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神についての説明とは?
- 神についての説明は、現実の問題に対して取り組む際に必要な情報です。
- 神とは、個々人の主観的な内面に存在する関係です。
- 神に関する説明の一例として、物体や魂の本性の変化に関する考え方があります。
神について
1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで: 2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。 2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。 3. たとえば次のような説明があります。 ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~ 物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。 また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。 さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。 (『書簡集』18・2 390年頃) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。 ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。 5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。 5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。 5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。 6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。
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今晩は。補足で、既に一致した定義以外について一寸。 直接知’は信仰と同等、という趣旨が以下に記されてるようです。しかしヘーゲルに於いては、直接知と媒介知の弁証法的止揚によって、絶対知に到達するような事も記されており、私には判断つきません。 「ヘーゲルと神の存在証明」これはPDFなのでそれなりの専門家の記述ではあるでしょう。 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf 一つ提案ですが、曖昧さをなるべく避ける為には、哲学概念は原語も記した方が却って判り易くなります。明治以降の訳語によって凄く混乱したから。哲学科では当然原語に戻して理解します。 不可知’の前回のご説明は、私は受け入れられます。 特に数学ではそうですね。例えば、結晶の成長の法則を記述する数式は、3角や4角では出来ても5重対称性のものは記述できない。自然界には見付かったけど、原理が解らない、アルゴリズムが原理的に書けないのです。それは不可知と言えるでしょう。 超越数’(円周率や自然対数の底e等)をWikiでみると、超越数かどうか解らないモノが有るそうで、これは「解るか解らないか」も判らないモノでしょうか?まるで非知’みたいです。いつか判明するかも?と言う意味では未知とも言えそう、。私はこれも不可知として良いとは思う。 しかし、数学と哲学は事情が違うようです。 不可知論’で検索の最初に出てるWikiやコトバンクでは、Agnosticismの訳語であり、人間の経験を越えた問題・事象としてますね。すると不可知’も<経験事象>ではない事になります。 主様が仰る「可知か不可知の判断自体は経験事象」という事になる。 私自身は「神は非知」とするのには賛成できますが、この御質問で問われてるのは{共通認識}ですので私達の意見が通るかは不明です。拘ってはいけないと思う。もしご不満が御ありでしたら、Wikiの記述をもっと厳密に書き換える事、お勧めします。書き足すのは容易なようですよ。 神の御定義は凡そ良いと賛同しました。形相’や質量'存在’は、神そのものでは無いですよ、神の属性であり、本質だとする学者も居る。 主様が<信仰が思考や感性に先行する>とするのは尊重します。でも普通、哲学はその逆の方向・方法採りますね、思考し記述するのが役割ですから。 演繹より帰納法的やり方です。それが共通だとお考え下さい。でも実はパスカル・カント・ヘーゲル・カントール・ゲーデル、、と、深い信仰が先行してるんですね、皆クリスチャンです。ヘーゲルが‘精神ガイストと云ったのは、プネウマも霊魂’も含意させようとしてたと思いますよ。カントの理性に対抗してですから。 魂Soul霊魂、あるかないか。アウグスティヌスが言う「魂=実体」、これはうっちゃれませんよ。 精霊Puneumtologyは西洋では重要です。キリスト教では<神=精霊>となり、魂の事も含めて、仰るように「非思考の庭」の領域の事と考えられてますから。神’と同等、感覚でも理性の対象でも無い、と捉えられてますね。 インドのブラフマン―アートマン>は東アジアでは<魂―魄>、エジプトでは<バーとカー>でしたか。何れも区別してますね。 経絡というのは、近代西洋医学で解剖学的には存在認められてませんね。 しかし針灸や気功法を体験すると明らかに体感=感覚感性的な事象です。陽気(インドではプラーナ)が流れていて世界の玄気と繋がっている。東洋では不可知とも言えない。 解剖しても器官が無ければ、有るとも無いとも判りません。これは近代西洋人には非知’と言えるのですか? かように土地や時代によって概念は変るので、整理するのは容易ではないです、主様の御意見は貴重ですが一般に通るとは限りません事、お心得下さい。 さあそこで、お礼文や他での{重力社会論}でしたか? 面白く興味深く拝読しました。よくは判りませんので少し連想したことを、。 アマテラス―スサノオ>に関連して以下は御存知でしょうか、 {祭司―戦士―平民}という、デュメジルの3機能説を思い起しました。 インド神話のミトラ・ヴァルナ神から採られたようです。 似た事を考える人はいらっしゃるんですね。 これは公民と市民の二元にプラスして、遊牧・戦士・狩猟民の系譜、マツロワヌ者、漂泊民、日本だと山の民ですか。その類を導入すると重層的に分析可能になると云うことらしい。 するとどうでしょう? サルタヒコ神などを導入されては如何でしょうか? 今の処は良く理解できませんが、。又、これは御質問とは少し離れた事でした。 失礼致しました。 では、これにて。
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- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。bragelonne様、 お手間取らせては申し訳ありませんので、先ずおことわりして置きます。 私には「神の存在証明」は無理です、そろそろ降ります。これとは別に御質問立てたら如何でしょう。 カントによる四種類の存在証明の否定で、私には終りで興味もそれ程無くなりました、スミマセン。 そうなると残るは<信仰>・倫理学の問題に移行してます。 結局、旧約聖書の神の定義「在りて在るもの」に戻ると思います。 在る>が定義で前提なので、「在る」ことの証明は不能という事。 同じく<無限>などの否定形も「在る」事を前提にしてると思う。 そういう西欧の存在論は、Be動詞として語られる。 フランス語で存在はetre=be動詞。 この存在論を現代哲学は批判した。 ドゥルーズは、BeではなくBecome=Devenir成ること、の生成論を打ち立てようとしました。 私もそちらの方が現代に即してると考えます。 ~ ~ ~ 市民社会のお話;大政奉還というのは、君主制ではなく、ムラの連合に返す。という事ですか? それなら世界の趨勢でもあると思います。未だ視界にそんなに浮上してるわけでは無いようですが。 Glocal―グローカルというやつでしょう。 それには東欧で昔も機能した地域通過などの技術も必要らしいですね。 でもインターな世界の村同士が直接繋がった取引・経済は既に始まってますね。 若手でパソコン知識のある生産者は、産地直送をネット通販で広げてます。 その場合、インター村ネット技術は不可欠でしょう。でもそれが今後の趨勢です。 又それをコーディネイトし繋げる、プロデューサーのような人も不可欠、少額ネット融資を世界市民から集めるサイトも増えました。大手銀行は役に立たないのでしょう。 そんな繋げる役:交通の人種が「サルタヒコ」類ではないでしょうか? 定住者ではない!という事です。 我々好むと好まざるとに係らず、誰しもがネットの共有財産の上で活動もしてます、今此処もそうでしょう? 皆知らずしらずにインターコミュニズムのような物事に乗っかってるようですよ。 興味深いご思考です。ではまた何処かで。失礼しました。
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あっ お世話さまです。ご回答をありがとうございます。 お気づかいいただいて。じつは なかなか進みませんね。《神の存在証明》の本論。 いったいこんな《形而上学》なことを議論していたんかいなと思うほど。何度も読み返さないと 理解がむつかしいですね。 ほとんどそんなイデアの世界と言いますか 《観念の大伽藍》ですか という感じもして来ますし でも張り切ってここまでカントもヘーゲルも考えたのかと思うと こちらもがんばって読んでいますが。・・・ 神に いわゆる純粋意識においてせまろうというのは 昔読んでも分からなかったクリステワの議論を思い出しました。精神の分析なのでしょうか そのまま経験事象を超えようかという領域を切り拓いて行くような感じは どこかでおぼえたような記憶があります。 まだ途中ですが 存在の証明というよりは 存在にせまる。つまり あたかもゼロに限りなく近づくといった作業をしているかにも見られます。ゼロというよりは 《一》としたほうがよいのかも分かりません。 わたしの・神の定義は 決まっています。《非経験の場》であり それは 想定だということにあります。《非知》ですね。 考えるや感じるを超えた《信じる(つまりは そのナゾをそのまま受け容れる)》としてのそのナゾとの関係です。 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html ★ ドゥルーズ ☆ は 『アンチ・オイディプス』でエライ目に遭いましたので 知りません。読んでいません。 《わたしは ひとり気を狂わせた》とかいうくだりだけ覚えています。 もしわたしが正気だったら それはみなさんのためであり もし狂気だったら それは神のためです。 というパウロといくらかは似ていると思ったからです。 それで ★ BeではなくBecome=Devenir 成ること、の生成論 ☆ を残念ながら 知りません。あしからず。 * ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・ムラの連合に返す。という事ですか? それなら世界の趨勢でもあると思います。未だ視界にそんなに浮上してるわけでは無いようですが。 Glocal―グローカルというやつでしょう。 