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《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか
《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか? 1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。 2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。 3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。 4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。 5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。 6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。 7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。 8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。 11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか? 12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか? 13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?
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bragelonneさん、こんばんは。 いつもありがとうございます。 >「面倒ですねったって ナンバーワンとかオンリーワンとか言い出したのは わたしではありませんから。 でしょう? あるいはまた 完全なさとりを得たと言ったのも わたしではありません。 面倒ですねと言われても どうしようもなく。・・・」 笑えました。 >「 3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。 8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。 13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か? 」 これで、いいんじゃないでしょうか
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- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 >「ナンバーワンではなく オンリーワンがよいというんでしょ? ですから ナンバーワンでしかも完全である。完全な智慧である。と言うのは どうかと思うという物言いでした。」 http://www.youtube.com/watch?v=wIq4rusqG6Y 実に、面倒ですね。
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 面倒ですねったって ナンバーワンとかオンリーワンとか言い出したのは わたしではありませんから。 でしょう? あるいはまた 完全なさとりを得たと言ったのも わたしではありません。 面倒ですねと言われても どうしようもなく。・・・
- 畑 茂夫(@Flareon)
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規約違反の回答だが研究のために頭を下げるよ。 「人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。」 これに回答していただけないか。 私は知識と言う経験が不足していてここから始める事に、こねくり回しの材料が不足しています。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 あたまは下げなくていいですから その傍若無人の話し方をどうにかしてください。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 >「世界一であるというとき それは《完全な智慧》であると言ったからです。 それは 人間には無理だと言わなければならないと思われるからです。」 むむむ、ふむふむふむ。 はい。「《完全な智慧》が、人間には無理だ」、は、そうかもしれません。 >「「唯一最高の完全な花」という主張は、間違っている」 >「誰もが言うと思います」 http://www.youtube.com/watch?v=bA1njp3vgj8
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ナンバーワンではなく オンリーワンがよいというんでしょ? ですから ナンバーワンでしかも完全である。完全な智慧である。と言うのは どうかと思うという物言いでした。
たとえば、内容まで広く知られた般若心経の一節を引用するなら「無無明、亦無無明尽」(無明は無い、無明が尽きることは無い)辺りでしょうか。 ブッダより、ずっと後代に書かれた経ですから彼の言ではなく、「菩提薩埵、依般若波羅蜜多故」(菩提薩埵は般若波羅蜜多を寄る辺とするゆえに?)辺りは誤解しそうではあるんですが。 有ると思い込むと無くなって見つからないし、無くし尽くしたと思い込むとわらわら出てくるなんてことになるよ、って感じでしょう。 体なら毎日風呂に入るし、鈍らないよう鍛えるし、精神も同じようにしとけばいいんじゃないの、といったところ。 ブッダが文学的修辞抜きに、本気で大風呂敷広げたわけじゃないと思いますよ。それに、インドの伝統的修行では、嘘の教えを垂れてでも弟子を大きく伸ばしたりします。方便ですね。 それを信じ込んだのかどうか分かりませんが、弟子たちが競って賛美するから、ややこしい伝説になっちゃったんでしょうけど。 確かに、菩提樹の件以前のブッダは、瞑想なら無想、非想非非想を習得し、さらに苦行を求めて1日に米一粒麦一粒しか口にしないなんて無茶やってます。心身は衰弱し、歩けなくなってトイレに行くのも、修行仲間の世話になる始末。当時、肉体が弱れば弱る程、精神は冴えわたると思われていたようです。 でも、永遠不滅の何かなんて片鱗も無かった。馬鹿らしくなったんでしょうね。しっかり飯食って一息ついたら、気が付いた。「無いじゃん、そんな凄いものって」。 「『無い』をくれ!」「『無い』はどこだ?」と言ったって、誰にもあげられないし、見つけられない。無い袖は振れない。 凄いものが無いなら、当たり前のものだけしかなくて、それで良かったんだということでしょう。 なんとなく、青い鳥の話みたいですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★★(回答No.12) ~~~ イエスの山上の訓戒に「心の貧しき者は幸いである」なんてあります。いろいろ解釈はあるんでしょうけど、たとえば「心に余計なものを持たない」と思ってみても、反省のヒントとしては、なかなか役に立ちます。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。 ▲(マタイ福音5:3-11) ~~~~ 3:「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 4:悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 5:柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 6:義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。 7:あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。 8:心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。 9:平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。 10:義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 11:わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 ~~~~~~~~~~~ ☆ これらは 自己表現の動態が 簡単に言って弁証法的な過程をあゆむと言っていると見ます。 共同主観(コモンセンス)に合わないコトは そのコトにかかわった特定の人に負の主観真実として起こったことであり これが たいていは 自然史過程において自然史的過程として 正の主観真実へと変換される。といったことを言おうとしているのだと。 また 正の主観真実の場合には それにふさわしい人間関係としての出来事が おおむね 起きることになるであろうと。 中で ▲ 5:8:心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。 ☆ については 《自性清浄心》のことを言っているようで むろん《神を見る》というのは おとぎ話です。 言いかえると 霊において霊として神を見る ということだと捉えます。皆目見当がつかないことであるという意味です。 それでも大事なことは 何ごとにも――世界において起きる何ごとに対しても――心の目が閉じられていないということは意味し得ていて それだけで十分だと言えると捉えます。 ブラフマノ‐ブディズムにおける《アートマン / ブッダター》は――信仰としては 類型的に同じことですが―― おそらく個々の人が まちまちにそれを受け容れるという信仰を持つのだと思います。それに比べては クリスチアニズムの場合には あたえられると言おうとしているのだと思います。教会は関係なくです。 (親鸞の場合には 同じく明らかに アミターバ・タターガタのほうから 人を摂取するというようにして 信仰があたえられるのだと捉えられると思います)。 自性清浄心・ブッダターをほのめかしたあと ただしアミターバを持ち出すことなくこれを退けてそうではなく《無い神》を立てて アン‐アートマンないしシューナター(空)なる神とも言えるかたちで ゴータマ氏も みづからの信仰理論を打ち建てていれば よかったであろうと思われます。 ありがとうございました。
補足
全体としておぎないの問いです。 ★★(回答No.9) 個人的な試みとしては、いいんじゃないでしょうか。 ☆ これは 個別の命題についてのご評言なのですが 質問のたたき台内容についてご回答の全体的な内容をみちびくものであるとともに 最後の結論内容を成すとも――いまの段階で結果的に――考えられるように受け取りました。 その点で 次のように・すなわち ○ 哲学としての試みとしては どうでしょう? とお応えする問いを発しておかねばならないでしょうね。 なぜ《個人的な》という限定条件がつけられねばならないのでしょう? という問いかけです。
喩え抜きだとするなら、 「池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断つこと」は無いでしょうし、 「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余さないこと」は無いでしょうし、 「激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くすこと」も無いでしょうね。 愛欲や妄執や驕慢が何かは置いておきましょうか。それは何でもいいので。 たとえばですが、それらの可能性すらも滅し去ることはできません。仮に可能性も滅することができたとすると、最早それで悩む人の心は分からなくなります。 別に難しい話ではありません。誰でも経験していることです。たとえば、フィクションの鑑賞ですね。自分では到底できないような悪行を平然と重ねる悪役について、その為すことがどうかはもちろん、為している悪役の気持ちはどうかといったことまで分かります。 それは、想像でき、感情移入して行為者をシミュレーション体験できるからですね。なぜ、それができるかと言えば、経験はなくとも可能性だけは持っているから。それも、かなり自由自在にできる。たとえば「(^o^)」という記号列を見て、笑っている顔と分かったりするくらい、脳は柔軟ですからね。 無くならないんですね、何もかも。いったん目の前から消せても、また出てきます。 では、無くそうとすることは無意味か。それも、そうではないんですね。 辿り着きさえすれば、それ以上何もする必要がなくなる安心立命などはありません。死ぬまで静止する、なんてことは無理のようです。人間も生物なせいか、そうならざるを得ないようですよ。修(守)破離と断捨離は、どっちも最後は離ですね。 P.S. たとえば占星術などの占いでは、おそろしく壮大で精緻な理論を持っているものがあります。一生かかっても一部しか学べないくらいです。それが何の上に築かれているのかと見てみると、……。
お礼
ご回答をありがとうございます。 うかがった限りでは こういうことでしょうか? すなわち ★ ~~~~~ 愛欲や妄執や驕慢が何かは置いておきましょうか。それは何でもいいので。 たとえばですが、それらの可能性すらも滅し去ることはできません。仮に可能性も滅することができたとすると、最早それで悩む人の心は分からなくなります。 ~~~~~~~ ☆ 《愛欲などを完全に滅し尽くした》という表現は 次の内容を意味するのだと。 つまり 《実際にゼロにまで滅し尽くしたのではなく またそのことは出来るものではなく必要でもない。そうではなく 適当にほかの人の欲望等が分かるほどには 可能性をブッダになった段階でも温存しておくものなのだ。しかもそれが 完全な成道だと言うことなのだ》と。 ですから ここでの問いは そういうブッダとなった状態というのは 《真理がすべてにおいてすべてである》ということを意味するものではないでしょうか? これです。 もしそうなら それは 無理というものでありましょうし そうではないのなら(真理に満たされているのでないなら) やはり《完全な成道》を言ってはいけません。インチキになります。――こういう物言いです。 無明ないし煩悩が完全にゼロになったという定量性の問題ではなく 衆生救済のために必要な分だけは温存したかたちの最適で最高の――つまりは そういう意味でこの上ない完全な――ブッダ状態である。といった場合: 1. それは真理に満ち足りていることであるのか?――しかし 人間にはそれは無理である。 2. ならば 《完全なさとり》に達したと言ってはいけない。――しかし言っている。スッタニパータだけでも例証となります。 どこから考えても・どう見ても ゴータマ・ブッダの言動〔と伝えられた内容〕は マチガイをまぬかれません。すでに証明出来たと考えますが まだどこが足りないでしょうか?
