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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:論理哲学論考における善悪について)

論理哲学論考における善悪について

このQ&Aのポイント
  • ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の解説書を読みましたが、疑問が一つあります。
  • 善悪は語ることができないという箇所です。
  • 善悪については、定義をすれば論理空間の中でも語ることができるのではないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

「語りえぬもの」とは、議論することが適切ではない概念や命題群を指すようです。 これらは、外的要因によっては真偽が決まらないもの、と規定されるようです。 これはかなり厳しい条件です。仮に、「善悪」を法律で定めても、その法が正しい事が「外的要因により」証明されねばならない、ということになります。 本来的に、善悪は人(または社会)が決めるものなので、上の条件に照らせば真偽の決定は不可能です。 もちろん、公理系として整備して、そこから定理を導出することはできますが、公理が真であることは永久に確定されないので、定理の真も決して定まることがありません。 「善悪は人が決める」限り、「語り得ぬもの」の仲間に入ります。 一方、定義そのものは確かに可能です。「示すこと」はできます。 しかし、それを論拠として議論を展開することには意味がない。だから、「語らない」 鍵になるのは、 1.命題の真偽は諮意的に決定されるものではない。 2.命題そのものは常に示されうる。 3.真偽の決定が定義による以外にない命題を根拠として議論してはならない。不毛である。語ってはならない。 ... ということのようです。 最後に、「語りえないもの」には私たちの言語そのものも入るそうです。 理由は、(現象としての)世界を反映させるものなので、それ自身は反映されない、といったものです。ゲーデルの不完全性定理を連想させます。 しかし、言語活動そのものも事象の一つですから、反映されてもよいはずです。 そして、一度これを認めると、この過程は果てしなく続きます。 もっとも単純な実験は、一階述語論理の形式的体系自身に、それ自身を記述させることです。 何もかもを述語と関数で定義して同じ働きをするものを作ります。 そのためには、いろいろと公理の形で定義せねばならないのですが、よく考えれば、この、 「自分自身を記述するための追加設定」 自体は元の体系にはない、余計な追加物です。高階論理を避けてもやはり、 「自身を一切の変更なしに記述することはできない」 のです。言語は、自身(の全て)を語ることができない。 結局「語りえないものについて語ってはならない」というのは、言語に限れば、「語ろうとするとその行為のためにそれ自身が変わってしまう」ので語りえない、という意味になる、と理解できます。

kuyokuyomaru
質問者

お礼

なんとなくですが分かりました。ありがとうございました。

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その他の回答 (7)

回答No.8

幸福については、個体的な自己を基準とした判断ですが、善悪も、その「自己」を社会生命的な是非に拡張しただけで、やはり“自分(=社会的な)にとって”の基準によるものに他ならない。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.7

善悪は、主体の感覚から生じます。 主体が感覚として善悪を持って、その感覚で感じて情動が起き そこから行動して成されると思います。 つまり行動は結果であり、発生ではないのです。 なぜならば、事件などで犯人の悪行を聞いた無関係の人が感情的に犯人を裁こうとするのは その人の自己の感覚に感じるものがあるからです。 たとえば通り魔に何の問題も起こさなかった人が巻き込まれて殺された場合 犯人を憎むことを書く人が多いのもそのことからです。 主体が感覚として、善悪を持っているからなのです。 行動は結果ですので、そのことに対しての善悪を論じることができますが 感覚である善悪そのものは論じることができません。 感じるから感じるだけなのです。 ウィトゲンシュタインは、そんなことを言いたかったのじゃないかなと思いました。

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

>善悪というのは主観的な問題ではなく 論理的な問題であるから裁判が成り立つのではないかとも思うのですが。 卑近な例ですが、国際司法裁判所といういかめしい機関がありますが、ここで裁判が成り立つことはあまりありません。国と国のあいだでは善悪が相反する場合が多いからです。善悪をこういうようにおおまかに語る(記述する)ことはできると思いますが、厳密に言えば個人の好悪で善悪の見方が異なるわけで、論理的に世界共通の善と悪を仕分けすることは不可能です。ひとつの価値観の中で語るのなら出来るでしょうが、それでは宗教になります。 >、「他の人間の損害を軽減すること、または、他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である」 多くがこういうふうな経済論理で動いているわけですから、善というより別のものであると思います。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

論理というのは、所与があり、その所与から三段論法で 結論を導き出すことをいうのでしょう。 で、善悪における所与とは何ですか? それが答えられなければ、論理的に善悪を答えたことには なりません。 「他の人間の 損害を軽減すること、または、他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である」     ↑ どうして、こういう定義をすることができるのか を所与から説明できなければ、論理的に答えることには なりません。

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回答No.3

日本人の凶暴な風習を教えてやろう。 > 他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とする この行いだけなら好意である。 しかしこの行為に感謝を返そうとするとな、君は自らを犠牲にしていたと言う事が判明する。 そうするとそのような自己犠牲を手向けられた当事者は、余計なまねをしやがって、おれは物乞いじゃねーぞ、こうして君に悪感情を手向ける。 ここで「私はあなたを愛しているのよーん」これがキリスト教徒だ。 「どうもごめんなさいね」余計な事をした私はたしかに悪いのよーん。 これが仏教徒だ。

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回答No.2

やあ。 わたくしこそ悪人の人生を語ってやろう。 他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、それを実践する私は悪におとしめられる これが私の知る悪だ。 平凡な信仰においてはこれが出来るのは神様だけなそうな。 実践するのは悪魔だよ。

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回答No.1

ばか。 > 他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である こういうのを顕在化した隷従気質 すなわち欲望の奴隷と言うのだ。 自らの利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である(親切 博愛) 他人の利益を損なわずに自らの欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である(創造性の発露すなわち社会貢献) この二つはともに認められる善であり、共有できる善である。 極めて簡単だろ。 君は人畜だからそんな思考が出来ないんだ。

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