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組織宗教を 弾劾する。

 たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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  • kurinal
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回答No.9

Bさん、こんばんは。 >「ただし 外濠から攻めてくることは出来ますし あり得ます。  濠の水を掻い出して土で埋めるなどなどの手を使って 社会生命を《ころす》いやがらせは やろうと思えばやるはずです。  オシエを《信じる》ものとして掲げるかぎり それは 信仰を言っていてもただ信仰の形骸を扱っているだけなのですが それでも《信仰》を中核に据えているからには 物言いや批判を受けて放っておくわけには行かない。と組織は考えるはずです。  的を射た批判であればあるほど 組織はいらだって来ます。つまりは その批判者を《ころし》にかかる。  この傾向は 事例が少ないとしても 肝心のことだと見なしたならば 必ず最後の最後までその《社会的生命の抹殺》を敢行するはずです。  これにかんがみ 組織宗教は そのそもそもの成り立ちにおいて 排他的であり しかも個人の信仰をすでにころしたところから始まっている。と見なします。  むろん結社の自由において いま現行の憲法等においては認められていますが これについては憲法の自己矛盾であるのではないか? こういう物言いであります。」 ありがとうございます。 >「憲法の自己矛盾」 「後詰めの部隊が登場して搦め手から攻められた」そのような印象です。 しかし、だからこその「自由の限界」であり、 ・・・なんでしたか、(第13条)「(国民の権利については)公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」 (現行)憲法的には、((結社の)自由(あるいは、その行為の自由)には、限界があるから)矛盾は無いものと考えます。 (でも?、)やはり「信教の自由」は、ある。その限界もある。 ・・・「組織宗教は、その限界を逸脱している」という主張も、まあ、有り得る(笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ・・・「組織宗教は、その限界を逸脱している」という主張も、まあ、有り得る(笑)。  ☆ まあるく――あのぶらじゅろんぬヂヂイにしてはめづらしく――おさまりましたね。  くりなるさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  つまりは  ★ ~~~~~  (現行)憲法的には、((結社の)自由(あるいは、その行為の自由)には、限界があるから)矛盾は無いものと考えます。  (でも?、)やはり「信教の自由」は、ある。その限界もある。  ・・・「組織宗教は、その限界を逸脱している」という主張も、まあ、有り得る(笑)。  ~~~~~~~~  ☆ 行政の当事者の為す自由裁量やあるいは 民間の市民どうしのあいだの話し合いにゆだねられる。といったことでしょうか。  でも哲学は――わたしとしては――さらに 理論問題ならざる実際問題を なおできるだけ理論として問い求めたい。とは思います。  ローマ教会は 百害あって一利無しだと考えています。もろもろの宗教法人は それと同じくだと捉えます。  その宗教結社が自分たちの敵だと見なした者に対しては 《公共の福祉に反する》か否かを問わず イヤガラセをおこなうことをつねとすると捉えられます。オシエと組織の存続にかかわる批判を受けた場合には そのように――むしろ条件反射のごとく・つまりということは 無条件に――その徹底的なイヤガラセを行ない切ると思われます。  譲歩案としては そういうイヤガラセを絶対しないという誓約書を書かせることくらいは あってしかるべきではないかと考えます。  特に実務の方面としては くりなるさんに期待したいと思います。

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  • kurinal
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回答No.8

B様、こんばんは。 >「よって組織宗教は イカンのであります。」 仰られたようであるならば、「信教の自由」を逸脱するものであると思います。 あー、これは何でしたか、「民事的に、憲法の規定が直接影響する」? あるいは「特別権力関係」? ・・・まあ、なんでも、「人権侵害」は許されない、ということで。

