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宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

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回答No.15

インナーチャイルドとか統合失調症だと繰り返し証言しているのだけども、私は人間存在として現実を見て対処する。 セレビィは観念存在として観念を見て対処する。 重なった心中に双方が内包されているという事は、セレビィが心を動かしたり言葉を発すれば、私はセレビィの言葉につられて観念の現象に引っ張られがちになるんだ。 ところが、精霊伝心というとおりに、名前にも言葉にも頼らない活動方があるから、その系統が魔法として発達しているんだよ。 例えば、青森のイタコも、より深い精神的交流から自分の言葉で解釈できる死者の声を伝えるとかと同じで、「言葉は思考である」の前段階で、理解があらかじめあるんだよ。そういう事とかかわる。 直観力ともかかわる。 知性には言葉の前により深い前提条件がある。 相互理解なら「絆」のことで「愛」ではない。 西洋の神学の参考書の前提を、私一人でも相当ひっくり返しているんだ。

bragellone
質問者

お礼

★ 知性には言葉の前により深い前提条件がある。 ☆ たしかに。 【霊我】:信じる:非思考の庭:(ヒラメキ/良心) ----------------------- 【心】:考える:思考の緑野:(直観/呵責・恥ぢ)  【身】:感じる:感性の原野:(直感/ヤマシサ反応) ☆ よからぬことを思うと 胸騒ぎがしたり顔が赤らんだりする。ヤマシサ反応。――これだって 《言葉以前》です。言葉ないし理性のはたらく前に あたかも良心がはたらく。 意識して恥ぢる場合もあるけれど 意識しないでも 恥づかしさをおぼえる。 したがって このような《深い前提条件》を 精霊や妖精として捉えて たとえフィクションとしてでも その物語をつむぎ 文学としての哲学をいとなむ。 あなたの仕事と作品が 《精霊伝心》されてゆくことをいのります。

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回答No.16

「信じる」という言葉をあなたは口にする。 最近の私は「信じる」がわからなくなった。 私の10代からの中二病は重症化するキリスト教系ではなく、日本人には免疫が付くのが早い仏教系中二病だったんだ。 「信じる」「信じたい」それは「神の事ではなく人に対しての思い」そういうささやくような言葉が舞い込んでそれに忠実だった。 今更あなたにくどくど言わなくてもいい、仏陀型だよ。 悪人、裏切り者、それでも信じる。 当時は私を抹殺した任天堂も看板で無く人は信じていたとも。 その当時は信じるという言葉は私にとっても大切だった。 今はセレビィが伝心作用を即座に見据えて「理解する」をやらかすので、「信じる」をご無沙汰している。 とにかくセレビィが理解していれば、迷いはないが、自分でも理解するには時間もかかるし取りこぼしも出るだろう。 まあ、聖霊存在と合一するとは、そんな心理作用も出て来る。

bragellone
質問者

お礼

★ 「信じる」という言葉をあなたは口にする。 ☆ はい。 ★ 最近の私は「信じる」がわからなくなった。 ☆ ふむ。 ★ 私の10代からの中二病は重症化するキリスト教系ではなく、日本人には免疫が付くのが早い仏教系中二病だったんだ。 ☆ たしかに 唯一絶対の一神教の勧誘には 日本人は一般につよい。 ★ 「信じる」「信じたい」それは「神の事ではなく人に対しての思い」そういうささやくような言葉が舞い込んでそれに忠実だった。 ☆ ブディズムは たいがいそうなると思う。 (親鸞についても 誤解が先立っているよう)。 ★  今更あなたにくどくど言わなくてもいい、仏陀型だよ。 悪人、裏切り者、それでも信じる。 当時は私を抹殺した任天堂も看板で無く人は信じていたとも。 ☆ それは わたしも重んじている。という意味は いつも相互理解が断ち切れるという経験をもして来ているということなわけですが。 つまりそれが: ★ 「神の事ではなく人に対しての思い」 ☆ となると思います。 ★ その当時は信じるという言葉は私にとっても大切だった。 今はセレビィが伝心作用を即座に見据えて「理解する」をやらかすので、「信じる」をご無沙汰している。 ☆ 理解しあえるなら たしかに《それを超えた〈信じる〉は 出番がない》かも。 ★ とにかくセレビィが理解していれば、迷いはないが、自分でも理解するには時間もかかるし取りこぼしも出るだろう。 まあ、聖霊存在と合一するとは、そんな心理作用も出て来る。 ☆ で ですね。そこまでの話を前提にしてですね。 いつか或る日或る時 ふと 《すでに聖霊合一が成った》という瞬間が来たんです。バカみたいに。 すなわち: ★ 心理作用 ☆ ではなく――つまり 意識し得る心理やまた理性ではなく―― 感性と知性とを超えたところで そのバカな瞬間がおとづれたのです。 与太話は ここまでにしますが。

