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宗教は百害あって一利なし
- 宗教は個人の信仰とはまったく別の社会現象であり、精神錯乱に陥るものだと言える。
- 宗教は考えるものであり、そのような思考や理性の問題を信じることはできない。
- 神を信じることは神を心に受け容れることであり、神を知るための補助線としての宗教が存在する。しかし、宗教は信仰の蝉の抜け殻であり、百害あって一利ない。
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一つ質問なのですが、神は非経験であるにもかかわらず、信仰を通じてそれを知る事ができる?というのは矛盾してませんか? 信仰と言う体験、経験の場にわずかでも神が顔を出すならば、それは非経験とは言えないのでは? また、非経験における謎の何者かを神と想定されているようですが、非経験でしかも謎であるのに、そこに存在者としての神を想定することなどできるのでしょうか。想定した時点で、それは思考の緑野に属し、ブラジュロンヌの言う信仰とは言えなくなるのではないでしょうか。 ブラジュロンヌの信仰を、私なりに解釈するなら、心の解放ということになるが、どういうわけでそこにそこに神が関与してくるのか、よくわかりません。 真理に依拠することで心を解放するというのなら理解できるが、神という名称は、あたかもそこに何者かが存在しているという印象を与えてしまうと思うが、それについてはどう考えているのですか?
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- a_hona
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私の方から見れば、ブラジュロンヌは自分のルール、土俵について懇々と説明しており、あぁそうか、そういう考えをしているのだな、という感想の出る以上でも、以下でもないのです。 私が私のルールや土俵を懇々と説明してもいいのですが、それはそれ、より一層違いが明らかになるだけのことでしょうし、ここはそのような場ではないでしょう。 それとも、そういう事柄がお望みでしょうか。 あなたの敷いたルールは分かるが、それに皆が従わなければならないというのではない、という風な受け取りになっているわけです。論の進め方自体が、ご自身の土俵の上になっていることに気が付いて下さい。
お礼
つづきましてのご回答をありがとうございます。 そうですね。よく分かりません。ですが 話はつながっていると思いました。 まづ 分かりづらいという側面です。 対話なりあるいはより一般的に社会における共生なりにあっては 相手の言い分や説明を聞いて 一方では あぁ そうだよ 同感だよとか ただし これこれの点では 修正が必要ではないかとかとこたえますし 他方では いや 違う それは ここのところが練られていない これこれこうなるのではないかとか 応答するものとわたしは思います。 むろん ちょっと待ってくれという保留もありえます。ですが その結果は 上のふたつの応答の場合に帰着するものと思います。 あなたの応答は ★ あぁそうか、そういう考えをしているのだな、という感想の出る以上でも、以下でもないのです。 ☆ ということだそうです。これは 保留でもないようなのです。 賛否・諾否・批判反駁などとはかかわらない。こうおっしゃっているように見受けられます。勝手にやってくれというようにです。 こう受け取ったあと それでも 話はつながっていると見受けられます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私が私のルールや土俵を懇々と説明してもいいのですが、それはそれ、より一層違いが明らかになるだけのことでしょうし、ここはそのような場ではないでしょう。 それとも、そういう事柄がお望みでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 問題は――あまり刺激したくはありませんが―― 情報交換なり対話なりにあっては 自分の見解を述べる・つまり 互いに述べ合うことは ふつうのことだということではありませんか? 世界観を問い求めるにあたっての出発点という主題をあつかっているので 《ルールや土俵》の話であると受け取っておられるようです。 と ここまで受け留めたあと 次のご指摘について考え合わせてまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの敷いたルールは分かるが、それに皆が従わなければならないというのではない、という風な受け取りになっているわけです。論の進め方自体が、ご自身の土俵の上になっていることに気が付いて下さい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは わたしのたたき台が おおむね賛成できる内容であるとおっしゃっている。ところが 《出発点》は いくつかのあり方があるのであって そのひとつに従わなければならないものではない。こういうことですね? でしたら 敢えてけんか腰になってみましょう。 ほかの出発点について説明したものを提出してみてください。 互いに自分の見解を照らし合わせ 出来るものなら 擦り合わせて行くことにしましょう。よりよい地点へと到ることが出来るかも知れません。(最初から そういうコンタンで いつもわたしは いますよ!)。(これ以上は 議論の余地がなくなったというところまで行ったならそこで 見解の相違にて合意するとすればよいぢゃないですか)。
- a_hona
