神は何でないか?

このQ&Aのポイント
  • 神は人間の精神ではない
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神は 何でないか?

 神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

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  • ok9608
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回答No.6

今晩は、答えにはなってないと思います。私の感想です。 bragelonneさんの神は非思考、非経験の領域といことで そこから一歩踏み出して神を語れば 思考、経験の領域になり 神に似せた物語にはなるでしょうが 神は語れないのです。神は そのままであって それ以上は語ることはできないのです。と思います。 私には思考の停止領域の神があっていいのではないか と思うのです。あれこれ考えて堂々巡りの末 これ以上言葉をさかのぼれない 状態で 神を想定するのです。思考の停止ということを思考とするなら思考内の神であります。その神を原理原則として神の体系を構想していくのです。論理的に構想しますと 論理学の一つとなります。論理学としますと 論理的哲学、数学、科学などとは親和性は強いとおもいます。 ただ論理学は原理原則も固定されているのではなく 常に疑われているのです。 疑問なく常に固定された原理原則なら 思考停止の神でしょう。 思考停止は問題か ですが 他者に対して神の正しさを繰り返し主張する場合は問題です。他者の思考の邪魔をする場合です。思考のないところに人間の活動の活性化は あまり期待できないということです。自分自身にたいしても 同様 思考停止は 思考の邪魔であり 問題でしょう。 しかし 思考停止は 全て問題でしょうか。24時間 思考停止は問題でしょうが 20分間 答えの出ない神を思うことで 思考の整理がされ 思考にさらに工夫が加わることもあると 思われます。人それぞれですが 必ずしも思考停止が害とは言い切れないと思います。 宗教団体の神は 思考停止の神でしょう。が 必ずしも害とはいえないと思います。 問題を孕みそうなことは 強制的に信者にし あるいは 信者から金品を寄贈させ 幹部が金儲けに走りやすい環境(たとえば税制)におかれているのではないか ということです。実害もよく耳にします。透明性を十分に確保された運営は必須条件でしょう。 私の場合は 思考停止の神ですが 出来るだけminな神を想定しています。身近な死者を弔うもので他者に主張するようなものではない と思っています。 以上、参考になるようでしたらして下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 思考の停止ということを思考とするなら思考内の神であります。その神を原理原則として神の体系を構想していくのです。  ☆ この一点に収斂すると思います 問い求めの行き着く先はです。  おうけい9608さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  思考停止は じつは おおきくはわれわれ人間の意志行為に属すると考えます。  思考やものごとを中断したり停止したりすることは・つまりは 同じように開始したり再開したりすることも含めて あくまで人の意志による判断であり選択でありその行為です。   仮りにふと気づくと 中断したり停止したりしていたと分かったという場合にも その停止は 《わたし》の意志行為として・つまりは事後的にそう見なして 次へすすむと思われます。人間存在はそのように生きていると思われます。  ★ 私には思考の停止領域の神があっていいのではないか と思うのです。あれこれ考えて堂々巡りの末 これ以上言葉をさかのぼれない 状態で 神を想定するのです。  ☆ まづいろんな場合がありましょうから その一つひとつについて見てまいります。  (1) もし 《神》という言葉は用いているとしても 《非経験の場》とは別の概念をたまたま神という言葉で表わした・・・という場合。  これなら 表現の問題に尽きます。まぎらわしいという苦情は わたしのほうから出すこととなると思いますが。  (2) 思考の停止は わが意志行為です。そこに《領域》があるということでしょうか? そういう想定なのでしょうか? 停止の一瞬としての時点のことではなく 停止状態にある一定の時空間が いま言う領域だということでしょうか?  (3) もしそうであるなら みづからおっしゃっていること そのままだと思います。   ★ 思考の停止ということを思考とするなら思考内の神であります。  ☆ つまりはこのとおりでありますし そして《思考内》というよりも 《思考の対象としてある》ことになると考えます。  (4) つまりは 思考している場合にその対象は むろん思考の対象としてある。つまりは 経験世界に属するモノゴトだという意味になります。それと同じく 思考を停止している状態は 《思考に非ず》ではなく《思考を超えている》でもなく そうでではなく 《思考が捉える対象である》であり つまりは経験思考の世界にすっぽりと入っています。    (5) つまりは そこに仮りに想定したとするならその神は 科学の神です。科学による認識としての何ものかです。すなわち  ★ あれこれ考えて堂々巡りの末 これ以上言葉をさかのぼれない 状態  ☆ も 大きくは経験思考の世界に属します。いまは分からないけれども やがて・あるいはいづれ 分かるようになろうという経験世界です。いまは《言葉をさかのぼれない》あるいは要するに《未知》である。つまりは 経験世界のモノゴトであり 思考ないし科学の対象です。  (6) たぶんこの《未知》が あたかも神のごとくナゾの何ものかに喩えられるといったところではないでしょうか?  ★ ただ論理学は原理原則も固定されているのではなく 常に疑われているのです。疑問なく常に固定された原理原則なら 思考停止の神でしょう。  ☆ 《常に疑われている》ものが 未知の何ものかであり そのナゾが分かったときから新たな未知が生まれる。そして仮りに《その未知のナゾ》について 何らかのかたちで《疑問なく常に固定された原理原則》として想定できたとしたら それは確かに《思考停止の神》と呼べるのかも分かりませんが それとても やはり《未知》というコトだと考えられます。  (7) 普遍的かつ不変的な原理として《想定できたとしたら》というところに 問題があります。《想定した》ことが 人間の科学および意志行為だという点は措いておいて 《想定できたかどうか》の判定が そこには加わっていると思われるからです。あるいは別様に言って  ★ 疑問なく常に固定された原理原則なら  ☆ というふうに条件づけられているその問題です。その条件について やはり人間が判定しているはずだからです。  (8) こう考えられる限りで すべては 経験世界での出来事だと考えられます。《思考停止の神》は 《思考ないし科学の神》であり 具体的には《未知のナゾ》がその中身である。  (9) ちなみに 《非思考の場》ないしそれがわが心に成ったときの《非思考の庭》は 一般にヒラメキ(直感および直観)つまりインスピレーションの起きるところです。このヒラメキは わたしが思考中にでも――つまり ヒラメキの内容とは別の中身のことを思考中にでも――あるいは思考停止中にでも 時と所を選ばず向こうから(=ヒラメキのほうから)ふとやって来る。  (10) これは 神との接点があったと――主観内において仮りに見たなら―― 霊感というふうにも呼ぶのだと思います。インスピレーションのその字句にあるスピリットのことですね。わたしはこれをも 仏性と言ってよいと思っています。ヒラメキはそのように主観の共同化が成り立つところがあるというように受け取られているようです。  (11) すなわち このヒラメキは ヒラメキのほうで 精神の秩序化をうながし 精神の自己秩序作用のごときハタラキを活かします。それゆえ 次のような思考の整理とちょうど同じハタラキがあるとさえ見られます。  ★ しかし 思考停止は 全て問題でしょうか。24時間 思考停止は問題でしょうが 20分間 答えの出ない神を思うことで 思考の整理がされ 思考にさらに工夫が加わることもあると 思われます。人それぞれですが 必ずしも思考停止が害とは言い切れないと思います。    (12) つまりは 非思考の庭がわが心に成っているということは 思考中にでも思考停止中にでも 非思考のナゾのほうが どういうわけか はたらいてくれて 精神がととのい懸案の問題についての解明をもうながすところがあると考えられます。  (13) ★ 宗教団体の神は 思考停止の神でしょう。  ☆ どうでしょう? いろいろあるのかも知れませんが 一般には ヒラメキによって得た命題を 倫理規範としてまた教義として しかもこれもわざわざ神として立てている。のではないでしょうか?    (14) 信仰の核ともすでに言って来ましたが 和なり愛なり慈悲なり あるいは神の怒りなり裁きなり さらにあるいは真理や正義や至高の善やといったような命題です。それらは一般に 信仰つまり非思考の庭において得られたことがらだと思います。  (15) 組織宗教の問題は このさとりや 浄福や 不死ないし永遠の生命やら そういった命題ないし言葉を むしろ教義としこの教義を神とするところにあります。極端な例を出すなら 《神を信じなさい》という命題を神としてあがめる。そういう間の違いあるいは間の延びに問題はあるはずです。  (16) ★ 私の場合は 思考停止の神ですが 出来るだけminな神を想定しています。身近な死者を弔うもので他者に主張するようなものではない と思っています。  ☆ 思考ないし科学の神と呼ぶべきものであり それはおそらく信念や信条となって生きているとおっしゃっているのでしょう。  非思考の庭において受け容れている神は 人間としてその神にきよらかなおそれをいだいているというときの神である。このきよらかなおそれに匹敵するような思いが 未知のナゾなる科学の神にはあるのかも知れません。  正直な反応は このようです。ストレートにぶっきらぼうに述べました。このように思っております。