それには東欧で昔も機能した地域通過などの技術も必要らしいですね。 でもインターな世界の村同士が直接繋がった取引・経済は既に始まってますね。 若手でパソコン知識のある生産者は、産地直送をネット通販で広げてます。 その場合、インター村ネット技術は不可欠でしょう。でもそれが今後の趨勢です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。わたしは 地域主権と言ったりするとき まだまだ 権力関係が大きくたちはだかると思っていましたので ヱブの方面などのことには注意が行かなかったみたいです。 ★ 我々好むと好まざるとに係らず、誰しもがネットの共有財産の上で活動もしてます、今此処もそうでしょう? 皆知らずしらずにインターコミュニズムのような物事に乗っかってるようですよ。 ☆ そうですか。《趨勢》と言ってよいのですね。 ★ サルタヒコ ☆ は でしたら 昔ノマドというようなことを言っていましたが その筋でしょうかね。 ★ インタコミュニズム ☆ これで いいんですか。つまり コミュニズムとの混同は起こらないということですね。それはそれは。 そうですね。このあたりで 一たんお開きとしましょう。 お疲れさまでした。 かなりすすめ得たと考えます。ありがとうございました。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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こんばんは。bragelonne 様 「神の存在証明」に関する御丁寧な説明ご苦労さまでした。批評は凡そ当たってると思います。 最初に申しましたように私は、ヘーゲルは殆ど知りません、申し訳御座いません。 それを出したのはやはり哲学では主流であったので無視は出来ないという事でした。私はむしろあまり評価はしてないのです。 ヘーゲル派の人が共通認識を提示してくれれば良いのですが、。 結局、普遍とされる『精神』=ガイストは、キリスト教の神の事であり、それが世界精神とされる処で既に怪しい。 ナポレオンが世界史のガイストを体現したという話ですね。 ヨーロッパ中心主義でしょう。 絶対的観念論の大伽藍。 幾分妄想にも見えます。 その後の「ヘーゲル読解入門」のコジェーブ」の影響を受けた、フランシス・フクヤマというのが、ネオコンの思想的バックボーンとなり、ブッシュの戦争を推し進めました。後に間違いを認め、撤回・転向したそうです。 ヘーゲルにも責任の一端有ると思いますね。 世界精神とやらは政治利用されやすい概念です。 お礼文にある、<あまりにも《神による経験世界への介入》といった側面を印象づけているかのよう、、>そう私も思います。「歴史の狡知」というのは在ると考えられますが、逆に理性が間違えると、勝手に神の精神=意向を解釈して、現実政治的な方針まで出してしまいがち。だからヘーゲル派はカントの理性批判に立ち戻るべきだと思いますね。 媒介知と直接知を統一するという志向性は評価しますが、やはり仰るように、神の認識にはどこかで「飛躍」せざるを得ない場面、<ヒラメキ>即ち信仰。そうだと思います。 様々な宗教体験はそうでしょう。 しかし哲学は、思惟でそれを把握する他ないのです。だから信仰を先行させずに、帰納的に理性から出発して近付いて行くという道を採らざるを得ない。 スピノザのように、「神の本質が個々の本質や自然界の動物などにも表れてる」というに留めれば良いものを、神=絶対精神が、個々人の精神で解るというのは、やはり良くない観念論ですね。 プラトンのイデア論のそれではなく、換骨奪胎されたものだと思います。 ・・・サルタヒコを挙げたのは、これがどちらにも組せず又どちらにも強力もする勢力、を表せるかもと考えてです。両者を繋ぎ、交通を齎す者。 これに戦士や海・山の民を代表させれるかは解りません。 でも、アマテラス公民に仕える者とは言い切れない。 戦士というのは公民側につくと、国軍・公け軍となり、<スサノオ市民>側につくと、義勇軍ボランテア・民兵シビリアンMilitiaとなる。 こちらの方が歴史的には古いですね。 常設の国軍はフランス革命軍以降ですから。 それまでは雇われ兵、ローマでも凡そそう。 もしかすると、スサノオの方が戦士であり、市民的ではないかも知れない、。其処は私わかりません。 しかし、二者・二元対立の図式モデルより、三者・三体問題の図式の方が、重層的に捉えられるという、歴史民族神話学の知恵が有ります。 そのかわり三元だと、理解は錯綜するけど、その方がホントの歴史に近付き易くなる、三すくみとか漁夫の利とかの組合せとか、。まあ単なるアイデアです、思いつきです、ご参考までに、。
お礼
まるく2ぼらんちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 お粗末でした。 ほかのわたしの質問もあって 《存在証明》の本論をまだ読み終えていません。これから読んでみようかと思います。 ヘーゲルは 読んだと言える思想家のうちに入っていましたが かなしいかな だいぶ昔の話になっています。哲学史をきちんとしっかり行きわたったかたちで読んでおられるようで じつは 少々どうなるだろうかとおそれていました。 社会思想から入って アウグスティヌス一本にしぼって読んだり考えたりしていました。 ヘーゲルは 歴史哲学は 明らかに ★ ヨーロッパ中心主義でしょう。 ☆ ですね。何を血迷ったかというくらいに。ほかの地域の人びとを野蛮・下等と見なしているようです。 そして ★ 絶対的観念論の大伽藍。 幾分妄想にも見えます。 ☆ ですか。クリスチアニズムがらみでは そうなるみたいですね。法の哲学には いろんな意味で考えさせられました。手ごたえがありました。 ★ 結局、普遍とされる『精神』=ガイストは、キリスト教の神の事であり、それが世界精神とされる処で既に怪しい。 ☆ これが 結論の少なくとも大きなひとつですね。 ★ サルタヒコを挙げたのは、これがどちらにも組せず又どちらにも強力もする勢力、を表せるかもと考えてです。両者を繋ぎ、交通を齎す者。 これに戦士や海・山の民を代表させれるかは解りません。 でも、アマテラス公民に仕える者とは言い切れない。 ☆ なるほど そうですか。わたしは 確かに《懐疑的に見るならば》というおそれは持っていましたが 言わば外交官ですね。 わたしが スサノヲとアマテラスとの二項〔のみ〕に分けたのは 単純です。国家が 市民圏と公民圏との二階建ての構造をしていると見るところからです。 《中二階》があるのではないかという声も聞いていますが 必ずしもうまく構成させえていません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、二者・二元対立の図式モデルより、三者・三体問題の図式の方が、重層的に捉えられるという、歴史民族神話学の知恵が有ります。 そのかわり三元だと、理解は錯綜するけど、その方がホントの歴史に近付き易くなる、三すくみとか漁夫の利とかの組合せとか、。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。いまの考え方としては 社会形態の――実際には国家という――形態に就いてみて スサノヲ市民の中からすでにメタ市民というべきもっぱらの公民を目指したアマテラス族が現われたこと。そしてかれらは その悲願(?)を実現した。と見るからには これら S 圏と A 圏との二階建てが基礎だと捉えています。 平屋建てから二階建てになったのだと。 したがって そのあとでは 社会的な役割に応じて しかるべき機能の位置づけや階層分化などをさらに組み込んで行けばよいのではないかと思います。これまでやって来ませんでしたが。 戦士は スサノヲ市民圏から直接出したという歴史もあったかと思います。 いまでは 軍隊は やはりアマテラス圏に所属するかたちになるかと思います。 なお この線では ゆくゆくは スサノヲ市民社会の主権制であるからには アマテラス圏は 《大政奉還》するようになると見通しています。 そしてムラ(市町村)とムラとの連携・さらには連合制としてのインタムライズムを インタナショナルなかたちで 形成して行くといった路線です。 神の存在証明にあたってみます。
補足
○ 西羽義夫:ヘーゲルと神の存在証明 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf (批評のつづき) §1 ▲ (p.50) ヘーゲルは神は優れて「精神」であるとする。「神は最高の感情ではなく,最高の思想である。この思想は表象の中に引き下げられるとしても,この表象の内実は思想の国に属する。」 ☆ 《思想》だとすれば 《精神》は 身と心との内の心である。悟性・理性であり あるいは《記憶‐知解‐意志》の行為能力である。 けれどもこの《精神》は ガイストであり どうも《霊》を言うと考えられる。単純にそう考えられる。 つまりは 存在証明で証明しうるという限りで 《精神》の領域においてだと考えられると同時に――《いと高き昂揚》としての精神のようであると同時に―― すでに身と心なる経験世界を超えたところの《非経験の場》を想定しつつ言っていると考えられる。 単純にそういうナゾなのだからという理由である。 §1‐2 ▼ (p.51) ~~~~~~~~~~~~~~~ 神は精神であるという命題は,差し当り,「神はただ自己自身を知っている限りにおいてのみ神である。神の自己知は更に人間における神の自己意識であり,神についての人間の知であって,この人間の知は神における人間の自知にまで進んで行く」という事態を含んでいる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 次のように区別されうる。 非経験の場としての霊:《神の自己知・神に自己意識》 経験事象としての精神:《人間における神の自己意識・神についての人間の知》 §1-3 ▲ (pp.70-71) ~~~~~~~~~~~~~ ヘーゲルにとって信仰とは, 「神は精神であるから,精神および真理の内で崇拝されねばならない」 という意味を持つのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 次のように言いかえ得るであろう。 ○ 神は霊である。これをそのまま真理=霊の内に捉えてわが心に受け容れる。と同時に もしその《神の霊 に対するわれのあり方》を多少とも言葉にし思考の領域で捉えようと思えば それとしての神学となる。 ☆ ちなみに 信仰とは 《崇拝》とは関係ない。(きよらかなおそれは ある)。 《非経験の場》としての――それが何であるか分からないナゾの霊として捉えたところの――神を そのままわが心に受け容れたとき成るのは 《身と心》とを超えたと想定される《非思考の庭》である。この庭の動態が 信仰である。そこからは ヒラメキが得られるはずである。 §2 ▲(pp.54-55) ~~~~~~~~~~~~~~ ヘーゲルによれば,この〔* 神の存在証明の仕方の〕数多性は,出発点とされる有限者(* すなわち人間)の多様な規定に基づくのである。 この多様な規定とは,例えば,宇宙論的証明における「世界の事物の偶然性」であり,自然神学的証明の「世界の事物の合目的的関係」であり,存在論的証明における,未だ主観的な「内容上無限たるべき神概念」である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことの意味するところは すでに《証明》の以前にその神の存在について 《経験世界を超えたところに 非経験の場を想定する》ということにほかならない。 §2-1 すなわち 《世界の事物の偶然や必然》を超えたところに――すなわちあらゆる因果関係からまったく自由な場として――《非経験の場》を想定したことになるはずである。 あるいは 世界の事物の《目的・意味》を問うたときに 《合目的的な関係》であろうがなかろうが ナゾとしての意味・意味としてのナゾをやはり想定したということを意味する。つまり その存在を証明する以前に 神をこの非経験の場なるナゾだと想定しているはずである。 同じくあるいは 経験世界の相対性・時間的であることの制約そして有限性をもけっきょく超えたところの或る種のチカラ(または意味)を想定したいという意図があるらしい。 つまりは ここから導かれると言っている《内容上無限たるべき神概念》も じつはすでに《有限なる経験世界を超えたところの場》として想定していたものである。 時空間の世界に対して 永遠なる非経験の場 有限の世界に対して 無限なる概念で捉えられるはずの場 相対世界に対して 絶対 などである。 §2-2 ということは そのようにすでに初めに人間の側から《非経験の場》として想定しておいた神を 存在証明するということは むしろ《分からない。 または 分かるか分からないかが 人間には 分からない》という答えを得るということにほかならない。 そしてそのおおいなる想定のもとで 派生する作業として神学がある。 精神の昂揚は 概念の問題として そのような神に近づくことは出来るか。といった課題を 西欧の人間は持った。こう解釈しなくては仕方がないと思われる。じつは どうでもよいことである。 形而上学が かたちづくられるかも知れないが だからと言って そのイデアの観念体系が どれほどの意味を持つかは 何とも分からない。決められない。或る人たちは それをきっかけとして 現実の哲学・思想を具体的に構築して行けるのだと言うかも知れないからである。 §3 ▲(p.55) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5.2 神の存在証明の分類。 存在証明は原理的には・・・幾種類も存在し得るが,ヘーゲルは,カントと同じく,2種類に大別する。 第一種は「存在から神の思想,即ち,より詳しく言えば,規定されだ存在から神の存在たる真実存在」へと至る証明であり, 第二種のものは「神の思想,即自的真理からこの真理の存在へ至る」証明である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《第一種》が ふつうの神学である。《第二種》は 基本的には ヒラメキのことである。ヒラメキ=インスピレーションを何とか言葉にして表わそうとしたその内容を言う。 §3-1 じっさいの作業では 両種が交ざっているかも知れない。そして 重ねて言えば これは言うところの存在証明ではなくて すでに想定したものについての――やはり実際に信仰をとおしての――説明になるものと考えられる。《無い神》についての信仰をも含むから けっきょく一般に哲学として 神学の体裁のもとにおこなわれるものと考えられる。 §3-2 ▲(p.55) 即ち,第一種の証明を有限的存在から神的概念の存在への移行,第二種の証明を概念からその概念の存在への移行と規定すれば,これらの移行はそれだけでは「一面性」を免れず,概念の全体を表現することはできない。真の証明は2種の証明の統一にある。 ☆ と批評している。わたしの推論は 《すでに初めに想定がなされているのだから 両種の〈証明〉は けっきょく互いに入り組んで来るものと思われる》である。 §3-3 ▲ (p.56) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・神の存在の道徳的証明に関して,ヘーゲルは,カントと同じく,この証明は神の存在を論証するのではなく,単に要請するものであるとする。 即ち,善そのものは自己を実現する力はないから,世界の究極目的を実現するために第三者が要求される。何故なら,善を行う人間は有限であり,人間自身の自然的傾向により左右されるからである。従って神の存在の要請は「主観的確実性」を伴うが,この確実性(確信)は主観的であるに留まり,単なる「信仰や当為」に過ぎないのである。この証明もの「主観的証明」の中に含まれよう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《要請》が出て来ている。これはおそらく《証明》が要請するのではなく すでに初めに経験世界から非経験の場を要請してしまっているのだと考えられる。そのあと 《存在証明》という名の神についての説明が展開される。 すなわち ▲ 即ち,善そのものは自己を実現する力はないから,世界の究極目的を実現するために第三者が要求される。 ☆ という作業がすでに初めに行なわれていて それが《非経験の場》の想定となって持たれていると。 神学も とうぜんのごとく 主観的な説明の域を出ない。 §4 その《第一種:神学》と《第二種:ヒラメキの読み解き》とに分類されけっきょくは統合されるべき――ここでは――三つの存在証明 すなわち《宇宙論的証明・自然神学的証明・存在論的証明》の具体的な吟味は もう必要ではないと考えられる。いづれも大きく《神についての・または神をわが心にその名として受け容れた信仰における神についての 主観的説明》 ここにすべて収められることになる。 証明できたからどうの できないからこうのといった問題は生じないという意味である。 想定とそして 受け容れとしての信仰 ここが出発点となっており その動態におさまったかたちでヒラメキも神学も 経験され表現されて行く。 * 《想定》とは 想定する以前にじんるいが《神》という言葉を持っているという単純な事態のことである。そういう言語のナラワシの追認が 想定である。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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お早う御座います。先ず最初に前回のお詫びと訂正です。 まちがいを指摘しなければなりません、私のです。 <完全な公理系もある。>でした。「ゲーデルの不完全性定理」で出てます。 不完全なのは<無矛盾で、自然数論を含む、帰納的に記述できる公理系>ですので、帰納的記述ができない系や矛盾を含む系には適用できない。 <矛盾も含むけど完全な公理系は有る。>という事でしょう。 しかし、 特定の形式的体系の下で、証明も否定の証明も不可能な命題があり、その「決定不能性」問題がある。 「神の存在証明」には、カントもヘーゲルも、放棄あるいは失敗したと考えられ、その決定不能性が関係してると思われます。 神の定義の公理系は、スピノザのが有名ですが、 ゲーデルが晩年に、ライプニッツの「神の存在証明」を定式化したそうです、でも公開しなかった。興味深いけど成功したかは不明。しかも神学ではなく論理学としてですから。 しかしこの定理と、ハイゼンベルクの不確定性原理の影響は、宗教哲学にも絶大で、それ以前とパラダイム変りましたね。 いわば論理としての「決定論的な神は死んだ」ようなものです。 そこで浮上し重要性増したのが仰るような「信」の問題系なのです。 さて本題です。この御質問で問われてるのは<共有>共通概念と採ってます。 それは質問者様や私の意見とは違う事もあるのを御了承下さい、私達の意見の方が正しい場合も有り得ます。 では前回で共通認識とした事以外でお答えします。 (あ)場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。>概ねこれで良いと申し上げました、私が示した事も<ほとんど変りない。>で結構です。だがその概念用語の違いが思想の違いになってる事もある。それで錯綜するとも記しました。 哲学は、主様ご説明の文章を一語の概念で表そうとします、冗長さを避けようとして。その語の説明が無ければ解り難いし<あいまい>なのは当たり前よ。 <非思考>について、「直接知」と言ったのは確かヘーゲルの訳語だと思います、無論ヘーゲルはそれについて厳密に説明してるはずです。 スピノザでは「直観知」、これも当人としては厳密に<理性の認識>とは区別してます。いわば「超越論的経験論」です。非経験の経験という、、矛盾せざるを得ない領域ですから。 貴方も‘信’と言いながら<非思考>を思考してるのです。だって神を思考してるのでしょう? 現代哲学では厳密な曖昧さというのも有ります。ただの曖昧はダメだけど、。 <質料をもたない純粋形相Eidos>と、<「存在-本質」(esse-essentia)>の差は重要ですよ、ほとんど変り無いようでも。 ■存在論の導入―キリスト教神学の根幹に関わる―何故ならキリストは受肉した神だから。 存在とは、質量も含むという事ですよ。神には質量も有る!という。形相だけではその神学は成り立たないのです。 キリスト教の神でなくとも、その存在が質量持つ場合もある―汎神論の自然=神の場合です。 しかし存在=本質とする哲学もあり、錯綜するので此処では触れません。一言加えると、仰る<変えられ得ない本性>=本質。とするのが一般的だと思います。 ■物体と<感性-Sensitivity?>の対応関係のご説明は良いと私は納得します。 でもそれ理性・悟性と並列で区別したカントの区分だと思う。違う学者も居ます。 普通の人は「感性が鋭い、」等と、「感受性や想像力」と思ってるでしょう? 哲学でも時代によって「感性」を「理性」と対比させて「想像力」に重きを置いた形式とする事もあります。 カントや主様ご説明文のは「感覚-Sensation(知覚」とした方が解り易いんですけど、共有されてるとは思いません。 ■《魂》は《理性ないし思考》の問題、> これは通りません、共有されてないです。 魂はSoulあるいはSpirit。物体的だか観念だか判らない。 霊魂はSoulとも訳されてる。魂は不滅、復活するとも言われる。 キリストも釈迦も、有るとも無いとも返事しなかった事態です。 魂現象。どちらかと言うとこれを<感性=感覚>で捉える。とする方が普通です。しかし物体=実体とも言い切れない(哲学概念のSubstantia実体とは違う意味よ―これは西欧人には曖昧概念ではなく厳密です)。 神={父と子と精霊}三位一体論の精霊はプネウマ。これも魂と同じく、思考による想像物ではありません。しかし感覚で捉える物体的なモノゴトとも言えない、。だから神秘主義なのです。大いに関係有り。だからアリストテレスと対比的に、ネオプラトニズムを持ち出したのです。 アウグスティヌスが、魂は「肉体を支配する為に適用され、理性を付与された、特別な実体!」Wiki魂(キリスト教)と書いてるそうです。実体? 神ではなく、神の{属性}と私記しました。思惟と延長以外の存在形式という事。だから理性でも感性でも捉えられません。でも神の属性だから神に属してます。 ■無限Infiniは否定形・・>これは表象・記述の問題の事ですよ、マチガイでは御座いません。「無限」の大小とか濃度の事は関係無し。そっちはカントールとか‘濃度‘でお調べ下さい。 試しに無限’の代替物を否定形を使わずに表現してみて下さい。全宇宙? 無限の方が広いと思う。それを取りあえず神と名付ける他ないのだと思います。否定形である以上、何かを前提にしてるという事。 それから神の本質は経験できます、部分的には。必ずしも非経験の場とは言い切れません。その経験を通して皆思考してます、なるべく想像を配して。だから超越論的経験論。矛盾戦略は承知の上。 ■非知と不可知の区別も重要。主様ご説明の通りでしょう。 しかし不可知の領域も経験はできないのだから<経験事象のこと>ではないですね。<可知>が経験です。{神は在るけど不可知である}の命題は成り立ちませんか? 非知は語れるのでしょうか?語るのは’知‘でしょう。「知に非ず」のコトは語れないと思いますよ。 それで例を出しました。ヴィトゲンシュタインは「語りえぬモノ」として黙した。 カントは、不可知だからか語れないのか語らないのか判りませんが、物自体とした? 非知も不可知も、否定形です。無限も集合論で考えると整理はできるでしょう。でも理解・記述は不可能だと思う。それで発狂した天才数学者も何人か居ますね。 位相数学の近傍の内部から見ると、外は解らない(宇宙とか)。外縁の境界は無いのです。それを無際限と言います。 否定形でしか語れないモノゴトは表象不可能、だから信仰。 ○ 神は 補助線である。>これは歴史上の誰かの言ですよね? ご説明が無いとそれこそ曖昧と取られ兼ねないと存じます。 御質問の趣旨には深く賛同します、皆様の話かみ合う為にも、どうぞ客観的な整理、応援してます。 ついでながら私は神を、「否定形でしか表象できないモノ」と此処では定義しときます。 読んで頂き有難う御座いました。
