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《神は死んだ》ってそれは いつ・どのように?
Q1: 《神は死んだ》って言うけれど いつ・どのように死んだの? Q2: むしろきみたちこそが噂する《全知全能》だと言うのに死んぢゃったの? A1: いやいや。それは われわれがナイフで刺しころしたと言うのだけれど それはとうぜん 比喩ですよ。 Q3: ん? 死んではいないの? A2: いやいや。要するに 昔は 神という概念が――つまり 神はただの概念ですよ―― 人びとの頭や心を 縛っていた。この呪縛が溶けたっていうんですよ。神は死んだってことは。 Q4: ん? それは 聞き捨てならない。いくつか疑問が出て来る。 Q5: ただの概念に全知全能といった飾りをつけて 人びとの思いや振る舞いを――倫理的によい方向へ(?)――導いていたと言うの? Q6: 《神が生きていた》時に では 人殺しが起きたとしたら 神がその人の心を導き得なかったわけだ。だとしたら 《呪縛》はすでに《死んでいた》のではないの? A3: いや まあ。神をころしたのだから そのあとは われわれは一人ひとりが 自分の頭と心と意志で生きて行くって言ってるんですよ。言ってるんですが それでは 心細いとすれば 《超人》とかとも言ってるんです。 Q7: 《力への意志》? っていうことは この超人や積極的なニヒリズムなる《概念》が 神に代わってわれわれを導くってわけかい? A4: いやいや。きみは 気が早りすぎる。ちゃんと説明するから。つまり だから 言ってるんだ。 《ひとは 我れに還る》のが 一番だ。けれども その自己 還帰を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。 やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものか がその《われ》におとづれて来る。 《われを見失うなかれ。還るべき心のわれにしたがいなさい》 と。 と。つまりこれを永劫回帰と言ってるんだ。人びとは――それは自由だが――勝手に解釈している。 Q8: ん? それぢゃあ 神の概念・神の理念とおんなじぢゃないか。神を再生させたんだ!? (チャンチャン!) Q9: だけど 神は 概念ぢゃないよ。概念なら 人間が活かしたり殺したりすることができる。つまり 神は 生きる(生まれる)・死ぬとは 関係ないという話に成らなくちゃダメぢゃないの?
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- o_tooru
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すこし、間が空いてしまいました。 > ☆ ここでわたしは考えました。わたしの考えは まだ神は 絶対としてある > 〔と想定される〕というところにあります。 > > それによりますと 《神の手から解き放たれ》たということは そのまま > 《神から それぞれおのが旅路へと送り出された》ことだと捉えるわけです。 > > すなわち 《絶対》はそこで《隠れた》のだと。 難しいですね、理解しずらい感じですが。私の苦手な数学で言えば「0」の発見と言うことがどこかの本で読んだことがあります。 ないと言うことを指し示すのが「0」と言うことだったのかな??起点として、数直線の値のない数としての「0」。値は無いのだが、そこに厳然として存在する「0」。そんなイメージなんですかね? > もしくは 人間が独り立ちするあたらしい世界は なおいわゆる信仰も > あるようですから そのときには――《有る神》派のほかに 同時に同等に > ―― 《無い神》派がいることになったのだ・・・と見ることになるのだと。 > > 早い話としては いわゆる無神論は 《無い神》という神の信仰なのでは > ないか? これです。 これも、私にとっては難しい考え方です。 >世界史的には超ローカル・イベントだった訳です。 他の方も、この様におっしゃっているので、私なりに考えてみると。 ついつい、古代ギリシャ哲学的に「真善美」という絶対的なものがあり、それがニーチェ以降、相対化し、ソシュールにより、構造主義が提唱され、弁証法ではありませんが、古い命題が、対立する命題との間で止揚され、新しい命題へと進化した・・的な、単線的なイメージをなんとなく持っていましたが。 実は世の中は、そんな単線的ではなく、様々な価値観が存在する複雑な物になっている、(神がいると考える人もいるし、いないと考える人もいる)とか考えるべきなんですかね? となると・・・果たして、どうやって考えて良い物やら・・浅薄な知識の私にとっては何処が何処やら・・?w でも、こういった論議は非常に楽しいです、勉強になります。私の比喩ですけど、ある視点(考え方)を身につけることは、階段を上がるような感じ・・それまではただ高いとしか見えなかった物が、階段を上がると、そこには踊り場があり、新しい視界が広がる。それはそこまでの高さを実感するとともに、まだ先が有ることが分かる。 視点が広がり、新しい景色が見えて楽しいですわ。
- 築山 直弘(@1685)
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極個人的な意見と指摘を述べさせて頂きます。質問者さんは、ニーチェを原著(ドイツ語)で読まれた事はございますか?ニーチェは一言もそんな事は言ってませんよ。原著では、「神は死んだも同然だ!」と言っています。つまり、完全否定では無くて、部分否定で言ってるに過ぎないのです。この点で考えてみると、質問者さんのご指摘や共産党の考え方も間違っている訳です。ついでにマルクスも原著(ドイツ語)では、「宗教は阿片である!」ではなくて「宗教は阿片の様なものである!」て言ってるに過ぎません。出来れば原著でお読みする事をお勧めします。因みに、「共産党宣言」(マルクスとエンゲルスの共著)も原著はドイツ語です。