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言葉に深淵(深い意義)を見ることはある。しかしながら、どの言葉にその深き様を見るのかは人によって異なる。質問者はたまたま信じるという言葉に深い意味を見出したのであって、それは尊重されるべきことであるが、だからと言って万人にそれが通用しなければならないということはない。私の提出した定義も、質問者の頭では違うものとしては映らないのである。それをどうこうしようと私は思わない。ただ、そういう認識を質問者はしていて、儚くも、そしてて揺らぎつつも、自身の見解が絶対に正しいと思っているようなのである。 質問者と私の見解は大幅に違う。 例えばブラジュロンヌは、経験世界を有限だと断じるが、私はそうはしない。経験世界は計り知れないと見る。 このように根本的なものの見方でさえ違うのに、言葉の詳細の定義が一致するわけがない。 しかし相互理解はできるというのである。 今後、ブラジュロンヌの信の定義が世に席巻することがもしあったとしても、私はそれを傍観する。そういう見解もあろうと、識別するだけだろう。 思想内容としては興味深い点もある。正邪や善悪の二項対立を克服するというのはとても興味深いことだ。だが、ブラジュロンヌの定義の普及にはまるで興味はない。 思想、あるいは彼の体験の中身に興味があるのである。
お礼
こちらからの見方としては なおまだ行き違いがあるかと思います。 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 残念ながら わたしは ★ 言葉に深淵(深い意義)を見ることはある。 ☆ といった探究をしているわけではありません。少なくとも いまの問い求めにあっては・つまりは 経験世界を超えたところの主題をめぐっては 《言葉は 補助線である》という問題提起をしています。つまりは 非経験の場としての神だとか真理だとかという言葉の場合は 単なる補助線として引かれたものに過ぎず それ自体には 〔神や真理としての〕意義はない。という見方です。 しかも その真理やその意味での愛については 第一義としては 《考える》ことはいっさいしないと言っています。してはいけないと言っています。 (そのあと 派生的には それらの補助線としての言葉にさらに説明をくわえるというほかの補助線を引く場合は 出て来ます。それが オシエです)。 ★ 私の提出した定義も、質問者の頭では違うものとしては映らないのである。 ☆ これは 根本的にまちがった受け取り方です。どうして・どこが 自分の見方と違うのか。これについて るる説明をしています。問題は この説明内容を こんどはそちらがどう捉えるか ここにあります。 一般に対話というかたちで 探究は 永遠につづくとも見られますし 途中でつねに中間報告を提出してそのつど 共通の理解に立ったりあるいはなおまだ保留としたりしながら 問い求めをすすめて行くのが ふつうのことだと考えます。 あなたは 見解の相違だとおっしゃっているわけです。煮詰めて言えば そこに帰着します。 ただそれとしての合意―――つまり見解の相違として相互理解し 保留としようという合意――は 議論を煮詰めたあとの一法です。 すなわち わたしは あなたの《信じる》の定義は 《考える》との違いは一向に分からない そしてそれは こうこうこういうふうに受け取られるからであると 説明しています。こんどは このわたしの説明を論駁する番です。それがないのは 残念です。 ★ 例えばブラジュロンヌは、経験世界を有限だと断じるが、私はそうはしない。経験世界は計り知れないと見る。 ☆ この問題についても説明します。 いわゆる無限には じつは有限なる経験世界における《限りない状態》としての可能無限と 非経験の場としての真無限とのふたつがあります。 一あるいはゼロに限りなく近づくという場合 これは無限に進行しますが そのものごとは 有限なる経験事象の内におさまっています。π がいくら無限だからと言っても その数値そのものは 有限なる世界に属しています。 こういう問題だと考えます。 《経験世界は計り知れない》としても 所詮は有限である。移ろいゆかざるを得ない世界である。となります。その経験世界を超えたところとは はっきりへだたりがあると見なければなりません。 ★ 思想、あるいは彼の体験の中身に興味があるのである。 ☆ それらも何もかもは このいまの《信じると考えるとの明確かつげんみつな区別》という命題〔を ただしいとする見方〕から出発したものです。ですから この問いをしっかりとくどいように質問をして問うています。
- HeyXey
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よく質問文が読解できないので的外れかも知れませんが、まあ読んでみてください。 僕の感覚では、宗教に書いてあることって、ことわざと一緒で真逆のことを書いてたりすると感じます。「急がば回れ」と言いながら、「先んずれば人を制す」とも言います。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と言いながら、「求めよ、さらば与えられん」と言います(例として適当かどうか疑問ですが)。つまり、言いたいのは、宗教はそれほど“明示的”ではないということです。「豚肉を食べてはいけない」とか、はっきりした戒律もあるのですが、核心的な部分では、『どうするのが神の御心(釈迦の教え)に適うのか?』と各自で解釈を考えないといけないような代物だと思うのです。 もし、あなたが人類を絶滅させうる核爆弾のボタンを手にしていて、今まさに死に直面しているとします。「自分が死んでしまえば、何もかも無」だとしたら、ボタンを押して全人類を道ずれにしたって同じです。たぶん、多くの人(過半数以上)は、そうはしないと思いますが、それは何故でしょう?。非論理的なことを信じるのが不可解なことだとするなら、1/2の人がボタンを押すと言ってもおかしくありません。宗教などというものに限らず、ひとは非論理的なことを現に信じているのです。当たり前すぎて気付かないだけです。欧米のキリスト教徒にしても、『当たり前すぎて気付かなかった』と言うでしょう。
