《信じる》を哲学として定義せよ

このQ&Aのポイント
  • 《信じる》とは、一般に《神》を対象として、神の名を心に受け容れることである。
  • 《神》は非経験の場であり、経験的な因果関係から自由であるとされる。
  • 信じることによって、信仰は動態となり、非思考の庭で日々進化していく。
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《信じる》を哲学として定義せよ

 たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

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  • ok9608
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回答No.7

No.5です。 無限・・・・・たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか? ==>無限は経験域の中と思います。無限の正体ですが定義から理解するしかありません。数学では無限とか虚数とか 非ユークリッド幾何とか 日常では馴染みのない言葉がでますが 定義はされており全て経験域とおもいます。物理現象の無限については 観測不可というだけです。だから非経験とするのは狭義の理解であって言葉と捉えると経験域となると思います。 【信じる】の議論 ありがとうございました。平行線議論と思い ここで休憩とさせて頂きます。また言いたくなったときは投稿しますのでよろしくお願い致します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 言葉と捉えると経験域となると思います。  ☆ こんなことは尋ねていません。  ★ 無限の正体ですが  ☆ を尋ねています。  けれども  ★ 定義から理解するしかありません。  ☆ というような《理解》の問題を尋ねているのでもありません。  定義した内容としてのそのモノゴトないしコトガラが 経験現象として人間に観察され得ますか? という問いです。  ★ 物理現象の無限については 観測不可というだけです。  ☆ だから どうなんでしょう。《観測不可》は 経験現象なのですか? どうしてそう言えますか?  あるいはつまり 無限についての定義内容に対応する経験現象は 《観測可能》だとも《不可能》だとも どちらとも言えない。言えるか言えないかが分からない。――こういうことではないのですか?  おつかれさまでした。  

bragelonne
質問者

補足

 ここからさらに前へすすみたい。という意味で BAと思いました。

その他の回答 (26)

noname#195588
noname#195588
回答No.28

文字化けするかもしれませんが コピペするために違うサイトから。 どうやら番号が違います。 http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pitaka/5Khuddaka-Nikaya/05Suttanipata/4-atthaka-vagga-p.html 841. Idaṃ vadāmiti na tassa hoti (māgandiyāti bhagavā) Dhammesu niccheyya samuggahitaṃ Passañca diṭṭhisu anuggahāya Ajjhattasantiṃ pavinaṃ adassaṃ. スッタニパータ 837 Ajjhattasantiṃ ajjhatta 内心の santi 安らぎ です。 パーリ語のオンラインの辞書です。 http://palidictionary.appspot.com/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 937. Etañca dhammamaññāya Vicinaṃ bhikkhu sadā sato sikkhe, Santiti nibbutiṃ ñatvā Sāsane gotamassa nappamajjeyya. http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pitaka/5Khuddaka-Nikaya/05Suttanipata/4-atthaka-vagga-p.html 上のサイトだと937 933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。 なんだ nibbutiがsanti だと書いてあったのか。 涅槃が安らぎ。 地道にパーリ語の勉強をしないとなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  なんだ  nibbuti が santi  だと書いてあったのか。  涅槃が安らぎ。  ~~~~~~~  ▲ Nibbuti  ~~~~~~~   http://dictionary.buddhistdoor.com/en/word/98331/nibbuti  (f.) [Sk. nirvṛti, abstr. to nibbuta]   allayment, refreshment, cooling, peace, happiness  ▲ santi ~~~~~~  शान्ति zAnti f. peace [ of mind ]  शान्ति zAnti m. calmness of mind  शान्ति zAnti m. rest  शान्ति zAnti m. alleviation  ~~~~~~~~~~~~  ★ ajjhatta 内心の  ▲ adhi ~~~~~~~~~  अधि adhi ind. as a prefix to verbs and nouns  अधि adhi ind. concerning  अधि adhi ind. from above  अधि adhi ind. instead of  अधि adhi ind. expresses above  अधि adhi ind. from  ▲ ajjhatta < Skt. adhyaatman ~~~~  अध्यात्मम् adhyAtmam ind[eclinable](不変化詞).  concerning self or individual personality  ▲ aatman ~~~~~~~~~~~~~~~~~  आत्मन् Atman m. spirit  आत्मन् Atman m. soul  आत्मन् Atman m. individual soul  आत्मन् Atman m. peculiarity  आत्मन् Atman m. essence  आत्मन् Atman m. self  आत्मन् Atman m. nature  आत्मन् Atman m. breath  आत्मन् Atman m. character  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ 933 諸々の煩悩の消滅した状態  ☆ このような発想は 現実を扱う姿勢であるとは思えないと思います。どうかしていると思います。  (一方的で断定していますが)。