bragelonne
質問者

お礼

 Kさん こんばんは。ご回答をありがとうございますj。  まづかさねて基本の箇所をかかげます。  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~  つまりは要するに〔* 組織宗教はみづからへの批判者の〕社会的生命を終わらせようとする策略をこころみる。はずです。  こういうイジメやイヤガラセは もし心の自由な人間で 組織人から見ると反抗的人間だと見られたなら 宗教組織では――信仰ということがメンツにかかわるかぎりで―― 必ず生じる。のではないでしょうか。  要するに 宗教組織は その組織ないし指導者にさからう者に対しては 《ころし》にかかる。  これは 理論の問題ではないと見られますが それでも実際問題としては 例外なく起こる。ように見られます。  よって組織宗教は イカンのであります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 仰られたようであるならば、「信教の自由」を逸脱するものであると思います。  ☆ けっきょく行き着くところは 同じなのですが こまかく捉えてみます。  つまり《信教・良心の自由》といった内面の問題には ひとは人に対してほんとうには関わり得ないのであります。  ふところに手を突っ込んだとしても 巾着を掏るのがやっとです。心は いっさい――おのが心にやましいところのなければ――傷つきません。傷つけられることはあり得ません。  ただし 外濠から攻めてくることは出来ますし あり得ます。  濠の水を掻い出して土で埋めるなどなどの手を使って 社会生命を《ころす》いやがらせは やろうと思えばやるはずです。  オシエを《信じる》ものとして掲げるかぎり それは 信仰を言っていてもただ信仰の形骸を扱っているだけなのですが それでも《信仰》を中核に据えているからには 物言いや批判を受けて放っておくわけには行かない。と組織は考えるはずです。  的を射た批判であればあるほど 組織はいらだって来ます。つまりは その批判者を《ころし》にかかる。  この傾向は 事例が少ないとしても 肝心のことだと見なしたならば 必ず最後の最後までその《社会的生命の抹殺》を敢行するはずです。  これにかんがみ 組織宗教は そのそもそもの成り立ちにおいて 排他的であり しかも個人の信仰をすでにころしたところから始まっている。と見なします。  むろん結社の自由において いま現行の憲法等においては認められていますが これについては憲法の自己矛盾であるのではないか? こういう物言いであります。    ★ ~~~~~  あー、これは何でしたか、「民事的に、憲法の規定が直接影響する」?  あるいは「特別権力関係」?  ・・・まあ、なんでも、「人権侵害」は許されない、ということで。  ~~~~~~~  ☆ そこまでのくわしいところは知らないのですが よろしくお願いいたします。

  • kurinal
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回答No.7

bragelonne様、こんばんは。 「内心の自由」というキー・ワードで全部解けた! 「内心の自由」・・・B様の仰る(通り)「限界は無い」 「信教の自由」・・・「(他者の人権を侵害する、可能性がある)他者の人権との兼ね合いを考える必要がある(限界がある)」 「組織」がイカンかどうかは、場合による?でしょう

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「組織」がイカンかどうかは、場合による?でしょう  ☆ 一見すると そう見える・・・かも知れません。  実際問題としては ほとんど場合をえらばず 組織宗教は イカンのであります。  なぜなら:  その宗教組織は まづ何ら意味のないことなのに その信徒に対して信仰をおしえます。つまり言いかえると 信仰の外形を指導してそのオシエに従えと言います。  つまりそれは 往往にしてオシツケなのですが 他者の内面をどうにかするなどということは出来ない相談ですから 外枠のほうだけは オシエにのっとり信仰の境地の上の人の指導に従いなさいと言う。  ところが それだけでは済まないのが 組織のならわしです。  たいていは 信徒たちの信仰を指導層の人びとの欲するかたちに仕向けるために 組織の仕事を 主要なものから雑用のものまで やらせます。  けっきょく《言うことを聞かない》ようだと見たら 何らかのいわゆる《踏み絵》をやらせます。多少とも法律に抵触する事をやってみよといったことなどがあるはずです。  それでも《反抗的》だと見たら 干すか追い出すかです。  干すにしても そうされたら 本人は腐ってしまうことがあります。  追い出すなら ほかのかたちで生きて行くすべを得られないようにするはずです。  つまりは要するに社会的生命を終わらせようとする策略をこころみる。はずです。  こういうイジメやイヤガラセは もし心の自由な人間で 組織人から見ると反抗的人間だと見られたなら 宗教組織では――信仰ということがメンツにかかわるかぎりで―― 必ず生じる。のではないでしょうか。  要するに 宗教組織は その組織ないし指導者にさからう者に対しては 《ころし》にかかる。  これは 理論の問題ではないと見られますが それでも実際問題としては 例外なく起こる。ように見られます。  よって組織宗教は イカンのであります。