>このようにゴータマ氏の論理そのものによって言えるはずです。これが 自家撞着です。どうでしょう? 作家の故アイザック・アシモフは、「もし諸君が私に情報の選択の自由を無制限に認めてくれるなら、私は何でも論証してみせよう」と言ったことがありますよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。例示のために用いた材料が 適切だと証明すればよいのですよね? 梵我一如は あくまで《非思考》です。 そのアートマンにせよブラフマンにせよ わけの分からない霊です。 そういう前提があります。そこで 《「アートマンが丹田にあるから」と言い出した》 のなら それは《霊としての遍在》を言っているに過ぎません。経験科学を超えた命題ですが むやみに偽として捨て去ることも出来ないものです。真偽を決める能力が 人間にはありません。 ちなみに ・ブラフマニズム:梵我一如 霊:梵(ブラフマン) 霊:我(アートマン) ・宇宙霊魂(プシュケー・トゥ・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:霊魂 霊:我れ こういう図式で説明し得ましょう。これらは 想定です。 イデアでもありません。イデアが 霊だとすれば構いませんが 人間の思考や想像にかかる観念であっては ダメです。 霊ならば 想定にかんするかぎり 主観の内面におさまる内容として 自由であり あり得ます。 ところが スッタニパータの命題は いただけません。 《2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者》 《3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者》 《4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者》 《愛欲を完全に滅した状態》は 死んでいるのでなければ人間が成就することは考えられません。 こういう問題です。どうでしょう?
> 矛盾を感じますが どうでしょう? おやおや、困りましたね。その矛盾がどこにある誰のものかを考えてみるのも一つの手でしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★★(回答No.16) ~~~~~ ブッダは、超越者を否定したわけではないですよ。バラモンが言うようなアートマンは無いということだけです。 ・・・ アートマンがあってもいい。しかし、バラモンの言うアートマンは無い。それだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ この論理に従うならば: ○ (ゴータマ・ブッダの自家撞着) ~~~~~ 1. ゴータマ氏は 《愛欲を断つ / 妄執を涸らし尽くす / 驕慢を滅し尽くす》と言ってもよいが それはあくまで人間のおこなう経験行為としてであって 《完全性》において成就することはあり得ないとも 同時に言っていなければならない。 2. ところが《すっかり断ってしまった / 涸らし尽くして余すことのない / 驕慢を滅し尽くした〔修行者つまり人間〕》と言ってしまっている。これは 文字通りには《完全に成就した》と語っている。 3. よって ニローダ(止滅・統御)やニルワーナ(寂滅・寂静)と言ってもよい。しかし ゴータマ氏の言うニローダやニルワーナはない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このようにゴータマ氏の論理そのものによって言えるはずです。これが 自家撞着です。どうでしょう?