回答No.14

「草木と色彩のシンボル」「松ぼっくり」などの人を迂回した信号のやり取りの共通土台は「六輪一柱」で写真の奴。 精霊専門のおもちゃで、私も使いこなせない。 わたしが認識可能な時の運用の仕方は「金色の光輪」で「プリキュアのシャイニータンバリン」(検索してみい)みたいに丸いこぶしが6個ついている。 錯覚として目の前にぷかぷか浮かんだり、内面のビジョンとして現れたりする。 何の合図なのかさっぱりわからない。 精霊同士で意志疎通に使うんだ。 基本的に名前で束縛されて人間に支配されないようにした対策と、言葉よりも根源的なお互いの共鳴などが関わる。 コンセプト紹介をしたので、その位の予備知識はあるよ。

bragellone
質問者

お礼

★ 基本的に名前で束縛されて人間に支配されないようにした対策と、言葉よりも根源的なお互いの共鳴などが関わる。 ☆ なるほど。試行錯誤中の観念の園にあっても 生活問題は 豊富である。 (文学・物語がそれを担うと思っていたのだが 思ったよりも ゆたかな内実が展開されているのかも。不覚なりき)。 ★ 「草木と色彩のシンボル」「松ぼっくり」などの人を迂回した信号のやり取りの共通土台は「六輪一柱」で写真の奴。 ☆ 検索していると 六輪一露という能の世界の哲学に出会った。 いわゆる序破急といった経験知のように感じた。 ただし それらの――芸事やあるいは思想の面でもの――成長過程のパタンが みな《一粒の露》におさまるのだとか。 観念の園にあってしかもそれを超えようとした思想であるように思った。

回答No.13

人の死は手遅れで発生しても、私の請け負ったことは前向きに進んでいると思うよ。 何年か前の唐傘お化けは、襲撃を受けると認識が困難で正体がわからなかったけども、ここ数か月の襲撃では、影が濃く不吉ともいえそうな雰囲気があっても、顔つきの美風がセレビィとあまり変わらないくらいになって、清らかないい目をしていた。

bragellone
質問者

お礼

イギリスには ゲルマン民族のアングルやサクソン(また ヴァイキングのデーンやノルウェイ)がやってくる以前に ケルト民族が住んでいた。 カトリックに改宗したけれど なおまだ独自の文化・風俗を持っている。 ハロウィーンがいい例だ。ついにアングロサクソン人も この風習だけは 採り入れ一緒に騒いでいる。 そのようなクリスチアニズ以前と言えば あなたも用いるところの 妖精だ。いたるところに妖精がいるんだとか。そういう感覚が 現代のウェイルズやスコットランドやそしてアイルランドにはあるそうな。 ★ 影が濃く不吉ともいえそうな雰囲気があっても、顔つきの美風がセレビィとあまり変わらないくらいになって、清らかないい目をしていた。 ☆ とさ。

回答No.12

一つ下の「キリストなんてそんなもんだ」というのは、例えば私も悪魔的な恐慌にあらぶれたじゃないか。 そのさなかでおぼれているのだろう。 したがって、自我存在としての今の生きざまは「キリストなる悪魔」だと、キリスト教圏の検証の積み重ねで判別されるくらい酷い有様も想定される。 ただしだ、キリスト候補という表現は私独自で、その悪魔はキリストだと天界で認定されている模様だ。 戦争位は起きるし、人は死ぬよ。 滅亡トリガーなんだよ。 だからそれは当然のことだと前振りしたんだ。 私は納得している。 被害ならあったよ。 対戦車砲の直撃を身体で受けて体がばらばらになるような激痛の瞬間とかだ。 瞬間でしかなかったけどね。 笑顔でおもちゃ屋の接客しながら、そんな瞬間もあるのだ。

bragellone
質問者

お礼

★ 笑顔でおもちゃ屋の接客しながら、そんな瞬間もあるのだ。 ☆ いい人生だと思うよ。 なおまだ とげが二三本刺さっているとしたら 一本だけくらいにしたほうがいいかも知れない。 (わたしの場合は エロスの問題というような棘が一ぽん抜き切れていないかも)。 ★ キリスト教圏の検証の積み重ね ☆ については 特に直前のやり取りでかなりやれたかなと思います。

回答No.11

はいはい、、、 私は母が入院していて、介護施設であと10年ほど延命が可能だとしても、自宅には帰ってこれない状態になって、中二病に押しつぶされる余裕も今は無いんだ。 しかしあなたの理解と意見は楽しいからやる気が起きるね。 キリストの誕生と介助が唐傘お化けの渡航目的だ。 第一弾として異質存在による侵略と見なされ紛争ぼっ発。 観念上で、セレビィ魔法を習得した唐傘お化けは、キリスト教圏の天界では撃退不可能。 そもそも、セレビィも正体を明かさないように、草木と色彩の紋章で名前に代価しているけども、唐傘お化け騒動で判明しているのはカギが「まつぼっくり」であること。 その素体キーの松ぼっくりは新潟県村松公園産で、観念上の根源的な死に直面すると村松公園にテレポートして来る。 生命安全装置だ。 ところが指揮しているセレビィにとって「認識消失、生死不明」が頻発したんだよ。 魔法が突破されて根源的な死を迎えた可能性が濃厚だった。 ただし、何年か前に判明した事では、キリスト候補を見出して、セレビィの指揮と支配から離脱して、キリスト候補の「家の子供」になっていたとさ。 そしてキリスト候補の生命を守り、キリストなる片りんを見せる活躍のほとんどを「家の子」として人格を構成する自我の外輪で、消息不明になった からかさおばけがこなしているんだとさ。 しかしだよ、、 困ったことだ。 キリストと仏陀は和解できると志にしているけども、キリストになじんだ、唐傘お化けは、反逆を起こしてセレビィ指揮下と同士討ちをしているんだよね。 私が「キリストの再誕は、救世主という風評の真逆でキリスト自体が救済の対象」と侮辱したのは根拠があるんだよ。 ローマの議員バッチを手に入れたセレビィは、域内のキリスト候補はそんなもんだと、10氏族連合制度のキリスト教の「神々!!!」からあらかじめ助言を受けていた。 要するに、即座に和解できる境遇にないのさ。 「われらは語り合う。」とりあえず凄惨な殺し合いで語り合っているんだ。