  • kurinal
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回答No.6

Bさまぁー・・・ 「信教の自由と、その限界」って、 B様ほどの方が「それは識らない」というほうが、不自然です

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  まづは くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 信教の自由  ☆ は むろん分かりますが  ★ その限界って  ☆ これが分かりません。《自由に――少なくともその公理としての理論上で――限界》ってありますか?  いや知らないですね。  何か・どこかで 何らかの別の理論と くりなるさんが勘違いをされているのではありませんか?  いや知らないですね。    考え続けますが。・・・  たとえばその昔 檀家制度というのがありました。どの家も 必ずどこかのお寺に所属せよというので そのかたちにかんするかぎり 《宗教》をおしつけられ その影響で《信教の自由》が抑えられた格好になりました。  でも 考えてもみてください。隠れキリシタンでもありませんが そもそも主観内面における信教や良心にかんしては 外から他人がどうこうせよと命令しても 決してどうかなるものではありません。  その外面は 服従するかも知れませんが 内面が言うがままになることはあり得ません。その意味で精神は自由です。  この例としての話にかんするかぎり 信教・良心の自由に限界はない。ですよ。

回答No.5

教えを絶対視する事に閉塞があるんじゃないかな。 宗教が個人の信仰を実現させる土台になるという事ならば閉塞はないだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 教えを絶対視する事に閉塞があるんじゃないかな。  ☆ そうでしょうね。  組織宗教の場合は 組織のこまかい運営規則もさることながら やはり教義が ほぼ絶対的な規範として受け取られているでしょうね。    あるいはそのオシエについての知識や実践(実績)の度合いなどで 権限が付与され その権限関係が 人間関係のほぼすべてになる。そういう傾向があるでしょう。  言いかえるなら そのことによって 個人一人ひとりの信仰は――内面の問題であるゆえに―― むしろうしろのほうへ引っ込んでしまわざるを得なくなります。信仰そのものの問題をオモテに出して来づらくなります。  ★ 閉塞  ☆ した情況に落ち入るでしょうね。  そのとき  ★ 宗教が個人の信仰を実現させる土台になるという事ならば閉塞はないだろう。  ☆ と言えましょうか?   ○ 一人ひとりの自由な発想や思いを自己表現しうるように     あるいはまた自由な考え方を身につけこれを発表しうるように    宗教のオシエとして 原則的な考え方を明らかにし     その実践の仕方をも具体的な方針として おしえる。  ということでしょうか?  