>ゴータマ・ブッダは自分が《真理がすべてにおいてすべてである》人間であると言ったことはない。 ないはずです。遠い過去の人であり、直接の著述がなく、後世の伝説が多く語られているため、確かにそうだと断言はできませんが。仮に、そう言ったとしても、他の言動にもあるような方便でしょう。 生まれてすぐに七歩歩き、やおら天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言った、なんてあるわけないです。それと同じようなものです。 >ブッダと言えどもふつうの人間である。その智慧は あくまで相対的であり人びと一般とのあいだの違いは程度問題に過ぎないと語っていると言ってよいでしょうか? そうですよ。ブッダは悟りを得た後も、普通に話が通じてたようですし。むしろ、話し上手になったようにも思われます。絶対的な差があれば、あんな回りくどい教え方はしないでしょう。 お示しの引用文章は、辞書的に、恣意的に解釈すべきではないでしょう。伝えられているブッダの言説が、文学的修辞に満ちており、インド古来の特徴として内面と外界の区別がないことは留意すべきです。 熟読玩味して役に立つことがあれば使えばいいでしょうし、それに拘ってもやもやするなら、忘れてしまえばいいでしょう。忘れても、そういうものがあったことは覚えているでしょうから、要るときに読み直せばいいだけのことです。 「無いものは無い、有るものは有る、要るものは要る、要らないものは要らない」という、単純で当たり前の容易いことを始めるのに、とりあえずは必要な感じの文章ではありません。仏教を行ってみるとして、八正道を続けてみても、まだ何か不足と言うときくらいに参考になる程度じゃないでしょうか。 ブッダが死ぬ前に弟子に念押しして言ったのは、「自灯明、法灯明」だけだそうですしね。勝手に再翻訳すると、「自分で考えて、当たり前のことをやれ」でしょうか。
お礼
れいずぃどぐ1さん ご回答をありがとうございます。 言ってみれば質問の投げかけた問いの道筋とは別の脇道を通ったかたちになったと思いますが おかげさまでこれでようやく 当初の目的を果たすことが出来た。このように思います。 なぜなら 《インチキ》とまでは見ないとしても 特別にブディズムという思想があるということではない。このことが 明らかになったと考えるからです。 ★ ブッダが死ぬ前に弟子に念押しして言ったのは、「自灯明、法灯明」だけだそうですしね。勝手に再翻訳すると、「自分で考えて、当たり前のことをやれ」でしょうか。 ☆ 一家をかまえるほどの思想ではない。あるいは そこら中で聞かれる世間の知恵のひとつが言われているのだと見られます。 ちなみに自灯明・法灯明について よく聞かれる翻訳は 《法が絶対であり また自己が絶対である。法か自己に全面的に頼れ。ほかにはない》といったところでしょう。 たいへんありがとうございました。 最後に戦績をかかげてみます。お好みでどうぞ。 ただし もう少し開いています。批判・反論を期待していましたから。 【Q:キサーゴータミーの説話について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7880066.html 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html
補足
またまた おぎないです。 ★★(回答No.15) ~~~~ アートマンがあってもいい。しかし、バラモンの言うアートマンは無い。それだけです。 たとえば、「あたかもアートマンが丹田にあるかのように感じる工夫をして瞑想すると、深い瞑想に入りやすいよ」と言う人には、ブッダは何も言わなかったかもしれません。 そういう実用的な虚構、まあ方便ですが、そういうものなら気にしないでいいでしょう。気にする必要もない。しかし、「アートマンが丹田にあるから」と言い出したら、ちょっと危ない領域に入っています。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですが もしこういうふうでしたら ゴータマ・ブッダの説いたと言われるスッタニパータの文章について言えた同じことが バラモンの語ったという言葉についても言えるように思われます。 すなわち 《2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者》 《3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者》 《4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者》 このような《すっかり断つ / 涸らし尽くす / 滅し尽くす》と言った《完全性》をあらわす表現があっても それはただただレトリックとして軽く受け取ればよいと言うのであれば バラモンが 《「アートマンが丹田にあるから」と言い出した》 としても 何のことはない。ただただ《あたかも・・・のごとし》と言うのと同じくレトリックなのだと ゴータマ自身が受け取ればよかった。それなのに 何もわざわざアン‐アートマンなどと目くじらを立てて批難するほどこだわる必要などはさらさらありません。 矛盾を感じますが どうでしょう?