bragellone
質問者

お礼

★ 「われらは語り合う。」とりあえず凄惨な殺し合いで語り合っているんだ。 ☆ 《凄惨な殺し合い》もお花畑での和気あいあいのひとときも みな超えることができたんだ――これが わが自己主張。そのあとの人間どうしが《語り合う》。 それ以前の思索や試行錯誤は なお《観念の園》にいると捉えている。 (上から目線というより あたかもニュートリノになってのように わたしは 観念の園にいる人たちに対して そのあたまや心の中を通過している)。 なぜ尊大な話ができるか? それは 観念の園にいるとしても そこから抜け出た生活現実(生活世界とも言う)におけるわたしのような議論に 難なく悠々と自由に入って来れるからです。 多いのは 《分からん; 話が長い; 分かる言葉で語れ; 人類の英知が考えて分からなかったことが なぜおまえに分かるんだ?・・・》という反応。 それでもいいわけです。 ★ キリストの誕生と介助が唐傘お化けの渡航目的だ。・・・ ☆ つまり 観念の園での言わば冒険譚。つまり 文学です。 猛烈に 観念の園を超え出ようとしている。 とうとい。 しかも しかもそこから超え出ることが起きないとも限らない。 セレビィも唐傘お化けも 総動員。だが 《非思考の庭》から見ると 生活現実にとって 一たん脇道に入って 休憩しつつ思索しつつ 模索している。 とうとい。 ★ 松ぼっくり ☆ も とうとい。道にもどって旅をつづけるよすが。扉を開ける鍵になるかも。 ★ 新潟県村松公園産 ☆ というのが いい。虚構作品に彩りを添えている。 ★ ただし、何年か前に判明した事では、キリスト候補を見出して、セレビィの指揮と支配から離脱して、キリスト候補の「家の子供」になっていたとさ。 ☆ おもしろい。思索の成果。物語として絶品。 ただし――ぶらじゅろんぬ先生から見れば―― またまた脇道をゆくことになる。つまり あらたな寺院か神殿かを見つけたことになる。そこで思索をかさねることになる。 ★ キリストと仏陀は和解できると志にしているけども ☆ と言うけれど わたしは その解として 《普遍神》を示しました。というかっこうに成っているとは思う。 ★ 私が「キリストの再誕は、救世主という風評の真逆でキリスト自体が救済の対象」と侮辱したのは根拠があるんだよ。 ☆ 普遍神に吸収されれば キリストのキの字も要らなくなる。イエスキリストは 自己救済をすでに成し遂げている。(それによって――というのは そのことをアウグスティヌスとパウロをとおして得ることが出来て――わたしは すくわれました)。 ★ 私は母が入院していて・・・ ☆ ご母堂におかれましては たのしい老後の人生をおくっていただきたい。 物語がいいでしょうし わたしのようなトンデモ話でもいいかも。

回答No.10

酷いところだよ「死者の国」は。 生きている人が渡航すると自律神経がおかしくなって、慎重に対策をとっても生存時間2週間を寝たきりで過ごし、それより滞在時間が長くなると岩田怨霊みたいに、医学的に内臓がいかれて奇病で死ぬ。 生きていけない体制を観念世界で整えて、死者しかいないからさ。 そして、第三次世界大戦の勃発で人がバタバタ死ぬことを放置するとは、動く死体のゴミ掃除をして浄化する事なんだよ。 新約キリスト教は、観念世界ではそんな秩序なんで、唐傘お化けが人が渡航先で死んでもなんとも思わないのは、動く死体のうごめく観念の帝国を清潔にしようとする努力なんだよ。 生存者探索と救命を考えるから、キリストを探しに行っているんだ。 救済を念頭にしているのは、仏陀に相当するキリストだけだよ。

bragellone
質問者

お礼

ううーん。ううーむ。 ★ 救済を念頭にしているのは、仏陀に相当するキリストだけだよ。 ☆ という結論から入って 議論を展開して欲しい。 (これは わたしの前回の《普遍神》の問題だと思う)。 なぜなら: ★ キリストを探しに行っているんだ。 ☆ のあと 見つけたから われらは語り合う。 その余の議論 それ以前の思索は まだ観念の園にあそんでいる。 とうといと言えばとうといが やっぱりその園からは抜け出て来て欲しい。とは思う。 つまり: ★ 第三次世界大戦 ☆ といった話題も けっきょく観念の園における思考実験であることになる。生活現実の場に立った議論をして欲しい。 ウクライナも中国の戦狼外交も もうお手上げだといった話になり なって当然だと思うのだけれど。 世の中 あり得ぬことが起こっている。