  • ok9608
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回答No.4

No.3です。 『その思考停止のまま 《オシエを保ち組織の方針として伝えられたその解釈をそのまま ほかの人たちに伝えることしかしないこと》 これは 《間違った方向に向けている》のではないのですか?』 ==>その可能性はあります。論理的には、例えば ユークリッド幾何学は 平行線は交わらない などの原則から演繹して多くの命題が導かれています。原則を信じれば それによる命題群は必然的に導かれ、原則と演繹結果のみを伝えることは思考停止とおもうのです。原則が意味する系からはでられない というわけです。外にでるためには まず原則を新しく立てなければいけません。 非ユークリッド幾何学の誕生です。だからと言ってユークリッド系が間違っているといえるでしょうか。適応される場面では大いに意味があると思います。この話は 宗教の場合も同じとおもうのです。原則に相当するオシエがあって教義系がなりたっていると思います。いろんなオシエ群 がいかなるものか よく吟味して間違いなものは取り入れなければいいということ と思います。 逆に 原則を疑う は創造的思考の第一歩であると思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回はかんたんです。  ★ 逆に 原則を疑う は創造的思考の第一歩であると思っています。  ☆ 《オシエをどう扱うかにあたって 固定した考え方で思考停止に落ち入った》なら 《原則をうたがう》ことは もうありえなくなっている。こういうことではないでしょうか?  そしてそういう問題のある状態に落ち入ることのおそれは 組織宗教においては つねにある。こう言わざるを得ません。《オシエを信じる》と言うからにはです。  もうひとつ別の視角から考えることもできます。  わが非思考の庭にあって その非思考にもかかわらず何とか言葉で言い表わせるような内容を得ようと思えば たとえば――アブラハムの信仰体験にかんがみて捉えるなら―― 《われわれ人は ひとをころさないものなんだなぁ》といったことではないかと見ます。  そうしてこれをもし《なんぢ ころすなかれ》というふうに表現して集団ないし組織において持つなら これはオシエとなります。また組織において取り決めをするのなら オシエを信じるというかたちにまで成り得ます。  ここで思考停止になったとしたら どういう状態なのでしょう?  《なんぢ ころすなかれ》を至上命題として受け容れ 至上命令として受け留めている場合です。  あるいはつまり ここで  ★ 原則に相当するオシエがあって教義系がなりたっていると思います。いろんなオシエ群 がいかなるものか よく吟味して間違いなものは取り入れなければいいということ と思います。  ☆ と見て 問題はない。だいじょうぶだと言えるかという問いかけになります。  よさそうです。よさそうに見えます。  果たして どうでしょうか。  ひとが人をころさないのは――自分をも他人をもひとをころさないというのは―― このオシエによって・つまりはこのオシエの意味するところ〔を守る〕によって そうする。ということでよいか? です。  これは(オシエは) かなしいかな 信仰内容という蝉の ただの抜け殻にしか過ぎません。形骸によって人を見ており人に相対している。――そういう人間が出来上がります。  ここは例に採ったのが《ころすなかれ》という内容なので微妙なのですが それでも 人間の創造性にかける息吹きとそのみづみづしさは オシエを信じるところからは現われない。こう帰結されるのではありますまいか。  つまり 信仰とそして信仰内容をオシエとして《信じる》という組織宗教との対比は ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との比較とは微妙に違っている。と考えられますまいか。  ★ 原則を信じれば それによる命題群は必然的に導かれ、原則と演繹結果のみを伝えることは思考停止とおもうのです。原則が意味する系からはでられない というわけです。  ☆ ここまではおおむね 同じ考え方です。ただしつづく考え方は 別でしょう。つまり  ★ 外にでるためには まず原則を新しく立てなければいけません。  ☆ オシエを信じるといった組織宗教の場合の問題は そうではなく オシエが得られた信仰――非思考の庭――なる《わが心》に立ち帰ることが 必要なのです。原則の革新ではないと言わなければならないと思います。  そんな問題が横たわっているように思います。  