その他の回答 (8)

回答No.9

No5です。 >>(1) 《かみ》は ただひとつです。この一というのは 全体という意味をも持ちます。 この論理には同意致します。そのとおりだと考えます。 “リンゴ”を例に挙げて述べた事はこうしたことを言いたかったのです。 しかし、捉え方の隔たりはあると思われますが・・・。?   >>(4) あとは 《かみ》という言葉が 民族ごとにその言葉として違っています。おそらく名前が違っても 存在は同じひとつの《かみ》だと見ます。 こちらも同意致します。 >>☆ これは ふたつあります。ひとつは 日本の八百万の神々というように 《かみ》のそれぞれ分身だと考える場合。もうひとつは いわゆる偶像をつくる場合です。ギリシャ神話の神々は おおむね人間のかたちをした姿で表わされています。このギリシャの影響で インドのブディズムでも ブッダなどの像をつくることが始まったとか。  けれども この偶像は 《かみ》の仮りの(つまり《偶》の)姿だと心得ていれば問題ありませんが 往々にしてこの偶像のほうが ほんとうの神であると まま 間違えている場合もあるようです。それは彫刻などの形ある像にかんしては さすがにないでしょうが 一般に《かみ》をその概念としてまた観念として捉える場合 このたとえば《神》という言葉が――これも 仮りのかたちでありその意味で偶像であるというのに―― そのまま《かみ》のことだと間違って受け取られてしまうことがあります。  《かみ》は 教義でもあるいは教祖でもありません。あるいは教団が《かみ》であるのでもありません。 >>往々にしてこの偶像のほうが ほんとうの神であると まま 間違えている場合もあるようです。 確かにそれは言えますよね。“偶像”そのものが恰も『神』であるかの様に浸透され、崇められて いる・・・。 これはある意味、言われている様に『親しみ』を持ち身近なものとして・同行して頂ける・とした願望 としたものの表れともとれますよね。 >>《かみ》は 教義でもあるいは教祖でもありません。あるいは教団が《かみ》であるのでもありません。 まったくその通りだと・・・ましてや『・・・教団が《かみ》であるのでもありません。』 そうですよね。これこそ『神々』への“冒涜”と言えましょう。 同じ物差しで観る愚か者・と同時に人間の醜い部分(偽善者)が表れています。(騙す・私利私欲・お金etc。) ・・・ふとどき者もいいとこだ。 それから古代からの“天照大神”&“天照大御神”は同一人物だとしていますが、ルーツを辿れば 現在の天皇は血族である・としているらしいが・・・どうなんでしょうね。? 『神』は人間であってはならない・とした定義からすればやはり、我々俗人と天皇(神)として雲の上 の存在とした思想の表れでしょうか。?