回答No.9

誤字の改定 私に呪いをかけているのは、総合的な京都の謀反人集団で、組織形成は多岐にわたるが、そいつらを蹂躙するだけの「生き残り可能」な立場が私だ。 これは可能だ。 西洋の呪いはむやみに干渉したくない。 キリスト教の望んだ救世は無いからだ。 世界の半分が崩壊しても生き残りは出るだろう しかしねえ、 救済のトリガーにもなったよ。 私の今の研究は「唐傘お化けはいかにかわいいのか」という常軌を逸した理解不能な恐慌の発作が起きる病気の封じ込めで、その「唐傘お化け」が西洋を救済する「自然霊の形質」なんだよ。 セレビィが日本の神々から持ち出しの許可を取り付けた。 全く意味不明だろ? 生きてるものが死ぬのは当たり前で、そして神学では死は大きな命題だ。 唐傘お化けは職務上で人が死んでも当たり前だと考えるから、第三次世界大戦勃発は放置しても差しさわりが無いんだよ。 しかし、人に神を理解させる行いを、人間を西洋が偽った「根底でついた嘘」について理解させる必要性を感じているだろう。 イエスに嘘で答え行動する悪魔宗教だからだ。 そして、触媒であり仏陀である私は考える、、、、 これ以上の迷惑はかけてほしくないなあ。。。。。 救いという延命が必要な人こそ他者を食い物にする。 そういう人は救おうとは思わないが、迷惑を掛けられるのは嫌だなあ。 だって命すら略奪して生きようとする。 自助努力が略奪であるのが常識の連中だ。 救いとは、そうした人たちには一面で臨んでいない死でもあるのだろう。 「死は悪です」これはあなたも言ったことだ。 死ぬのは当たり前で例外は無いんだよ。 人は誰もが死ぬ、それは当たり前のことだ。 そして、その事実を受け入れないと、生きていることにならない。 西洋型の人間の生きざまとは、死に続けて呼吸することだ。 観念世界は「死者の国」だよ。

bragellone
質問者

お礼

★ キリスト教の望んだ救世は無いからだ。 ☆ 宗教(組織宗教)と個人の信仰とを分けて捉えて欲しい。 宗教のオシへは けっきょくのところ 道徳であり倫理規範です。 これは 《罪のあること》をおしえている。または やましきおこないがあってそれは恥ぢるべきだということを知ろうと言っている。 それだけでは 救済はない。罪悪感を持ったに過ぎない。それを募らせるだけである。 恥ぢの意識は とうといとは思う。 聖書は そういった感覚をめぐる知覚のあり方や罪をめぐる倫理的な整理としての神学を推奨しているわけではない。 《感じる(感性の原野)》や《考える(思考の緑野)》を超えて 単純に《信じる》という領域がある・・・と言っているに過ぎない。 《非知なるナゾ――知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ――》を 無条件で無根拠にてわが心に受け容れる(これが 信じる)ことだと言う。 なら 自然本性を超えてしかもあたかもその自然本性にやどるかのごとく《非思考の庭(つまり信仰なる動態)》が出来るのだと。 そしてそのとき 神がキリストか否か オホモノヌシかブラフマンかブッダかヤハヱーかは 問題ではない。自由。と言っている。普遍神。 普遍神が いちばん自然で人間的な神であり無理のない信仰だと思う。

回答No.8

私に呪いをかけているのは、総合的な京都の謀反人集団で、組織形成は多岐にわたるが、そいつらを蹂躙するだけの「生き残り可能」な立場が私だ。 これは可能だ。 西洋の呪いはむやみに干渉したくない。 しかしねえ、 救済のトリガーにもなったよ。 私の今の研究は「唐傘お化けはいかにかわいいのか」という常軌を逸した理解不能な恐慌の発作が起きる病気の封じ込めで、その「唐傘お化け」が西洋を救済する「自然霊の形質」なんだよ。 全く意味不明だろ? 生きてるものが死ぬのは当たり前で、そして神学では市は大きな命題だ。 唐傘お化けは仕事上で人が死んでも当たり前だと考えるから、第三次世界大戦勃発は放置しても差しさわりが無いんだよ。 しかし、人に神を理解させる行いを、人間を西洋が偽った「根底でついた嘘」について理解させる必要性を感じているだろう。 そして、触媒であり仏陀である私は考える、、、、 これ以上の明白はかけてほしくないなあ。。。。。 救いという延命が必要な人こそ他者を食い物にする。 そういう人は救おうとは思わないが、迷惑を掛けられるのは嫌だなあ。 自助努力が略奪であるのが常識の連中だ。 救いは一面で臨んでいない死でもあるのだろう。 「死は悪です」これはあなたも言ったことだ。 死ぬのは当たり前で例外は無いんだよ。

