日本人の神とその信仰

このQ&Aのポイント
  • 日本人の神とその信仰について、神の依り代や神社の意味について解説します。
  • 神とは神本体の依り代であり、神社や山や石などがその役割を果たしています。また、日本の信仰は八百万の神々として表現されています。
  • さらに、信仰は様々な形を取ります。クリスチャニズムでは天使が重要な役割を果たし、自然本性におけるヒラメキの位置も考察されています。一方、日本人の信仰は自然や自分自身の霊に対する敬意があります。
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日本人の神とその信仰

 1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

☆ おごそかな感じ。あるいは こうごうしい(かみがみしい)。という接点から始めますか。理論として耐え得ますか。 ◇これは、「おそろしく」主観的なものなので、 おそらく、学問的、特に哲学的な意味での普遍性はないのでしょう。 その意味では、理論としては耐えられない、と思います。 ですが、 何故だか分からないけれど、 この感性{?}的なもの、直観的なものは、我々の経験として現に存在しており、 そして、 そこには、人種、民族、文化、宗教的な違いを越えた、ある種の共通性があるのも事実であり、完全ではないけれど、ある種の普遍性はあるのでしょう。  ───これがたとえマヤカシであったとしても、構いやしない。このマヤカシ発生の機構が存在することだけは事実なのでしょう。ですが、これがマヤカシであったとしても、理性や悟性といわれるものよりも、より本源的、原始的で、より人間の本源に基づいているのだ、と思う。─── であるから、 従来の哲学的体系とは異なるけれども、 こうした経験を基にした、新しい体系を作ることはできるのではないか。 このように考えております。

bragelonne
質問者

お礼

 そこまではわたしは言えませんでした。すごいですね。  ご回答をありがとうございます。  まぁ 一般論として言えば センスス・コムニス(共通感覚)の主題に成るかと思います。  ◇ そこには、人種、民族、文化、宗教的な違いを越えた、ある種の共通性があるのも事実であり、完全ではないけれど、ある種の普遍性はあるのでしょう。  こういう本を読んだことがあります。たぶん ピッタシカンカンだと思います。  △  鈴木孝夫:『日本の感性が世界を変える―言語生態学的文明論―』 2014(9月)   http://www.shinchosha.co.jp/sensho/editor/2014/603756.html  △ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  最近、日本大好きの外国人がテレビなどで紹介されることがありますが、彼らを見ていて、何か気づくことはありませんか?  じつは、外国人が日本語を学んでいると、「なぜか物腰が低くなる」「なぜか優しくなる」「なぜか自己主張が苦手になる」「なぜか礼儀正しくなる」といった現象が起きます。  フランス語で「タタミゼ」(タタミ化する=日本化する)と呼ばれる現象ですが、鈴木先生はこれに着目します。世界に類を見ない日本のやわらかな心性が、外国人を変える力を持っているのではないか。  つまり、「対立・論争」的で人間中心主義の一神教的世界観ではなく、「情緒と融和」を基調とした日本の感性が、人間を、世界を変える力を秘めていると言うのです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さらに 紹介記事は語ります。    △ ~~~~~~~~~~~~~~~  ここに至って、日本の独特な感性は、極東の島国の個性という文化的評価にとどまらず、一神教的世界観からの転換という「文明的使命」を帯びていることが分かってきます。  ちなみに、あの高名な数学者岡潔が、情緒こそ日本人の根源的価値であると述べていることを連想する人もおられるでしょう。  日本独自の世界観とその力を、ローカルな文化性として考えるだけではなく、文明論として考えること。この著者の視点こそ真にグローバルな知であり、他の誰でもなく、日本人に求められている思考であることを教えてくれる一冊です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  ・・・理性や悟性といわれるものよりも、より本源的、原始的で、より人間の本源に基づいているのだ、と思う。───  であるから、  従来の哲学的体系とは異なるけれども、  こうした経験を基にした、新しい体系を作ることはできるのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここまでは よう言いませんでした。  その代わり こういうことを考えたことはあります。  つまり 日本のムラをひとつづつそっくり外国へ輸出するという方策です。むろん ムラビトもいっしょに行きます。それがなくては 何にもなりません。  なお理論立てることにはこだわりがありますが まぁ 天使か依り代かは もはやどうでもよいのかも知れません。