お礼
▲(ニーチェ:《神死んだ》説) ~~~~~~~~~~~~~ 寒くなってきてはいないか? これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか? 昼前から行燈を灯す必要はないのか? 神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか? 神が腐る臭いがまだしてこないのか? ――神々といえども腐るのだ。 神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我々が殺したのだ! 殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 原文では読んでいません。
- ddtddtddt
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#8です。 じつは#6で、補足と再回答が前後したみたいですね。でも、 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】 ・・・。これは難しいは。ちょっと待って下さい。自分に回答可能かどうかも、現状では不明です。というか、これは避けて通ったんですよ(^^;)。 >☆ お茶を濁したと言いますか ウィスキーの水割りの水が多すぎましたよ。 はい。お茶をぶちかまして水をどぼどぼ入れ、あまぁ~く仕上げました(^^;)。 ところで以下はまた、ほとんど[余談]です。マニアとしては、以下の方が気になってしまう(^^)。 >三冊ぜんぶ 読みましたよ。かつてあなたが 山本の話をしていたのを思い出して・・・ まじっすかぁ~!。本当に直接読んだ人と話したのは、あなたが初めてです。「偉い!」というとおこがましいので、「奇特なかたですなぁ~」と言わせて頂きます(^^)。 >ところで 力の遠隔作用は 今ではふつうなのですか? 量子論にかんする続編があるといいですね。 全ての作用は近接的である、が現在の常識です。瞬時に伝わるように見える量子テレポーションや量子エンタングルメントも、情報を伝えられないから遠隔作用ではない事になります。それでそれらは、作用ではなく長距離相関と呼ばれます。長距離相関の存在は、実験事実です。 でもそこには、超光速通信を期待する暗黙の夢が込められてるようにも感じます。本当にそうだったらなぁ~(^^;)。超光速通信が可能なら、超光速移動も可能なはずだからです。何故なら物体というのは、情報の塊だからです。 でも量子論編が出るかどうか微妙だなぁ~。山本先生は現実問題として、量子論の勃興期に学会を離れてしまった人なんです。でも明らかに只者ではないからなぁ~・・・、わかりません。 >デカルトの渦巻き理論たら何たらは ダメだということで いいんですね? 駄目です。それはフランス啓蒙主義者達も認めてます。 >現代において ふたたびエーテル理論が 持ち出されて来たとかそうではないとか。というふうにも聞いた覚えがありますが。媒介物は 必要なんですか? 一般的に言う物質とは違う存在かも知れないが、電磁場が物理的な実在として認められた時に、媒介物は不要になりました。もちろん異論はありますよ。 でも電磁場は、そのへんにあるような石ころと同じような物理的実在とみなせないのだろうか?。電磁場は虚空の空間の中で勝手に運動して光を伝える「何かわからないもの」なのだが、その挙動は全て計算出来て検証できる。 これって、そのへんの石ころと何が違うのだろう?。しかも電磁場には、慣性や質量までもあるようにも見える(←本当です)。これって物質ではないのだろうか?。ただ形がないし見えないから、普通の物質ではない。 でもこれって、「我々は新たな実在に出会った!」という事ではないのだろうか?。その先鞭をつけたのは、もちろんアインシュタインです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 全体として 質問に答えてくださって ありがとう。 ★ ~~~~~~~~~ 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】 ・・・。これは難しいは。ちょっと待って下さい。・・・ ~~~~~~~~~~~ ☆ いつでもいいですけれど もしこの仮説が 妥当だとして普及したら 世界は変わると思いますよ。 ★ ~~~~~~~ >三冊ぜんぶ 読みましたよ。かつてあなたが 山本の話をしていたのを思い出して・・・ まじっすかぁ~!。本当に直接読んだ人と話したのは、あなたが初めてです。「偉い!」というとおこがましいので、「奇特なかたですなぁ~」と言わせて頂きます(^^)。 ~~~~~~~ ☆ ラテン語の原文を添えて 自分で翻訳してるんですね。大したもんですね。 ★ ~~~~~~~~~ >ところで 力の遠隔作用は 今ではふつうなのですか? 量子論にかんする続編があるといいですね。 全ての作用は近接的である、が現在の常識です。瞬時に伝わるように見える量子テレポーションや量子エンタングルメントも、情報を伝えられないから遠隔作用ではない事になります。それでそれらは、作用ではなく長距離相関と呼ばれます。長距離相関の存在は、実験事実です。 ~~~~~~~ ☆ そうなんですか。(=遠隔作用ではないということ)。 わたしは ひそかに《以心伝心》の経験をいくつか持っていますが これは――冗談まじりの会話ででもないかぎり―― 言えません。キ印と見られてしまう。 ★ でもそこには、超光速通信を期待する暗黙の夢が込められてるようにも感じます。本当にそうだったらなぁ~(^^;)。超光速通信が可能なら、超光速移動も可能なはずだからです。何故なら物体というのは、情報の塊だからです。 ☆ ベルギーとの間でも以心伝心が 成りました。というのも 国際電話で 確認しましたから。(ああ これから 疑いの眼で見られるなぁ)。 ★ でも量子論編が出るかどうか微妙だなぁ~。山本先生は現実問題として、量子論の勃興期に学会を離れてしまった人なんです。でも明らかに只者ではないからなぁ~・・・、わかりません。 ☆ 分かりました。期待が外れても構わないので 願っています。 ★ ~~~~~~~ >デカルトの渦巻き理論たら何たらは ダメだということで いいんですね? 駄目です。それはフランス啓蒙主義者達も認めてます。 ~~~~~~~~~ ☆ 了解しました。 ★ ~~~~~~~~~~ >現代において ふたたびエーテル理論が 持ち出されて来たとかそうではないとか。というふうにも聞いた覚えがありますが。媒介物は 必要なんですか? 一般的に言う物質とは違う存在かも知れないが、電磁場が物理的な実在として認められた時に、媒介物は不要になりました。もちろん異論はありますよ。 ☆ え? まだ異論もあるんですか。へええー。 でも電磁場は、そのへんにあるような石ころと同じような物理的実在とみなせないのだろうか?。電磁場は虚空の空間の中で勝手に運動して光を伝える「何かわからないもの」なのだが、その挙動は全て計算出来て検証できる。 これって、そのへんの石ころと何が違うのだろう?。しかも電磁場には、慣性や質量までもあるようにも見える(←本当です)。これって物質ではないのだろうか?。ただ形がないし見えないから、普通の物質ではない。 でもこれって、「我々は新たな実在に出会った!」という事ではないのだろうか?。その先鞭をつけたのは、もちろんアインシュタインです。 ~~~~~~~~~~ ☆ へええー。おもしろそうですね。ダークマターがどうのこうのとも言いますし。 人文科学としては やっぱり心の問題なのでしょうね。フロンティアは。 自己還帰をいかに――そしてつねに自由自在に――成し遂げるか。ここらへんでしょうか。あるいは 自己との和解と同時に とうぜん相手との和解も問題でありつづけるはずです。 この人間〔と社会〕論のために 神論は 最小限として神の定義が必要なのだと思います。普遍神の仮説は 有望だと思っています。
- ddtddtddt
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#6です。 >いつも 言いたい放題で申し訳ないです。 いいじゃないですか。言葉のキャッチボールがなければ、面白くも何ともないですよ(^^)。 ニーチェは、キリスト教倫理や規範が、じつは内面化された抑圧手段になっていると気づいた、もしくは(勝手に)確信したというところだと自分は思っています。その倫理や規範は、神の超越性が保証してくれるどころか、人間が勝手に造ったものだと。 それらを拒否した結果は「のっぺらぼうな世界」になる。全ての保証された意味を捨てるのだから。「のっぺらぼうな荒野」は、構造主義やポスト構造主義に共通に見られる論調だと思います。 ではどうするか?。《われ》の独立を志向する動きに荒野を進むより他に途はない。ところが、あなたの言うように、 > 《ひとは 我れに還る》のが 一番だ。けれども その自己 還帰を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。 やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものか がその《われ》におとづれて来る。 《われを見失うなかれ。還るべき心のわれにしたがいなさい》 と。 という事が起こる。神の抑圧機構の復活だ。だから常に逸脱し続け、荒野に身を置く超人になれと。今風の感覚では、「超人」は言い過ぎだけれど。 以上を恐ろしく浅薄に言うと、「訳分かって倫理や規範に従ったり、使うのはいいよ。それも一つの偏見に過ぎないとわかっているなら」となると思います。この行動指針には賛成です。「わかってない人」は、現在でも多くないですか?。 以下はほとんど余談です。 まずベントリーは、リチャード・ベントリー(1662~1742)です。 https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC-131368 の最後あたり。どうもファラリス書簡の方が有名で(←って何?(^^;))、ボイル記念講演の(記念すべき?)第一回講演者という事実は、ほとんどどうでも良いみたいです。ボイル記念講演については、次に良くまとまってますが、 http://decchama.blogspot.jp/2009/09/blog-post_7162.html 分厚い本なので、お奨めはしません(^^)。 ベントリーのボイル記念講演は、こんな感じでした。 昔から、重力の伝達機構はどうなってるのか?は問題になってました。デカルトは宇宙に充満する透明な流体物質を想定し、その流れの影響で天からの圧力の結果として引力(重力)が生じるとしましたが、ニュートンは万有引力の法則によりそれを退けます。しかし万有引力の法則は、重力がまさに虚空を越えて(伝達機構なしに)瞬時に作用するように見えます。当然本当か?、となります。 ニュートンもそれは十分に意識していたようで、公式には黙して語りません。それが有名な予防線「私は仮説を作らない」です。ニュートンの本音は「神のエージェント(使徒?)」が重力を伝えるでした。 ニュートンの歯切れの悪い回答から得たベントリーの答えはこうでした。 「重力が虚空を越えて伝わるというのは、確かにおかしい。しかし現にこの瞬間にも、事実として重力は作用し続けているではないか。これこそが神の奇蹟であり、存在証明だ」
