信じないとは非思考の庭にて信じないと信じることだ
- 信じないとは非思考の庭にて信じないと信じることだ
- 信仰を思考に代えた宗教は、不要な思考や想像を排除している
- さまざまな宗教の形態は異なるが、共通して非思考の信仰を持っている
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信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ
神は 《非知》である。 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ ↓ ↓ ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。 オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。 《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく: A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。 すなわち中で 《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく 《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。 以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 すこし調べてみたのですが、 《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。 ──────────── ただ、この<非-知>がやっかいで、バタイユによると理性ではわかり得ない領域をさしており、ある究極の状態であるということなのである。さらにバタイユは<非-知>を説明不能の状態でありながらも、それを伝えるため言葉で語っているため二重の難解さが発生しているのです。 http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/1e21ffdf201798abcbf38cf64c862395 ──────────── 神秘主義でいうところの《神秘体験》の場を非経験の庭ととらえれば、 おそらく、 bragelonneさんのものと同じ構図になるのでしょう。 神秘主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9 仏教などですと、 《悟り》という言葉を使うとすこし問題がある───使い古される過程において、いろいろな不純物、夾雑物、解釈がはいっている。特に問題なのは、《禅》の怪しげな《悟り》、ナマザトリ!!───ので、 この境地、世界(?)、領域を《あのくたらさんみゃくさんぼだい・anuttara-samyak-sambodhi》と呼んだ。 これは、肉体を有する、その意味において有限な人間の到達可能な、最終的な《神(?)領域》ということになるんでしょう。 そして、 《anuttara》は、けっして、仏教の専売特許ではなく、 ジャイナ教では、《神さま領域・class of gods》を意味します。 そして、これがいかなるものであるか答えることができない・《anuttara》の領域です。 これを言葉にしたら、言葉で表現したら、その時点でウソになってしまう世界、領域・・・。 ──────────── anuttara: mfn. chief , principal ; best , excellent ; without a reply , unable to answer , silent ; fixed , firm ; low , inferior , base ; south , southern ; (%{am}) n. a reply which is coherent or evasive and therefore held to be no answer ; (%{As}) m. pl. a class of gods among the Jainas. http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/cgi-bin/tamil/recherche ──────────── ほいで、 仏教の悲劇は、 インドの《ダルマ・dharma》という超多義語を使わざるを得なかったところあるんでげしょ。 《dharma》という言葉は、現象、存在、オシエ、道徳、法律、真理などなど、なんでも意味しますので。 ───大乗は、これを逆手にとった(笑い)─── 《dharma》のオシエ、道徳、戒律などが強調され、前面に出れば、《Theravada・テーラヴァーダ》になる。戒律主義になる。 現象や存在が前面に出れば、《あびだるま・abhidharma》哲学になってしまう。 歪んでしまう。 律、論、経などは、あくまで《anuttara》に至るための下準備に過ぎないんですがね~。 こんなことを言うと怒られてしまうかもしれませんが、 基本、変わらないんですよ、 仏教とバラモン・ヒンズー教の《ヨーガ学派》。 ほとんど同じ。 最後の一線、《anuttara》の領域のとらえ方、表現が違うだけ(笑い)。 そして、 ブディストの皆さんは、 「《ヨーガ学派》の説くヨーガでいたることのできる最高の境地、心的状態は《無想定》だ。俺らには、その《無想定》の上の究極のヨーガ《滅尽定》がある。だから、仏教の方が偉いんだ」 とおっしゃいます。 《信(仰)・zraddA》には、beliefやtrust、faithとかいろいろな意味がありますけれども、 結局は、ヴァスバンドゥーのいう《こころの清らかさ》になるんでしょう。《こころの明け》や《こころの空(あ)け》と呼んでもいいでしょうね。 ここに帰着する、もしくは、ここに源を発している、ということになる。 これを(聖)霊のハタラキと呼ぶか、如来蔵のハタラキと呼ぶか、はたまた、梵に抱かれようとするアートマンの欲求───欲求はまずいか、ならば、希求としておこう───と呼ぶか、 それはおそらく表現の違い。 そして、わたしはこれを《自性清浄心》と呼びます。 ☆☆☆☆☆☆ ん~、 ~~~~~~ D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 ~~~~~~ とある《聖霊》のとらえ方が違うんだよな~。 わたしは、聖霊を人間側の方に持ってきちゃうんで。 《もののあはれ》は、感性や情的な世界なので、 《とりあえず・ひとまず理性主義をとりましょう》の私の立場とは、相容れないです(ポリポリ)。
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- kurinal
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ロビンソン・クルーソーは、、、フライデーと出会ったのは、判りませんが、 28年だったんですか。
お礼
あぁ 期間は もう覚えていません。 たしか土地の人間と出会って 金曜日だったので フライデーと名づけた。・・・ たしか 家もつくったりしたのだったと。・・・ ダンケ。
- kurinal
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>「その映画は まだ若い人のようですね。四年をがんばったということですね。 その男には 神さんは 必要なかったですか?」 砂浜に「HELP!」と大書したり、 「帆」の代わりになるようなものを見つけて、島を脱出したり、 していました。 ・・・祈ったかどうかまでは、判りません。 「(元)カノジョ」は、居たんですけどね。 >「ロビンソン・クルーソー」 了解です。
お礼
そうですか。四年は けっこう長いですよね。 助かってよかった。 あぁ。ロビンソンのようなイメージでいいのですね。 分かりました。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんにちは。 最近、面白い映画を見たんですよ。 「遭難して、たった一人、無人島に流れ着いた主人公が、 1個の「バレーボール」を「他者」に見立てて、 過ごして行く事で、なんとか助かる」 勿論?、洋画です。 ・・・面白くないことがあったら、 その(唯一無二の)バレーボールも踏んだり蹴ったりです。 遭難期間は4年ということでしたが、 主人公にとって、そのバレーボールは、 かけがえのないものとなったようです。