noname#195588
noname#195588
回答No.27

Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html 9、マーガンディヤ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」 >それはばかばしい教えである スッタニパータのパーリ語テキストを見つけたので スッタニパータを読んでいたのですけれども、 仏典の中でも最古と言われるスッタニパータのさらに、第四章と第五章のうち、 第四章に、マーガンディヤの話があって、 そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは なんだか凄いなと思いました。 仏教徒もゴータマの神格化をする一方で、どうしてこの箇所をひたすら残してきたのか? それから、 837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」 この、 内心の安らぎ これは、ニルヴァーナではないんですね。 ニルヴァーナはパーリ語だとニッバーナ。 だけど、ニッバーナでもない。 今まで、安らぎ=ニルヴァーナだとずっと考えてきましたが、 837のパーリ語テキストに、ニルヴァーナもニッバーナも出てこない。 内心の安らぎが、やがて、ニルヴァーナに変化していったのも気になりました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《内心のやすらぎ》を意味する語は どういう語でどんな特徴を持ちましょうか。    ★ ~~~~  そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは  なんだか凄いなと思いました。  ~~~~~  ☆ 相手に《ばかばかしい教え》だと言わせてあとでひっくり返すという手が用いられたと考えられる余地はないでしょうか。  というよりも 言っていることが 分かりづらいようです。  ▼ 837 『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。  ☆ これは 分かりにくいと思います。  これから説くぞというわけのものではなく つまりそういう姿勢でいるのではなく そうではなく 自分の普段のあり方や態度をそのまま表現し 相手に伝えていると言っているかに思えますが それにしても分かりにくいようです。  ▼ 837 諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」  ☆ 《おれは このコトに執着しているなと知ってこれを自覚し そのぶん執着から離れ では何故そのコトに自分はこだわるのかと省察しつつ》までは それとして分かります。  そのあとすぐ続けて 《内心のやすらぎをわたくしは見た》と言います。  《見た》だけなのだから 何らかの理念のようなまたイメージのような直感を得たというのであろうか。つまり ただそれだけのことを言おうとしているのであろうか。  もしくは 直感を得たゆえ そのことの自覚において中身の説明しうる直観としても持ち得たというのであるか。    けれども もしこの後者だとすると その《中身の説明》については まづ 無いということではないでしょうか。外郭のことで説明しようとすることはあっても 中身を明らかにしたことは 一度も ないのではないだろうか。  いやあ だからこそ 《信仰》なんですよと 言い返して来たなら どうか。  信仰とは何ぞいや? とさらに問い返すでしょうね。  これについても一切明らかにしていないはずです。  神通力が得られるといった要素で指し示されるのかも知れません。  では 神通力とは何ぞや? という問い返しがなされます。  ・・・・・  つまり 外郭についての説明はあっても 中身を明らかにすることは一切なかった。のではないでしょうか。