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~ >いつも 言いたい放題で申し訳ないです。 いいじゃないですか。言葉のキャッチボールがなければ、面白くも何ともないですよ(^^)。 ~~~~~~~~ ☆ あと たぶんぶっきらぼうなので 一層 独り善がりに映るかも知れません。 ★ ~~~~~~~~~~ ニーチェは、キリスト教倫理や規範が、じつは内面化された抑圧手段になっていると気づいた、もしくは(勝手に)確信したというところだと自分は思っています。その倫理や規範は、神の超越性が保証してくれるどころか、人間が勝手に造ったものだと。 それらを拒否した結果は「のっぺらぼうな世界」になる。全ての保証された意味を捨てるのだから。「のっぺらぼうな荒野」は、構造主義やポスト構造主義に共通に見られる論調だと思います。 ではどうするか?。《われ》の独立を志向する動きに荒野を進むより他に途はない。 ~~~~~~~ ☆ お茶を濁したと言いますか ウィスキーの水割りの水が多すぎましたよ。それとも このようなお話はすでに暗黙の了解としてたんですかね。 ★ ~~~~~~~~~ ところが、あなたの言うように、 > 《ひとは 我れに還る》のが 一番だ。けれども その自己 還帰を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。 やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものか がその《われ》におとづれて来る。 《われを見失うなかれ。還るべき心のわれにしたがいなさい》 と。 という事が起こる。神の抑圧機構の復活だ。だから常に逸脱し続け、荒野に身を置く超人になれと。今風の感覚では、「超人」は言い過ぎだけれど。 以上を恐ろしく浅薄に言うと、「訳分かって倫理や規範に従ったり、使うのはいいよ。それも一つの偏見に過ぎないとわかっているなら」となると思います。この行動指針には賛成です。「わかってない人」は、現在でも多くないですか?。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。同じ事例を極端に言うと 《偶像崇拝というのも 偶像は偶像であって神本体ではないと知っていれば だいじょうぶ》といった話になるかと思います。 あと ここでの《永劫回帰》の解釈 これにはまだ 自信がありません。思想としてあり得ると思うのですが ニーチェがそういう意味で言ったのかどうかは 自信がありません。(だから 質問しています。これを思いついたことで この問答形式の質問趣旨は われながらうまく書けたかなと思っています)。 ★ 以下はほとんど余談です。 ☆ 山本義隆 読みましたよ。『磁力と重力の発見』。磁石とアウグスティヌスのくだりもありました。大した知識ではなく 護教論のようでしたが。 三冊ぜんぶ 読みましたよ。かつてあなたが 山本の話をしていたのを 思い出して 図書館で見つけたとき借りて読みました。どれだけ理解したか 心許ないですが 読みやすい。一般向きは ああいうふうに書いてくれるとよいですね。 ところで 力の遠隔作用は 今ではふつうなのですか? 量子論にかんする続編があるといいですね。 ★ 有名な予防線「私は仮説を作らない」です。ニュートンの本音は「神のエージェント(使徒?)」が重力を伝えるでした。 ☆ この後半の内容は 知りませんでした。(忘れてしまったのでしょうか)。 デカルトの渦巻き理論たら何たらは ダメだということで いいんですね? ★ ~~~~~~~~ ベントリーの答えはこうでした。 「重力が虚空を越えて伝わるというのは、確かにおかしい。しかし現にこの瞬間にも、事実として重力は作用し続けているではないか。これこそが神の奇蹟であり、存在証明だ」 ~~~~~~~~~ ☆ ああ。ベントリーについても ちゃんと書かれていたんでしょうか。忘れています。 しかし こういう反論の仕方でよいのですか? 現代において ふたたびエーテル理論が 持ち出されて来たとかそうではないとか。というふうにも聞いた覚えがありますが。媒介物は 必要なんですか? (わたしは 質問魔です)。
- o_tooru
- ベストアンサー率37% (915/2412)
こんばんは、お世話になります。 サクサクあちらこちらに、回答を付けていて、そののりで、ちょっとつけてしまったこと、まずはお詫びしておきます。 こういう対話も、有意義ですね。ソクラテスの助産法?だったかな?、高校の倫理の授業で聞いた、そんな事を思い出しました。 > 《絶対的なもの》は 一たん自由な幅があり範囲の広い相対的なものごと >の世界として捉えるようになったときにも なお別様に・どこかナゾとして >残っている・・・のではないか。です。 > だけれども 絶対というナゾは あるかも知れない。ないかも知れない。 >どちらとも 人間には決められない。・・・といったようにです。 「絶対」は「絶対」であり、「相対化」してしまったら、その時点で「絶対」ではない・・・、と思ったのですが。なんとなくおっしゃることも分かるような気がします。私たち人間は、やはり「絶対」的な「善」とか「真」という物に対しての憧れがあるような気がします。 それは、「父性」への憧れだったり、「母性」への憧れだったりするのかもしれません。 私自身、大学生だったときに、なんとなく趣味で「構造主義」を結構真剣に、読んだ時期がありました。「構造主義」は、この世の中にあるのは、「構造」(他との関係・差異)だけで、「善」とか「真」とかはないのだ・・と、私は理解しました。 そのときは分からなかったのですが、そのご人生を重ねながら、なんとなく、その「構造主義」には「救いがない」と感じるようになってきました。私たち人間は「真なるもの」「善なるもの」を期待しているのでは・・と考えるようになりました。 ある掲示板で、ある方とお話ししていて、「絶対的な・真善美」から、現代人は解き放たれたのですよ、と言われました。 そこから、「構造主義」の今日的な意味を理解したような気がします。