その他の回答 (5)

回答No.6

相変わらず、勝手な解釈で、専門家の意見も無視。 一般に「依代」を要する「宗教」は格が低い、何かが無いと誰も信じないのでは 安過ぎる。 まともな宗教には「依代が無い」、 「厳然として無なる」 空間が神を宿す。 古代中国では滅ぼした王朝の「聖なる空間」を「封じて」しまう。 するとその空間が死ぬ、神が死ぬ、前王朝が死ぬ。

bragelonne
質問者

お礼

 何言ってんだい。  ★ 古代中国では滅ぼした王朝の「聖なる空間」を「封じて」しまう。 / するとその空間が死ぬ、神が死ぬ、前王朝が死ぬ。  ☆ これが 依り代だよ!  もう少しあたまの中を整理してから どうぞ。  でも ご回答をありがとうございます。

noname#207067
noname#207067
回答No.5

梵我一如とはいうけれど、 詳しく調べてないからなんともいえないけれど、 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドには 梵我一如という言葉ではでてきていないようなそんな印象です。 どこかにでてくるのだろうか。 あと、私は質問を削除したけど ヤージュニャヴァルキヤとマイトレーイーの会話を参照すると、 わかりやすいような。わかりにくいような。 ヤージュニャヴァルキヤとマイトレーイーの会話は ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの第二章と第四章に 同じような話だけど、異なっている話があるので まるで福音書のように読み比べる必要がありそうです。