bragelonne
質問者

お礼

 すとぅるべがーぽさん なあんだ ほぼ同じ見解ではないですか。  ご回答をありがとうございます。    こまかいところでは  ★ ~~~  “偶像”そのものが恰も『神』であるかの様に浸透され、崇められている・・・。  これはある意味、言われている様に『親しみ』を持ち身近なものとして・同行して頂ける・とした願望としたものの表れともとれますよね。  ~~~~~  ☆ たぶんそのとおりだと思います。したがって 《偶像》をほんものかみの仮りの姿であり偶像は偶像に過ぎないとわきまえていれば 何の問題もないと思います。  ★ ~~~~  それから古代からの“天照大神”&“天照大御神”は同一人物だとしていますが、ルーツを辿れば現在の天皇は血族である・としているらしいが・・・どうなんでしょうね。?  『神』は人間であってはならない・とした定義からすればやはり、我々俗人と天皇(神)として雲の上の存在とした思想の表れでしょうか。?  ~~~~~~~  ☆ これには 一家言がわたしにはあります。  (1) まづアマテラス――おほかみでも おほみかみでも 同じでしょう――は 母親のイザナミがすでにみまかったあと 父親のイザナキがひとりで生むという特殊な事例として生まれた者ですが かのじょが長女で 長男はツクヨミであり 末っ子がスサノヲです。  つまり アマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。  (2) のちにアマテラスの子孫(ホノ二二ギ)は スサノヲのイヅモ共同体を服属させますが――つまり イヅモはタカマノハラに《くにゆづり》をしますが―― 両者はまったく同じ血筋どうしの人びとであります。イヅモでも すでにスサノヲの子孫のオホクニヌシの代に成っていました。  (3) くにゆづりをしたということは アマテラスの子孫の側が 学力優秀で品行方正であったところ どうしてもくにの経営を任してくれと 頼みに頼み拝みに拝み倒したので スサノヲの子孫の側は 根負けして ぢゃあ 社会というヤシロにも神棚をこしらえて その言わば第二階にアマテラスの子孫たちを住まわせようかと成ったそのことにもとづくと考えます。  (4) はっきり言えば いくらあたまがよくても あるいは見かけとして立派な振る舞いをしていても けっきょく人間はだいたいみな互いに同じようなものだというふつうの見方が スサノヲ史観にはありましたから あまりにもお山の大将に成りたいという謂わばアマアガリ症候群に対して 手を焼いて少し好きなようにさせてやったのです。  (5) これが あろうことか そののちだいたい今にまで千五百年もつづいています。アマテラス族は 社会の第二階すなわち スーパーヤシロにお住まいであるということに成っています。  (6) そしてこれが  ★ 我々俗人と天皇(神)として雲の上の存在とした思想の表れでしょうか。?  ☆ となると思います。そして具体的には その家の執事としての官僚や政治家としてのアマテラス公民が 同じく《おかみ》としてなおまだ君臨しています。  ほんとうは 主権在民ですけれど。つまりその《民》とは スサノヲ市民のことです。  (7) つまりは  ★ ルーツを辿れば 現在の天皇は血族である・としているらしいが・・・どうなんでしょうね。?  ☆ と問うならば (1)で示したように アマテラス公民とスサノヲ市民一般とは まぎれもなく互いに同じ血筋の家に属します。  (8) おまけに 人間なら誰れしも 血筋をたどれば《万世一系》としてこの世に生まれて来ています。記憶が歴史をさかのぼれば薄れるのはもとより スサノヲ市民一般の場合は 記録もほとんど残っていませんが 誰れであってもいま生まれて来ているなら みな万世一系として祖先から生まれ継いで来ています。それ以外にあり得ません。記録が有るか無いかの違いです。

bragelonne
質問者

補足

 すとぅるべがーぽさん もしさらにご投稿を寄せていただけるのでしたら わたしのあたらしい質問のほうでお願いしたいと思います。  勝手ながら そのようにお願いいたします。  一区切りつけたいと考えました。