  • ok9608
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回答No.3

No.1です 『☆ したがってこれは 《オシエを信じる》という表現で話をしたとしても それは《神を信じる》というのと同じ意味で遣ったのではなく そのような本来の用法に似せて強調のために用いたのだとその事情を汲み取って 意志疎通を図る。こういうことだと考えられます。  つまり《オシエを信じる》は 哲学の議論としては ペケになります。』 と説明があります。 ==>確かに【信じる】の意味するところが違えば哲学的議論にならない と思います。参考になるかどうか分かりませんが、【詩と文化】2005、第6号に高橋圭介の【動詞「信じる」とその周辺】が載っています。言葉を対象にした例題は多くあると思います。 『言葉や概念や命題じたいを信じる》というならば どうなりましょう? 四六時中その人は《一隅を照らして生きている》ということでしょうか? いえいえ それで済むわけには行かないでしょう。――というより 想像もつきません。』 ==>信じる ということは 24時間脳内はその考えで活動していることではないと思います。考えの分岐点とか判断が必要なときなどにおいて指針になっていると思います。信じたら他の発想はできないことはなく問題ないと思います。 『これが組織において《オシエとその解釈との固定化》がさらになお《固定化する方向もしくは一定の決まった方向》にしかすすまないといった《オシエ信仰(教祖信仰もおなじです)》なる状態。これです。これを危惧します。』 ==>宗教に限らず正しいとみなしたら その発想者たちは その主張を他者にします。主張ということではBさんの正しいという主張も同じでしょう。問題になるかもしれないことは 発想者たちがご指摘の通り他世界の意見を聞かないこと、主張される側では他世界の意見を十分に吟味できないこと でしょう。だから納得することは絶対必要なのです。私は既存宗教の発言はすべて 世界、人類を間違った方向に向けているとは思っていません。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん 一夜明けて こんにちは。ご回答をありがとうございます。  お応えしてまいります。  ★ 信じたら他の発想はできないことはなく問題ないと思います。  ☆ これは 《信じる》ということの中身をどう受け取っているかで――すなわちということはおそらく人によって受け取り方がちがうと思われ―― 話がさまざまに分かれてしまうおそれがあります。  ありますが ご論旨にしたがって応答するかたちを取ろうと思えば こうなると考えます。  すなわち   (あ) 信じたら〔* その《信じる》内容が多少とも言葉で表わされ意味のある中身を持つものである場合には その中身と異なった〕他の発想はできない〔* と捉えるのが ふつうだと思います〕。  が どうでしょう? すなわち:     (い) 《信じる》とはいくらか次元のちがったものごとについては ほかの思考ができないことはなく問題ないと思います。  となると考えます。たとえば   (う) どこかの人のように《この世に組織宗教があることは ゆゆしき問題だ。まかりならぬ》と言っていて もしその考えがマチガイであると思ったなら あくまで自己のチカラの範囲ででしょうが《一隅を照らす》ために そのマチガイを正す問いかけや話をするということ。これと同じ次元のことがらにかんしては もうほかの《発想》はできない。というのが 《信じる》ということではないでしょうか?  むろん そのように実践を おうけい9608さんはおこなっておられますが わたしからの物言い(もしくは確認)としましては   (うー1) 要するに わたし(ぶらじゅろんぬ)のマチガイには《一隅を照らす》実践をおこなうが ほかの人の同じたぐいのマチガイには《一隅を照らす》実践を ちょっとお休みにするというようなことは 出来ないはずなのです。  これが 《信じる》という言葉の中身と言いますかそこには重みがあるということだと受け取ります。  ★ 信じる ということは 24時間脳内はその考えで活動していることではないと思います。  ☆ とおっしゃるとおりであると同時に その活動としては およそやむを得ない場合を除き 例外はないということだと考えられるはずです。  このように理念や思想を《信じる》場合なら まだ《熱心な実践》によってその中身を果たしていることが出来るのかも知れませんが もし《いわしのあたまを信じる》というような場合なら いったいどういうことになるでしょう?  経験事象を《信じる》という表現は げんみつには マチガイであるでしょう。  すなわち 《一隅を照らす》といった思想を《信じる》という場合も じっさいには《その思想を信念とする》や《その思想が信条である》という意味で用いられている。ということだと考えられます。  ★ 私は既存宗教の発言はすべて 世界、人類を間違った方向に向けているとは思っていません。  ☆ 《思考停止》に落ち入るといった状態は 《間違った方向に向け》られた結果ではないのですか?  