「神は死んだ」現代、我々は、「真善美」を定義する・既存の「真善美」を疑ってかかる、所から始めなくてはならない。 ある意味、本当に、私たちは、神の手から解き放たれ、独り立ちすることを求められている。それを選択してしまったのかな?と考えるようになりました。 すみません、私の、独り言になってしまいました・・。あまり伝わるとは思わないのですが、私なりに、考えたことです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ サクサクあちらこちらに、回答を付けていて、そののりで、ちょっとつけてしまったこと、まずはお詫びしておきます。 ☆ いえいえ。このように対処していただければ じゅうぶんです。問題ないと思います。 ★ こういう対話も、有意義ですね。ソクラテスの助産法?だったかな?、高校の倫理の授業で聞いた、そんな事を思い出しました。 ☆ まだまだですが そう言っていただいて うれしいです。ありがとうございます。 > 《絶対的なもの》は 一たん自由な幅があり範囲の広い相対的なものごと >の世界として捉えるようになったときにも なお別様に・どこかナゾとして >残っている・・・のではないか。です。 > だけれども 絶対というナゾは あるかも知れない。ないかも知れない。 >どちらとも 人間には決められない。・・・といったようにです。 ★ 「絶対」は「絶対」であり、「相対化」してしまったら、その時点で「絶対」ではない・・・、と思ったのですが。なんとなくおっしゃることも分かるような気がします。私たち人間は、やはり「絶対」的な「善」とか「真」という物に対しての憧れがあるような気がします。 ☆ そうですね。世界が 相対だけになったわけではない。相対もあれば 絶対もあるかも知れない。・・・といった単純な論理で 言っていましたが。 ★ それは、「父性」への憧れだったり、「母性」への憧れだったりするのかもしれません。 ☆ なるほど。具体的な事例あるいはつまり 現実としての事例が 見つかるかも知れません。 もちろん 父や母も 経験的で相対的な存在〔の関係〕なのですが あこがれとしてであったり あるいは 単純に言って愛であったりするときには その経験的な事態が それを超えたところの見方やチカラをも もたらしてくれるかも知れません。 ★ 私自身、大学生だったときに、なんとなく趣味で「構造主義」を結構真剣に、読んだ時期がありました。「構造主義」は、この世の中にあるのは、「構造」(他との関係・差異)だけで、「善」とか「真」とかはないのだ・・と、私は理解しました。 ☆ そのとおりだとわたしも理解しています。《関係主義》でしょうね。極端になると 《主体は無い》というところまで進んだりします。 ★ そのときは分からなかったのですが、そのご人生を重ねながら、なんとなく、その「構造主義」には「救いがない」と感じるようになってきました。私たち人間は「真なるもの」「善なるもの」を期待しているのでは・・と考えるようになりました。 ☆ ええ。分かるような気がします。つまり 関係主義は 相対主義になり あらゆるものごとが 相対の世界としてある・・・ことになる。言わば のっぺらぼうの状態に成りかねません。というふうに わたしは 思うようになっています。 ★ ある掲示板で、ある方とお話ししていて、「絶対的な・真善美」から、現代人は解き放たれたのですよ、と言われました。 ☆ そうなんですか。おそらく のっぺらぼう世界の中でしかも言わば《われ》の独立を志向する動きにすすむのでしょうか。 つまり: ★ そこから、「構造主義」の今日的な意味を理解したような気がします。「神は死んだ」現代、我々は、「真善美」を定義する・既存の「真善美」を疑ってかかる、所から始めなくてはならない。 ☆ 同じくまた: ★ ある意味、本当に、私たちは、神の手から解き放たれ、独り立ちすることを求められている。それを選択してしまったのかな?と考えるようになりました。 ☆ ここでわたしは考えました。わたしの考えは まだ神は 絶対としてある〔と想定される〕というところにあります。 それによりますと 《神の手から解き放たれ》たということは そのまま《神から それぞれおのが旅路へと送り出された》ことだと捉えるわけです。 すなわち 《絶対》はそこで《隠れた》のだと。 じっさい 神について 《隠れたる神 デウス・アブスコンディトゥス》という捉え方も昔からあります。 もしくは 人間が独り立ちするあたらしい世界は なおいわゆる信仰もあるようですから そのときには――《有る神》派のほかに 同時に同等に―― 《無い神》派がいることになったのだ・・・と見ることになるのだと。 早い話としては いわゆる無神論は 《無い神》という神の信仰なのではないか? これです。 必ずしも論証していませんので 弱いのですが ひととおり述べてみました。いまは このような感じで神について思っています。
- ddtddtddt
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ニーチェを念頭に書きますが、ニーチェにとって神は死んだとは、「そんな偏見まみれの不確かなキリスト教には、頼るな!」という行動指針だった、というところでお茶を濁しておきます(^^;)。 で、神は生きてますよ。今だって(日本では)即物性の塊のように思われる物理学者達、それも西欧の物理学者のかなりの多くは、神を(キリストを)本気で信じながら研究をやってると思います。 これは17~18世紀のイギリスのロバート・ボイルあたりからの伝統で、「神の御業を知るために物理学をやるのだ」という態度です。そのためにボイルは、巷に蔓延する唯物論などを喝破する目的で、「神の御業を証明した人には賞金をあげる」と、ボイル基金なるものまで作ります。その第一回当選者は、じつに神学者ベントリーでした。 ベントリーは今風に言えば論文を書くために、ニュートンに対してたいそう分厚い質問書簡を送り、自閉症気味だったニュートンはニュートンでかまって貰えるのが嬉しかったのか、非常に丁寧に返答したそうです。 