回答No.4

宗教は、その発生においてはアニミズムであり、 人の力ではどうにもならない自然の脅威や節理に 対して、具体的にどうしようもない事に対しても せめて何とかしようとする“祈り”、存在の意味や 生きる目的といったその時点では及ばない認識を 補う“説明”、死の不安を打ち消す死後の世界の “想定”といった目的として、神や精にすがった。 それに対し、キリスト教やイスラム教、仏教など 世界宗教が、ほぼ同時期に広まったのは、社会の 発達において、個人の意識の自己チューさを抑え、 社会的行動をとらせるタガとして、国家の登場と 同時期に、時には国家の治世の道具として利用さ れながら、発達したのだ。 そうした応急処置は、存在の本質の無からの演繹、 生きる目的の社会生命的自覚化による自律的社会 行動など、自己存在の本質に根差した意志におい て不要のものとなる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 宗教は、その発生においてはアニミズムであり、  ☆ 宗教は あくまで個人の信仰を何らかの表象において捉え一般に言葉で表現したオシエとし さらにはこのオシエ(成文とは限らない)のもとに個人の信仰ないし生活を束ねる組織的または集団的な心的現象です。  つまり 個人にとっての《わたし》の固有のときを生きる信仰とは 似ても似つかない社会的行為です。  もっと言えば 信仰がみづからをないがしろにする自殺行為によって成り立つものです。  アニミズムは あくまで個人のオドロキや不思議さから始まります。これを束ねるのは シャーマニズムでしょう。束ねる前には すでにアニミズムがその感性そのものの中に沈み込んで行く動きがあって それはすでに意識を無くしたようないわゆるトランスの状態に成るという現象を 意図して起こすというようなことだと考えられます。  シャーマニズムがさらにちょっと高級になって一般にオシエを持つに到る。こうして――オシエが聖化され・またはそれを体得した人間が 勝手に人びととは違った存在として聖別されて来ると―― 信仰が集団による宗教に変身します。  その意味では  ★ 宗教は、その発生においてはアニミズムであり、  ☆ となるのかも知れませんが きわめてミスリーディングだと考えます。信仰という基本が ないがしろにされます。  ★ 人の力ではどうにもならない自然の脅威や節理に対して、具体的にどうしようもない事に対してもせめて何とかしようとする“祈り”、  ☆ これは 初めからのナラハシではないでしょうね。もともと自然への恐れがあればこれは むしろ畏れとして自然をあがめるようになる部分も大きい。と言わねばならないでしょう。《どうしようもないコト》に対してむしろこれを受け容れるという素直さを持ち合わせていたという見方です。そういう側面のほうが 基本であったのだと。  ★ 存在の意味や  ☆ これも考えなかったでしょうね。つまり 《わたしはわたしである》あるいは《わたしたちはわたしたちである》といった自己への到来――つまり個人としてではなくても 共同体としての自己の自覚を得るようになったと思われ そういう意味での自己への還帰――が やはり基本となったでしょう。《存在》とは このわたし〔たち〕だとうっすらとでも自覚していたでしょう。  ただし初めから その《時間的存在》なることを自覚していたとは思われません。つまり この地上における存在がおしまいになるとは まだはっきりとは知らなかった。  ★ 生きる目的といったその時点では及ばない認識を補う“説明”、  ☆ たぶんそんな悩みは 持たなかったでしょう。持つ必要がなかった。なぜなら この存在に終わりが来るのかどうかは 分からなかった。或る日老いた人がたおれて動かなくなった。としても それは 長い眠りに就いただけと思ったかも知れない。要するに《死》をいまだ知らなかった。そういう意味では 悩みや不安は 死を死として知ったあとの人間にとってのそれとは おそらく違っていた。    ★ 死の不安を打ち消す死後の世界の“想定”といった目的として、神や精にすがった。  ☆ これは ですから 死を死として知ったあとの――いわゆる《世界‐内‐存在》であることを知ったあとの――人間として やがて持つことになった問題でしょうね。人が人としてわれを心得るという生活態度(思想)が 世界内存在であることです。  要するに墳墓の中を開けてみたら 蛆虫がたかっていたり もう身は無く骨だけになっていたりした姿を見たときから 死とはただ倒れ眠るのではないと知ったはずです。  だからと言って それでも《あの世》についての不安や悩みが現われたとするのも 一面的だと見ます。要するに 死とは死んだらもうおしまいなのかと知ったあとでも人びとは 単純に・素直に ぢゃあ不老不死をねがうという思いに切り替えた。だけであるとさえ思われます。鏡があると そうなるといった望みが流行ったりした。  ですから 神という場合でも・周りの何もかもが精霊として受け留められアニミズムの世界がなお続いていた場合でも そこに――つまり精霊にそして神に――見〔たいと思っ〕たのは 単純に世界との一体感・おのが存在にとっての現実との一体なる状態のようなものだったでしょう。  そういう意味で《すがった》かも知れませんが 何も人びとは不安に怯え悩みに凹んでしまったと捉える必要もないのではないか。  死は死として そのむかしの人びとは 素直に受け入れたのです。これが 基本です。あっぱれではないですか。  ここから出発しなくてはならないでしょう。  それでも家族や身内や仲間の人たちが 亡くなって行くのは かなしい。そこで祈るのであって 臆病者が何ものかに取りすがるといった絵は描くべきではないでしょう。  ★ キリスト教やイスラム教、仏教など世界宗教が、ほぼ同時期に広まった  ☆ って どういうこと?  それに いまこの質問では 《シュウキョウ》は お呼びではありません。  ★ 社会の発達において、個人の意識の自己チューさを抑え、  ☆ 独りあるときのおのが固有の時間 としての信仰からやがて誰かがへそ曲がりを起こして 信仰から離れて行く。そうして 信仰を目に見えるかたちにしたい。思考を超えた心的現象をおのが思考の下に捉えこれをあやつりたい。そうして オシエを持ち人びとを束ねようとする悪巧みを考える。このようなシュウキョウの発生が 人間の《自己チュー》化を物語っています。  ★ 自己チューさを抑え、社会的行動をとらせるタガとして、  ☆ というその施策は あくまですでに集団として組織としてシュウキョウが始まったあと その束ね(=ファッショ)を展開し保守するために採ったものです。締めつけの問題でしょう。聖職者には それぞれ権限を位置づけた階層組織としてのヒエラルキアを用意し 一般の人びとにはこの阿呆どもによる締めつけがおこなわれた。だけのことです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  ・・・存在の本質の無からの演繹、  生きる目的の社会生命的自覚化による自律的社会  行動など、自己存在の本質に根差した意志  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんな理屈を言っているから 悩みも不安もなくならないのです。世界の中にわれあり・われはこの世界の中にありと言って 日から日へ地道に生きて行けばよいのです。