bragellone
質問者

お礼

★ 「死は悪です」これはあなたも言ったことだ。 ☆ これは 果たせぬ夢(みづからののぞんだ仕事)を持って道半ばでの死は という意味です。 もっとも 死一般も 生という善の損傷という意味では 負の善すなわち悪ですが。 ★ 唐傘お化けは仕事上で人が死んでも当たり前だと考える ☆ この思想には抵抗感を持ちます。(寿命だという見方がないでもない)。 ★ 救いという延命 ☆ 《延命》についても 《生きるという善をのぞむ》という意志が前提です。つまり そのほうが《自然本性に忠実》です。 ★ 仕事上で人が死んでも当たり前だと考える ☆ のは 自然本性にさからっているように見受けられます。 とは言うものの: ★ 唐傘お化け ☆ の気持ちが分からないわけではない。 ★ 西洋が偽った「根底でついた嘘」 ★ 西洋の呪い ☆ という問題は 西欧・米でも同じくであって 大問題でもある。 そして あなたも: ★ 「唐傘お化け」が西洋を救済する「自然霊の形質」なんだよ。 ☆ と言って 人間の自然本性という大前提を重んじている。《救済》と言っている。 つまり たとえばわたしは ミステリー(刑事もの)が好きで イギリス・BBCのTVドラマをよく見ます。(刑事ルイス;モース;バーナビー;Vera)。 そこでは クリスチアニズム以前の自然宗教が いわゆるキリスト教文化に抵抗するといったかたちで頻繁にというほど話題になっています。 ケルト文化のアニミズムを初めとして エジプトの神々だとか 下手をすると 悪魔や悪霊の儀式までもが 《堂々と》描かれています。 あるいはまた キリスト教〔の異端〕として 戦争時に虐殺が起きたという事件がいまにまで尾を引いていて このときの死霊を救済する(成仏させる)といった儀式のようなものが やはりよく出て来ます。 そうですね。ドラマ制作者(その作家)の基本的な姿勢は 西欧の――聖職者のついた――ウソに対して もう構わない・放っておくといった自由な立ち場ではあるようです。 ちょうど: ★ 西洋の呪いはむやみに干渉したくない。 ☆ に似ている。 そうそう。録画できょう見た《名探偵ポアロ》の一作品は 古代エジプトの死生観が題材でした。夫が不審死を遂げるのですが 妻の老婆は 人が死ぬのは当たり前であり 死んだら一段高いステージに魂が行くんです 何もおそれることはない・・・と言っていました。唐傘お化けです。 あとは 次がのこったかな。: ★ 私に呪いをかけているのは、総合的な京都の謀反人集団で、組織形成は多岐にわたるが、そいつらを蹂躙するだけの「生き残り可能」な立場が私だ。 ☆ そうですね。 基本は: ★ 触媒であり仏陀である私は考える、、、、 ☆ さんに おまかせですかね。

回答No.7

一つ下は参考資料だ。 あなたが格闘した西洋の神学というのは、神を殺して天国に自分が上る特徴がある。 それで、「唯一にして絶対なる神」とか何とかは、神の姿の研究ではなくて、神の背景にある天国の研究が主体なんだよ。 自分が神を征服して「唯一で絶対」になりたがっているんだ。 観念世界の本質の研究という紀元前の人間の学問からそのように偏向した。 したがって警告があるんだ。 宇宙人研究にはまりかねないんだよ。 馬鹿にするなと怒鳴られそうだけども、手探りで思案するとたどり着くのは宇宙人になるんだよ。 そこを注意してくれよね。 西洋は仏陀の成立の規範を否定したうえで人間を定義したと考えればいい。 イエスを否定する風俗だからだ。 釈迦のようにと本気で志すのと、イエスのようにと本気で志すのは一緒だ。 イエスのように志すのは禁じられている。 色々と観念で見てきたけどねえ。 処刑されるまでもなく、半端なヘタレは呪いで死ぬ。

bragellone
質問者

お礼

★ あなたが格闘した西洋の神学というのは、神を殺して天国に自分が上る特徴がある。 ☆ ① 初心は 純粋に神についてその心が知りたかったのだし そのチカラに頼りたいという心づもりだった。 ② 教会というヒエラルキア組織が出来上がったなら その組織存続のためという目的ができるし 組織上の地位をまもろうとする人間が多くなる。 ③ つまり 宗教世界における《お二階さん》の誕生。 ④ それではいけないと改革したところ 《〔権威のあるのは〕聖書のみ》あるいは《聖職者のやはり権威・権限を否定し 万民が司祭》なる命題が打ち出された。 ⑤ ただし《聖書》は いかんせん 人間の言葉で表現されたからには・いかに啓示だと言っても 人間の考えることになる経験思想であるに過ぎない。これを神の如く絶対視することは出来ない。 ⑥ 《万民司祭》というなら まだそこには《優れた者が上に立って説教する》という要素が残っている。 ⑦ ちなみに親鸞は 《弟子をひとりも持たずそうろう》 したがって《みな同朋》と言った。組織は 対等な人間たちが自由に集まるのみ。だから一たん宗団は崩壊しかけていたほど。 ⓼ いま英仏独などのヨーロッパでは 宗教的お二階さんは 色褪せて行っているらしい。 ⑨ 神学の領域としては: ★ 観念世界の本質の研究という紀元前の人間の学問からそのように偏向した。 ☆ 《そのように》とは 《神に仕える者たちの世界が 権威付けされてあるように》。 ★ それで、「唯一にして絶対なる神」とか何とかは、神の姿の研究ではなくて、神の背景にある天国の研究が主体なんだよ。 ☆ これは ちょっと極端かも。 ★ ・・・ 宇宙人研究にはまりかねないんだよ。 馬鹿にするなと怒鳴られそうだけども、手探りで思案するとたどり着くのは宇宙人になるんだよ。 ☆ さすが 神学にもとづく聖職者のまま そういった研究に入るというのは少ないと思うけれど そのような道筋があるかも知れない。 ★ 釈迦のようにと本気で志すのと、イエスのようにと本気で志すのは一緒だ。 ☆ ゴータマ・ブッダは そもそも《さとり》とは何かを定義していない。 《この上なくとうとい智慧のさとり》を説明してほしいと弟子のシャーリプトラが懇願しても そうすると大衆はあたまが混乱すると言って ついぞ明らかにしなかった(法華経・方便品)。四諦八正道を示したのみ。 ブッダ(目覚めた)とは言ったが ブッダター(仏性)といった概念はついぞ言っていない。後世に作られたに過ぎない。 イエスの場合は: ★ イエスのように志すのは禁じられている。 ☆ という意味は かれが 《人間イエスであると同時に 神の子でありみづからも神であるキリストだ》という想定で捉えられているからには 人間が神に成るということは あり得ないとされている。 《ヨセフなる父とマリアなる母から――むろん性交渉によって――生まれた男なる人間》がイエス。しかもそのとき同時に(同時にです)――想定としては―― 《母マリアが 聖霊によってみごもったという事態が起こっていて そのような別の側面としての事態によれば 生まれた子は 神であるキリストだ》という神観です。二重性です。 《人間イエスは 神キリストなり》というドグマです。