お礼
そんな映画 ありましたか。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ロビンソン・クルーソーでしょうか。 ロビンソンは 祖国で生活していたとおりに毎日の予定や計画を立て きちんと過ごして行きます。 のちには フライデーなる仲間も出来ましたしね。 その映画は まだ若い人のようですね。四年をがんばったということですね。 その男には 神さんは 必要なかったですか?
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1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。 2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象 可知 既知 未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの) 不可知(知り得ないと証明し得たものごと) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。 【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心 ----------------------- 【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス 4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。
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哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
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- 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰
1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象 可知 既知(間違いだったと分かることもある) 未知(いづれ既知になるであろうと推察されている) 不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す) 3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。 【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心 ------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス 4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ 5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。 ――これが 一般絶対性である。 6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。 7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。 9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。 ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。
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- 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?
霊のお話です。 神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。 信仰は 非思考である。 ゆえに: ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。 ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。 《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕 参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。 1. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン主宰神 我:アートマン霊我 2. ゴータマ・ブッダ:無無一如 無:シューナター(空)=ゼロ 無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静) 3. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) 4. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 5. (プラトン?):霊霊一如 霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂) 霊:《われ》 6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る =きよらかなおそれ =聖なる甘え =わび・さび こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう?
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- 老子は 無神論〔なる信仰〕か?
福永光司が まとめとして 書いています。 ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~ (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。 (福永光司:中国宗教思想史 『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。 (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。 (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如 道:無限性:無為自然 人:有限性:人為不自然〔を超えて〕 (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。 (5) そのとき問題は ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。 (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。 G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如 道:無限性:無為自然 人:有限性:人為不自然〔を超えて〕 (7) 言いかえると あと一つ問題なのは ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。 とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。 以上を問います。 (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。 (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。 (10) なお親鸞の場合には C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。 ここまでを問います。