noname#189751
noname#189751
回答No.26

>なんでこの話になったのかな。 しるか・・ >この事件のあと へたなことは出来なくなった・・ あ~ それは きっと 直観 っていう闇の主(あるじ)が ゴジラは暴れちゃいけません って 言ってくれたんだろう ってな感じで まあ 打ち合って 両者ともにヘトヘト  ダウン寸前だ いや  もうダウンしちゃってるみたいだ リングの外から ジョー 立て! 立つんだ ジョー! 打つんだ ジョー! って聞こえてくる かすかに・・ (耳が遠いんで ) そろそろ 最後のカウンターパンチを操りだそう これ一発で 天国に送ってあげよう 安らかに眠れ・・ (おれも そろそろ眠るから・・ ) 持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・ 一生持ちつづけられる信心 というものは そんな気がしてならない 神でも仏でも おんなじ じゃないかな 得た というよりも 授かった という思いがなければ続かない いただいたものは そう簡単には捨てられない から 信心の重み ってそんなところに きっとあるんでしょうね・・ と まあ そんなところで いいかな ・・先生 えっ まだ やるの・・ もう 勘弁してよ う うでが上がんないよ・・ えっ 何っ 今度はキック・・だって よせやい 年寄にキックなんて できるわけないだろ・・ (ヒック ) (あ~ ) (キックじゃなくて シャックリがでちゃった・・ ) お粗末 ごめん・・ もう書かないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~  持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・  一生持ちつづけられる信心 というものは  そんな気がしてならない  ~~~~~~  ☆ そんなこと しるかぁ。  信仰は ナゾの何ものかがあたえたというだけのこと。  おれさまは しるもんか。  ただただ いまのおれさまのそのときその場で相手を相手として考えるところを生きるのみ。  《感謝》だって?  感謝することそのことも あたえられるんだから。  ★ 一生持ちつづけられる信心  ☆ 何言ってんだい。あるのは いまのみ。いま・ここなるわれのみ。ぢゃわい。  一生がどうのとのんきなことを言ってらぁ。  お礼を書かないから つづきはいいよ。

noname#189751
noname#189751
回答No.25

どうやら先生は 直観を ヒラメキ限定版というふうに思っているらしい あ~ ちがうでっしゃろ ろ ろ ろ 目には目の直観があり 耳には耳の直観があり 指には指の直観があり 鼻には鼻の直観があり あり あり 感覚というやつは直観だらけだ 切り離せない 感性というやつは 感覚器官だけじゃない 感覚と同時にはたらいている直観と それを認める意志も含めた全体だ って 急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている 明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・ なんだよね フルスピードだ 何をやっているのかというと 脳みその隅から隅まで探しまくっている 一二分は長い・・ 直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ あ~ 何べん いわせるんだろ・・ やだ しつこい (古い冗談をリクエスト・・ ) ゴジラの直観 なんか切ない  泣ける ガオーッ! おおっ こわ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている  明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・  なんだよね  ~~~~~~  ☆ これだとすると これはなかった。《意志》はまだ ポカンとしていた。  《直観》は もし《遥か彼方まで突き抜けていたと感じた》その感覚のことだとすれば あった。  ★ ~~~~  フルスピードだ  何をやっているのかというと  脳みその隅から隅まで探しまくっている  一二分は長い・・  ~~~~~~  ☆ いや。このような動きはなかった。  《一二分》というのは まぁ 感じとしてですね。測ったわけではなく そしてそれほど短い時間でもなかったから。  ★ ~~~~~  直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている  フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ  ~~~~~~~  ☆ そのとおりだとしても そのヒラメキが起きたとは思わない。そういう事態ではなかったのではないか。  ただし では何かと問えば 一般にヒラメキのたぐいだとは思う。ほかに呼び名はないと思う。  あぁ だから ヒラメキからそのとき得られる何かを除けば それが起きたことです。  もんだいは この事件のあと へたなことは出来なくなったなと思ったこと。ビフォーとアフターの違いはと言えば さしづめそれが 顕著な出来事だったのではないか。  なんでこの話になったのかな。

