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重ねて問う 社会は善か?

偽の上に造られた社会であっても 認識と真実に対する信頼と 誠実によって 真理への高みを目指すことができるという。 では 偽の上に造られた真理によって裏付けられた 社会的善は はたして善を目指しているのだろうか? 我思う故に 彼もまた思う。 ああ 社会的相対性理論 に於ける社会的循環関数~いや 何でもないです (´ω`;)

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

では 偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善は はたして善を目指しているのだろうか? ○ 進歩と調和、調和は進歩により消され、偽の進歩は正義により消されるのです。 これが歴史的循環ですね。 さて、「偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善」に正義はありませんので消される運命から逃れることはできません。 ソ連という社会は70年ほどしか持ちませんでした。中国という社会もさほど長くは持たないでしょう。自由主義国家の代表の米国という社会も200年ほど持っていますが正義の天秤に掛けられて耐えうるかどうかですね。 どのような幸福に感じる社会も正義を失えば一夜にして消えていくものですね。 誰しも自らの社会がソドムやゴモラと同じであるとは考えたくはないでしょう。 我らの社会はそこそこの善に満ち溢れていると考えているでしょうが、「偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善は」消えさる運命から逃れられないのです。 人として生き、歴史を刻むということはそれほど厳しいものなのですね。 楽しく動物で生きてゆくというのなら地震も津波も疫病も原発事故も戦争も単なる災害、天災、人災と考え、生きる環境がある限り動物として生きてゆけば良いのです。 ただ、目覚めたるものは、人として生きるべきですね。 正義なき社会は存続しない、消されても致し方ないと言うべきですね。 地球にも正義があります。地球の正義を知ることはすなわち地球の神々の御心を知ることですね。それを知らずして一切の社会活動も善も歴史の波間に消え去るものなのです。これから多くの善が消えてゆくでしょう、そこに一片の正義がないゆえにです。ただ、神の正義はいつの時代でも誰にでも見えるように灯台のごとく立っているものです。世界が偽の真理で満ち溢れる時は全てのものが消される時でもあるので世界中の誰もが見えるような正義という灯台が立ちます。それを人は救世主とも呼びますが、「正義の言葉」が正しい見方です。 それを見逃しているという悲しい運命をこそ見直すべきだと思います。 参考までに

noname#150036
質問者

お礼

ボクは今 正義の閃光がはしるのを見ました。 あなたは まさに超人であった。あまりに超人であった。 頭上を覆う 鉛色の雲を その閃光によって 一瞬のうちに忘却の彼方へ追いやってしまわれた。 超人が たとえ何度生まれ変わろうとも超人である その所以を 今 知りました。 ありがとうございました。 

その他の回答 (8)

回答No.9

人の生きる目的は「善」ではなく、精神的充足感の最大化です (ただし人生を通算したものなので、快楽主義とは異なる)。 そこにおいて「善」は、分業化や組織化によって、自己の生が 社会生命化する上において、その社会的行動の必要を、社会 生命としての自覚によってではなく、法規やモラル、宗教など 先入的価値(社会的二次的価値)によって他律的に行うことで 派生したものです。 即ち、「善」そのものが「偽」であり、真理(自己存在の本質に 根差した自律的生存)の対極にあるものである以上、「偽の 社会は、偽の価値=善を目指す」のも当然である。

noname#150036
質問者

お礼

いつも明解なるご回答に感謝します。 今回は 座標軸自体のスライドが必要とされる難易度中位の命題 でありますが 社会に直結した命題であるので あえて問いに挙 げてみました。 一個の真から分割(対発生)した対局の個にあたるわけですが 原理的にはその個々は左スピンと右スピンに分かれる事になっ ています。つまり個々のスピンの特性を理解することによって 対のスピンを察することが可能か 更に認識の干渉によって 真に辿り着けるかの可能性を探りました。 今回は 皆さんのおかげで ある程度の答えを得ることができ ましたので これにて終了とさせていただきます。 しかし真理はまだ 不確定性の内に先入化された 時間軸と 質量に関する答えを 自然の中に隠しています。 しかも 自然そのものが光速で移動している事を示唆しながら 我々には感じ取れない様に仕組まれておりますので 真理は未だ その姿を我々に見せようとはしない ということで 締めくくらせて頂くことにします。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

社会に善悪はない、てのはハイエクの 考え方ですね。 そういうことを述べていらっしゃるので しょうか?

noname#150036
質問者

お礼

ハイエクなるものには届きませんが 善と悪が 真にたいして近いか遠いか で考える 座標的なものです。 ご参加いただき 有難う御座います。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.6