お礼
(つづき) ■ 魂現象。どちらかと言うとこれを<感性=感覚>で捉える。とする方が普通です。 ☆ すなわちこれは 非思考の庭とそして思考の緑野および感性の原野とを橋渡しするヒラメキにかんしては 《直感・および直観(すでにものごとの本質にせまる感覚ないしイメージ)》と言いかえることが出来ますから 確かに感性で捉えることになります。 はづかしながら 次のように捉えています。 ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~~~~~~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ■ しかし物体=実体とも言い切れない(哲学概念のSubstantia実体とは違う意味よ―これは西欧人には曖昧概念ではなく厳密です)。 ☆ ややこしくなると思いますから 保留します。 ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神={父と子と精霊}三位一体論の精霊はプネウマ。これも魂と同じく、思考による想像物ではありません。しかし感覚で捉える物体的なモノゴトとも言えない、。だから神秘主義なのです。大いに関係有り。だからアリストテレスと対比的に、ネオプラトニズムを持ち出したのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 次のように捉えています。照らし合わせ突き合わせていただければさいわいです。 ○ (ひとはカミの似すがたである) ~~~~~~~~~~~~ (または 三位一体なる神とひとと社会とについての図解) 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち簡略に: 非経験の場・・・・・人間・・・・・・・・・社会 _________________ 父なる神――――記憶能力――――司法 子なる神――――知解能力――――立法 聖霊なる神―――意志能力――――行政 といった相似形での補助線です。 ■ アウグスティヌスが、魂は「肉体を支配する為に適用され、理性を付与された、特別な実体!」Wiki魂(キリスト教)と書いてるそうです。実体? ☆ これは 《非思考の庭》にやどりはたらくという意味で 《特別な》なのでしょうね。《実体》とまで言うのは その《特別性》にかんがみてのことでしょうが いまでは打っちゃっておいてよいと考えます。思考の緑野や感性の原野とは別の非思考の庭だと捉えているなら じゅうぶんだと言えると思いますから。 言いかえると 信仰が思考や感性に先行すると言っているはずです。じっさいにはその信仰の中身だと思っていた・たとえば自由なる概念が――つまりすでに概念となっていますから 非思考ではないのですがそれでも信仰にかかわらせてみるならば―― 現実には無力であるといった経験は いくらでもあります。それでも 信仰が思考などに先行する――つまり 時間的にではなく 考え方の上で先行する――と言えるかと考えます。(熟しませんが いまはここまでとします)。 熟さないままではありますが: ■ 神ではなく、神の{属性}と私記しました。思惟と延長以外の存在形式という事。だから理性でも感性でも捉えられません。でも神の属性だから神に属してます。 ☆ については 属性とするよりは すでに神の霊がやどりはたらくと見るわけですから 神を人は分有するであるとか あるいは 神からあたえられた自然本性のうちの霊ないし魂にかかわる部分(チカラ)であるとか言えばよいのではないでしょうか? 《神に属している》ことに間違いはないと思われます。 ■ 試しに無限’の代替物を否定形を使わずに表現してみて下さい。 ☆☆(No.7お礼欄) 《二で割っても三で割っても その商はやはり無限》と言い表わせます。あるいは《無限というものが有るか無いかは 分からない。分かるか分からないかが分からない》と定義できると考えます。 ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それから神の本質は経験できます、部分的には。必ずしも非経験の場とは言い切れません。その経験を通して皆思考してます、なるべく想像を配して。だから超越論的経験論。矛盾戦略は承知の上。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃる《矛盾戦略》は ひとつ断り書きが必要だと考えます。 ○ ひとは神を経験することが出来る。ただしそれは あくまで 個人の主観の内面における出来事としてである。なぜなら 非経験の場なる神は 非思考の庭においてしか受け容れ得ないものだから。つまりは 信仰とは 《神とわれとの関係》よりほかの場ではあり得ないから。 すなわち《神を見た》といった経験は 人びとが共有することは出来ない相談である。ペンテコストでの集団における神体験も あくまで一人ひとりの主観の内で起こった出来事である。それを 今度は互いに言葉で説明したその中身が いちおう一致していたというだけだと捉えるべき性質のものだと見ます。 非思考の庭とそして 思考の緑野および感性の原野とは きびしく区別して世界を捉えるのがよいと考えます。 ■ しかし不可知の領域も経験はできないのだから<経験事象のこと>ではないですね。 ☆ これには 異議をとなえます。なぜなら 《知り得ないと知った》ゆえに《不可知》と言うのですから その《知った》というのは 経験事象ないし経験行為だと言わねばならないからです。数学でそういった不可知のことがあるかに聞いていますが よくは分かりません。もしそうなら(あるとしたら) 経験事象だと思います。 ■ 非知は語れるのでしょうか?語るのは’知‘でしょう。「知に非ず」のコトは語れないと思いますよ。 ☆ 語れない・つまり精確に言うと 語れるか語れないかが分からない これが非知です。不可知ではないのです。 つまりもっと言えば 神は・その霊は 人間に経験しうる かも知れないのです。語れたと思うときがあるかも知れないのです。ただし それはあくまで一人の人間の・つまりワタシとしての主観の内にとどまります。という仕組みに成っているのだと見ます。 それには 《非知》というのが ふさわしい。こう考えます。 ■ 否定形でしか語れないモノゴトは表象不可能、だから信仰。 ☆ 主観内では 表象できたと思うときがあり得るという話をいまはしています。 ■ ○ 神は 補助線である。>これは歴史上の誰かの言ですよね? ☆ オリジナルだと思っています。
補足
まるく2ぼらんちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ■ 「神の存在証明」には、カントもヘーゲルも、放棄あるいは失敗したと考えられ、その決定不能性が関係してると思われます。 ☆ ゲーデルの定理については いまだにわたしは不確かな知識しかありませんが 言い切っておられたので 確かめたかったのでした。 そしていま上のように 今度は神の存在証明のことに関連づけておられますが まづこのことについては わたしは何の含みもありませんでした。 それに 《神の存在証明》が 人間にできるとは考えておりません。時空間を超えており絶対としての不可変性であると定義するものについて 時空間を有限で相対的で可変性のうちに生きる人間が 考え切ることは出来っこないと思っています。 言いかえると 神は その定義をいくらかおこなったわけですが それらはすべて《そのように想定する》というかたちだと捉えています。 《非知》すなわち《人間にはそれが何であるかが分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》だと 人間は想定するよりほかにない。こう捉えています。 すなわち ■ ・・・そこで浮上し重要性増したのが仰るような「信」の問題系なのです。 ☆ という筋では 《可知・不可知》としての経験事象については 《考える および 感じる》で人間は対応しているが 《非知》については それらのいづれでもなく 《信じる》という別種の行為において捉え振る舞っている。といまのところ捉えています。そしてこれの当否を 問うています。 ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 哲学は、主様ご説明の文章を一語の概念で表そうとします・・・ <非思考>について、「直接知」と言ったのは確かヘーゲルの訳語だと思います、無論ヘーゲルはそれについて厳密に説明してるはずです。 スピノザでは「直観知」、これも当人としては厳密に<理性の認識>とは区別してます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。わたしは ともかくも《知》とあるのでそれは《考える・感じる》の領域におさまると採ったものですから 区別しようとしました。 くわしくはいま覚えていませんが ですが《知》という言葉は よほど表現に工夫をこらさないと やはり不適切な結果になるのではないかとは思われ まだこだわれて来ています。 《世界精神》も 精神は思考の領域にかかわりますから 《霊》と言いかえたりするのでないかぎり あやまりを導きやすいと考えます。そういう意味で 《知》についてもです。 《直観》は インスピレーション(あたかも霊の吹き込み)ないしヒラメキとして 《非思考の庭(つまり 信仰)》にあっても起こり得ると見ます。言いかえると 《信じる》と《考える・感じる》とのふたつの領域を橋渡しする出来事であると捉えています。 ということは 《直観知》と言う場合には ヒラメキとしての直観から得た思考物となるかと考えます。直観を言葉にしてまた概念として捉えたその結果であるとです。 つまり 《知》を入れると ややこしいのではないでしょうか。 ■ 貴方も‘信’と言いながら<非思考>を思考してるのです。だって神を思考してるのでしょう? ☆ これは はっきりとしています。《神は 補助線である》とも前回つけ添えましたが それと同じように 《非思考の庭》というのは やはりそのもの(つまり この場合は 信仰)自体を言うのではなく 補助線としてのようにあくまで代理のものを言います。