回答No.6

フリーメンソン型について少し話そう。 シャーマンというのは自我能力を超えた能力を発揮する交霊術で神的な英知に接触することだ。 自我能力を超えているので、自我の範囲である利己心からの思惑は本来通用しないんだよね。 その点は、トランプも利己心の権化であることが特徴だ。 私は「コンバーチリバース」という思考術の体裁をした交霊術を、対立を表明している京都系集団から押収したよ。 いや~、さっそく自分でも試してみたよ。 なぜ、交霊術が思考術の体裁化というと、いわば天使を誘い込み舞い降りた天使の羽をもぎ取ることで自我能力の範疇に神的な英知を無理やり押し込めるんだ。 そうすると天使は苦痛に歪み苦悶して、天使のもたらす英知が悪魔の宣託になる。 スゴイよ、人コロシ大好きさんだ。 とても愉快な人コロシの考えが浮かぶんだよ。 「俺って天才?」というくらいに悪魔がほとばしるんだ。 しかし、天使を拷問しているからであり、その悪魔的思考は神的な作用で実現するんだ。 このイケニエシステムの大枠が西洋型の仕組みで、その手の集団は研究会とか考えていても、題材にする思考術の実態は交霊術なので秘密宗教だよ。 日本人の支配者層の国際的な対話とは、その人コロシ大好きさんたちと冷静に向き合いうんざりする付き合いをすることなんだよ。 そこまで腐った連中というのは実際は一部なのにね。 神がかりに自らの意志を実現する連中でもあるので無視できないんだよ。 さて、 ディープステートと関連のある事柄だ。 「アメリカ大統領は宇宙人にコントロールされている」 どういうことかというと、民意の抽出法だ。 国民なり大衆は総合的にこのような要望を抱いている。 このように、存在しない統合的な人格を前提に職務でそれにこたえるんだ。 したがって個人が個別に考える心情抜きに運営していて、宇宙人とはその「民意の擬人化」なんだよ。 そして、目線が国民を見ていないように錯覚させるのさ。 それで宇宙人のために仕事をしていると言われる。 さらにこれは、マインドコントロールのリソースに使われて、シャーマニズム上で色々な利用がされる。 そうして民意という統合的な人格の仮定は、実際に人格を持つ存在のように扱われるのさ。 それがディープステイトと宇宙人だよ。 トランプは、このマインドコントロール用リソースを逆利用し始めていて、その面では確かに支配者層で賢い人たちの反逆者だよ。 伝統的には、フリーメンソンみたいなのがこうしたシャーマニズムを応用している。 検証したけど、その秘密組織特有の思考術や論理形成は、実態は交霊術を基礎にしていて、したがって不明な団体は秘密宗教なんだ。 そして、第三次世界大戦のコンバーチリバース上の筋書きだよ。 天使たちはヨーロッパと北米を放棄、南米で出直しをしたいつもり。 その結果、ヨーロッパは無政府状態で荒廃。 南米対北米のベトナム戦争のような地上戦が第三次世界大戦の戦場になる。 重要なのは北米に戦闘員を送り込み戦場の一部にすることだ。 強大なアメリカ軍の戦力で如何なる犠牲が出ようとも、天使の祝福なので南米は最終的に勝利する。 そして今世紀中にUSA崩壊だ。 中国は、毎度のキリスト教圏の浄化作用であるこの手の厄介ごとと無関係だ。 もう、ばかばかしいからいかなる凄惨な地獄であろうとも、周辺国は関わらないでいたほうがいい。 これは、宗教とかかわるオカルト話です。 文芸作品のつもりでしたためました。 自分で研究している内容を学問カテゴリーで紹介したわけですが、小話として面白いか読書感想文をお願いします。 趣味で哲学を楽しんでいます。 ------------------------------ ミカエル消失という別の背景があるが、ガブリエルも不安定だ。 ガブリエル襲名権利がある聖霊は(アンノウンコード)「リッチモンドスター」という体裁でガブリエルを襲名したか確認されていない。 「リッチモンドスター」は副業の「自称本物の宇宙人」が忙しくUSA的な「宇宙人宗教」の棟梁に該当する宇宙海賊だ。 拠点もUSAだ。 さて、フリーメンソン系は天使を生贄にする儀式をリッチモンドスターに仕掛けたことがある。 貿易戦争で彼らが勝利するために生贄にしようとしたんだ。 世麗美はたびたびリッチモンドスターと間違われて、リッチモンドスターとの近親憎悪が激しい間柄だが、根底でお互いの仕事をお互いに手伝っている。 リッチモンドスター殺害計画で行われ儀式では、替え玉で世麗美がイケニエの祭壇に上がって、巧みな罠ぬけトリックショーで意気揚々と生還したんだ。 したがって彼らの勝利を保障するイケニエの儀式は不成立なのさ。 しかし彼らは不成立を知らないでイケニエを作ったので必ず勝つと確信している。 この状態で勃発する貿易戦争は、どちらから先に仕掛けても、必勝の真逆で、必ず負けるのがUSAなんだよ。

