バイブルスタディについての疑問

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  • バイブルスタディ(BS)について
  • 神のイメージと偶像崇拝についての衝撃
  • 神とキリスト教についての疑問
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バイブルスタディ

 失礼します。 私は今、BS(バイブルスタディ)をしてます。 今まで、四回話を聞いたのですが、 大体の話は覚えれれるのですが、細かいとこまで 覚えられません。 BSの話の内容などを簡潔な短い文章でよいので どなたか教えて頂けないでしょうか? それと、今日、バイブルスタディで 神は偶像崇拝は嫌うと教わりました。 以外でした。私は神を信じていませんが、 神のイメージとしてはなんでも受け入れる存在で 偶像崇拝を嫌うということを知り、衝撃でした。 私は昨日のBSをして、疑問がわいたのですが。 神とは何か?キリスト教とは何か? というものです。 神は人間が作り出したものではないかという思いが 私にはあります。 大昔において、過酷な環境で生きなければならなかったその環境が キリスト教、イスラム教、仏教を生み、そして、それは 単純に人間が生んだものではないかと。 神という概念を誰かが作り、この世の秩序を維持するために 人々に神を信じさせたのではないか・・・ 私には、神が預言者に御言葉を与え、この世の人々を導いた という話を信用できません。 神がいるなら、もっとこの世がよくなるはずだし、 神が全知全能で、すべてを創造したのなら、戦争もおきずに みんな幸せになれるはずであろうと 僕には神という存在がわかりません。 でも、地球の3分の1が聖書を学んでいたり、数千年も 聖書が存在し続けていることから、そんな簡単な話とも思っていません。 私がただ勉強不足ために、キリスト教、聖書、神を 理解できていないだけという思いです。 どなたか教えていただけないでしょうか? 神とは何か? そして、聖書を学ぶと人は救われるのかを。 文章中に失礼な発言があったかもしれませんが、 お許し下さい。 どなたか私の疑問にお答え頂ければ幸いです。

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  • soma_h
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回答No.2

まず、 >神のイメージとしてはなんでも受け入れる存在で 偶像崇拝を嫌うということを知り、衝撃でした。 ↑これですが、キリスト教は日本の神道、仏教、修験道などに比べ、 排他的です。一神教の宗教の殆どは排他的な面があり、それが今日の 宗教的対立(主としてキリスト教VSイスラム教)などを生んでいます。 歴史上の出来事…例えば、「十字軍の遠征」などはその最たるものです。(故に、私は少々アンチ・キリスト教なのですが) 哲学においてもそうなのですが、人間は古代から、理想的なもの、 完璧なもの、絶対的なものを常に考え、追い求めてきました。 それがプラトンのいう「イデア」であったり、 宗教における「絶対者」=神…なわけですね。 人の力を超えたもの、人の考えを超えたもの。 それを求めて止まない心、それがプラトンのいうエロスであり、 それがゆえに、人はより良い生き方や美を探究し続ける…わけです。 人間は完全な存在ではありません。まずそれを認知すること。 自分は何も知らない、何も出来ない無力な存在である、と謙虚に 自身を見つめなおし、その上で、自分のなすべき道を見つけ、 定める。 これがソクラテスの言う「無知の智」であり、親鸞聖人の言う 「他力本願」の趣旨です。 しかし、悲しいかな…人には本能や欲があり、それゆえに己を見失い、 無益な殺生、対立を繰り返します。 世界中の人々がみな、あなたのように考え、そして己を知り、 見つめなおし、そして謙虚に生きることが出来れば、 もしかしたら戦争も対立もない、真に平和な世界になるのかもしれませんが……。 私もかつてあなたのように、「宗教が存在する理由は?」 「神や仏は実在するのか?」「人の心は何故宗教を求めるのか?」といった疑問を持ち、 大学では哲学科に進み、宗教学、ドイツ哲学(主として実存主義)、 仏教学(仏教系の大学でしたので)、などを学びました。 あなたが盲目的・狂信的に宗教を信じ込むのではなく、 まず疑問を呈しているその態度。 それは宗教を理解する上で、大変重要だと、私は思いますよ。 そうして、神とは何か、自分とは何か、世界とは何か……と考え続けることこそが、 真に「宗教的に生きる」ことであると私は思います。 そうして考えているうちに、もしかしたらあなたにも 「宗教的神秘体験」=奇跡・神の顕現=(仏教で言うところの) 「悟りの境地」があるかもしれません。 …それが、聖書を勉強する中で見つかるか、それとも他の宗教の中で 見つかるかは、あなたの選択次第ですが。

benkyouchu
質問者

お礼

 宗教は排他的なんですね。 愛を持って望むという教えがあるはずなのに その点、他の宗教を攻撃するのはいかようなものか。 ますます宗教というものは、人間がやっている以上、 代表者の意向や思惑で好きなように変えられているような 気がしてなりません。 過去の歴史において、土地の支配者が宗教を利用し その土地を支配していたなどを聞くと、宗教って・・・? とまた思ってしまします。 真に「宗教的に生きる」とは初めて聞いた言葉ですが いい言葉ですね。 これからも考え続けることが大事ですよね。 大学に宗教学の先生がいますので もう少し、私自身、宗教について勉強して 先生に質問したいと思います。 私の質問にお付き合い下さいまして 大変ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • soma_h
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回答No.3

ANo,2 です。 >真に「宗教的に生きる」とは初めて聞いた言葉ですが  いい言葉ですね。  これからも考え続けることが大事ですよね。 そうですよね? 日々の生活に忙殺され、欲に塗れて、 ただ「生きて」いくだけは、だめなんですよね……。 わかってはいても、ついつい忘れがちなことです。 日々自己を省み、真摯に謙虚に生きてゆくことが、 大切なんですよね。 日本哲学の父と言われる「西田幾多郎」氏の『善の研究』 第4章:宗教の項に、このような言葉があります。 「我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、 安心は宗教より来る結果に過ぎない (中略)宗教は人間の目的そのものであって、 決して他の手段とすべきものではないのである」 興味がおありでしたら、岩波文庫からも出ておりますので、 ご一読なさってみて下さい。 そして宗教を、多面的な方向から見つめなおし、他人との対話と、 自己批判を繰り返し、よりよい生き方、己の進むべき方向を、 探求し続けて下さいませね。 若いうち…大学生のうちですよ~。スコレー(暇)があるのは。 子供ができたら、日々の生活に忙殺されてしまいますから(笑)。

benkyouchu
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。 宗教そのものが目的という意味はまだ分からないのですが これからも考え続けていこうと思います。 大人になったら、忙しいのですか汗 今は暇ですが、その時間を全く生かせず、 時間の浪費をしてしまってます。 有効に時間を使えるようにがんばります。 ありがとうございました。

回答No.1

「神がいるならなぜ今世界は混沌としているのか」 この答えはBSでは得られないのですか? 納得のいく答えは聖書にあるか、BSの先生(?)にお聞きになってみては いかがでしょうか。 あいまいな答えしか返ってこないのならば、 そのBSは行く価値はありません。

benkyouchu
質問者

お礼

 まだ四回しか聞いてないんです。 これから、そのことを意識して話を聞いてみます。 回答ありがとうございました。

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