その思考停止のまま 《オシエを保ち組織の方針として伝えられたその解釈をそのまま ほかの人たちに伝えることしかしないこと》 これは 《間違った方向に向けている》のではないのですか?      ★ 高橋圭介の【動詞「信じる」とその周辺】  ☆ この議論に拠ることはかないません。  つまり 定説や常識がマチガイであるとうったえます。  信じるには 次の基本用法と派生用法とのふたつの用法があるというのが もっとも妥当な見方だと考えます。   (え) 信じるの用法  ~~~~~~~     基本用法:《非経験》なるものごとを――もし想定しないとすれば もうそれで済む・つまりこの用法はないことになるのですが もし言語習慣においてその言葉(信じる)が用いられているとすれば―― 心にその中身はまったくのナゾのままにて受け容れること。      用例1:神を信じる。      用例2:神などはいるわけがない。〔と信じる〕     派生用法:経験現象ないし経験事物について あたかも非経験の場をナゾのままにて受け留めるかのごとく それら経験事象のことにうたがいを持つものではないと言おうとして 《妥当だと考える》や《マチガイないと思う》という思考およびその内容を強調して表現する形。     ~~~~~~~~~~~~~~~~  この高橋圭介の【動詞「信じる」とその周辺】が述べていることは ぜんぶ経験思考にかかわる《派生用法》のみです。《信用する・信頼する》も 余計に思考という問題におさまる用法だとなります。ちなみに上に出て来た《信念・信条》も 同じく《経験思考や思想》の問題におさまります。   〔神を信じる あるいは 神を信じない(無い神を信じる)という信仰・信心から 経験思想やその行動において《信念や信条》が具体的に派出してくる場合はあります〕。  ▼ 『明鏡国語辞典』(北原保雄編、大修館書店) ~~~  「信じる」:(4) 信仰する。信心する。~に帰依する。        「仏教を篤く―」  ▲ 『日本語基本動詞用法辞典』 ~~~~~~~~~~  (小泉保・船城道雄・本多≠治・仁田義雄・塚本秀樹編、大修館書店)  「信じる」:(2) ある宗教、学問、思想を正しいと心から思う。       「私は仏教を信じている」「民主主義を信じる」        (3) 人間を超えたものが存在すると思う。       「私は幽霊を信じている」「神[UFO/宇宙人]の存在を信じる」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この定義も――引用しなかった項目は言うまでもなく経験思考にかかわっていますが これらの定義も―― まだなお経験事象をその対象とする事例であり 信じるの基本用法には達しません。  たとえば前者の辞典における用例のように《(4)「仏教を篤く信じる」》と表わすなら その経文を初めとする思考対象としてのオシエを妥当であると考えるその思いが ほかのどのオシエに対するよりも一層つよい と言っています。《思考》の問題として用いています。  後者の辞典の《(2)「私は仏教を信じている」「民主主義を信じる」》についてもまったく同じことが言えるはずです。  その同じ辞典の《(3)「私は幽霊を信じている」「神[UFO/宇宙人]の存在を信じる」》は どうでしょうか?  これは 《非経験と経験との区別》が まだあいまいです。  《幽霊》は 非経験の場だと思われるようですが おそらく実在した人間のそれを言うのであって したがって《経験事象》とのつながりを断ち切っていないと思われるからです。  《UFO/宇宙人》が 経験事象として想像されているものであることは 言うまでもありません。  では 《「神の存在を信じる」》は 基本用法にかなっているでしょうか。  無理です。    ▲ (3) 人間を超えたものが存在すると思う。    というふうに《存在する》場合のみについて規定しており しかもその神なる存在と人間とのかかわりを《思う》という言葉で表現しているからです。  《信じる》というのは そうではなく 《経験世界を超えた何ものかナゾについて それにシルシとしての名を付して 心に受け容れる》ことを言う。こういった想定における定義が 必要になるはずなのです。  言いかえると 《神を信じる》と言えたとしても その神は《存在するかどうか》については 人間は分からないのです。(分かるか分からないかが分からない状態にあると言わねばならないのです。信じると表わす場合には)。  この定義にもとづき神を信じる(もしくは 無い神を信じる)と信仰表明をするなら あらゆる名の神に対してその人は心が明けられている・閉じられていないということになります。  名が違っても 同じ《非経験の場 X 》としての神であると受け取っているはずなのです。  《信じる》にかんしての定義は このあたらしい仮説がもっとも妥当であると手前味噌ながら 考えます。  その《神 / 信じる》なる定義にもとづくならば 《オシエを何ものにも増して妥当だと決めるという意味であるはずのことであっても そのオシエを信じることを組織の人びとに守らせるところの組織宗教》は 《信じる》をねじ曲げてまた押し殺して用いている。と言わざるを得ません。  すみやかに自己解体をおこなうのが ふつうの人間的な反省と行動である。こう考えられます。