ややこしい話をしてはいないのですが、難しくお考えのようですね。 ブッダは、超越者を否定したわけではないですよ。バラモンが言うようなアートマンは無いということだけです。ブッダが長生きしてイエスに会い、帰依しても、何の問題も矛盾も不合理もありません。そして、イエスがブッダの教えに感動しても、何らおかしくない。互いに否定するものは、無さそうですから。 アートマンがあってもいい。しかし、バラモンの言うアートマンは無い。それだけです。 たとえば、「あたかもアートマンが丹田にあるかのように感じる工夫をして瞑想すると、深い瞑想に入りやすいよ」と言う人には、ブッダは何も言わなかったかもしれません。 そういう実用的な虚構、まあ方便ですが、そういうものなら気にしないでいいでしょう。気にする必要もない。しかし、「アートマンが丹田にあるから」と言い出したら、ちょっと危ない領域に入っています。 ありのままに何を信じてもいい。しかし、無いものを有るように信じる努力とか、有るものを無いと理屈をいつまでもこねるとか、有るか無いか分からないものを分からないままに決めてしまおうとすると、マズいのでしょう。 野狐禅や魔境は、そうしたことから生じます。心頭滅却してみて火が涼しくなったら、何か間違っています。熱いものは素直に熱いと感じられない、あるいは己の言に拘ってやせ我慢してしまうようでは、駄目でしょうね。余談ですが、『やせ我慢』の対義語は『デブ大暴れ』なんだそうです。 頭をいったん真っ白にして、眺めて考えて、無いものは無い、在るものは在るとした、その過程に学べばいいのでしょうね。何が無かったか、何が有ったかは、さしたる問題ではありません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうなんですか。 それでは どうなりましょうか? 質問の答えとしてですが。 ゴータマ・ブッダは 自分が 《真理がすべてにおいてすべてである》人間 であると言ったことは ない。こういうご回答でしょうか? ブッダと言えども ふつうの人間である。その智慧は あくまで相対的であり 人びと一般とのあいだの違いは 程度問題に過ぎないと語っていると言ってよいでしょうか? だとしたら この質問は 筋違いだったことになります。 お手数ですが いまいちど確認いただければ さいわいです。
補足
おぎないます。 次のような伝承における宣言は 《完全なる智慧》のことを言っていないでしょうか? ゴータマ・ブッダが言ったかどうか分からないという理由で 受けつけないということでしょうか? あるいは 文学的修辞に過ぎないから 取り上げるにあたいしないといった事情でしょうか? 問題をふくむ箇所を カッコでくくりました。 ● (【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>) ~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 【 第一 蛇の章 】 <1、蛇> --------------------------------------------------- 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、≫怒りが起こったのを制する≪修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、≫すっかり愛欲を断ってしまった≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 3 奔り流れる≫妄執の水流を涸らし尽して余すことのない≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、≫すっかり驕慢を減し尽くした≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 5 ≫無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 6 ≫内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 7 ≫ 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (5)は いわゆる《諸行無常》であって 一般に人間は死すべき生物であると理解する人は むしろ誰でも得られる智慧だと思います。 ほかの場合は だいたい《完全性》という状態が言われていると思います。 そのとき (7)の ≫ 想念を焼き尽くして余すことなく≪というのは ただの文学的な誇張でしょうか? つまりそう読み解くべきということでしょうか? (1)の ≫蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する≪というのは ふつうの医療でありふつうの心理学的な節制であるかも知れません。 つまり だとするとぎゃくに このことをブッダの智慧だとわざわざ言うほうがおかしいとも反駁し得ます。 その《怒りの調整》をめぐって さらに(6)では ≫内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した≪と成っています。 もしこれが 経験世界における因果関係から自由である状態(たとえば 特異点のごとき)だとすれば すでに完全性を言っており 真理の実現者になります。 けれどもただ 世の中の移り変わりには左右されないのだぞという戯れ言であるのなら こんどはぎゃくに 聴衆は ふざけなさんなと返すことでしょう。それか 漫談を聞きに来たと 心構えを変じて楽しみましょう。 つまりこのオシエは どこがさとっているのか? という問いをどうしてくぐり抜けて来ているのか。これが 分かりません。 そのときブディストの大方の人びとは ゴータマ・ブッダこそは ブッダの中のブッダであり 神にひとしいと――口に出しては言いませんが――思っていることが容易にわかるような口調で 解説していると考えます。 こういった情況は 不幸でしょう。