回答No.8

No5です。 ★『神』と言うのは人間であってならない・と思いますね。  ☆ なぜ どこが問題か? 《あってならない》というように 人間が思考によって判断し規定している。ここにあります。  人間がみづからの思惟や意志で神がどうであるのかを規定し決めるのなら その神は 人間の精神であるか もしくは 精神が生んだ何らかのものであることになるからです。 この考えには少し説明不足と言うか誤解を招き易いですよね。 “人間”であってはならない。と言うのは敢て言い換えれば『神』と言うのは人間(ヒト)の内なるもの の産物で有り、それを形としたものだという事です。 『神』とするもに世界中のそれぞれの国や民族により異なりますよね。(当然ですが。) 漠然としたもの・曖昧なもの・としたものにとても不安を抱いてしまう。 “形”としたものを『神』として崇めたいとした欲望・欲求・とし“有形無形”とするなら“有形”とした『神』 々が成り立ち姿を表すようになってきたのだと思われます。 なので『神』とはどう捉えるか・捉え方の違いがそのお国柄で違ってくるという事です。(私見ですが。) 例を挙げて言えば一つの“リンゴ”が有るとします。 (1)それを真上から見たもの(それを神と観た。) (2)それを真横から見たもの(それを神と観た。)  (3)それを反対側の真横からみたもの(それを神と観た。) (4)また、真下から見たのものを(それを神と観た。) と言ったぐあいとなります・・・。これは簡単に言ったまでの事ですが、考えようではもっと“多角的” な観方も存在するのは確かのようですよね。 個人観としては“宇宙”そのもの自体『神々』ではないか・・・とした想いが有ります。 従って『神』とは一つに留まらず・とした存在とも・・・。 >えてみれば いろいろと神のことがらを人間にあたかも当てはめてみるといったことは 一方では 神に親しみをいだいていることだとも思われます。思われますが それにしても 神とヒトとの隔たりについては きちんと知っていることが大事だとやはり思われます。   ★ 人間と『神』を天秤に掛ける(同じ物差しで測る)ような愚か者であってはならないと思う。  ☆ というふうにです。 『神』に親しみを感じているから・・・そうでしょうね。 我々、俗人達は困れば・窮地に追い込まれれば・また良い事がある様に・と何かにつけて“神頼み” をする。 >つまりはじつは 《かみ》という言葉は・そしてその文字も発音も ほんとうの神ではないわけですから 人間に当てはめてみるといったことが 容易に出来てしまう。そしてその形容や比喩が 受け容れられやすいのでしょうか どしどし使ってしまうようです。 そういったところでしょうか。 言われればその様ですよね。他愛無いお喋りの中にも容易に無意識の中で使われる言葉ですよね。 『神』についての結論的なものは皆無に等しいのでしょうか。 ではなく、“結論”とする事自体が間違っている・・・としたもの(類のもの)だとも言えるのでしょうか。 それは、千差万別(人の心の中にこそ存在する)としたものであるが故に永遠なりなのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 すとぅるべがーぽさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  勘違いしてしまいましたか?  ★ ~~~~  “人間”であってはならない。と言うのは敢て言い換えれば『神』と言うのは人間(ヒト)の内なるものの産物で有り、それを形としたものだという事です。  ~~~~~~  ☆ でしたら まるっきり正反対ですね。  ○ 神は 人間の精神ではない。  ☆ というのが たたき台ですから。  そうですね。  ★ ~~~~  “形”としたものを『神』として崇めたいとした欲望・欲求・とし“有形無形”とするなら“有形”とした『神』々が成り立ち姿を表すようになってきたのだと思われます。  ~~~~~~  ☆ これは ふたつあります。ひとつは 日本の八百万の神々というように 《かみ》のそれぞれ分身だと考える場合。もうひとつは いわゆる偶像をつくる場合です。ギリシャ神話の神々は おおむね人間のかたちをした姿で表わされています。このギリシャの影響で インドのブディズムでも ブッダなどの像をつくることが始まったとか。  けれども この偶像は 《かみ》の仮りの(つまり《偶》の)姿だと心得ていれば問題ありませんが 往々にしてこの偶像のほうが ほんとうの神であると まま 間違えている場合もあるようです。それは彫刻などの形ある像にかんしては さすがにないでしょうが 一般に《かみ》をその概念としてまた観念として捉える場合 このたとえば《神》という言葉が――これも 仮りのかたちでありその意味で偶像であるというのに―― そのまま《かみ》のことだと間違って受け取られてしまうことがあります。  《かみ》は 教義でもあるいは教祖でもありません。あるいは教団が《かみ》であるのでもありません。  とわたしは 考えております。  ですから わたしの見方によればですが  ★ ~~~~~~  『神』についての結論的なものは皆無に等しいのでしょうか。  ではなく、“結論”とする事自体が間違っている・・・としたもの(類のもの)だとも言えるのでしょうか。  それは、千差万別(人の心の中にこそ存在する)としたものであるが故に永遠なりなのでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ と考えておられるとき 次のように区別して捉えます。  (1) 《かみ》は ただひとつです。この一というのは 全体という意味をも持ちます。  (2) その代理表現が持たれます。つまりまづは《かみ》という人間のことばです。おそらく人間語と神語とは違うと思われます。神語は 人間語をふくむと思われますが 人間語は 神語を人間語のままでは 捉えがたい。こういうことだと見ます。  (3) でも古代人がそうしたように 超自然的な力やそのはたらきを捉えたときには 神という言葉を使ってそれらの事象などを表わした。というときには――つまり 神体山(かむなびやま)や 神の依り代としての木や自然の事象それぞれに神を見るというときには―― それらの神々は (1)の唯一の《かみ》の分身として捉えればよいと考えます。  (4) あとは 《かみ》という言葉が 民族ごとにその言葉として違っています。おそらく名前が違っても 存在は同じひとつの《かみ》だと見ます。  といったところでしょうか。  きちんと違いを明らかにしてご投稿を寄せてくださってありがとうございます。

  • hrsmmhr
  • ベストアンサー率36% (173/477)
回答No.7

わざわざ”精神”という神を含む言葉を用いられているのは、 日本語(中国語も?)に対する皮肉ということでしょうか? ここに対してコメントはないのですが面白いと感じました 私が思うに、宗教はなんらかの教祖が始めており、アニミズムであっても、 仮想かもしれませんが実像をもつものにより認知され、社会に広まっていくもののように思います。 人は、経験・非経験を問わず、精神作用の中にそれとの符合する部分を見つけて得心したときに 信仰心を持ち始めるのではないでしょうか? なので > 4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分 > からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。 で非経験と書かれるのに違和感を感じます。 そもそも非経験だけなら、それを社会で共有する機会が無いように思います。 教祖が非経験で得たとしても、その他信者は教祖を介して接することになるのではないですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ふるすむむふるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  わざわざ”精神”という神を含む言葉を用いられているのは、  日本語(中国語も?)に対する皮肉ということでしょうか?  ~~~~  ☆ なるほど。《精神》というふうに《神》の文字が入っているのですね。  アニマもプシュケーもルーアハもアートマンもみな《息もしくは風 つまりは 吹く》が原義のようです。  《いき(息)》は 《起こる》や《生きる》とつながっているようであることは たとえばアニマが 或る種の仕方で生命を意味する・つまり動物(アニマル)を意味するようになることと似ていそうです。  ★ 人は、経験・非経験を問わず、精神作用の中にそれとの符合する部分を見つけて得心したときに 信仰心を持ち始めるのではないでしょうか?  ☆ すなわち  ★ そもそも非経験だけなら、それを社会で共有する機会が無いように思います。  ☆ この問いは――想定にかんする限り―― かんたんです。非経験の場とわれわれの存在つまり《身と心》とのかかわりや 如何に? ということで 次の説明ではどうでしょうか?  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。  この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。  むろん 主観の問題として言っていることである。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ヒラメキ(直感および直観)あるいはつまりインスピレーションという心的現象だと思います。これは 《教祖》に限らず 誰れにでも起きるコトだと考えます。