お礼
HeyXey さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 〔宗教のオシエは〕核心的な部分では、『どうするのが神の御心(釈迦の教え)に適うのか?』と各自で解釈を考えないといけないような代物だと思うのです。 ☆ ええ。こういったことを言おうとしています。 つまり そうではなく オシエを 考えずに《信じる》場合があって それはむしろその組織宗教の中では 奨励されていると言いますか ほとんどそれをそのまま信じることを命じられている。のではないか。という問題を取り上げています。 ★ 各自で解釈を考えないといけないような代物 ☆ であるというのに そのままオシエを 何も考えずに まもりなさいと言っているかと思ったわけです。 ★ 非論理的なことを信じる ☆ これは 宗教の問題ではなく信仰のそれであると思われること。 まさに このように提案しています。つまり 信じるは 信仰であり 《オシエ》をではないということ。 ええ。おっしゃっているようなことを 妥当なこととして捉え そうではない行き方を宗教はしているのではないか。こういう内容のたたき台について問うのが この質問でした。 宗教と信仰とを分けるという点で いくらか互いに違いがあるかも分かりません。
現代の日本人の常識、善悪は欧米の流れを強く受けています 質問者さんのごとき誠実な方は宗教は無用に感じるものなのでしょう。宗教なしでも充分善人としての振る舞いができるのです。しかしそれは無宗教であってもすでに古き日本の慣習、そして欧米のキリスト教の教えが体に染み込んでいるかと思われます。無宗教の時代は弱肉強食でなんら問題はなかったのではなく、平和、公平などを望んでたはずで、そこに神の教えという概念が出現したとおもいます 質問者さんに宗教はいらないです でも他人が必要とすることがあるので否定はいけません
お礼
のうまーく30tさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 オシエなるもの一般については たとえば中庸をおもんじるといったひとつのオシエがあります。 この事例は 考えることによってそのオシエをみづからの行動の指針とするというものです。 ところが 宗教のオシエという場合には 一方で行動方針としてのオシエは考えることをとおしてその精神を活かすのですが 他方でその宗教のオシエには 神が出て来るのです。つまり 信じるがふくまれています。しかも 何を血迷ったか 思考の問題としてのオシエを《信じる》といっためちゃくちゃな考えと振る舞いが打ち出されているのです。 これは あり得ません。慈悲をとうといものと思うべしというときには おそらく神とけっきょくはかかわるところのブッダというものがからんでいます。そのオシエを信じるということは あり得ません。それなのに その理念や観念を思い込むということを勧め これが信心であると騙っています。 このように分析することは・そしてそのための理論は いちどは明らかにして 宗教批判をしておかなくては 世の中の信仰論や宗教談義をめぐって 交通整理が出来なくなります。 常識は 間違っている場合があります。そのことは しっかりといつでも確認できるようにしておくことが 大事ではないでしょうか。 宗教を必要とする人や場合があるということですが それは 間違ったかたちにおいてであり そうでしかないということ。これも はっきりとさせておく必要があると考えます。 世の人は キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか わけの分からないことを言っています。神は信じる(そのまま 心に受け容れる)。オシエは ひとが考えるものです。
- a_hona
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信じるとは、物事を自分にとって肯定的に判じたい場合で、それ以上の真偽の追求が難しい場合、あるいはあえてしない場合に使うのです。 考えるとは、物事をはかり、思量することを言います。 ブラジュロンヌの信の用法を否定はしないが、それはかなり限定的で特殊な用法、しかも体験に基づいた、つまりは個人的なものであるから、普遍に通用するのは難しいと言っているのです。 しかしながら、思想としては面白く、幾分か参考になるところもあるでしょう。自分の思想を認めてもらい、討議ができて、何か不服があるのでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 だから かみ合わないようなのです。 《信じる》とは、 ★ 物事を自分にとって肯定的に判じたい場合で、それ以上の真偽の追求が難しい場合、あるいはあえてしない場合に使うのです。 《考える》とは、 ★ 物事をはかり、思量することを言います。 ☆ この定義によれば 《信じる》と《考える》とは いったいどう違うのでしょう? めちゃくちゃです。同じ内容ではないですか。 ★ 物事を自分にとって肯定的に判じたい場合 ☆ 《肯定的に》というのは すでに志向性や願望をふくみます。