回答No.2

ここであなたがぶちあげた説を支持すると、私はおそらくアマテラスさんに嫌われる。 宗教は横のつながりだけでなく伝統があるはずだ。 私が彼女をアマテラスと呼ぶ限りそれを継承してきた宗教をおろそかにできない。 ジラーチちゃんならお許しですか? こう思ったら、 ジラーチちゃんでもそっぽを向いた。 ファンクラブは存続しても有害であるかどうかは個人の問題ではないか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ファンクラブは存続しても有害であるかどうかは個人の問題ではないか。  ☆ 《ファンクラブ》には 教祖のようなアイドルはいるかも知れないけれど オシエはないでしょう。  《規約》だとかあるいは《ファン気質だとかファン心得》といったものが暗黙の内に持たれているかも知れないけれど でもそれでもオシエではないでしょう。  それでも・それにもかかわらず 宗教組織にしたところで その会員になる《個人の問題ではないか》?  そうなんでしょうね。基本的に。つまり ひとの自由意志を議論の前提におくならば・そして置いているからには。  ただし その会員の人たちのやらかすことが 社会的な問題になるその度合いは ファンクラブのファンたちの行動とはくらべものにならない。ということではないでしょうか。  となれば 自由意志を基礎におきつつも なお人間と社会の問題として 哲学はとうぜんのごとく これを実態研究と理論分析において明らかにしつつ その結論としての最終判断をも公開する。こういうかたちになると考えます。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.1