回答No.5

『神』と言うのは人間であってならない・と思いますね。 人間を神として崇め奉る事はすでに宗教団体に酷似したものを感じます。 それに『神』の存在を信じ、疑る事のない姿勢は人間として『神』の領域には到底及ばないものの姿としては美しいものを感じる・・・。 >A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 極端な言い方かも知れないけどその通りだと思われます。 >B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。 まったく同感ですね。 > ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。 人間と『神』を天秤に掛ける(同じ物差しで測る)ような愚か者であってはならないと思う。 そもそも、全く異なる存在であるからして我々人間が立ち入れないところに『神』として鎮座されているものだと・・・そして常に俯瞰されていると言える・・・。(神は万能で、しかも何でもご存じなんです。) 『神』は人間(人)であることは間違っても有り得ないし、そうであるべきであり、そうである事を望むこともなく・・・永遠に『神』は『神』以外のなにのもでもない。

bragelonne
質問者

お礼

 すとぅるべがーぽさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  おおむね賛同をいただいたのではないでしょうか。ありがとうございます。  こまかく見てまいります。質問者の思うところを述べてまいります。  そうですね。のっけからですが つぎの おそらく 表現の仕方は 問われなければならないと考えます。  ★ 『神』と言うのは人間であってならない・と思いますね。  ☆ なぜ どこが問題か? 《あってならない》というように 人間が思考によって判断し規定している。ここにあります。  人間がみづからの思惟や意志で神がどうであるのかを規定し決めるのなら その神は 人間の精神であるか もしくは 精神が生んだ何らかのものであることになるからです。    言いかえると もし神が神としてあるなら その神は 自分が人間であってはならないか あってもよいか あることもあるか などなどを 自分で決めるでしょう。誰の指図も受けないでしょう。  むろん 人が《『神』と言うのは人間であってならない・と思》うことは 自由ですが・そして結果として合っているということになるかも知れないのですが その規定は 神について・また神にとって 基本的に何でもないことだということになりましょう。  その上で 人はいろいろと神について想像したりすることもある。ということでしょう。  ★ 人間を神として崇め奉る事はすでに宗教団体に酷似したものを感じます。  ☆ ですから このことは 言葉の問題・表現の問題に尽きます。言いかえると 神という言葉の派生義として その人間があたかも神のごとくすぐれているといった形容をしているということ それであるに過ぎないこと。だと思います。  考えてみれば いろいろと神のことがらを人間にあたかも当てはめてみるといったことは 一方では 神に親しみをいだいていることだとも思われます。思われますが それにしても 神とヒトとの隔たりについては きちんと知っていることが大事だとやはり思われます。   ★ 人間と『神』を天秤に掛ける(同じ物差しで測る)ような愚か者であってはならないと思う。  ☆ というふうにです。  つまりは じつは 《かみ》という言葉は・そしてその文字も発音も ほんとうの神ではないわけですから 人間に当てはめてみるといったことが 容易に出来てしまう。そしてその形容や比喩が 受け容れられやすいのでしょうか どしどし使ってしまうようです。  そういったところでしょうか。