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こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。 ☆ それは知りませんでした。 わたしは 《不可知とは何か》と問うたとき 不可知とは いかに《知り得ない》ことだとしても それは知り得ないと証明できたという場合だというのですから けっきょく経験事象なのだと分かりました。(そういう数学の定理か何かがあるのでしょうか?) それで かつて吉本隆明が 親鸞についての評論で《非知》という言葉を使っていたことを思い出し 《非経験の場》の概念的な説明に用いることとしました。 吉本は――もう詳しいことは覚えていませんが―― 向こう岸つまり彼岸にわたったときには それは《非知》であろうと言っていたようなどうだったかのような。 非経験の《非》を 非知でそろえた。といったところです。 あぁ ○ 「非-知 閉じざる思考」 ☆ という表題の本があるのですか。バタイユは読んでいませんが けっこうほかの本の中でバタイユについての紹介文や批評文を目にしています。しかし 思想の中身やこの著書については 知りませんでした。 それで 最近次のような用語に出遭いました。 ○ その掴み不可能性自体が掴めない ( incomprehensibilis incomprehensibilitas ) というものです。 ▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~ 《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。 それは理解不可能性自体が把握できないことである。 人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。 (山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997 pp.105-106 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただしこのくだりでは 出典を明かしていません。西欧の神学か哲学に出て来ているのかも知れません。 とにかく 《不可知 agnosticism 》は 神についての説明には マチガイです。 バタイユに難癖をつけるならば ▽ ある究極の状態 ☆ という表現は おおよそ《経験世界における究極》を言うのが ふつうです。ので 明解ではないと言わねばならないでしょうね。 △ (ヰキぺ:神秘主義) ~~~~~~~~~~~~~~ (しんぴしゅぎ、英: mysticism)とは、 絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 確かに《非思考の庭》におけるヒラメキのことだとすれば 重なるとは思います。 ただし △ 最高実在、宇宙の究極的根拠 ☆ という表現は 不明瞭だとは考えます。 (あ) 《最高・究極》という概念は 経験世界における程度問題にかかわっている。ゆえに ふさわしくない。 (い) 《根拠》という表現も まだ舌足らずである。なぜなら 《非知》は 人間にとって《根拠であるか無いかが 分からない》ものだから。《非根拠》というのが ふさわしい。もっとも わたしは ふつうかんたんに《無根拠》と言っています。 そのつてで さとりをめぐる説明では: ◇ 人間の到達可能な、最終的な《神(?)領域》 ☆ というのは まさに実現しうるさとりを言うのかも知れませんが 《神》と人間とのかかわりについては まだ明らかにしていないと言うべきでしょうね。 ◇ これがいかなるものであるか答えることができない・《anuttara》の領域 ☆ これは これも 神についての説明には まだ足りないと考えます。さとりについてなら まだしもです。 非知なる神のナゾは じつは・じつに人間にも《それが いかなるものであるかを答えることができてしまい得る》と言わねばならないからです。 ただしその《神が分かった》という場合も それはあくまでその人の主観内部での本人だけの体験であるという条件のもとにあります。決して神体験は ほかの人と共有することは出来ない。 仮りに互いにその体験を説明しあって 互いに理解できてそれは同じ内容であると認め合ったとした場合 それでもその《神の共有》は あくまで言葉による思考の上での共有でしかありません。つまり 神が 思考によって把握できたという結果になってしまいます。《分かるか分からないかが分からないナゾ》であり続けるのでなければ 神ではありません。 ○ anuttara: きわめての上( ‐uttara )無き( anu- ) だと思いましたが。 ですから ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ブディストの皆さんは、 「《ヨーガ学派》の説くヨーガでいたることのできる最高の境地、心的状態は《無想定》だ。俺らには、その《無想定》の上の究極のヨーガ《滅尽定》がある。だから、仏教の方が偉いんだ」 とおっしゃいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というのは 程度問題の世界だなぁと思われます。到るべきさとりの状態としてなら それでよいのかも知れません。 ですが 境地が上か下かをあらそうよりは 現実の問題を みなで知恵を出し合って解決するほうが 大事です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《信(仰)・zraddA》には、beliefやtrust、faithとかいろいろな意味がありますけれども、 結局は、ヴァスバンドゥーのいう《こころの清らかさ》になるんでしょう。《こころの明け》や《こころの空(あ)け》と呼んでもいいでしょうね。 ここに帰着する、もしくは、ここに源を発している、ということになる。 これを(聖)霊のハタラキと呼ぶか、如来蔵のハタラキと呼ぶか、はたまた、梵に抱かれようとするアートマンの欲求───欲求はまずいか、ならば、希求としておこう───と呼ぶか、 それはおそらく表現の違い。 そして、わたしはこれを《自性清浄心》と呼びます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは そういうことなのでしょうね。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とある《聖霊》のとらえ方が違うんだよな~。 わたしは、聖霊を人間側の方に持ってきちゃうんで。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《一如》となるのですから。・・・ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《もののあはれ》は、感性や情的な世界なので、 《とりあえず・ひとまず理性主義をとりましょう》の私の立場とは、相容れないです(ポリポリ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういうことでしょうね。表現している内容としては。 ここは 《かみ》という言葉を用いているかぎりで ほかの信仰形態との重なるところを捉えて 合わせ技のごとく この《感性の世界》を突き抜けたところの《非思考の庭》を言おうとしたものです。無理にでも突き抜けて行こうとしたものです。 じつは イスラームがありません。誰かがツッコミを入れるかと思って放っておいてあります。 それは 文字通りわたしには《分からない》からです。生活感覚として分からない。 特に具体的には 例のムハンマドの位置づけにかかわります。あたかも《梵我一如》の梵と我とのあいだに この唯一の預言者が割って入っていはしまいか? 言いかえると クルアーンが・そのオシエが この梵我一如なる《非思考の庭》に挟まって来ていないか? 思考ないし観念が 信仰の中に信念としてのごとく混ざっていないか? という疑問です。