仮りに表現してみるとすれば 《非思考》なのだということになります。(この場合は あなたのご指摘のように 《否定による規定》になっているんですが)。 ですから 《非思考を思考している》ことはありません。むろん ナゾのことを何とか説明しようとしてその表現には苦労しそのとき《思考》はおおいにおこなっているわけではありますが。 《神を思考している》というのは 《信じる》とは別にそこから派生する次のようないとなみにおいて 確かにおこなっていることではあります。 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (ただし 信じるという動態が軌道に乗ったときには その神を仮りに概念として捉えいわゆる神学を神の説明のために考えたり あるいは あたかも感覚もしくは予感として神を感じたと 主観内において 思ったりするときはあるのでしょうね。これらは 言わば余技です。信じるについてのおまけです)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 存在論の導入―キリスト教神学の根幹に関わる―何故ならキリストは受肉した神だから。 存在とは、質量も含むという事ですよ。神には質量も有る!という。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この点については おっしゃるようにくわしい議論が必要です。ですが かんたんに触れるとしますと 神は 非経験の場〔という想定〕なのですから 《考えるおよび感じる》の対象となるモノとしての存在ではあり得ません。《形相》でも《質料》でもありません。 ただし三位一体論としては 確かに神は・つまりキリストと呼ばれる非経験の場が 経験世界における経験存在(つまり 人間イエス)となったとして説明されます。 《神にも質料がある》のではなく 《質料も形相をも超えている神が 肉(身および心)なる存在となった》というドグマ(想定としての物語)のことです。 ですから 《時間空間を超えた絶対としての不可変性》という――共有すべき――定義が 変わってしまうわけではない。こう捉えています。 言いかえるなら ■ 一言加えると、仰る<変えられ得ない本性>=本質。とするのが一般的だと思います。 ☆ というような場合でも 《本性・本質》などの言葉について それはあくまで《非経験の場》を仮りに示す補助線としての表現なのだとことわってあれば だいじょうぶである。こう捉えていますが どうでしょう。 こんなことを言ってもことは始まりませんが 神にかんする哲学としての定義については どんな知らない人の知らない理論が来ても すべて捌くことが出来ると自負しています。だって 《非知=すなわち 人間には分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》という定義で 区別・規定できないものはないのですから。 感性のハタラキを 感覚・知覚と言います。あるいは その器官や能力とは区別するなら 三者は互いに同じコトです。 ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《魂》は《理性ないし思考》の問題、> これは通りません、共有されてないです。 魂はSoulあるいはSpirit。物体的だか観念だか判らない。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは わたしが舌足らずでした。すなわち ▲ (アウグスティヌス) 魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。 ☆ という規定にしたがって この《魂》を 《思考にかかわる理性・精神》として限定して使いました。 もちろんおっしゃるように 《非経験の場》を《霊》と呼ぶことにちなんでそれと同じ意味で《魂》という場合もあることは 承知しています。 プシュケー・トゥー・コスムー(宇宙霊魂)やアニマ・ムンディ(世界霊魂)といった場合 神としての霊と言うと同時に 人間の身と心とにやどる霊・すなわちその意味で魂のことをも言う場合があると承知しています。 梵我一如というときには 非経験の場たる神のことは 《梵》すなわちブラフマンと言い 人間にやどるその霊のことは 《我》ないし霊我すなわちアートマンと言うというふうにはっきり区別して表現しているので 分かりやすいと思われます。 神なる霊に呼応する人間の場(庭)を 霊ないし魂と呼ぶ。ですね。このとき その霊ないし魂は 信仰としてのわが心なる非思考の庭にはたらくと言うのであって じつは 精神(つまり心ですが)だけに言うのも ふさわしくない。つまり 身と心とにはたらくと言うか それとも 厳密に言って 身(感性)と心(思考)とを超えていると言うかだと考えられます。 すなわち ■ ~~~~~~~~~~~~~~ 魂は不滅、復活するとも言われる。 キリストも釈迦も、有るとも無いとも返事しなかった事態です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と見ることのできる事態を言うものと思います。 (つづく)
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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結論から申しますと、哲学上、特に近世以降では、 「神は移ろうものではなく、永遠普遍の無制約者、無限の存在」だという共通認識はあると思います。それは世界を創造して終りではなく現在も働いてるという意味で,変化する事も含んでの事ですが。 人格神は括弧に入れた、この世の自己原因としての神。時間による持続的存在とは異なる存在であり、<6、一般にも共有されてる>と言えるでしょう。但し哲学での話です。 しかしそれを語る場合は、時代と各哲学者によって、概念・用語が変るので説明は錯綜する。質問ご趣旨の`整理’は大変だけど必要です。 又、神でもあり人でもあると考えられうる、キリストの場合は事情が又変り、哲学者でも対応が異なるのは御存知だと思います。 一般の神に限定しても、既に中世神学でも考えられてますね。 ご引用のアウグスティヌスも含めて、プラトン以来のギリシャ東方教会周辺のネオプラトニズム及びカバラ思想やグノーシス神秘主義の隠された影響のある圏域と、 ローマンカトリシズム圏との違いも大きいですね。こちらはやはりスコラ神学;トマス・アクィナスに代表され得るでしょう(無論、内部で大いなる論争有りますが)。 プラトンではなく、重視されたアリストテレスに於いては、「形相エイドス-質料ヒュレー」(forma-materia)の区別が導入され、、全存在者の究極の原因である「神」は質料をもたない純粋形相でもあった。 アクィナスはそれに加えて、「存在-本質」(esse-essentia)という概念を導入した。神がただの純粋形相では困るから。 神は「~ある=Be=etreもの」=esse存在。これは旧約聖書での神の定義ですね、その存在証明は同語反復となる、<~あるもの、だから、ある。>という。 「本質」は「可能態」であり、「存在」は「現実態」。 何ものにもよらず、それ自身によって自存する有るもの、は{存在そのもの{純粋現実態}となる、。これが近世の「絶対無限実体」の概念に繋がる。 無論これらが、存在証明とは成り得ませんでしたね。カントが反証し整理した4種類の「神の存在証明」Wiki等ご参照下さい)。そのカントを批判的に受け継いだヘーゲルも「主観と客観の統一」ができたかは判然としません。直接知へ至るには媒介知による段階推論が必要としながら結局{神への昂揚}という直接知への切断・ジャンプの契機が残されたと思う。証明でなく`信’ですね。すると同じく批判されたスピノザ「エチカ」冒頭いきなりの神の定義・公理が生き返りますね、証明ではない。 数学と論理学に於いて、一つの公理系は必ず不完全である事が、ゲーデルによって証明されてしまったので、全てを含む「存在」の証明は無理だと思います。 {無限Infini}は否定形でしか表せませんね、Finish終り・限り―が無い、という。 有限―Fini終り・限定が有る。は延長(時空)Extentio「~ある」=存在を前提としている。{無限}を限定する。 すると限定の否定形の{無限}も「~ある」を前提としてる。「存在」は疑いようが無い、とせざるを得ない。 全存在を含む「無限」を、否定形ではなく思考するには結局、「神」と言うしかないのでしょう。前提なので証明不可能、だから定義。それを巧くやる事が哲学者の仕事だったと思う。 でも導入された夫々の概念自体がその後、神を考える際に重要な道具となりました。 4、の整理について。 《物体》《魂》《神》、其々に対しての認識の形式として<感性と理性>による両方のアプローチが有るという考えも御座います。ですから。《物体》は 《感性》の問題であり・・とするのは一般に共有されてるとは言い難いと思う。 しかし《神》は 《非思考すなわち 信》クレドー>となるのは、大抵そうですね。 神に対しても<感性と理性>による認識を深めながらも、最後は「直接知」による昂揚とならざるを得ないようです。<単独者>による信仰はキルケゴールでしたか。 尚、カントは超越的なものと超越論的なものを分けて、前者は‘物自体’として非思考としたようです。 「語りえないモノ」としたのはヴィトゲンシュタイン。 さあしかし、それを語ろうとした人達も出た。 神の属性で、人が認識できるのは「思惟と延長」のみ。しかしそれ以外に無限に多くの属性は有る、でも不可知。としたのはスピノザ。その他の属性は多分、神秘主義的なモノですね。 するとプラトンのコーラとかのネオプラトニズムが蘇って来る。 ベルクソンのイマージュ論やElanVital・Duree持続の概念とか、ハイデッカーの存在の開け’とかもその流れでは? 私は歓迎しますが、神秘主義に陥らずに語るのに皆苦労してますね。 デリダやドゥルーズもそのようです。 神や狂気などの表象不可能な微妙な問題を語らざるを得ない。超越論的Transcendental経験論という矛盾した戦略です、超越的なモノは経験できない事になってますから。でも今これらが一番面白いとは思います。 ヘーゲルに関しては私、殆ど無知です。釈迦に説法、御容赦下さい。
お礼