  • hekiyu
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回答No.4

bragelonne さん。 こんにちわ。 ”神道については・・・  宗教に準じるという意味で 準宗教と捉えたいのですが どうでしょう”   ↑ キリスト教こそが真性の宗教だ、という思いこみがあるように 感じましたが、どうでしょう。 宗教には色々ある、というだけではないですか。 どうも、キリスト教的宗教観から見ているだけ、 という風に思えます。 ”極端なことを言えば 英雄や偉人といった人間に畏敬の念をいだき こ れを崇拝するという場合だって無きにしもあらずだからです。言いかえると 人間に も神にも畏敬崇拝という表現を使うということは どういうことを意味するのか?  こういう問いが生じます” ↑ やはり、キリスト教的考えですね。 神道では、人間と神の間の境界線は曖昧です。 豊臣秀吉も、乃木大将も神様になっています。 先祖も神様になれます。 サッカーの現役選手さえ、神様になっています。 天皇を見ても解るとおり、神道では人間も生きながら 神になれるのです。 神道を宗教と理解する以上、そういう問題は生じないのではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。ご見解の説明を継いでいただきました。  (C) 人間は神となれるか?    (C‐1) もともと神である人間はいるか?  (D) 宗教の定義――教祖・教義・教団の有無にかんして――    この二点でしょうか。  まづ(D)にかんしては たしかに修正することにします。  ○ 宗教とは 教祖・教義および教団を有して活動する場合か またはそれと同じ程度に集団としての心性を形成してそのまとまりが成り立っている場合を言う。(個人の信仰から得られたその核――《和》なら和 《愛》なら愛など――をおしえとしてあたかも神のごとくに頂くところから 宗教が生まれるといった説明は 省略します)。  つまり趣旨説明欄の(15)の(B)において   ☆☆ 宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ   と書きましたが そしてそのあと この三つの条件を満たさない場合は 宗教に準じるもの(準宗教)だと言いましたが それを 上のようにあらためることとします。  それというのも へきゆさんは  ★ キリスト教こそが真性の宗教だ、という思いこみがあるように感じましたが  ☆ とおっしゃいますが これは わたくしの心つもりとしてはまったく逆です。逆でして つまりは ブディズムの宗教化――組織宗教化――を念頭において 分かりやすいように定義したものでした。あるいはむしろ いわゆる新興宗教について そのような定義をしておけば分かりやすいだろうという――いま考えれば安易な――見方から そのように表現したものです。  宗教としてのキリスト教は たしかにおそらくキリスト・イエスを《教祖》としてたてまつっているかと思いますが そもそも個人にとってのキリスト信仰は イスラームと同じく教祖は いません。やはり同じく強いて言えば 神がそれにあたるのかも分かりませんが そのことはけっきょく《信仰》一般について とうぜんのこととなりますから わざわざ言う必要のないことでもあります。  要するに 個人にとっての信仰――それは 思考ではないのと同じように 心理作用でもない――とそして集団としての心理共同となって現われる宗教とは 峻別するという趣旨です。  これは キリスト信仰とキリスト教との違いから出たもの――つまりわたしにとってはということですが――です。  ★ 宗教には色々ある、というだけではないですか。  ☆ という見方でかまいませんが 問題は その宗教は神ではない〔(B)〕という点です。あるいはつまり 神は宗教ではない。これです。  おしえとして 思考するものであるか それとも そのおしえの中身が観念となって人びとに共有されるという集団心理なる事態であるか どちらかまたはその両方 これを 宗教と言います。そのとき 教祖・教義および教団という三つが条件となると言えば 分かりやすいと思ったという話でした。  (C)の主題ですが これは    (C‐1) もともと神である人間はいるか?  としては大問題になります。それは キリスト信仰にとって 例の三位一体なる見方のそれです。これについては その問題があると言って (C)だけをいまは取り上げます。  ★ 天皇を見ても解るとおり、神道では人間も生きながら神になれるのです。  ☆ このことから見てまいりましょう。  たとえば その昔 次のようにうたった人がいました。    おほきみは神にしあれば    あまくものいかづちのうへに    いほ(盧)らせるかも       (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)  国家が 二階建ての構造としていよいよいわゆる中央集権制として国家たらんとして成ろうとするときに 詠まれたものと思われます。その後 《現人神》といった思想も出ました。  さてこのうたは 何と言っているか?    人麻呂にしてみれば 世の中の空気は 神が人となって現われているのだということになってしまっている と見たようです。けれども そうだとしてもまづ問題になるのは そう(神)でない人である市民スサノヲらも この神となって現われているアマテラス(その子孫)とは じつは・じつに じつの姉と弟であるわけです。従って 人麻呂の心としては     なるほど神であれば いかづち山の上に住まいを持っておられる。   そうかな。そうかもね。  とうたっているだけです。その後の国文学などの定説においても これを大君讃歌と言い慣わしていますが どうしてどうして。ただ現実に立脚して 現実を見ている。それを認識している。のみです。  つまりは 個人の信仰にとっては 神は 宗教ではなく 人間の精神でも人間でもありません。ただし その信仰の中身をあたかも神という言葉が人間の言葉であるからというごとく この経験世界のものだと見なすかたちが現われた。すなわち宗教です。どうしても《おしえ》が欲しいといったところでしょうか。  言いかえると 神は宗教ではないのですから その言葉やその観念をめぐって人びとがいだく思いやその心理 これが 信仰でもなければ神でもない。ただの集団心理である。これが 宗教の実態です。(ほかに 倫理規範や思索の成果といったおしえ自体があるとは言っておきますが)。  ★ 天皇を見ても解るとおり、神道では人間も生きながら神になれるのです。  ★ サッカーの現役選手さえ、神様になっています。  ★ 豊臣秀吉も、乃木大将も神様になっています。  ★ 先祖も神様になれます。  ☆ これらは ちょうど回答No.1への応答で書き記したように 派生した意味であり転用としての用法です。  《信じる》は 非経験の場としての神にのみ当てるのが 原義です。そこから 信頼する・信用する・しかも堅くそのまことであることを思い疑わないといった内容を伝えるのに 《信じる》という言葉が転用されるように この《神》についても 原義はそうでないところを 人間という存在について あたかも神のようであるといった意味合いにおいて転用しています。  ぎゃくに言うと この派生義ないし転用義があるということは 明らかに原義があって それは 別の意味を持つと語っているはずです。  あるいはさらに細かく説明せねばならないと思われることには 日本では八百万の神々がいると言い習わしています。つまりは すでに触れましたようにこれらは ひとつにまとまった《かみ》の分身であると考えるならば たしかに同じかみという言葉が 《かみ》にも人間にも同じように使われている。のではあります。  でもお稲荷さんや金毘羅さん つまりはキツネやワニが 非経験の《かみ》だとはさすがに誰れも思わないでしょう。  それは 仏性が・つまりあるいは神の霊が人にやどるというように それらの動物にもやどる。それとして《かみ》の分身である。といった意味合いがあるのでしょう。  ですから 人麻呂のうたがきちんとはっきりと明らかにしたように  ★ 神道では、人間と神の間の境界線は曖昧です。  ☆ というのではなく そうではなく まづはっきりとした隔たりが 神と人とのあいだにはあるという大前提があるはずなのです。そのあとで言葉の用法が多様性を持つという話になると考えられるのです。  以上のような問題があります。  ★ 神道を宗教と理解する以上、そういう問題は生じないのではないですか。  ☆ いいえ 言葉の用法つまりは 表現の問題である。という問題が生じています。  しかも たたき台の趣旨は 《神は 宗教ではない》です。集団心理もしくはおしえは 神ではない。これです。(ひとりの個人が わが信仰は 呼び方としては神道とよぶそれであると言ったなら それは 宗教とは別として扱わなければならないでしょう)。  キリスト信仰において   ○ イエスはふつうの人間であり しかも同時にキリストと呼ばれる神の子であり神である。    という命題については 保留したかたちです。とだけ触れておきます。あとで問題として持ちあがったときのためです。

回答No.3

その通り、人は自分が理解できないものを解釈するために、 神というものを利用しているに過ぎない。 それが科学が発達しようが、未だに理解できないものが多いから、 いつまでも神は必要とされている。 神は人を超越したものである以上、人間の精神ではない。 ただ、それ故にいかようにでも解釈が可能なものである。