ですから ただ《考える》だけではありませんが そのような意志のあらわれも けっきょくは大きくは《思考の緑野》における経験的なものごとにかんするものです。つまり このような《場合》というのは 《信じる》とは何の関係もありません。 少なくとも 《信じる》という言葉を わざわざ《考える・のぞむ・問い求める等々》の行為を表わす《考える》を退けて用いる謂われはありません。つまり 《のぞみや願い》をふくむ場合にも ★ 物事をはかり、思量すること ☆ そのことをおこなっています。さて どう違うのでしょう? ★ それ(* =《物事を自分にとって肯定的に判じたい》こと)以上の真偽の追求が難しい場合 ☆ いいですか? 《真偽とその追究》は 経験合理性にもとづき人間が《考える》のです。 その《追究》が《難しい場合》というのは 《考える》に行き詰まってひとまづ打ち遣ることにしようと《考え そう判断する》のです。――いったいどこに《信じる》がありますか。 ★ あるいはあえて〔* 真偽の追究を〕しない場合 ☆ これは ほとんど同じです。《追究》が行き詰まるほどにはまだむつかしいとも思われないけれども 途中で中断するといった意味合いのことです。つまり そう《考える》ことをおこなっているのです。――どこが《信じる》ですか? 中断したり追究を諦めたりしたから あとは初めの望みや願いにもとづき物事について肯定的にあれかしと《信じる》と言いたいのでしょうか? これは 文学的なアヤの表現でなければ そういう《推測》のことを言います。つまり《考える》ことに属します。 そして 根拠がないのに 経験的な世界において だいたい自分にとってものごとがうまく行くであろうと《推測し 思う》のは 《考える》ことの中途半端であることを示しています。ですが これも《負の 考える》です。 《根拠がないのに》ということで 《信じる》という言葉の定義に触れるならば――その場合は《無根拠》においてナゾの何ものかを受け容れることを言うのですが―― この場合の《根拠がない》というのは じつは人間には分からないのです。 考えるを途中でやめるのは 《根拠があるかも知れない》場合です。《無いかも知れない》のですが もし考えるにとって《根拠がない》という場合には その無根拠であることが考えて分かったばあいに言うのです。 こうです。 ○ 《非知》とは何か ~~~~~~~~~~~~ 経験的なものごと 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから 不可知のばあいの無根拠と 非経験の場にかんする《無根拠》とは はっきりと別です。 〔π の無限〔につづくが その数量は全体として有限〕と非経験の無限(二で割っても三で割っても商は やはり無限である)とは あきらかに別です〕。 非経験の場――つまり そのナゾの何ものかというのは 神のことです――についてのみ 《信じる》という言葉を用います。なぜなら すでにそこでは《考える》とはいっさい関係しないからです。 〔ややこしくなりますが げんみつに言いますと 《信じた》そのあと その非思考の庭なる動態やその対象である神について ああだこうだと人間の浅知恵で じつは《考える》ことをおこなったりします。神学であったり あるいは要するに信仰ということにかんして 少しでも説明しようとすることの現われです。つまり 《補助線》の問題です〕。 不可知のばあいは まだ《考える》ことをおこなっています。ひょっとすると さらになお考えて分かるようになるかも知れないと考えたりもします。 そのものごとが《知り得ないと知り得た》なら 《不可知》という分類になります。 《知り得ないとも 知り得るとも 知り得ない》場合は――むしろそう人間が想定するのですが―― 《非知》としての無根拠であり これにかんしては・つまり《非経験の場》と《われ》との関係としては 《信じる》という言葉で表わすことになるのです。信じた結果 わが心に《非思考の庭》が成る。こういう寸法です。 非思考の庭は 《考える》とは何の関係もありません。 ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これが 神と信仰および〔信仰の偽造物なる〕宗教にかんする一般理論です。 これが 《信じる》という言葉の普遍的な定義です。 〔言葉はつねに比喩としての用法を持ちます。表現のアヤを追い求めたりします。《物事をはかり、思量》したあと その結論の内容について そうあって欲しいと思えば 一般には 《のぞむ・願う》と表わすのですが さらに強めの用法として 《信じる》という言葉をもここに比喩的用法として 用いるのです。これは これが 特殊なのです。しかも 哲学の理論とは一たん離れた文学的な用法であるものです〕。 ★ 自分の思想を認めてもらい、討議ができて、何か不服があるのでしょうか? ☆ むろん利己的な自己満足をともないますが それでも〔気持ちとしては〕ひとえに 復興のためです。ルネサンスが目的です。 定義がしっかりしていなければ その理論の構築は 建築基準法違反になります。復興はかなわなくなるぢゃないですか。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
言葉には心が宿っているので信じることができるのです。 質問者の言う信じる、は、非思考の庭という空間を広げてこころを明るくするかもしれないが、質問者風に言うならば、それだけのこと、閉塞感から逃れるための場所ということにならないだろうか。
お礼