そしてイスラム圏に目を転じます。神は生きてます。具体的な行動指針になってます。それは過激派の行動を見れば明らかです。 [上記に関して、どうしても言わねばならない事] 自分はイスラム教徒の留学生を知ってます。絶対に普通の人ですよ。普通のイスラム教徒と過激派は、絶対に区別して下さい。立てる旗が同じであっても、全くの別物です。 という訳で、ニーチェ唯一人が「神は死んだ」とほざいたところで、世界史的には超ローカル・イベントだった訳です。彼の思想は肯定しますけれど。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ニーチェを念頭に書きますが、ニーチェにとって神は死んだとは、「そんな偏見まみれの不確かなキリスト教には、頼るな!」という行動指針だった、というところでお茶を濁しておきます(^^;)。 ☆ どうですかねぇ。というのは アンチ・クリストと言っていますが ほんとうのところ イエス・キリストの影響力については じつは自分が――もちろん ニーチェくんのことですが――欲しいもの・身につけたいものだったんだと思うんです。思想の中身は 別として。 《不確か》というのは あまりにもへりくだり過ぎると見て蔑んでいるのだと思います。 《偏見まみれ》というのは どうなんですかね。律法ないし倫理規範とそれによる自己規律といった方法(生きる方法)に対しては――パウロが 《文字(≒律法)はころし 霊は生かす》と言って止揚しているからには―― フリッツくんは むしろ偏見を持ち ずっと持ち続けたのではないかと思います。 つまり 疑問がないでもない として応答してみておきます。ちょっと《お茶の濁し》過ぎではないですかねえ。 ★ で、神は生きてますよ。今だって(日本では)即物性の塊のように思われる物理学者達、それも西欧の物理学者のかなりの多くは、神を(キリストを)本気で信じながら研究をやってると思います。 ☆ なるほど。《死んでいない。殺していない》。昔からの信仰がつづいている人びとがいるということですね。 ★ これは17~18世紀のイギリスのロバート・ボイルあたりからの伝統で、「神の御業を知るために物理学をやるのだ」という態度です。そのためにボイルは、巷に蔓延する唯物論などを喝破する目的で、「神の御業を証明した人には賞金をあげる」と、ボイル基金なるものまで作ります。その第一回当選者は、じつに神学者ベントリーでした。 ☆ Richard Bentley(1662 – 1742)という人でしょうか。Wikipedia で少し調べましたが あまりはっきりもしません。 ★ ベントリーは今風に言えば論文を書くために、ニュートンに対してたいそう分厚い質問書簡を送り、自閉症気味だったニュートンはニュートンでかまって貰えるのが嬉しかったのか、非常に丁寧に返答したそうです。 ☆ なるほど。そういうところでも 科学に貢献したんですかね。 ★ そしてイスラム圏に目を転じます。神は生きてます。具体的な行動指針になってます。それは過激派の行動を見れば明らかです。 ☆ これは 良し悪しですね。 ★ [上記に関して、どうしても言わねばならない事] 自分はイスラム教徒の留学生を知ってます。絶対に普通の人ですよ。普通のイスラム教徒と過激派は、絶対に区別して下さい。立てる旗が同じであっても、全くの別物です。 ☆ ここでは 取ってつけたようにウンチクを披露します。 《 √S-L-M 》という三つの子音から成るかたちの語は ヘブル語でもシャロームと挨拶するかたちに現われており この挨拶はアラブ語で《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》と言うのと同じです。どちらかが訛っているだけです。 イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《〔やすらぎへ〕身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れてわたしは〕 すこやかならしめられた( muSLiM < S-L-M )》というわけのようです。ムスリムの初めの m- は いわゆる過去分詞を表わす接頭辞です。 そのようになって欲しいところです。 ★ という訳で、ニーチェ唯一人が「神は死んだ」とほざいたところで、世界史的には超ローカル・イベントだった訳です。彼の思想は肯定しますけれど。 ☆ ううーん。正直が取り柄なので わたしは 《思想を肯定することもしません》となります。 いつも 言いたい放題で申し訳ないです。
補足
やっぱ ご見解を聞いておかなくちゃあ。 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】 https://okwave.jp/qa/q9358717.html
- o_tooru
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なんと申しましょうか、扱う範囲が広がったと考えると分かりやすいのかもしれません。 子どもが、家のお小遣いは「5,000円」、それが「絶対」でした。その中でやりくりしなくてはいけません。ゲームを買うにも、映画を見るのも。 ただ、小学校に入り友達の話を聞くと「1万円のお小遣いの子もいる」ことを知りました。最初はとても憤慨しました、「家はひどい」と。 でも、いろいろお父さんと話したり、いろいろなクラスメイトと話していると、もっとお小遣いの少ない人もいて、必ずしも、自分は不幸なわけではないことが分かりました。 その集団の中に、相対的な価値があり。家族の中で考えている内は、「絶対的」と思っていたが、他の家庭の価値を知ることで、「相対化」されました。それは対象とする、範囲が広がったからです。 なんか、余計分かりづらくなったかな??