bragelonne
質問者

お礼

 さんくとぅす・あうぐすてぃぬすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  賛同のご回答をいただいたようです。  ★ その通り、人は自分が理解できないものを解釈するために、神というものを利用しているに過ぎない。  ☆ 言いかえると 《人は自分に理解できるもの ないし いづれ出来るようになるであろうもの》のほかを 非経験の場と想定して ふつうには神と言うと。  言いかえると 《人は自分たちに理解出来ないもの――もしくは 理解できるか出来ないかか理解できないもの――》を 非経験の場として神と呼ぶ。  ★ それが科学が発達しようが、未だに理解できないものが多いから、いつまでも神は必要とされている。  ☆ したがって《分かるか分からないかが分からない領域》は やはり非経験の場として つねに・もともと・どこまで行っても ありつづける。神であると。  ★ ~~~~  神は人を超越したものである以上、人間の精神ではない。  ただ、それ故にいかようにでも解釈が可能なものである。  ~~~~~~  ☆ 《ただ》以下の命題を解釈してみます。    人を超越したものであるからには 神は 人間の精神ではないし 人間の精神では捉えきれない。捉えきれるか切れないかが捉えきれない。つまり捉えきれるや捉えきれないと分かったなら それは 人間の精神ないし思考において捉えたことになる。  これこれは 捉えきれないけれど 捉えきれないと分かったところで じつは捉えきった。ことになるから。  ところがこの人間やその経験世界を超えたところの非経験の場は じつは 超えているということは 超えてしまいっぱなしにはならない。むしろ超えているからには その超えた世界を捉えている。覆っている。つつんでいる。つらぬいている。  と――想定のあとの推論として――なります。  それゆえ 仏性が人間に宿るであるとか 神の霊が人に宿るであるとかのように 人はとらえるようになる。これも 想定のあとの推論として そうなると人は知っている。神やその霊については とんとわからなくてもである。  ゆえに これらの神をめぐる派生事態に見るように  ★ ただ、それ故に〔* 神は〕いかようにでも解釈が可能なものである。  ☆ 非経験の場としてのナゾの何ものか こういった規定から外れないかぎり いかようにも推論として解釈しうると考えられます。    非経験の場であるなら 相対としての経験世界に対してとうぜん《絶対》である。  経験世界が有限であるから 神は 《無限》である。  この世が うつろいゆく時空間であるなら 神は 不可変性であり 永遠である。  経験事象は 有るか無いかで測るが 神は有るをも無いをも超えている。ゆえに 存在すると仮定するなら それは 遍在である。無い神なら どこまでも無い。ただしそれもこれも 有るとしてにしろ無いとしてにしろ 遍在である。  仮りに人格に似せて表現しようと思えば 神は 《絶対者》である。  そこからさらに推論して 神は《全知全能》だと言われる。  そこからは この経験世界の《創造主》であるという表現が持たれる。  ――これらすべては 仮りの代理表現である。もし人間の言葉で言い表そうと思ったなら 想定にのっとるかぎりで そのように表現しても よさそうだという意味である。――  もし神が このわれわれの経験世界を覆っておりつつんでおりまた その霊としてつらぬいているとすれば それは 生命というコトにかかわっていると推定される。  生命をつらぬいているとならば その神の霊は(また 仏性は) 一般に愛である。《生きること》の推進力であろう。  エトセトラ エトセトラと推論や推定はつづくものと考えられる。そのようにして神は  ★ いかようにでも解釈が可能なものである。    

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

1,ギリシア哲学では、哲学の対象は、神と人間と自然でした。 つまり、 神は人間でも、自然でも無いのです。 だから、宗教は次のように定義されます。 「神や仏のような超人間的超自然的存在を畏敬崇拝  する行為と信条」 つまり、神は、超人間的であり、超自然的なのです。 つまり、人間でも自然でもないのが神です。 2,”宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ”     ↑ 日本の原始神道などは、教祖もいないし、教義もありませんが あれは宗教ではないのでしょうか。  

