例えば、男女で言えば男性は女性の肉体的な亜種、という捉え方で
包括することも出来ますよ。
何故、授乳の必要が無い男性に乳首があるのか。
何故女性の体の中にもテストステロンなどの男性ホルモンが産生されるのか。
何故男性の体の中にもエストロゲンなどの女性ホルモンが産生されるのか。
遺伝的にはY染色体を持ちながら、何故乳腺や女性器を併せ持つ男性が
存在するのか。 逆に、純粋に女性であるのに、第二次性徴が極めて少ない、
或いは、トランスジェンダーと言うものが世界中に広く存在するのか。
こういった切り口で考えていくと男性と女性と言うモノが、単に対立する
二者、組み合わさって初めて一体の完全体となる、と言う見方以外に、
特定の役割を果たすために、生物としての特定の機能分化、化学的な
バランスの極端化を施された種の中の一群を男性と呼ぶ、としても
間違いではなくなります。
つまり、一つの物のアレンジを変えた物とそれ以外の物、という
分け方も出来るということです。
聖書ではアダムの肋骨からイブを造ったそうですが、実際には
哺乳類より、或いはもっと遠い祖先の「イブ」のクリトリスから
ペニスは生まれたと言えるのです。
善悪というものも、生物の同一種間での共食い、親殺し、子殺しの
起きる頻度や状況を研究している科学者の報告では、DNAが
自らを播種繁栄させていく種の保存・維持のシステムの中に、最初から
組み込まれた、何らかの目的のための機構、或いは特定のスイッチが
オンになった場合に顕現する一種のフィードバック装置かも知れない、
というものもありました。
人間の場合は、善悪を倫理という知性の範疇に納めたがりますが、
生物学的に見れば、個体が生き延び、子孫を増やそうとする性質の
中に組み込まれている「善悪」という取捨選択の機能と、群として
特定の個体に対して営まれる、群全体の利害に直結する行動原理としての
「善悪」という、時に一致し、時に相反する本能・・・生物的な仕組みと、
捉えることが出来ます。
体の中で興奮をつかさどるアドレナリン、鎮静を司るノルアドレナリン。
働きの上では正反対ですが、先の性ホルモンについての仕組み同様、各々単体で
意味を成すのではなく、二つがそれぞれの役割を相互補完的に果たすことで、
一つの状態を制御する機構になっている訳です。
それらの機構の中には、スイッチのオンとオフのように、どちらかが成り立てば
片方が停止するようなフリップフロップ回路を形成する物。
アクセルとブレーキの様に、それぞれ独立した動作制御系を持ちながら、
両方をバランスよく動かすことで車をスムーズに動かすような互恵的関係にあるもの。
或いは単純に綱引きの様に引いたり引っ張られたりで中央値を安定させるように
働くものなど、様々な関係の仕方があると思います。
対立する二者というものは、その関係、どのように互いに関連して、何をどう
安定させる為に動くのか、或いは安定を崩すように動くのか。
その二つが協調して何を生み出すのか、はてまた、そもそもそれらはデジタルに
区分けされたものなのかどうか、混じり合うことはないのか、という視点で
眺めると、ご質問に添うような両方を含む考え方になります。
つまり、相反する二者、ではなく、相互補完的システムとして、或いは色の様に
配合比率などで語られるべき一元的なものとなる。
化学的、電気的な視点で少し書いて見ましたが、個人の精神の中にある善悪も、
社会倫理として存在する善悪も、これらと同様に並び立たない水と油ではなく、
混合物として存在しているという視点が成り立つことになります。
混合物から抽出して純化する動きがあったり、更にそれぞれが明確な
役割を持って世の中の何がしかを安定させていたりすることもあります。
世知に疎く、社会経験が乏しい若いエイジは、兎に角白黒つけたい気持ちが
強くなります。
何でも、明確に、判り易いものでないと捉え方が判らず、判然としないものに
対しては、すぐ偽善だとか真実ではないと決めつけたがることが良くあります。
そして、「究極」だとか「真理」だとかの「極値化」を行いたがるものですが、