回答No.3

勉強会として参加するよ。 くだらない事聞くよ。 八百万の神々 これ平仮名で書き下してくれ。 変換できなくて間違って覚えているみたいなんだ。 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ これについて、 君達はなにも語っていないから無だ。 私は語らないことにあり無だ。 したがって全てが無である。 この私の説だと論点がずれるね。 神との関わりがない。 ところが彼は世界観を大切にしたと思うよ。 涅槃も、観念世界という夢の事だし。娑婆という認識も、現実に対する世界観だ。 彼が神についてどうとらえていたかは、自称弥勒菩薩の私には思い当たることがあって、 神のみがある。 私は存在しない。 これを徹底的に突き詰めようとしていたんだろう。 むしろ汎神論的なんだが、徹底しているので、無色の汎神論、姿の見えない神という考えなのだろう。 あんたにしてみると当たり前のコレが、当時は表現するにあたって苦心しただろうね。 無の教えは、彼が仏陀という当時の聖人と目され、それに合わせて世間と対峙するための処世術だよ。 肝心の事ははぐらかすことにしていた。 彼はうそつきじゃなく、本物だと言われているね。 今更疑わないんだろうな。 仏陀の本能には、肝心な事を話すと疑われるから、嘘をついてそれを本物にしてやれと言ったところがある。 嘘の方が耳心地が良く、彼らは喜ぶんだ。 彼らの証言だと、私達の心に寄り添い判りやすく教えてくれたと感謝するんだ。 F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性) これに関して素朴な私の感覚では、 神を語ること、 神を考えることが、 それ自体で神を偽り、神に疑念を抱く裏切り者。 宗教は廃人のための精神病院。 仏教文化と相まって、語らない事こそ神である。 こうなる。 貴方が心をこめて語った、 きよらかなおそれ、 これの事なんだろう。 日本人の神には、人様、世間様、これも含まれるだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 八百万の神々  ☆ やほよろづのかみがみ⇒やおよろずの・・・  ★ 無・涅槃・娑婆  ☆ これらは やはり《苦――ドゥッカ(思うようにならない苦しみ)――》から始まっているということが 大事ぢゃないか。  苦からの解脱として ニルワーナがある。娑婆は 苦の世界。あるいは のちには 娑婆即浄土という見方も打ち出された。などなど。  ★ 無の教えは、彼が仏陀という当時の聖人と目され、それに合わせて世間と対峙するための処世術だよ。  ☆ わたしの解釈だけれど――異論があれば ねむねこさんなりによって明かされる―― ゴータマは 最初どうしても(つまり 身分制がひどいと思われたブラフマ二ズムに反対して)霊我と呼ばれるアートマンに反対した。だから 無我=アン‐アートマンという路線を打ち出した。  よって そのまま必然的に ブラフマン神をも否定した。  ブッダと呼ばれるひとは ほかにもいたし そういう名称はすでにあったらしい。もとは 神ブラフマンを否定し 霊我アートマンをも無と捉えたゆえ 人間のすぐれた境地を持つ者としてのブッダに落ち着いたものと思われる。    つまり 世間からブッダなる聖人と目されたというよりも 自分から この上無くとうとい知恵のさとりを得たと宣言し宣伝したのだと思う。  このさとり宣言が どういうわけか・その中身を明らかにせずじまいであっても 世の中の人びとに効果を発揮した。どういうわけか賛同者が多く現われた。  ただし ゴータマ亡きあと 人びとは おかしい 何かおかしい どこかおかしいと考えたはず。つまり ブッダなる境地は 思考の問題ではなくむしろ霊我アートマンと同じ信仰の問題だと分かるようになった。つまり 神は ブラフマンでよい。  ただし そのことを――つまり梵我一如なる信仰のかたちでよいものを――わざわざ今度は    C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  というかたちにしたのだと考えられる。梵我一如とまったく同じかたちなのにである。名前が違うだけ。だと思われる。  ★ 日本人の神には、人様、世間様、これも含まれるだろう。  ☆ これが 《依り代》なのだと思う。神本体ではないから ものごとや人間 何にでもそのような神の依り代(仮りのシルシ・補助線)を見ることになるらしい。日本人は。