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  そんなことは分かっているではないかと受け取らねばならないかに思われるほど かんたんな説明であるとは思いましたが いづれにしましても きちんと応答してまいります。  ★ 神は、超人間的であり、超自然的なのです。  ☆ という定義では もし《人間および自然》がこの経験世界全般のことを表わすとすれば ここの規定では《非経験の場》となりますから たたき台と同じ趣旨です。  あとでふたたび考えるとして (2)ないし(B)のほうから考えすすめます。  ★ 日本の原始神道などは、教祖もいないし、教義もありませんが あれは宗教ではないのでしょうか。  ☆ これは舌足らずだったと言うべきか 迷いますが たとえばイスラームを取り上げてみます。  そこでは 《教祖》はいません。強いて教祖と言うなら 《その神(アッラーフ)――われらが知っているその神――》です。なぜなら この神が ムハムマドの口を借りてすべて 経典であるクルアーンの教義を語っていると言われるからです。生活共同体はありますが 教団も特にはないのではないでしょうか?    言いかえると それでもイスラームは その共同体における人びとが神を共有するといった集団としての心性において 宗教と呼ぶと考えられます。  かつて 卑弥呼は――よその文献によればですが―― 鬼道に仕え よく衆を惑わしたそうです。  ただしこの集団心性については よく分かっていないようです。が おそらく 個人の原始心性としての信仰〔と呼ぶならば〕として卑弥呼は影響をおよぼしただけのことか。それとも 教義も教団もそれとしてはないけれども あたかも教祖のごとくして振る舞っていたか。  シャーマニズムは 確かにヒトが《時間的存在であること(つまり 死を死ぬことをさとること)》の自覚がどこまで成ったかによって 信仰の主体であることすらできていないとも考えられる側面があります。  そして 死すべき存在としての自覚を持ち それとして信仰の主体に成り得たそのあと いわばその信仰の核(*1)を人間の言葉にして表現した教義に替えたところから 集団心理としての宗教が生まれたと考えますが それは この三世紀における卑弥呼の時代には 微妙な情況にあったと捉えるからです。   *1 信仰の核:たとえば 和であるとか 愛であるとか 慈悲なり       不死なり あるいは神の怒りなり神の裁きなり・・・のこと       です。      それは 単なる家族墓としてではなく ヒトが《世界への入り》を果たして 死ぬときには時空間が別の世界になるであろうと捉えたような古墳において葬るという社会情況へ変わったときに個人にとっては信仰が成り さらにはそこから集団としての宗教が発生したと考えられるからです。  箸墓が 卑弥呼の墓であったとしたら その墓は古墳としての墳墓の走りなのですから ちょうど情況の変わり目にあったとも考えられます。  神道については 教祖や教義あるいは教団の有無を問わず ムスリムの人びとが社会生活そのものとしてイスラームなる宗教を共有するといった例に見られるごとくに 共同体としてのならわしがある。稲と鉄がもたらされ弥生時代の生活様式が始まってからを取り上げるなら 秋には取り入れにあたって 初穂を神にまつる。そうして 村中がこぞって感謝とともに神と言わば共食する。つまり 儀式のほかはどんちゃん騒ぎをするわけですが 《超自然の力》を共有して その神をめぐる生活上のならわしを《まつり》として持った。  宗教に準じるという意味で 準宗教と捉えたいのですが どうでしょう?  ★ ~~~~  ギリシア哲学では・・・宗教は次のように定義されます。  「神や仏のような超人間的超自然的存在を畏敬崇拝  する行為と信条」  ~~~~~~  ☆ 《超人間的超自然的》を 《超経験的》つまり《非経験の場》のことと取れば 趣旨に賛成を投じてくださったと取りますが 果たして どうなんでしょう。  ここでは  ★ 畏敬崇拝する  ☆ がさらに問われましょう。《信条》というのは 一般に信念ということでもあり それは――信仰から来る場合があり むしろそれがほとんどだと思いますが それでもその信仰のことに触れていないからには―― まだあいまいです。でも その背後に信仰があると捉えれば 問題ないと見做して 畏敬崇拝という表現を取り上げます。  厳密に言えば 畏敬も崇拝も あいまいです。たぶんここで言う神を対象にしている(つまりは 非対象として受け容れる)場合を含むとは思われますが 一般にそれならまづは《信じる》という表現を使うとは考えられます。  思考にあらずという非思考を言わなければ 畏敬も崇拝も その意味するところは定まりません。  つまりは 極端なことを言えば 英雄や偉人といった人間に畏敬の念をいだき これを崇拝するという場合だって無きにしもあらずだからです。言いかえると 人間にも神にも畏敬崇拝という表現を使うということは どういうことを意味するのか? こういう問いが生じます。  もう少し述べるなら 人間を畏敬し崇拝するという場合には その人間のことを捉えその優れたところを《思考》しておそれうやまいあがめたてまつる。では 人間ではない神に対しては どのように畏敬崇拝するというのか? こういう問いです。思考に非ずとなれば やはり《思考ないし考える》やそれとつながった用語とは別の言葉を用いるのが ふつうだと思われます。    あるいは別様に考えるなら 古代ギリシャなら ギリシャ神話における神々が その宗教の定義をした哲学者にとっては念頭にあったのかなかったのか。あったのなら それは 明らかに人間のすぐれた能力やそれにかかわる奇跡のようなこと あるいは 商業の神やら酒の神やら世界のことがらについてその根源をさぐるようなあり方において神々が想定されていると思われます。  つまり神話の世界の神々は 明らかに人間世界の延長であると考えられ これはげんみつに言って《神》でも《信じる》でもないと言えましょう。  もっとも 日本の八百万の神々にしても それらは一つひとつがすべてをまとめてひとつとしたその神の分身であると言えるかも知れません。ので それと同じように 神話の神々とても ひろく《かみ》のことを指し示していると言えなくはないでしょう。  でもそういう説明を加えた想定において そうなのだと考えます。  ★ 仏  ☆ は どうなんでしょう? 《目覚めた(ブッダ)》と言っているだけですから。  でも 如来蔵ないし仏性と言うなら それは すでに神ないしそれを《霊》として言いかえたとき その神の霊にあたるでしょう。つまりは ブラフマンないしアートマンのことでありましょう。  こういったところでしょうか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

bragelonneさん、こんにちは。 「99・99%確かな事」は、「信じる」ということばに、値するのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ことばは 派生する意味を持ち 比喩などをつうじて原義とは別の意味に転用されることもあります。  ○ 信じる  ☆ は (1) 原義が 非経験の場としてのナゾのなにものか――つまり かみですが――についてそれを受け容れるというのが それです。非思考つまり思考にあらずというかたちで・ということは 或る種の仕方で賭けのごとくに決めるかたちで 受け取る・受け容れる というものです。  (2) ここから 派生義が生じます。  言いかえると 非経験のナゾに対することではなくなって 経験世界のものごとについて用いるようになります。科学的な認識および思考として 言わば経験合理性が行き詰ったところで なおも疑いを持つことはないという決意や確信を伝えるために 《信じる》という言葉を転用するかたちです。  言いかえると 神を信じると言って 神を受け容れた場合には そのあと 有る神から無い神に宗旨替えすることはあっても その《受け取り》という非思考の庭は 実質的に言って 持続します。信じないというふうに変わっても それは 《信じないとして信じる》ということにしかならないからです。  しかるに 経験世界のモノゴトについて転用したかたちで《信じる》を用いるときには 残りの0.01%において 認識ないし推測がくつがえったとしたら それはもう信じなくなったことになりますし もともと神として信じていたわけではないことが 明らかとなります。  これは 《信じないと信じる》という意味に代わったのではなく はじめの推測が間違っていたことをあらわすからです。  合っているとか 間違っているとかいうふうに《思考》しているというのが 経験世界のものごとです。その認識です。  この思考を超えており 思考はいっさいあてはまらないのが 非経験なる非思考の場です。  よって  ★ 「99・99%確かな事」は、「信じる」ということばに、値するのでしょうか。  ☆ については そのように使うことは 推測といった意味においてふつうにあり得ますが それと《神を信じる》という遣い方とは はっきりとした隔たりがあると言わざるを得ないと考えます。両者が混ざることはあり得ないはずです。  どうでしょう?  * この質問は そのたたき台が 質問者にとって相当程度において確信している内容であり自信のある命題です。わづかに一般の常識とは違っていると思われるゆえに 質問として問うているかたちです。  いづれにしましても 質問者としての情報をも このお礼欄のごとく 十二分に述べて回答者との情報交換に臨みたい。こういうかたちになります。よろしくどうぞ。

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?

     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。