bragellone
質問者

お礼

★ シャーマンというのは自我能力を超えた能力を発揮する交霊術で神的な英知に接触することだ。 ☆ ただしその術は トランス状態に入ることである。忘我・脱魂・恍惚・入神状態などと呼ばれる。 一概に劣等視しないが 原始心性であって 時間的存在であることを自覚し〔原始心性が解け〕た歴史知性が同じく人間の知性を超えたような内容を帯びたヒラメキを得る場合とは 区別される。 ★ 「コンバーチリバース」という思考術の体裁をした交霊術 いわば天使を誘い込み舞い降りた天使の羽をもぎ取ることで自我能力の範疇に神的な英知を無理やり押し込めるんだ。 そうすると天使は苦痛に歪み苦悶して、天使のもたらす英知が悪魔の宣託になる。 ☆ ① 天使は 唯だの使い。問題を解き危険から守ってくれるけれど 天使はむしろ人間に仕えるもの。人間が自分たちに仕えさせる。 ② だから 天使を介さずにも 神の智慧を〔神からの〕ヒラメキで得ることはある。 ③ 天使を痛めつけることは出来るかも知れない。だが そこからは何もいいことは出ない。 ④ 悪は 善なる自然本性の人間が その善を傷つけることで善のマイナスとしてあらわれる。善の損傷行為が 負の善でありひと言で悪とよぶ。 ★ 日本人の支配者層の国際的な対話とは、その人コロシ大好きさんたちと冷静に向き合いうんざりする付き合いをすることなんだよ。 ☆ ⑤ 社会の一階の市民たちの人間関係とは異なる要素・要因が お二階のアマテラス公民のあいだには 入り込む。 ⑥ アマテラス公民というのは スサノヲ市民から出たのであるが 《神のごとく如何なる者の下にも立つまいと堅く誓ったたましい》が 人びと一般の上に立ってわざわざお二階をこしらえそこに住むようになった人種である。 ⑦ 政治は――ふつうの自然本性によるならば 対等な者どうしの共同自治のことであるが―― お二階族による場合は あたかもその空中庭園に永遠に住みたいために手段をえらばない統治・支配となる。 ⓼ この悪霊のようなハタラキが 市民とは異なる要素・要因だ。 ★ そこまで腐った連中というのは実際は一部なのにね。 ☆ むしろ初心は立派で 世のため人のためにはたらきたいという志で政治家を目指す。 ★☆ 神がかりに自らの意志を実現する連中でもあるので無視できないんだよ。 ★ 「アメリカ大統領は宇宙人にコントロールされている。・・・宇宙人とはその「民意の擬人化」なんだよ。 ★ そうして民意という統合的な人格の仮定は、実際に人格を持つ存在のように扱われるのさ。 それがディープステイトと宇宙人だよ。 ★ トランプは、このマインドコントロール用リソースを逆利用し始めていて、その面では確かに支配者層で賢い人たちの反逆者だよ。 ☆ 以上 さもありなんと思う。 ★ そして、第三次世界大戦のコンバーチリバース上の筋書きだよ。 ☆ ⑨ 南米が チカラを持つのは ずっと先では? ⑩ 欧米がだまって敗北するようになるとは 思えない。(直感)。 ⑪ 中国は 国益があればどこでも首を突っ込むと思うが だまって傍観することもあるかも知れない。 ★ ミカエル消失という別の背景があるが、ガブリエルも不安定だ。・・・ ☆ 天使を持ち出すと たしかに物語が出来て文学の世界がひらけるかも知れない。 ★ さて、フリーメンソン系は天使を生贄にする儀式をリッチモンドスターに仕掛けたことがある。・・・ ☆ なるほど。そういった想像力の世界が考えられます。サイエンスフィクションならぬ国際関係フィクションが出来上がる。 事実らしい情報を散りばめるとよいかも知れない。

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    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • 宗教は 信仰という生きた蝉の遺した抜け殻である