まるく2ぼらんちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 人格神は括弧に入れた、この世の自己原因としての神。時間による持続的存在とは異なる存在であり、<6、一般にも共有されてる>と言えるでしょう。但し哲学での話です。 ☆ まづは 趣旨説明欄にしるしたたたき台は おおむね一般に共有されるであろうと。そのような内容を互いに前提として話をすすめれば 食い違いなどは起こらないであろうと。 同意をありがとうございます。 ただしその中核の内容をめぐって千差万別の説明書きが人によってつけ添えられる。ゆえにその交通整理は必要であると。 ★ しかしそれを語る場合は、時代と各哲学者によって、概念・用語が変るので説明は錯綜する。質問ご趣旨の`整理’は大変だけど必要です ☆ ですが 《この世の自己原因としての神》は (あ)☆☆(趣旨説明欄) 場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。 ☆ と ほとんど変わりないと思えるのですが どうですかねぇ。 ★ 全存在者の究極の原因である「神」は質料をもたない純粋形相でもあった。 ☆ これも 上の(あ)の定義とそれほど変わりないと思われるのですが どうでしょう。というより (あ)の定義から むしろ派生するひとつの属性の説明であるように思われます。 ★ アクィナスはそれに加えて、「存在-本質」(esse-essentia)という概念を導入した。 ☆ たぶんこれも変わるものではないでしょう。むしろ 単なるカザリだと思われますが。 ★ ・・・これが近世の「絶対無限実体」の概念に繋がる。 ☆ これは わたしは 余分なカザリだと考えます。要らないと見ます。《実体》なる概念が あいまいであり ミスリーディングになりやすい。 《絶対・無限》は 神のふつうの概念説明ですね。 ★ カントを批判的に受け継いだヘーゲルも「主観と客観の統一」ができたかは判然としません。 ☆ 概念説明としては よいのでしょうけれど 世界精神だなどと言ってもらっては――神が人間の《思考や想像》によって把握できたり あるいは 思考や想像の産物であったりするまでになってしまうからには―― 困ります。 ★ 数学と論理学に於いて、一つの公理系は必ず不完全である事が、ゲーデルによって証明されてしまったので、全てを含む「存在」の証明は無理だと思います。 ☆ あえてお尋ねしますが 《完全である公理》もあるのではないですか。ちがっていたら ごめんなさい。 ★ {無限Infini}は否定形でしか表せませんね、Finish終り・限り―が無い、という。 ☆ これは マチガイだと思います。《二で割っても三で割っても その商はやはり無限》と言い表わせます。あるいは《無限というものが有るか無いかは 分からない。分かるか分からないかが分からない》と定義できると考えます。 ★ 全存在を含む「無限」を、否定形ではなく思考するには結局、「神」と言うしかないのでしょう。 ☆ 経験世界を超えている場 つまり 非経験の場 と言い表わせます。つまりどう超えているかと言えば この世の因果関係から自由であるのだと。 ★ 《物体》は 《感性》の問題であり・・とするのは一般に共有されてるとは言い難いと思う。 ☆ それは 一たん感性が捉えたそのあと その知覚内容を 悟性が認識し 理性が概念化して取り扱う。こういう場合を言っていると考えます。ですから 物体と感性とが対応するというのは マチガイではなく 一般に共有されていると考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし《神》は 《非思考すなわち 信》クレドー>となるのは、大抵そうですね。 神に対しても<感性と理性>による認識を深めながらも、最後は「直接知」による昂揚とならざるを得ないようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは あいまいなご判断ですね。先ほどの《非経験の場》は――つまり神は―― つねに《考える》ではなく《感じる》でもなく そうではなく《思考にあらず》なる心の庭において受け容れられるものと考えます。つまり 《信じる》という受け容れです。 対象は 非経験であり非思考であり それの受け容れは 意志行為であり経験行為であるというかたち。 理性ないし思考の緑野や 感性の原野は 神の受け容れ――信じる――については お呼びではありません。 (ただし 信じるという動態が軌道に乗ったときには その神を仮りに概念として捉えいわゆる神学を神の説明のために考えたり あるいは あたかも感覚もしくは予感として神を感じたと 主観内において 思ったりするときはあるのでしょうね。これらは 言わば余技です。信じるについてのおまけです)。 あと ★ 最後は「直接知」による昂揚とならざるを得ないようです。 ☆ の《直接知》という表現は あいまいだと思いました。たとえばよく言われることとしては 見神というのがあります。つまりは 神を顔と顔を合わせて見たというような体験です。 ただし わたしの考えでは それらも あくまでほんとうの神体験――真理がすべてにおいてすべてである状態――の或る種の仕方における《予感》なのだと考えます。じっさいに《見た》つまり感性の問題ではなく 《直接知》つまり理性の問題でもない。こう捉えています。 つまり こういったお話は 交通整理こそ必要ですが 神の定義として共有すべきこととしては 要らない。こう考えますが いかがでしょう。 ★ 不可知 ☆ についても 表現ないし用語の問題として取り上げます。つまり 不可知は 経験事象のことを言っており 神には関係ないでしょう。と質問者からは 共有すべき事柄を吟味したいと考えます。 ○ (神は 非知である) ~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 神秘主義 ☆ は 神について何も物語っていません。関係ありません。余分なカザリです。と 定義事項を共有したいと考えます。 つまり神は 神秘であるか神秘でないか そういう人間の思考ないし想像を超えています。 ○ 神は 補助線である。 こう考えます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんばんはです。 質問は、 ~~~~~~ 5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。 ~~~~~~ の一文。 (I)《そういう思いの切断や変化》とは、誰の思いか? 《神の》ですか? 《わたし》という言葉に代表される《人の》ですか? (II)なぜ、「そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらない」なのですか? これは、《信》に関わる部分で、《無根拠》ですか? ひょっとしたら、 わたし、文章と文脈を読み損なっているのかも知れませんが。。。 ほら、 わたし、文系ではなく、理系ですから(わらい)。
お礼
ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (I) 《そういう思いの切断や変化》とは、誰の思いか? 《神の》ですか? 《わたし》という言葉に代表される《人の》ですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《神の》です。つまり 《この世界や人類やそして個別にそれぞれあなたに対する神の》です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (II) なぜ、「そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらない」なのですか? これは、《信》に関わる部分で、《無根拠》ですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 想定としての定義からです。 ☆☆(趣旨説明欄・アウグスティヌス) 場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。 ☆ 《時間によっても 場所によっても 変えられ得ない本性》からの類推です。想定したあと その神の属性として推理したに過ぎませんが。
- Y Y(@yy8yy8az)
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広辞苑から、 「神=(1)人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以ってはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。」(2)以下は省きます。 一般に共有されている「神」とは、この説明のようなものではないでしょうか。 ブラジュロンヌさんの思索も、此処が出発点ですよね。 ただ、現代人にとってはこうした説明には不明確な曖昧さ、を感じられるようになってしまっていて、その辺の物足りなさを、ブラジュロンヌさんをして「神の定義」に取り組ませているんだろうと思います。 質問の提案は、“神とは永遠である”と云う事は共有できるのではないか、と云っているんだと思いましたが、そうであるならばこれに異論は出ないと思います。 アルケーの「神」の笑顔さえ想像できます。
お礼
わいわいえいとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 不明確な曖昧さ ☆ これは おもしろいと思いました。曖昧さは ふつう 内容が不明確なのですが それを強めて言っているのですね。 ▲ 神=(1) 人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以ってはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。 ☆ (あ) 《威力》を持つかどうかは 神の属性として考えられるもの。言いかえると すでに神が定義されたあとの問題です。しかも 神は もし非思考であるとするとき その属性を明らかにするのは 思考の問題です。 (い) 《超越した》とあるから よいではないか? もし経験世界を超越しているのなら それはじつは 《威力》を持つかどうかなどは いっさい分からないと言わねばならないのです。 (う) 一たん想定として 《非経験の場 もしくは 絶対・無限》として定義して初めて 属性を考える段階にはいります。(神学ということです)。 (え) 《人類に禍福を降すと考えられる》というのは 単なる民間伝承です。自由ですが――《超経験の場》については 分からないから言わば何を想像しても自由ですが―― やはり初めにその《超経験ないし超自然ないし非経験の場》だというような定義を それも想定として 出しておいてからの問題です。 (お) 《人類に禍福を降すと考えられる》と思っても かまわないのですが 実際はそれほどやさしい問題ではありません。同じひとつの出来事について ある人は《福》と見て 別の人は《禍》と見るといったことなどは いくらでも起きることだからです。一般論だけで済ませる問題ではありません。 (か) 《信仰の対象とするもの》 これでよいと思いますが 実際には それでは《信じる》とは何か? という問題ともつながっています。そこまで答えて 初めて定義とその基礎としての説明が成り立ちます。 アルケー関係の質問が 立ちどころに削除されました。おれのしわざではないかと疑われるなぁ。どこまでつづくしがらみぞ。
- 雪中庵(@psytex)