回答No.1

なにごとの おはしますかは しらねども  かたじけなさに 涙こぼるる        by 西行 神は感じるものですよ。 山にも、石ころにも、たとえ、人工的な神社という舞台、神の社であろうとも、人間の思惑や《はからい》とは無関係に、 神は万物に内在、遍在している。 当然、人間にも宿っている。 文学的な表現になりますけれども、 人間に宿る神が他に宿っている神を感じるんでしょうね~。 まっ、 神社や神殿、教会というのは、「神を感じやすくする」という人為的なもの、作為的なものが入っており、時にダマシになることもあるかもしれませんが、 だからと言って 「神を感じている」、あるいは「神を感じられる」ということまで否定することはないのでしょう。 こうした思いや思いが発生することは、他の人の思惑とは無関係なのでしょうから。 そして、問題があるとすれば、 この後に、宗教者が有り難い教えなどを説き、人を教導したりすること。マインドコントロールして、人を利用することなんでしょう。 また、 その社や呪物を神そのものと考えるのも過ち。 それは、あくまで、神へのインタフェース、装置や補助線にすぎないので。 ところで、 西洋に住むタコ、西洋に棲息する鈍感なタコでさえ、高野山なんかに行けば、何かを感じるものらしい。 キリスト教、仏教という宗教の違いをこえて、何かを感じている。 こうなれば、 イエス、お大師さまという形式的な神の違いは問題にならない。 敬虔なクリスチャンであろうが、違和感なく、奥の院におはす《お大師さま》に自然と手を合わせることができるのであった。 この時、 《お大師さま》というインタフェースや補助線を拝んでいるのではなく、 その先にある???を拝んでいるのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  いいと思うんですけれど。  ひとつは  ◇ 文学的な表現になりますけれども、 / 人間に宿る神が他に宿っている神を感じるんでしょうね~。  ☆ とみとめておられるように やや文学的だと感じるところがあるのではないでしょうかねぇ。  ◇ 《お大師さま》というインタフェースや補助線を拝んでいるのではなく、 / その先にある???を拝んでいるのですから。  ☆ 依り代は インタフェイスですか。インタフェイスの《その先にある???》なのですね。  ちょうど新日本風土記で《高野山》を見たところです。奥の院では 毎日食事をつくり運んでいるのだとか。運ぶところまでは 取材が出来なかったようです。料理をしている修行僧のすがたが映りました。    しかし ここまではやり過ぎなんぢゃないでしょうかねぇ。分かりませんけれど。自由ご勝手でしょうけれど。  もうひとつは インタフェイスはいいんですが この日本人の神観または神感が クリスチアニズムの場合とさほど違わないという点ですね。  ◇ 西洋に住むタコ、西洋に棲息する鈍感なタコでさえ、高野山なんかに行けば、何かを感じるものらしい。 / キリスト教、仏教という宗教の違いをこえて、何かを感じている。  ☆ とは 触れてもらっていますが これが《感性》の問題であるということでしょうか。  ☆☆(趣旨説明欄) 4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  ☆ ということ。この見方が どこまで日本人の感覚に入っていけるか。入って行く必要はないのか。  あるいはつまり 理屈の問題として:  ☆☆ (趣旨説明欄)  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  ☆ ということが このまま仮説として推し進めて行ってもよいものかどうか。  《見る》というより《感じる》ですか?  おごそかな感じ。あるいは こうごうしい(かみがみしい)。という接点から始めますか。理論として耐え得ますか。  あとは:  ◇ ~~~~~~~~~~~~  そして、問題があるとすれば、  この後に、宗教者が有り難い教えなどを説き、人を教導したりすること。マインドコントロールして、人を利用することなんでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように おのおの《わたし》の固有のときとしての信仰と そしてオシエにかかわって人びとを束ねる宗教とを区別出来ていればよいのでしょうね。

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     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。