もしそこまで言うのなら 《信じる》を定義してください。 《考える》とどう違うのか。ここに焦点を当てて説明してください。 そこから話はかみ合います。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 >「異端は 措いておきましょう。 また 人権は これも措いておきましょう。」 突然!!、訊いた事の無かった、しわがれ声のようです。 (へ、1000兆、借金がある)
お礼
ふつうの議論の進め方であると考えます。 ご回答をありがとうございました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、kurinalでございます。 >「非経験の場なる神を信じるというと それは 異端であると言われる。そういう問題です。 この異端視は まるでぎゃくである。という質疑応答です。」 すなわち、これはですね。 「ガリレオ・ガリレイ以下(流)、無問題」という、 ま、哲学的には、「異端だ」という、その手法、そっちのほうが「問題」ですか。
お礼
くりなるさん よく分かりません。まづは ご回答をありがとうございます。 異端は 措いておきましょう。 また 人権は これも措いておきましょう。 問題は 一つひとつの命題を検証することのみです。 それが 問いでもあります。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、どうも。 >「既成の宗教の側から むしろいますでに常識に反することとして・その意味では この宗教観は 異端とされています。そう見なされていることを 回答者の幾人かからは 示されています。 この異端視を無くすこと。これのみが 目的です。」 いやはや。「信教の自由」の限界、即ち、他者の人権を侵害しないでね、 ということで、※「お願い」しておくべきでしょうか。 ※(「お願い」というよりは、むしろ「忠告」)
お礼
★ いやはや。「信教の自由」の限界、即ち、他者の人権を侵害しないでね、 ☆ とこちらが言わなければならないことを 回答者の人たちから わたしが言われているという意味です。 ただいまの世間の常識では あたかも《意味のある概念としての言葉 つまりは 愛や慈悲なる理念》 これのほうが 神でありそれを人間は信じるというのだそうです。 したがって 非経験の場なる神を信じるというと それは 異端であると言われる。そういう問題です。 この異端視は まるでぎゃくである。という質疑応答です。 ご回答をありがとうございます。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
今回思ったことであるが、質問者の言う補助線というものこそが実は主線であり、神とも言うべきものを作り出しているのではないかと思う。 雲をつかむような話の、雲たる神を信じるのではなく、しっかりと形のある言葉を信じることによって、言葉に力が与えられて、信じた人を元気にするのではないだろうかと。 始めから神ありきではなく、一種、人の希求によって生まれたものが神ではないだろうか。 対象の不明瞭な、質問者の言う神を信じるというのは出来ることなのかもしれないが、それをしても対象の善なる事は証明できない。 一方で、対象があらかじめ善なるものであると言葉によって支持されているゆえに信じる事もできるのではないか。 質問者の中で、後付けとされている一連の言葉の群、善や愛などと言ったものの方こそが、主たるものである気がする。
お礼
★ しっかりと形のある言葉を信じることによって ☆ 一体全体 こんなことが出来ると どうして言えますか。言葉を信じる たとえば神は愛であると言いますから この愛にしろ慈悲にしろ このような言葉を信じるということが どうして人間に出来ますか? まづは ご回答をありがとうございます。 前回に この信じるを文学的なあやを出すために使うことはあると言いましたが そのような例外的用法のほかに どんな《信じる》がありますか? すべて 言葉はそしてオシエも 考えるのです。 考えて その結果その内容はよいと判断したなら その言葉をあたかも文学的な表現としては――つまり哲学としての推論にもとづく思考からは離れて――信じると言って その《よさを噛みしめており よさを大いにとうとぶのだ》という強めの意味合いを出しているだけです。すべては 《思考の緑野》という領域の問題です。 ★ 言葉に力が与えられて、信じた人を元気にするのではないだろうかと。 ☆ そのように概念や思想内容に感銘を受けて しばらくは元気が出ることは 経験上あり得ます。それだけのことだと言っています。 なぜ一時的な元気でしかないか? それは その信じるが・つまり信じるの対象が 経験的な概念や事物でしかないからです。 ★ 始めから神ありきではなく、一種、人の希求によって生まれたものが神ではないだろうか。 ☆ 愛や慈悲やの言葉をそしてその概念内容を――つまり 補助線を――神としてしまっている。人間のつくった神であるからには 元気の出るのは 一時的なものに限られます。人間の存在が 移ろいゆかざるを得ない・限りあるものだからです。 思考や想像の産物を神としている。これは 精神錯乱でないなら 世に精神の混乱はまるで無くなります。 ★ 対象の不明瞭な、質問者の言う神を信じるというのは出来ることなのかもしれないが、それをしても対象の善なる事は証明できない。 ☆ 出来るわけがありません。《思考に非ず》というのですから 善だの悪だのという判定は いっさいしませんし ありません。 だから ★ 一方で、対象があらかじめ善なるものであると言葉によって支持されているゆえに信じる事もできるのではないか。 ☆ これを 思考や想像の産物としての神であると言っています。いやしくも人間が考えることを神にすることが出来るのなら そこらじゅうに神がうようよいて 町を歩いてもいることでしょうよ。 ★ 質問者の中で、後付けとされている一連の言葉の群、善や愛などと言ったものの方こそが、主たるものである気がする。 ☆ 経験事象については――因果の関係や有る無しや善悪や真偽やとしてのものごとについては―― 人間が理性やときには感性で考えることを成す。考えるということは それなりに判断をともなうことがある。認識だけではなく判断をもともなうなら 人間は分かったという部分が大きくなる。――こう言っているだけのことです。 そういう判断力に頼ることは さらにそこから信念や信条としてその理念などを奉ずることとしてあり得ます。それだけのことです。 理性の光 あるいは感性のかがやき これを世にもたらすことさえがあり得ます。そして それだけのことです。 人間の心の奥なる闇の夜に光を差してこれを あかるい昼に転換するのは 思考や理念の光ではなく 非思考のひかりである。こういう見解です。《信じる》というなら こういう結論に落ち着きます。 宗教が 《信じる》とかあるいは《神》とかの言葉を出さずにいるならば それは 理性の光と感性のかがやきの問題ですから 何も物言いは出ません。 経験的なものごとについての概念や理念を《神》としたりそれを《信じる》というのは よほど精神の錯乱が 蔓延している。こう指摘します。
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お礼
おこたえします。――おっと まづは ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 一つ質問なのですが、神は非経験であるにもかかわらず、信仰を通じてそれを知る事ができる?というのは矛盾してませんか? 信仰と言う体験、経験の場にわずかでも神が顔を出すならば、それは非経験とは言えないのでは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《非思考の庭がわが心に成る》いきさつを説明します。 (あ) 神とはなんぢゃい? と いぶかったり うたがったりする。 (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると これは想定として 定義づける。 (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。 (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。 (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成ります。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼びます。 ☆ したがって 《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうなのですが―― 精確ではありません。 (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことです。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは 単なるカミにせよです。 (き) あとは 人間という存在の社会性――生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来ます。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来ます。 (く) あくまでおのれの心の中で・おのが主観の内において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っています。そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいコトです。 (け) しかも つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。 (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。 (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・ ☆ 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来ている。不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのでしょうか。 (し) この経験世界に 神は介入するか? (す) 分かるわけがありません。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれるでしょうね。それを共同化することは 出来ません。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときです。 (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為であるという・人間の特殊な現実です。 ○ 真理と事実と真実 ~~~~~~ 普遍真理(非経験)――信じる 世界事実(経験)――考える 主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ また、非経験における謎の何者かを神と想定されているようですが、非経験でしかも謎であるのに、そこに存在者としての神を想定することなどできるのでしょうか。