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量子論的世界像において、有限的な存在性(=宇宙)は、 認識される事によって派生しているのです。 即ち、あなたの認識するその宇宙の造物主は、あなたです。 ただ、この造物主は、全知全能ではなく、むしろ不完全ゆえに、 本来、絶対的に確定化しようとすると無限不確定性(=無)に 発散する不確定性原理を、経験的に現象表面的に(本質まで 確定せずいい加減に)捉える事で、有限な性質=存在=宇宙を 派生させているのです。 つまり、世界は自我成立のための相補として派生しており、 広義では「自分が現実を創造している」と言えますが、それは 肉体的個体としての「自分の思い通り」ではないのはご存知の通り。 そうした「補完」は、物理的原理性まで遡った相補性であり、 いわば「自己=物理」だと言えるのです。 物理を理解できない=不完全な認識ゆえに、自己存在の補完 としての環境を把握できず、肉体的な自己チューな意識に萎縮し、 その短絡的な意志において、自己矛盾として環境とぶつかる (物体)のです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 1. ★ 量子論的世界像において、有限的な存在性(=宇宙)は、 / 認識される事によって派生しているのです。 ☆ その《派生する もしくは 派生させる》前にすでに存在しているのではありませんか? 《派生しうる》存在が 何らかのかたちで すでに前提されていませんか? 2. ★ 即ち、あなたの認識するその宇宙の造物主は、あなたです。 ☆ 《認識した》ということが そのすでに存在していたモノないしコトの《わたしの認識における現前》ということを意味するのではありませんか? 3. 《造物主》であるかどうかは その認識する主体つまりワタシないし人間については あり得ないと考えられます。認識する前に存在していたものの現前を認識した過ぎないと考えられるからには。 4. すなわち このこと――《すでに存在していたものの現前を認識したに過ぎないということ》――を 次の分析は明かしているのではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ、この造物主は、全知全能ではなく、むしろ不完全ゆえに、 本来、絶対的に確定化しようとすると無限不確定性(=無)に 発散する不確定性原理を、経験的に現象表面的に(本質まで 確定せずいい加減に)捉える事で、有限な性質=存在=宇宙を 派生させているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5. 言いかえるなら ここで《修正》を持ちますが それは 《有限な性質=存在=宇宙》と《わたしおよびその認識行為》とは けっきょく同時であると考えられて来ることです。 6. なぜなら 《人間であるわたしが認識する前にすでに何らかのかたちで存在していたモノないしコト》には じつは その《わたしたち人間》も入っているからです。 7. ですから 人間は その認識行為において 世界および自己の存在をそれぞれ同時に確認する。 あるいはさらに言いかえるなら 人間は 類として存在するだけではなく個別にワタシとしても存在するからには わたしが生まれ落ちたときに――ただしものごころがついて事後的に――世界および自己が誕生したことを確認する。 8. ★ むしろ不完全ゆえに、本来、絶対的に確定化しようとすると無限不確定性(=無)に発散する不確定性原理 ☆ この命題は おそらくマチガイでしょう。 9. なるほどワタシは うつろいゆきやがて朽ちざるを得ない限りある存在ではあるのですが それがなぜその存在を《絶対的に確定しようとし》なければならないのでしょう? そんな必要は どこにもありません。パスカルの言うように かよわい存在としての自然本性のままでよいぢゃありませんか。 10. 《わたしとそしてその生きる世界とを同時に確認したところの存在(つまり わたし)》をもし仮りに《絶対的に確定させようとする》と捉えた場合 だとしても その結果が・もしくはすでにその《確定させようとするウゴキとそのチカラと》が どうして 《無》であると言えるのでしょう? 11. 《無限不確定性》だと仮りにしても それがどうして《無》なのでしょう? 有るとも無いとも人間には分からない つまりそれが分かるとも分からないとも分からないそういう状態であるかも知れないぢゃないですか。 12. 不確定原理をとなえたのは 人間でしょう? その原理としての見方で ワタシおよび世界を同時に存在として確認(ないし再確認)したということを意味することはあっても この原理が 《造物主》なのではない。と知るべきだと考えます。 13. 人間によって《経験的に現象表面的に(本質まで確定せずいい加減に)捉え》られることに成らざるを得ないところの《有限な性質=存在=宇宙》が ワタシと同時にそれぞれ存在として 確認される――このことを 不確定性原理は語っているに過ぎないのでは? 14. ただしこれは 《測定》の問題ではなく 存在の確認であり けっきょく人間にとっては《わたしがわたしである》ことの実現のことです。自己到来のことです。 15. 人間は・そしてワタシは その自己到来において 言わば白紙状態としての自然本性に立ち帰り おそらくそのとき《有るとも無いとも人間には分からない つまりそれが分かるとも分からないとも分からないそういう状態》(11)を成就しているものと思われます。 16. 《非思考の庭》が 生きている。そういう状態です。 あとは 17. 《世界(宇宙)》は ★ 自己存在の補完としての環境 ☆ ではなく そうではなくわたしの自己到来と同時にそれぞれの存在が誕生することになる《すでに自己をふくめた世界》です。 18. ふだんは この同時誕生として存在しているそれぞれを ワタシと世界というふたつのこととして 《経験的に現象表面的に(本質まで確定せずいい加減に)捉え》ているのです。《補完関係》の問題ではないでしょう。 19. 世界には ほかの人間という存在がふくまれます。それが 自然界よりも おおきな意味を持ちます。 人間をこの存在確認の作業をおこなう主体として見るかぎりでは 《わたし》どうしが 互いにおおきく関係しあっています。 (自然界は モノとしての影響をあたえるだけであるゆえ。その傷をいやすかどうかだけゆえ。人間どうしの関係から来る影響は ものを・世界を見えなくすることがあるゆえ)。 20. その意味では――つまり人間関係という側面では―― ★ いわば「自己=物理」だと言えるのです。 ☆ なのです。 21. ただしその存在確認やおのおのの自己到来やまた互いの人間関係やを 《わたしの思い通りに確認する》にせよ そうでないにせよ その関係のあり方は ★ 「補完」 ☆ ではありません。 ★ 物理的原理性まで遡った相補性であり ☆ ません。《同時存在》している。または《存在の同時確認》として誕生している。だけの話です。それとして関係しあっている。それは 人間には《意志》があるからには 存在としては 相互補完ということにはならない。 (相補性を前提するということは 人間が世界や自己について何も知らない阿呆だと言うことにひとしい)。 22. なお ★ 自我成立 ☆ などと呼ぶ実態は どこを探してもありません。千歩ゆづって言うならば 《自己到来》するワタシに その《自我》はふくまれています。ですが そんな自我は 屁でもありません。わざわざそのように言ったりその言葉を持ち出したりすると さぞ何かふつうの人では言えないことを言っていると思われるらしいというだけの話です。また そう見られたいために使ったりするに過ぎません。 23. そのように一事が万事で 自己到来するワタシどうしの社会的な人間関係 これが《世界》の大筋をかたちづくっていますが 人びとはややもすると そこにクリスマスツリーのごとくいろんな飾りをつけたがります。 24. つまり《自我》もそのひとつですが また ★ 物理を理解できない=不完全な認識ゆえに ☆ というごとく 白紙状態なる自然本性が クリスマスツリーの樅の木本体としてあるというのに・そしてそれだけで存在はじゅうぶんであるというのに 物理学なり何なりの学問を持ち出して来て うんちくを語り飾りつけをしたがります。 世界とわたしとは 同時存在だでおわりです。その確認で 世界は足ります。 25. ★ 自己チュー ☆ も へちまもありません。と世界理解すべきでしょう。そのあとです。カザリあるいはつまり世の中のシガラミを相手にするのは。
- hokekyou333
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ブラジェロンさん、たぶんですが、どうやら私はあなたの味方のようですよ。 普段忙しいのできょうやっと時間を取ってOKWAVEの哲学カテの質問のいくつかに回答したりしていましたが、こちらを訪れていろいろとそちらとのそちらとのやり取りの文を思い出しながら考えてみました。 最初は、仏も神も「神の霊」としてとらえ、わかりにくい言葉でそのまわりを囲っている表現野世界、思考実験とかの世界を、これはいったい何が目的なんだろう?とその意志を疑っていました。 しかし、それは人間の中にある何かの温かいこころへの直感の世界を守らんする意志の世界を、言葉の専門家として、言葉では語りえぬままなんとか守るべく格闘している姿として映って来たのです。 ならば、私はそちらの応援者ですよ。 いまだに解りにくい言葉が並んでいるその思考世界を解明できたというわけでは無いのですが、そう考えると解るところはすべて符号がつくからです。 今、ここであらたなそちらの質問「神について」という質問に、ここでも、そちらのすべてに合わせてゆっくりじっくりと回答する時間が私という人間にはありませんが、 同じタイトルの質問への回答で、今日、先ほど2回にわたり書き込んだ回答がありますので、是非そちらを読まれてみてください。 URL:http://okwave.jp/qa/q8293317.html 回答No16と回答No18がそれです。 No16では、神を否定していますが、No18では、それを越えて再び神を肯定しています。 ただ、そのうえで法華経へともどっているわけです。 その法華経論が、ただの「おまじない」論であると、何故その内容を聞いていないうちに判断されてしまったのですか?、 奇跡宗教団体が多すぎるせいなので、頭からそれと同じと判断されてしまったのでしょうか? できれば、まだその内容は説明していな段なのですから、そちらも誤解を避けて欲しいなと思います。 それもまた、結論としては神への道でもあるのですからね。 普段はそこまで書かないだけです。 その結論の世界は けして神を信じる者の敵ではないと思うのですが…。 ともかく、その2つの回答の部分だけ、是非読んでみてください。 宜しくお願いいたします。
お礼
