suzumenokoxのプロフィール
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- 登録日2012/08/23
- 神 信仰ならびに宗教についての一般理論
哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- 量子力学の「重ね合わせ状態」とは?
量子力学の「重ね合わせ状態」とは何を指しているのかが知りたく質問いたします。 物理を勉強したわけでもない一般人です。多くの人が 意味わからん としているのと同様に私も意味わからん となっております。 「極めて微細なスケールの世界の量子力学の世界では、複数の状態が同時に実現している。例えば、電子はスピンという属性を持つが、量子の世界では一つの電子がスピン上向きの状態と下向きの状態を同時に実現している、ということが起きる。」 との解説があります。 この手の話を聞いていると『「解らない謎」の部分を無理に「解っている事」と設定するから理解し難い表現になっているのでは? と思えてくるのですが、そんなことはないのでしょうか? 例えば、「重ね合わせ状態」とは『観測できない状態』という理解でいいのでしょうか?それとも実際に「重ね合さった状態」にあるということなのでしょうか? 重ね合わせ状態の解説には「観測するまでは雲のように薄く広がり、観測によって1点に集約する」とか「0でもあり1でもある状態」とか、いろいろなかたちで表現されるのですが、どうもしっくり来ない説明ばかりです。 そしてその後には「それはあなたが古典物理の常識で考えようとするから理解できないんだ」と匙を投げたような話がでてきます。 私が知りたいのは結論ではなくて、何が解っていて何が解らなくて、重ね合わせ状態とは何を指しているのかということです。 量子力学の「重ね合わせ状態」とはどのような状態を言い表しているのですか? またなぜそう表現しなければならないのでしょうか?
- 生まれた直後の行動は、どこにインプットされている?
ウミガメは卵から生まれると即座に海へ駆け出していきますが、他の種類の亀はそうではありません。こういった生まれつきの行動はどこにインプットされているのでしょうか?DNAでしょうか?でも遺伝子は体を作るタンパク質がコードされているだけで、行動には寄与しませんよね?