アートマンを真我、ブッダターを仏性としておきましょうか。 A「世界の中に我が在り、我の中に真我が在るはずだ」 B「無いよ、真我なんて。あなたはここにこうして在るし、周りに世界はあるけど」 A「ならば、どうやって苦から逃れるのか?」 B「仏性が在るから、それを使えばいいじゃん」 A「仏性はどうやったら得られるのか?」 B「誰にでも仏性は在るよ、最初から」 A「仏性はどうやれば見つかるのか?」 B「心の中を掃除して、空っぽにしてみればいいじゃん」 A「そうすれば、仏性が得られるのか?」 B「得られないよ、そんなもの有るわけないんだから」 A「仏性に恵まれない者もいるということか?」 B「仏性は誰にでも何にでも在るよ。石ころにだって在るんだからさ」 A「犬にすら有って、我には無いのか?」 B「犬に仏性は無いよ。あなたに仏性は在るよ」 A「我には仏性が無くて、何にでも仏性は有るのではなかったのか?」 B「あなたに仏性は無くて、何にでも仏性は在るよ」 A「我は仏性に恵まれぬ者ということか?」 B「いやいや、あなたは世の中で最高に仏性に恵まれているよ」 A「我が仏性に恵まれているなら、それをどうしたら我が物として使えるのか?」 B「仏性なんて、使えねー役立たずだよ」 A「役に立たなくてもよいから、その仏性を得る方法を教えて欲しい」 B「得られないよ、無いんだから」 (延々) そんな話になりますよ。ある視点で言えば、「自分の部屋を空っぽにしようよ」と言っているのに、「何を運び込めばいいのか?」と問い続けるようなものだから。 イエスが信仰心を部屋に喩えたことがある。ならず者や悪党が部屋を占拠している。そういう輩は叩きださないといけない。しかし、それでは別の魔物が代りに入ってくるから、善い友人を大勢招いておけ。 そうした例え話です。悔いただけでは駄目で、悔いたら善い教えを学んでおかなければいけない。 しかし、それはブッダの言ったこととは全くの別物であることに注意が必要でしょうね。むしろ、どちらかといえば孔子の言ったことに似ているような気もしますよ。孔子が三十歳で立つ気になったとき、その心境は推定29歳にして菩提樹の下で悟りを開いたブッダのようであったのかもしれません。
お礼
れいずぃどぐ1さん ていねいなご回答をありがとうございます。 ただしですね。《非思考》とお伝えしたことが まだ消化していただいていない。こう思います。 ☆☆(No.9補足欄) ~~~~~~~~~~ ○ 非思考の庭= 信仰なる動態 ~~~~~~~ 人間存在 :非思考の庭(クレド) _________ :思考の緑野(コギト) :感性の原野(センスス・コムニス) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰と呼ばれる《非思考の庭》は けっきょくおとぎ話です。 与太話とまでは言いません。なぜなら 信教・良心の自由という公理においてみとめられている人間のいとなみです。また じんるいのどの言語にも《神》ないし《信じる》という言葉はあって用いられています。 哲学は その内容を――むろん経験合理性にもとづき―― 説明するつとめがあります。 れいずぃどぐ1さんでしたら 次の小論を読んでいただくのがいちばんだと考えました。(理系にもつうじておられるようですから。と言っても わたしは理数系をだいぶん勉強するのをおこたった文系ですので つねに挑戦するといった姿勢でしかないのですが)。 * ○ 神とは何か または 信仰類型論 §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無神 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 * これまでにもここで問うています。物理の教授とルネサンスのM.フィチーノの専門家で理数にも通じている男のふたりから 正式の賛成を得ています。そのほかは――むろん同感の方向にある場合もあるのですが――まだまだ くそみそ扱いをされています。 ゴータマ氏は アン‐アートマン説にもとづき無神論なる信仰を 実質的には表明したのでしょう。
お礼
くりなるさん お早うございます。 笑ってもらったのは いいですが わたしに対して 面倒だとは この件では言わないでくださいね。 ★ ~~~~ ・・・ 13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か? 」 これで、いいんじゃないでしょうか ~~~~~~ ☆ と言われても (13)は 問いですから まだ いいも悪いもないのですが? もっとも ☆☆(趣旨説明欄) 11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか? と反語のかたちで言っていますから 質問者としては 質問の答えとしてすでに 《いない》というひとつの結論を出して問うてはいるのですが。 たぶん おそらく 誰もが 《完全な智慧のさとり》は 人間には無理だということで 一致しているとは思っています。その確認がキモでした。 あとは 周辺事項で注意することなどがあればおしえてもらうといった趣旨になっていました。 じっさい lazydog1 さんとのやり取りなどでは そのような事柄としてゴータマ・ブッダ論としての詰めのような議論がありました。 だいたい まとまったかとも思います。ありがとうございます。 (と言うより 確認が必要なかぎり 続けてそのすでに明らかになっている確認内容をも深めて行かねばならない主題であるかも知れません)。 この質問は そろそろ閉じることとします。