お礼
ご回答をありがとうございます。 たぶん おっしゃっていることは それとして 妥当なことだと思うのです。 そしてそれは 《神は死んだ》の《死んだ》という側面に集中して 説明をおこなっている・・・のではないかと思うのです。 絶対だと思っていたものが 必ずしもそうではなかったと知る。いえ 実際にはもう少し 具体的なお話であって ものごとの究極の価値を固定的に捉えていたのが 決してそうではなかった。もっと流動的であり 見方も柔軟なものになれるのだと知る。 すなわち: ★ 扱う範囲が広がった それに対して わたしにどこか曖昧ではないかと映ったのは あたらしい世界が すべて相対的なものごとから成るものだとは思えない・・・。といったことでした。 すなわち: ☆☆(No.4お礼欄) この《我々の中に存在する価値》と 《何だか分からない絶対的な価値》とが 共存するという見方もありうるのではないか? こういう物言いです。 《絶対的なもの》は 一たん自由な幅があり範囲の広い相対的なものごとの世界として捉えるようになったときにも なお別様に・どこかナゾとして残っている・・・のではないか。です。 ★ お小遣い ☆ の絶対とは何か? と問えば たしかに分からないのですが。ましてや お小遣いの額の絶対は ないですよね。数量や形というのは すべて・どこまで行っても相対的なものにとどまる。 だけれども 絶対というナゾは あるかも知れない。ないかも知れない。どちらとも 人間には決められない。・・・といったようにです。
- o_tooru
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こんばんは、疑問はつきませんね。 さてご質問の件ですが、哲学の分野は全くの独学なので、外していることも多いです。 まずは、ニーチェですよね。 私なりの解釈では、ギリシャ神話の時代、「神」は全体的な権威であったわけです。当時の世の中の絶対的な価値「真善美」を具体化したのが、「神」だったわけです。 しかし、そのご、いろいろな価値観が表れ、世の中に「絶対」と言われるものがないことがわかってきました。「相対的」な価値観が表れてきたからです。 ある民族の「価値」は、他の民族の「価値」とは異なるけど、どちらが劣っているわけではない・・的な考え方です。 そのとき、この世の中には「絶対的なものは無い!」=「神は死んだ」となったわけです。どこか別の世界に「絶対的な価値」があるのではなく、「我々の中に価値が存在する」と言うことになったわけです。 ・・なんて解釈しています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 理解を深めるために 疑問をぶつけてみます。 ★ 世の中の絶対的な価値「真善美」を具体化したのが、「神」だったわけです。 ☆ たとえばこの《真善美》なる価値について のちに: ★ この世の中には「絶対的なものは無い!」=「神は死んだ」となった ☆ ら どうなりましたか? つまり: ★ ある民族の「価値」は、他の民族の「価値」とは異なるけど、どちらが劣っているわけではない・・的な考え方 ☆ になったとき――つまり 要するに現代ですよね 現代において―― 真善美なる価値は どうなりましたか? つまり もうあまり言われなくなったと思うのですが あるにはありますよね? 真善美。あるいは 真偽と善悪と美醜と。 《絶対的な価値》として捉えられていた時代にも 真偽・善悪・美醜といった相対的に捉える価値観は持たれていたし 《神が死んで 必ずしも絶対的な価値については考慮しなくなった》現代においても 絶対的な価値のことが《消えてなくなった》わけではない。 つまり 分かりづらくしてしまったみたいですが 《絶対的なもの》は 無いと決めつけたというよりは それが分からなくなった。《決まっているわけではなくなった》。のではないか? と思ったのでした。 ★ どこか別の世界に「絶対的な価値」があるのではなく、「我々の中に価値が存在する」と言うことになったわけです。 ☆ この《我々の中に存在する価値》と 何だか分からない絶対的な価値とが 共存するという見方もありうるのではないか? こういう物言いです。 分かりづらくて すみません。
- GalaxyS2
- ベストアンサー率9% (19/202)
神は死んでないよ なぜかわかる?
お礼
ううーん。そういう問い方というのが 分かんない。 ご回答をありがとうございます。 神は 人間が神を好きだと言おうと いかに激しく罵ろうと 痛くも痒くもないと思うんです。 でも なぜですか?
