  ¬(P∨Q)∧(P⊃¬R)から、「ド・モルガンの法則」を用いて、  (¬P∧¬Q)∧(P⊃¬R)を推論してよく、  さらに対偶律により、(¬P∧¬Q)∧(¬¬R⊃¬P)を推論してよく、  さらに、二重否定式により、(¬P∧¬Q)∧(R¬P)を推論してよい。 理解できない箇所は、同値式導入規則の定義で言われている 命題Cや、その中に出てくるAやBといった要素、更に命題Dが何を 指示しているのかが、上記の具体例から読み取れません。 ¬(P∨Q)∧(P⊃¬R)が、「ド・モルガンの法則」により、  (¬P∧¬Q)∧(P⊃¬R) に等しく、また、対偶律により、  (¬P∧¬Q)∧(¬¬R⊃¬P)  に等しく、さらに二重否定式により、  (¬P∧¬Q)∧(R¬P)  と等しいことは理解できるのですが、テキストの 文言から、指示語の対象内容が理解できません。 大変お恥ずかしい限りですが、お知恵の拝借をお願いいたします。