noname#189751
noname#189751
回答No.24

>或る日 (或る夜) 寝る前に・・ >或る日 (或る夜) 寝る前に・・ い~ ですね なんともいえない 調べというか  風情というか 唱えたくなる・・ 神様が いらっしゃった と つづけたくなる (まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう) (おそらく それまでにも度々あったのかもしれない) (ただ その時だけはちょっと違っていた んでしょう) (・という 岡目八目) (だとすると ) (自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ ) (直観に聞いてみたのかな ) (どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ ) (これでいい というものが見つかったのかな・・ ) (無師独悟の了解とは 自らの意志との契りみたいなもんだ ) (と   おれも口が悪くなった な・・ ) (先生が悪いんだ 先生が・・ ) (いつまでも ) (引き止めて ) (しゃべらせて・・ ) さら さら さら さら さら さら さら さら さら と 風が吹く Bさん どこへ行ったんだい あれほど 理屈屋だった Bさんは どこへ さら さら さら さら さら さら さら さら さら と 風が吹く お~い Bさん どこへ行ったんだい ゴジラの ぬいぐるみ を持っていこうか 聞こえるか~ さ - じゃ - さ - ピシャ ピシャ ッ 雨が降る なんだ いたのか~ こんなところで 雨宿り 放っておけよと 一人で 雨宿り 濡れた おいずる 背にかけて 口をつぐんで 雨宿り 杖でたたくは 土の音 ふう~ 足止めも ほとけの道 さっさと行くも ほとけの道 じゃ 行くよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。(さらにあらたな質問へもすすみます)。  ★ (まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう)  ☆ この《感覚の遮断》というのは 分からない。たぶん違うと思う。感覚は 遥か彼方まで突き抜けていたというような感じでしたから。  ★ (おそらく それまでにも度々あったのかもしれない)  ☆ いえ。あとにも先にも そのとき一回きりです。  ★ ~~~~~  (だとすると )  (自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ )  ~~~~~~~  ☆ いや。意味のある言葉は そのとき――もしくは 感覚的に言ってしばしのあいだ――思い浮かばなかった。  感覚がするどくなっていながら きょとんとしていたかも知れない。  そうですね。ふと 《真理》という言葉は浮かんだかも知れない。  そして この体験を《信じる》の事例だと捉えて行ったのは もっとあとです。(ただし いまおこなっているような理論化はまだしていなかった)。  ★ (どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ )  ☆ いや。感覚。  夏の夜で 窓から夜空が見えたのだけど その感じとしては 《宇宙》というようなイメージの広がりも浮かんだかも知れない。でも おぼろ。  いづれにせよ 《直観》というような何かのヒラメキではなかった。  風と雨か。

  • kurinal
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回答No.23

こんばんは、Ano.11です。 >「けれども《信じる》という人間の行為とは どういうことか?   この問いは 別です。  よくお考えくださいな。」 母乳ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 母乳ですね。  ☆ 《聖なる甘え》とわたしは呼んでいます。

noname#189751
noname#189751
回答No.22

あんま か・・ 肩はこっていないんだけど・・ あ~~ 終わんないじゃないか 先生・・ かっこよく終わそうと思っていたのに また・・ >その後一二分 このへんの描写は 珍しく感覚的だ 意志の裏側へと駆けていったもの とは何だろう 一二分は長い 気の早いBさんにしては長い印象を受けてしまう その内面時間の一二分は たぶん 実時間ではいくらもなかったはずだ 意志の集中の一二分感覚ではなかったか 意志の了解に必要な時間だったんじゃないかと 意志の全てに照らして間違ってはいない という了解を求めた時間だったんだろう はっきりいうと それは 始めはヒラメキではなかったと思うし 意志がヒラメキを待つ時間だったのかもしれない それほど集中していたんだと思う その集中をもたらしたものとは何だったんだろう 指が動くね・・ 言葉だけでそこへ行ったんだろうか 仮に言葉だったとしても 書物の言葉のみだったんだろうか それとも 人の口からでた生きた言葉だったんだろうか 珍しく Bさんにしては 意味深な発言のような気がする まあ そんなところで・・いいんだろうけどね まあ 自分なんかも いい加減なところがあって ホトケの方なのに 十字架なんて言ったりしてる でも 信じることにおいての本質は変わらないんじゃないかと思う 自分の場合の確定は 生きた言葉だった そのへんも まあ やっぱり言いずらい 本音だ 黙という契りの意 分かっているなら何も言うことはない 信心の誕生という契りの体験は語ることではないんだから・・ あまり 疲れさせないでくれ 年なんだから・・ たのむ