まるく2ぼらんちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 不可知論’で検索の最初に出てるWikiやコトバンクでは、Agnosticismの訳語であり、人間の経験を越えた問題・事象としてますね。すると不可知’も<経験事象>ではない事になります。 ☆ たしかそうだったのです。ですから 《非知》と言い換え それと区別することは 急遽の策です。 不可知にかんして まるくさんのほうがおくわしいです。 そして ★ 一つ提案ですが、曖昧さをなるべく避ける為には、哲学概念は原語も記した方が却って判り易くなります。 ☆ は おっしゃるとおりです。 しかも しばしばわたしは 自分流の意味合いに《勝手に曲げて》解釈したり言いかえたりしています。そういうときには 日本語だけで通しています。 ○ 「ヘーゲルと神の存在証明」 ☆ これは あとで読んで 補足欄にてご返答します。 ★ 私自身は「神は非知」とするのには賛成できますが、この御質問で問われてるのは{共通認識}ですので私達の意見が通るかは不明です。 ☆ まづここの Q&A の場からです。ほとんど誰も言っていないことではないかと 臆面もなく おもうのですが。 ★ ヘーゲルが‘精神ガイストと云ったのは、プネウマも霊魂’も含意させようとしてたと思いますよ。カントの理性に対抗してですから。 ☆ そうですか。神にかんして因果応報説をとなえるというよりは 歴史の狡知を推し出したのは よいことでしょうが あまりにも《神による経験世界への介入》といった側面を印象づけているかのように感じられます。 《精神ガイスト≒プネウマ=霊魂》なのでしたら カントの《物自体》も 煮詰めてしまえば 同じ《非経験の場》として捉えられるように思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 魂Soul霊魂、あるかないか。アウグスティヌスが言う「魂=実体」、これはうっちゃれませんよ。 精霊Puneumtologyは西洋では重要です。キリスト教では<神=精霊>となり、魂の事も含めて、仰るように「非思考の庭」の領域の事と考えられてますから。神’と同等、感覚でも理性の対象でも無い、と捉えられてますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だったら ふるい見方で《天使》 そして一般には《ヒラメキ》でよいのではないでしょうか。 ★ インドのブラフマン―アートマン>は東アジアでは<魂―魄>、エジプトでは<バーとカー>でしたか。何れも区別してますね。 ☆ あっ。ええ そのようですが これも打っちゃってしまいます。《非経験の場(あたかも 磁場のごとくチカラをもそなえているかも知れない)》で一括したいと思いますが 乱暴ですか? ★ 解剖しても器官が無ければ、有るとも無いとも判りません。これは近代西洋人には非知’と言えるのですか? ☆ 人間のとらえていることとしては 《経験事象∽理性・感性》と《非経験の場∽非思考の庭》とそしてこれら両者を橋渡しする《天使 ないし ヒラメキ》とがあるだけだと見ます。 ○ 人間にとっての現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕 そして じつは 《真理=非経験の場》は 狭くは 《ウソ》にあたかも通路があり 広くは これら全体の現実をあたかも覆い包んでいるものと見られます。後者は 《遍在》をベースにした捉え方です。 (ここでは わざと《ウソ》という用語にしています。たぶん わたしの中のいぢわるの虫です)。 ★ {祭司―戦士―平民}という、デュメジルの3機能説を思い起しました。 ☆ これは これも 《公民(あるいは もっぱらの公民)‐市民(≒人間)》の二者関係に分けられませんか? というような勝手なことを考えます。 じつは ひとりの人間 = 内に《市民‐公民》連関をやどした存在 と見ます。 ちなみに 言語を アマテラス語とスサノヲ語とに分けてみると おもしろいようです。 すなわちご披露しますと ・ あやまちうるふつうの人間語が スサノヲ市民語です。 ・ 普遍性を問い求めた結果 その精髄を取り出したものを アマテラス科学語およびアマテラス人格語と呼ぶ。 アマテラス普遍語は しばしば《神聖にして侵すべからざるもの》としてあがめられ 一般にも現代においても《あやまち得ないもの》と思われているキライがあります。無謬性の神話です。 ○ ひとりの人間 = 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語(科学語・人格語)》連関 ★ サルタヒコ ☆ これは いささか懐疑的に捉えるならば スサノヲ市民の中から出て アマテラス公民に仕える者ですよね。それで アマテラス予備軍〔症候群〕 と呼んだりします。そして 同じくスサノヲ市民の中から 公民層に成ろうとする場合を アマアガリ・シンドローム と呼んだりします。 ★ マツロワヌ者 ☆ その昔 人びとは 収穫のあとその穫り入れをムラにおいて神々にささげ神々と共食していた。つまり マツリである。 どんちゃん騒ぎをいま措いておいて ところが或る日或る時 どこか上のほうから 声がする。マツリゴトを始めると言う。ムラムラのマツリを全部すべからくたばねる。おまえたちは おれたちアマテラス公民に貢ぎなさい。その見返りにくにを統治し経営してやるからと。 スサノヲ市民であるオホクニヌシは これに《くにゆづり》をした。 おそらく アマテラス族は どうかおれたちにマツリではなく全国を統一したマツリゴトをやらせてくれと言って 拝みたおしたのでしょう。 オホクニヌシのふたりの息子のうち一人は じつは マツロワヌ者でしたが けっきょく戦って敗けてしまいました。 オホクニヌシともうひとりの息子(コトシロヌシでしたか)は 主戦論も非戦論も けっきょくは人間のよわさから出るもの。どうせなら いのちをとうとぼうと非戦論をえらぶ。くにゆづりと言う。 ただし 実際にマツリゴトが 始まった。《アマテラス公民圏主導‐スサノヲ市民圏従属》の連関体制は それはそれは かなしい歴史が待っていました。 けれども いちど《ゆづった》からには おめおめと返せとも元通りにせよとも言えない。スサノヲ市民たちは ときを俟った。ところが すでにスサノヲ市民主権がとなえられ実際にうたわれるようになったにもかかわらず 《アマテラス圏主導》の世の中に慣れきってしまった状態が 慣性の法則にのっとるかのようになお続いている。 うんぬん。うんぬん。 お粗末でした。
補足
○ 西羽義夫:ヘーゲルと神の存在証明 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf ▼ ( p.48 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ 直接知は知識全般を否定するのではなく,有限者しか認識できない範疇による媒介知を斥け,真の認識は無媒介的な「直接知」あるいは「信仰」によるものとする。 直接知は信仰と知識を対立させ,信仰を採るというのではなく,媒介知と信仰の対立の中で直接知としての信仰を主張するのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 考えてみるに すでに どう言いましょうか 《われ と 神》とが〔すでに〕地続きだと言っているものと思います。だったら 無媒介としての《直接知》が成り立つという議論なのでしょうね。 次の見方だと思われます。 ▼ ( p.53 ) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「神は現在的であり臨在的であって、精神としてすべての〔人間をも含めた〕精神の内にある」と言われるのである。人間精神と神の精神が別箇のものとすれば,人間の一人であるヘーゲルが神の精神について『論理学』等の著述を書くことはできなかったであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような傾向は 古代人のたとえばアウグスティヌスに必ずしもつねに見い出されるものではないと思います。神とのあいだには超えられないへだたりがあると見た上で 神との近しさを願っている。つまりは けっきょく恩恵の問題であると見ている。 このヘーゲルの《直接知》の説のような精神の世界に入って行くというのは どうなんでしょう プラトンのイデア論の影響なのかどうなのか。 つまり 出しゃばりますが わたしなら 神とわれとのつながりは――けっきょくやはり恩恵なのですが―― ヒラメキひとつに見ます。あとは 《精神世界におけるいと高き場としての直接知》うんぬんというふうに そもそも詮索しません。ヒラメキがあるかないか これのみです。 《純粋精神 ないし 純粋意識》といった方法は 使い勝手がよくないと自覚すべきではないでしょうか。船酔いをするのが せいぜいではないかと。 ▼ ( p.48 ) 「直接知並びに〔古い形而上学の〕媒介知も完全に一面的である」こと,「真実なものは両者の統一である」ことである。従って「直接知は〔真の〕媒介知の所産であり成果である」と把握されなければならない。 ☆ とは言っています。 同じく まさに《船酔い》の怖れについてはっきりと述べています。 ▼ ( p.50 ) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・即ち神は無規定的たらざるを得ないため,「宗教的自我自身」が直接知の「目的」,「対象」になることを意味する。 * 《神》ではなく 《宗教的自我自身》が目指されることになってしまうと。 次は 船酔いを超えて 蛸壺に閉じこもってしまう怖れのようです。 また直接知の主観が内容なき空虚な自己同一性,「抽象的直観」の境位にあることはこの主観が「自己の特殊性」に閉じ籠り,「他との共同性」を否定することであり,直接知の哲学は「若干の個人」の「秘教的占有物」となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ ( p.50 ) ・・・宗教は表象 哲学は概念的把握を境位にしている。 ☆ ですから 《非思考の庭〔なる信仰の動態〕》としてのいまひとつ別の境地を忘れてはいませんかとなります。《表象》は 神を相手にする場合には しばしば観念の神――思考や想像の産物としての神(つまり 言葉の体系)――の世界に落ち入りがちです。 ▼ ( p.50 ) しかし,ヘーゲルは神は優れて「精神」であるとする。「神は最高の感情ではなく,最高の思想である。この思想は表象の中に引き下げられるとしても,この表象の内実は思想の国に属する。」 ☆ こうだとすれば それはそれで 開き直るすべはあるわけです。すなわち 神はあくまで補助線であり 補助線であるに過ぎないものだという大前提に立って 神学をかたちづくるという行き方です。 つまりこの場合は もう《直接知》がどうだこうだという思わくからは離れているはずです。どこまでも補助線を引いて行くのだという経験科学に徹するといったような学的方法。 次のくだりは 一方での《あくまで主観におけるヒラメキ∽精神の昂揚の世界における直接知の探究》と 他方での《補助線による経験科学としての神学の構築》といった両様の行き方を示しつつ まとめているように思います。 ▼ ( p.49 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2.4.3 直接知が対象を知る場合,それは単に知る(wissen)のみでなく,「確実な」(gewiss)ものとして知るのである。直接知には論証の入る余地はないため,真理の基準は意識の直接性,「信仰の核心」たる確信に求められ,「私がそれを確実に知るから正しい」という論法が行われる。 だが確実性(確信)と真理性,知と認識とは同じものではない。「知ることは何かが私に対して,私の意識の中にある主観的な仕方である」が,認識するとは「普遍的なもの」を「その特殊な規定に従い自己における連関として」知ることを意味する。 真理には確信が伴うが,確信があるだけでは真理とは言えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《補助線》ということにかんしても 出て来ますね。 ▼ ( p.53 ) しかし直角三角形からピュタゴラスの定理の結果にたどりつく証明そのものは,「補助線」を引く「我々」の介入で「事象の本性にあるのとは違った行程」を進み,この進行は我々の「目的」により規定されるのである。 ☆ そのあとにも続きますが そしてこの指摘は むしろ補助線の効用の無さまたは弊害をも言っているようですが わたしたちは《我々》の確信と試行錯誤の精神とで 補助線の作り出す科学という行き方もあると主張したいと思います。 そして結局は・先走るなら 《主観における確信としての直接知》と《補助線による幾何学的な冷たい間接知》とは さらに大きく人間存在の全体としては同じひとつの総合的な神学へと進められて行くものと考えたいと思います。 神の存在証明の本論をまだ残していますが ひとまづここまでをわたくしの批評としたいと思います。どう展開して行きますか。