例えば「色」を例に取れば、同様にこの偏りについての見解が得られます。
幼い子供達や、精神的な熟成よりもプリミティブな感情に訴えかけることを
目的としたものは、青、赤、黄、緑など、原色で構成されることが多くなる。
逆に、大人を対象にしたシックな色調は、茶系一つとっても膨大な種類が
あり、それぞれにその色が造られた、或いは見いだされたものや背景を
意味するようになります。 単なる一つの色、ではなくなる。
「色の季語」のように、色の持つ意味合いよりも、もっと深い
その色があった状況を表すものに変わって来る。
だから、明確さよりも色同士の協調、「絵の中の色」に意味合いが変わっていく。
そのように、明確に善と悪、と決めつけてしまいそうなものほど、
実は多種多様な見方が無いと単純化され、最後には白と黒、有と無、
勧善懲悪など、それのみに集約されてしまうことになります。
それは思考の単純化でもあり、最終的には思考停止まで行き着いて
しまう。
だから、対照的な相反する二物、という見方がある処には全て、
各々を色に見立てて見るような視点が必要になる。
純然たる原色など、現実には余り存在しません。
原色に近いものもいくつもあるが、よくよく見ると完全な原色では
なく、対立色も混じっている。
そのような『絵』として、更には『風景』として捉える、という見方が、
質問者さんが指摘、もしくは探されている、
「その対立ではない包摂するもの」
の一例になるのではないかと思います。
尤も・・・
ウラニウムやプルトニウムが軍事用遠心分離機で兵器級濃度に濃縮
されることによって、ほぼ「原色」と言えるほどに純化されれば
世界を破壊する恐ろしい破壊力を持ちます。
同じ様に、或いは炉心用程度の濃縮でも何十万世帯の電力を
賄えるパワーを原発が持つように、人類に有益な生産の原動力にも
なる。
人間もまた同様で、欲望、徹底した自分本位を極めた者ほど、
財界であれ政界であれ、或いは学界であれ、支配的な力を持ちます。
下位の人々を束ねて思い通りに動かすことで、一個人では及びもつかない
恐るべき力を持つようになり、世界を変えることが可能になる。
その力を個人の欲望のまま恣意的に振るうならば、当然、個人を、或いは
社会を破壊する力を持つことも、当然と言えます。
人間の欲求が純化して、原色に近くなった者が得られる力だとも言えますし、
そのものが他者に対して利用や支配ではなく、排除を目的に力を振るえば
犯罪や戦争などを引き起こすことになるでしょう。
それを滅ぼすべき悪、正義を実現する善、という原色だけでしか捉える
事が無ければ、全てそれらは戦いとなり、落ち着いた自然の色の中で
ギラギラした原色はそれぞれが主張し合って、善は悪、悪は善という
逆転をそこらじゅうで引き起こすことにもなります。
自然色豊かな色調の絵画を、緑色や赤色などの原色が各々の一色に
塗り込めようと謀れば、全ての絵画は殺されるも一緒です。
時には萌えるような緑の森の中に、目が覚めるような赤い花、という
絵もあります。
でも、先ほど述べたように、それらは良く見ると、完全な原色では
有り得ません。
善も悪も全て何がしかの混合比によって無数の色合いを産み、それらが
全体で調和のとれた絵になるように出来るなら、それが最もあり得べき
共存の仕方であろう、と思います。
今の世界はまだまだ、多くの色が乱雑に置かれて充分に調和が取れた
絵ではないようです。
もう一つ、対立する二者の間には、実はどちらにも属さない群があり、
それらはそれぞれの二者に対して協調・融和や相反・敵対などの相対的な
位置を、各々の距離を取って配置されます。
その関連性、関係性(と言う言葉が本当に有るのか疑問ですが)により、
対立する二者だけで絵が構成されている訳ではない、と言う点も興味深い
視座を提供しますが、長くなるばかりなので今回は割愛します。
人類は気が遠くなる程の時間と、飽くことなき破壊と建設、消費と産生を
繰り返しながら、地球という名の絵を描き続けている、という見方も
出来ると思います。
いささか詩的に過ぎるきらいはありますが・・・
毎度のこと、長文お許しください。
私的見解でした。