想定した時点で、それは思考の緑野に属し、ブラジュロンヌの言う信仰とは言えなくなるのではないでしょうか。 ☆ 《存在者》だとは 神を初めに想定したり定義したりするのではありません。 (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? です。なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからです。 (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性としての事実も 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れません。 (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言いましたが 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないでしょうか。 (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行きます。 《わたしはある》 それがわたしである。 こういう説明もあります。これが 神のことだというわけです。つまり 存在として受け留めた表現例だと思います。 (て) はじめの想定も そこで無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべておっしゃるように思考の緑野における人間のしわざです。いちおう 区分がなされており この思考のこころみは それとして限界があるということも分かっています。 (と) ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。 (な) つまり この不届き者が 組織宗教です。すでに信仰ではなくなっています。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあります。その内実は ムレタガリ症候群でしょうか。 ★ ブラジュロンヌの信仰を、私なりに解釈するなら、心の解放ということになるが、どういうわけでそこにそこに神が関与してくるのか、よくわかりません。 ☆ 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もありません。 (に) それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるのでしょうね。 (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。 (ね) 《真理》も 説明書きのシルシです。究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのですから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線です。ですから ★ 真理に依拠することで心を解放するというのなら理解できるが、神という名称は、あたかもそこに何者かが存在しているという印象を与えてしまうと思うが、それについてはどう考えているのですか? ☆ というとき すべては シルシですから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばないわけです。 (の) 真理だから それに依拠してよいとか 神だからそれはうるさい存在であると感じるとか あるかも知れませんが それは 問題としません。あやまった習慣から来ているものでしょう。 (は) ひとつの見方として すべては 人間の持ち使っているコトバの問題であるとも見られるかも知れません。 (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界です。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ねる。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。と捉えた限りでは このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられて来る。 (ふ) ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられる。もともとの心に立ち帰る――》という主題にも行き着く。のでしょうか。
補足
お礼欄からのつづきです。 (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのでしょう。 (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。 (ま) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。 (み) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。 (む) これが 神(宇宙なるナゾの非経験の場)および信仰(わが心なる非思考の庭)ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論であると見ます。 (め) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば―― 世界もめざめるでしょう。 (も) これが わたしのエゴです。いつわらざるコンタンです。