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いや。或る日(或る夜)寝る前に 電気を消したあと そのことが起きた。  そのときまでに 《信じるとは何か》を考えて二三週間ほど経っていた。  夜中消灯してまだ横になる前に 起きた。  意識がなくなったのではなく しかも感覚としての見通し(?)がどこまでも突き抜けているようだったから ふと思いも考えも立ち止まっていた。  そしてそのあと―― 一二分してからという感じで―― あぁ いままで《信じる》とは何かを考えていたんだっけと思い直し これについて確認した。  《ことば》はない。お告げも 何らかの説明も。

noname#189751
noname#189751
回答No.21

追伸 神の愛は いくら言葉を聞いても分からない 手の掌の十字架を握りしめる時 それは与えられる 不完全という形で与えられる 信心は感性の了解なしには成立しない 感性による不完全な了解が 信心の誕生である 意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である 信じるとは 意志が感性を信じることである 一つの意志が 一つの感性を信じることである 我が身の感性が それをおいた他には意志の拠り所がないと知ることである 信心とは 手に小さな十字架を持つことである 小さな みしるし を手離さないことである 飾ることなく 手離さないことである

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううん。別に間違いっていうのぢゃないであろうけれど  ★ 手の掌の十字架  ☆ は あんまし。・・・  ★ 意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である  ☆ これはですね。どこまで一般的であるか分からないただのわたしの体験ですが:    ○ ナゾを受け留め受け容れたと思った瞬間      そのナゾに意志がみづからをゆだねているのを見届けた。  そして 感覚としては それこそ遥かかなたにまでその感覚が突き抜けて行っているというようなものだった。  これが 《信じる》ということかと見止めたのは その後一二分してからだった。

noname#180711
noname#180711
回答No.20

>隣の鐘を撞いていますよと言っているのです。  ほう、なるほど。鐘が小さくて、よほど狙い澄まさなきゃ、あたりもしないってわけですか。これはつまり、ぶらじゅろんぬ流の定義は狭い範囲にしか適応できないもので、応用性がないし、将来的に応用性を持たなくても良い、と認めたのと同じことですね。明確なお答え、どうもありがとうございました。最初からそう書いてくれれば、わざわざ訪問しないのですが、応用性のある、つまりは普遍的な定義を求めているのではないかと勘違いしたもので、顔を出してしまいました。私はお遊びの邪魔はもうしませんよ。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ほんとうのことを明らかにするのは ばつがわるいでしょうから このまま  まけてあげましょう。  ご回答をありがとうございました。

noname#180711
noname#180711
回答No.19

>どうしてその手続きをはづして あさってのほうから 前提以前の話をむしかえすのか。趣旨説明をよく読めと言って 追い返されても それが ふつうにていねいな応答になるはずの事例です。  何か応答態度の問題になっているので、中身はさておき(突っ込みどころはいくらでもあるが)、こっちの方に答えて終えますよ。それは普遍的な真理を求めているからじゃあないかな。出来の悪いものを呈示すれば、そもそも論になって、ひっくり返される。それは当たり前の事でしょう。ひっくり返しにかかる側も、相手がアウフヘーベンできるだろうと信頼しているので、遠慮なくやる。そんなに阿鼻叫喚するほどの問題とは思えない。何をそんなにカリカリしてるんですか。  まあ、あなたの感受性や考えと私のそれは合わないらしい。それを承知した上で、私の方は合わないなりに面白く話したいと思っていたし、あなたも同じだと思っていたんだが、違ったらしい。大きくつけば大きく鳴る鐘だとかなんとか言っていたが、あなたを買い被っていたらしいな。私が休んでいた数週間で、すっかり、あなたは変わってしまった。まあ、人間、虫の居所の悪い時はあるかもしれないな。私の方も仕事があるから、それに専念せよと神様が言っているのかもしれない。お暇しますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 大きくつけば大きく鳴る鐘だとかなんとか言っていたが、あなたを買い被っていたらしいな。  ☆ どこが?    隣の鐘を撞いていますよと言っているのです。  おととい来てください。  ご回答をありがとうございます。  (つまり はじめからわたしは知っていたという意味です)。

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     たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • 《哲学する者は神の国の外交官である》は成り立つか

     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。