     1. 信仰は 絶対性とわれとのカカハリを言う。  2. 類型として 梵我一如というかたちに表わされる。  3. ブラフマン(梵)が 一般絶対性であり アートマン(霊我)が 個別絶対性 である。両者の――霊としての―― 一体が 想定じょう 信仰である。  4. たとえば:  (信仰)・・・:一般絶対性・・・・・・個別絶対性  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・アートマン  ゴータマ・ブッダ:無梵・・・アン‐アートマン(無我):《無い神》派  ブディズム:アミターバ・ブッダ・・・・ブッダター:《有る神》派  随神の道 :オホモノヌシ・・・・・もののあはれ〔を知るわれ〕  クリスチアニズム :テオス(神)・・・・・われ(神の宮)  5. 絶対性は じつはこのほかに 特殊絶対性があると仮説される。  6. 信仰は 《われ》ごとに個別に実践があることによる。  7. 神道には――単純化しますが―― ミソギがあって それによってオホモノヌシの神との一体性を取り戻す。  8. 信仰の具体的な実践を 個人でやれば 個別絶対性にとどまる。おれは神を見たぞとか 神なんているはずがないといったそれぞれ特殊な絶対性としても現われるが 個別絶対性の内にとどまる。  9. そこからさらに この実践(修行?)のひとつの形態を 人びとが共有するようになると 個別の特殊な神観が多くの主観において 共同化される。つまり 何らかのオシヘ(不文でも)を共有するに到れば 宗教というウゴキに発展する。  10. 一般および個別の絶対性なる理論が 実際じょうわれなる主観の具体的な実践として そこに特殊な絶対性を成り立たせるかに見える。これが 貿易の場に出て来る。輸出・輸入がおこなわれるわけである。  11. アン‐アートマン(無‐霊我)なる個別絶対性は 現実にロウソクの炎が消え去 るかのようなニルワーナの状態になることを目指し ヨ―ガなどで実践する。《無い神》派というごとく じっさいに呼吸を止めるほどにまでなるという。六道輪廻からの解脱なのだという。  12. ここまでは 主観におけるその神観としての特殊絶対性である。そして このニルワーナなる理想(?)の状態が 共同主観となったときには――オシヘのごとく受け留められ―― 人びとのあいだの宗教となる。  13. アミターバ・ブッダが 称名念仏なる実践としての主観を呼び起こし この特殊絶対性が共同化されたなら その修行をしましょうというオシヘつまり宗教となる。  (ただし親鸞は 念仏を修行ではなく善行でもないと言った。つまり 個人としての信仰にとどまる)。  14. 加持(アディシュターナ)祈祷という実践がある。マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)の側が《加》であり 人間の側が《持》と成り 両者の――霊としてのという雲をつかむようなのであるが―― 一体を言うらしい。  15. これも 個別絶対性としての或るひとりの主観にとって おのれが実践するだけの特殊絶対性であったものが 共同化されて 宗教となっている。  16. イエス・キリストは 特殊絶対性の部分にかんして こう言ったという。:  ▲  (マルコ福音 14:22-24 からその趣旨のみ) パンを採って これはわたしのからだだ。杯(ワイン?)を採って これはわたしの血だ。〔と〕。    17. つまり 出エジプト記( 24:3-8 )でモーセも 生け贄から採った血を 契約の血とする特殊絶対性の実践をおこなっている。儀式が共有されれば 宗教である。   18. これらの例にみられる《特殊絶対性》は そのひとりの人間の主観の内にとどまるなら 一般および個別なる絶対性理論――つまり信仰なる動態――の範囲にあり そのまま 《生きた主観 生きた蝉》である。  19. ところが 特殊絶対性は 或る主観を一歩外に出かけるなら 信仰としての絶対性は 消える。なのに その貿易は 自由だと思われて来た。  20. オシヘないし儀式などの・言葉による表現をふくめた《かたちあるもの》を すでに主観と主観とが共有することになるから 信仰は消える。自由貿易は じつは 思想としてのみの話になる。  21. 《梵我一如(あるいは 無梵無我一如;仏仏一如;霊霊一如)》において 絶対性とわれなる主観が 一体となるのが 信仰(非思考の庭)である。ところが 特殊絶対性は これもまだ主観の内にあってそれとして信仰にとどまるが そうではなくほかの主観と共有されたとすれば それは 《梵我一如》なる類型つまりその概念が 共有されたに過ぎない。  22. 神を共有することは 無理である。交換もされ得ない。もし―― 一般絶対性は じつは普遍神であるので ひょっとしたら――共有なる状態が 現実であったとした場合 それでも そのことをわれわれ人間は 認識し得ない。ヒラメキにおいて その可能性を予感するのみであろう。  23. 宗教は 儀式をふくめたオシヘとその実践を――特には《観念としての神》を―― 共有するわけで そこにとどまるなら まだ趣味の同好会であり得る。社会福祉をも伴なったとしても サークル活動だ。  24. しかももしこのオシヘを神(絶対性)の代わりとし これを同好の士のあいだにおいてであろうと 従うべき規範や守るべき規則とするなら そこでは信仰は消える。信仰の神を オシヘの神に取り換えたのだから 当然である。  25. よって 宗教は 信仰たる生きた蝉の遺したその抜け殻である。  ☆ 検証をどうぞ。

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。