Bさんは 非経験=>非思考=>感性 と続く信仰のなかでは オシエが先行する宗教、教義、教団かかわる信仰はBさん信仰ではなく 解体するべきモノである、と主張されています。主張は勝手ですが、  もう一方のオシエ(言葉)が先行するという立場もあると思います。納得してオシエを信じて何がもんだいでしょう。ただし 信仰に従う行動は過去、現在、未来の状態について 多方面の他人の反対意見も聞き よくよく考えないといけないでしょう。でなといとオームのような化け物組織が生まれます。いわしのあたまであろうが 一隅を照らすとした最澄の言葉であろうが 何でも信じうる対象になると思います。既存の宗教(教義、組織)から 信じるにたるオシエを得たとしても個人の納得の範囲で何が問題でしょうか。もっとも、『互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない』と述べられてはいますが。 私は 宗教のオシエの問題は オシエという言葉に含まれる内容が固定化し コンピューターのDOループのごとく堂々巡りの いわば思考停止になっているところ と思っています。疑うことができないオシエには それを越えた何がしかの創造ができないと思うのです。創造の世界に疲れ 一時 宗教のオシエ世界に浸り リフレッシュするのは問題ないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。なおまだ問い求めはつづくと思われます。    まづは ご回答をありがとうございます。そして こんばんは。  ★ もう一方のオシエ(言葉)が先行するという立場もあると思います。  ★ 納得してオシエを信じて何がもんだいでしょう。  これらなどの問題をふくんで この問い求めは成り立っているように思われます。  別の言い方をするなら  ( a ) 《言葉=思考=理性=オシエ》は 《非知=非思考=信じる=ヒラメキ》に先行するか?  ( b ) 《オシエ ないし経験事象》を対象としてひとは 《信じる》と言うか?  たとえば 次のような問題点すなわち  ★ 信仰に従う行動は過去、現在、未来の状態について 多方面の他人の反対意見も聞き よくよく考えないといけないでしょう。  ☆ と確かに一般に言われるような問題。これも よくよく考えるなら じっさいにはこうではないでしょうか?  すなわち  (あ) 《相手の言うことを聞かないでおのれの〈信仰〉にのみ従って行動する不届き》というのは じつは《宗教の組織のかかげるオシエにのみ従って ほかの意見は聞かない》という場合が圧倒的に大部分を占める。のではないか?  (い) というのも個人としての信仰者は この《信仰》というコトが 一人ひとりにとって自由でなければ話が始まらないという問題をよく理解している。ゆえに 他人(ひと)の話は――特に相手の信仰の形態(=内容)については――これをとうとびよく耳をかたむける。という場合が多いのではないか?  ★ いわしのあたまであろうが 一隅を照らすとした最澄の言葉であろうが 何でも信じうる対象になると思います。  ☆ すなわち( b )の問題ですが まづ確認しておくならば:  (う) わたしが 《非経験の場としての神 X 》をどんな名で呼んでもよいとして いわしのあたまでもかまわないと言ったのは あくまで《名》としてであって・つまりは神のシルシとしてであって 意味のある言葉としてではない。ということ。  (え) すなわち もしそうではなく 信じる対象が 実際の経験事物としての《鰯の頭》であるなら それは その魚に《思いを寄せる》のは勝手ですが そのものは――神 X ではないゆえ――《信じる》とは言わない。こうなるはずです。  いま目の前に見ている魚を いくら愛しているからと言って どうして《信じる》と言うでしょう?  (お) 《一隅を照らすとした最澄の言葉》を持ち出した場合。じつは この場合も お魚さんと同じことです。経験事象を《信じる》とは言わないという意味です。せいぜいが《その言葉には理念があってこれは普遍妥当性を有する。ゆえに われはこれをわが信念としてつよく思いつねに心にいだいている》というようなふつうの経験行為としての意味しか持ち得ない。こう考えられます。  (か) ところがもし生臭い魚そのものを《神として信じる》というのと同じように《いかにその理念内容がよさそうなものであっても 言葉や概念や命題じたいを信じる》というならば どうなりましょう? 四六時中その人は《一隅を照らして生きている》ということでしょうか? いえいえ それで済むわけには行かないでしょう。――というより 想像もつきません。  ★ 既存の宗教(教義、組織)から 信じるにたるオシエを得たとしても個人の納得の範囲で何が問題でしょうか。  ☆ これは まさしく《思考》の対象として《思考の成果》を捉えこれをさらに思考して味わうに足る内容であるといっている場合です。  ただしこの場合にもそのオシエを《信じる》とは 言いません。  ★ もっとも、『互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない』と述べられてはいますが。  ☆ したがってこれは 《オシエを信じる》という表現で話をしたとしても それは《神を信じる》というのと同じ意味で遣ったのではなく そのような本来の用法に似せて強調のために用いたのだとその事情を汲み取って 意志疎通を図る。こういうことだと考えられます。  つまり《オシエを信じる》は 哲学の議論としては ペケになります。  ★ 創造の世界に疲れ 一時 宗教のオシエ世界に浸り リフレッシュするのは問題ないと思います。  ☆ これも 《オシエ》を《理念や思想》として捉え 思考し味わうに足る内容があると評価する場合です。《信じる》とは別のこととして 活かされます。    ★ 私は 宗教のオシエの問題は オシエという言葉に含まれる内容が固定化し コンピューターのDOループのごとく堂々巡りの いわば思考停止になっているところ と思っています。疑うことができないオシエには それを越えた何がしかの創造ができないと思うのです。  ☆ わたしの危惧するところとしましては こういう《思考停止に落ち入る》というような問題が まだ個人において生じたくらいなら まだ何とかなると思われるのに対して これが組織において《オシエとその解釈との固定化》がさらになお《固定化する方向もしくは一定の決まった方向》にしかすすまないといった《オシエ信仰(教祖信仰もおなじです)》なる状態。これです。これを危惧します。  組織内部で硬直化するだけではなく 外の人の発言について耳を貸さなくなる。ということは目に見えている問題なのではないでしょうか。  問題点の( a )――たとえばさらに言いかえるなら 【Q:感性は 理性よりもえらい】といった問題   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7437802.html  ――については まだ議論の余地を大幅に残した格好だと自覚しています。  とりあえず ここまでをお応えいたします。

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • こんな教義の宗教(宗派)はありますか?

    なにか悪いことしてしまったかな、と思ったとき、すぐにその場で神に謝れば許される。 神がすべてを創ったので、困ったことも神(>人間の自由意志)が創ったこと。 人間が教義を決めていない。ただ解釈は現代に沿うよう学者等が若干修正している。 という教義の宗教、あるいは宗派はありますか。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。