かつて世界は4人の神、5人の精霊によって護られていた。即ち、 天の神、オストガルト 地の神、マーファ 海の神、サーヴェン 人の神、ラクス 火の精霊、カサドゥーラ 鉄の精霊、コメット 土の精霊、オーム 水の精霊、スゥイフト 風の精霊、グリムウェル である。 神は英雄に力を与え、4つの国が作られた。 精霊は人々に恵みを与えた。 それから数百年。 それぞれの国家は我が神を讃え、人の信仰は神の力となった。 やがて神は狂った。 数百年に渡る人の祈りは、我が神こそ至高として、他国と争いが起きた。 オストガルトが剣を振るうと、数多の星々が光の矢となって降り注いだ。 マーファが錫杖を翳すと、 大地は幾千の槍と姿を変え、生きとし生ける者を貫いた。 サーヴェンが戦斧を打ち鳴らすと、水は荒れ狂う濁流となって全てを飲み込んだ。 ラクスが盾を掲げると、無数の躯が起き上がり、四肢を引きちぎられようとも我が神の為に進軍した。 精霊は戦いを拒み、あらゆる物質と融合してその姿を消した。 その戦いは7日7晩続き、8日目の朝、人の9割が死に、彼らの築き上げた文明も砂塵と化した。神々はその行為を恐れ、自らを封印しようと精霊達を呼んだが、それに応える者はいなかった。 4人の神は地上に残された最も清浄な地に降り立った。 そこには一組の少年と少女がいた。 神の姿を見ると少年は怒りを湛えた相貌を向け剣を抜いた。 少女は深い哀しみを宿した瞳でそれを見た。 神は2人に言った。 これから起こる事をよく見ておくように。 我らは人の世の恵みとなりて、二度と争わぬよう一つとなろう。 もし、人の世に災厄あれば、神器の力を持ってこれを打ち破らん。 人の子よ、汝は地に満ちよ。 次の瞬間神の姿は消え、そこには4つの若木があった。 若木はみるみるうちに伸び絡み合い、巨大な一つの大木となった。 その地は、温暖で、災厄もなく、生命の恵みに満ち溢れた。 そこで少女は5人の子供を産んだ。 両親は子供たちに言った。 この楽園より出て、旅をし、遠く新たな土地へ行け。 餞別として4人の子供には神々の4つの武器を。 最後の末の娘には、大樹の枝を1本折り、削り剣とした。 それは神剣ユグドラシルとなった。 5人の子供は5つの大陸に渡り、それぞれ国を起こした。 これが人の世の始まりである。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《神は死んだ》という命題は あんまし関係ないということですか?
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お礼
ご回答をありがとうございます。 > ☆ ここでわたしは考えました。わたしの考えは まだ神は 絶対としてある > 〔と想定される〕というところにあります。 > > それによりますと 《神の手から解き放たれ》たということは そのまま > 《神から それぞれおのが旅路へと送り出された》ことだと捉えるわけです。 > > すなわち 《絶対》はそこで《隠れた》のだと。 ★ 難しいですね、理解しずらい感じですが。私の苦手な数学で言えば「0」の発見と言うことがどこかの本で読んだことがあります。 ★ ないと言うことを指し示すのが「0」と言うことだったのかな??起点として、数直線の値のない数としての「0」。値は無いのだが、そこに厳然として存在する「0」。そんなイメージなんですかね? ☆ ええ そういうことを習いました。たしか空位記号でしたか。それ以上のことはあまり知りません。 《無い神》は 無いと捉えているけれど 普遍神のことを示すシルシとしてであるのだから まさに空位記号として言っているだけのことだ。・・・というわけでしょうか。記号が指し示すものは その言葉とは別にある。つまり 普遍神だ。 > もしくは 人間が独り立ちするあたらしい世界は なおいわゆる信仰も > あるようですから そのときには――《有る神》派のほかに 同時に同等に > ―― 《無い神》派がいることになったのだ・・・と見ることになるのだと。 > > 早い話としては いわゆる無神論は 《無い神》という神の信仰なのでは > ないか? これです。 ★ これも、私にとっては難しい考え方です。 >世界史的には超ローカル・イベントだった訳です。 ★ 他の方も、この様におっしゃっているので、私なりに考えてみると。 ★ ついつい、古代ギリシャ哲学的に「真善美」という絶対的なものがあり、それがニーチェ以降、相対化し、ソシュールにより、構造主義が提唱され、弁証法ではありませんが、古い命題が、対立する命題との間で止揚され、新しい命題へと進化した・・的な、単線的なイメージをなんとなく持っていましたが。 ★ 実は世の中は、そんな単線的ではなく、様々な価値観が存在する複雑な物になっている、(神がいると考える人もいるし、いないと考える人もいる)とか考えるべきなんですかね? ★ となると・・・果たして、どうやって考えて良い物やら・・浅薄な知識の私にとっては何処が何処やら・・?w ★ でも、こういった論議は非常に楽しいです、勉強になります。私の比喩ですけど、ある視点(考え方)を身につけることは、階段を上がるような感じ・・それまではただ高いとしか見えなかった物が、階段を上がると、そこには踊り場があり、新しい視界が広がる。それはそこまでの高さを実感するとともに、まだ先が有ることが分かる。 ★ 視点が広がり、新しい景色が見えて楽しいですわ。 ☆ 上手に応答し得ずに ずっと引用を重ねてしまいました。 ☆ そうですね。《信教・良心の自由》という命題があります。これから逆推するなら 《有る神》派も(無い神》派も ともに同等にあり得る。・・・とも考えられて来ます。 ☆ あるいは 神は有るという命題は 証明できないんですよね。と同時に まったく同じく神は無いという命題も 証明できません。 ☆ そういうナゾとして 神は想定されているし 《有る神》派では そのまま持たれています。 ☆ そんな感じでしょうか。 ★ まだ先が有る ☆ かも分かりません。