自己陶酔。。

noname#150036
質問者

お礼

その通りであります。 自己陶酔による哲学という 船酔いと酩酊に近い 新しい哲学であります。これによって宇宙の深淵を 感じることができるのです。 ご回答有難う御座います。。。

noname#176957
noname#176957
回答No.5

>補足 現代思想の多くは悪しき偏向を帯びているという。 曰わく、 社会性や歴史性を主題化しない理論は無価値とみなせ、 というものである。 すなわち、 社会性を重視するあまり、還元主義的学問を論証抜きで否定するのは、政治的イデオロギー優先の多くの現代思想にありがちな態度であるという。 しかし、社会性がテーマとして表面化していなければ社会性の正しい考察ができないということでは、決してない。分析の基本単位として社会性が設定されていなければならないということではないのだ。 あ、これは「分割の誤謬」の話ですね。 ええと 社会的善を含まない部分の集合が善を持ち得ないと断定するのは「合成の誤謬」なんじゃなかろうか、という話でした。 やっぱり違う? すみませんm(_ _)m 因みにアインシュタインではなく、 ラッセルで…。

noname#150036
質問者

お礼

お手数をおかけしまして恐縮です。 実はボクは 偉人といえばアインシュタインしか 知りません。ひとつおぼえ なんです。 さっそく拝読させて頂きましたが 漢字が読めないので 辞書を引きながら 読み終わるのは朝になりそうです。 何度も 有難う御座いました。

回答No.4

善は社会の部分集合

noname#150036
質問者

お礼

善が社会を超越することは かなわないのか。 ああ 我泣きぬれて亀とたわむる 行ってみたいなよその国 いかんっ ボクはこんなことを書く為に生まれてきたの ではありません。 いつも冴えわたる ご回答を賜り 恭悦しごくに存じます。 

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.3

こんばんは。 私は、社会は善であろうがなかろうが。 いかなる不確定な社会においても、 全ての者は、おおよそ因果律に基づいて行動することを 知っていれさえすれば、 おおよその見当は予測でき、ほとんどの場合において 対処できるので、 「先を予測できるものは、人を制す」 後は、信頼と誠実により、よりよい善なる社会を創ることも 可能でしょう。と思います。 ただし、いかなる場合も、半分当たれば良しとすることです。 そして、船を去る者は、追うべからず。 彼らは、新たな可能性のために旅立つのだから。 幸運あれと!

noname#150036
質問者

お礼

ご回答を ありがとうございます。 >半分当たれば良し。去る者は追うべからず。  ○これも善行であると思われます。 あまりに善良な お考えに 驚きました。 ああ 天は我を見捨てなかった。 ボクの周りには てふてふさんのような善良な人間を 余り多くは見かけません。 ボクは猛獣と大蛇と七人の盗賊と地獄大使に囲まれて 暮らしておりますので 世の中が狂ってしまったのかと 思い込んでいたところです。 健全な そしてあまりに人間的な こころざしに 感無量であります。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.2

大きな船は安定しているか。 私は安定していると考えていますし、土を持ち込めばオリーブの木でも植えて育てることが できることを知っています。その条件をそろえる能力を持ちうるのは、 船を作り運用する人間でもあるわけです。人間が作り出した仮の土台であっても、 数年単位で問題なく暮らすことも可能でしょう。 もちろんそれが沈むことが確実となったら、それが数年乗った船であれば惜別の感傷に浸る ことくらいはあるかもしれませんが、躊躇無く脱出します。 新しい船は作ることが出来るのですから。 それは前の問題点を踏まえて、より強固なものを作れるでしょうね。 一方で、大きいといってもあくまで船であるので、中にはわずかなゆれに 耐えられない人もいるでしょう。 揺れに耐えられず、我々は水の上でも歩けるんだとか、水の底でも人間は生活できるんだと うわごとを発する人たちが現れたら、私は医者と酔い止め、あるいは休息を薦めますが、 それでも耐え切れない人たちが水の中へ飛び込む様を、最終的には とめることが出来ないと感じています。 その人達のいうとおり、もしかしたら、私が誤りであって、 水の上を闊歩することこそが、人間が真にあるべき姿かも知れませんしね! ・・・・ただし、私はその種の人間が水の上を歩いた様にお目にかかったことが無いどころか、 溺死する様を数回見ているので、その選択をするのであれば、戻れるようにひも付きの浮き輪 くらいはつけたほうがいいんじゃないでしょうかと提案をするわけです。

noname#150036
質問者

お礼

躊躇なく捨てる覚悟 そして新たな船を造る決意 その生命力に溢れた営みは 善行と言えるのではないだろうか。 まさしく現代に よみがえる ノアの方舟と言うべきか。 水面や水中で暮らせる人種・・・熱中症による幻覚でしょうか。 そんな人たちを ボクも見た事がありません。 たぐいまれなるご回答を ありがとうございました。

noname#176957
noname#176957
回答No.1

すみません。 うまく具体的事例に落として理解できていないのですが、 「合成の誤謬」 には気をつけた方がよいのではないかと思いました。

noname#150036
質問者

お礼

「合成の誤謬」 その言葉は初めて知りました。 相補的不確定性にも似た きわめて合理的かつ 社会的であり 物理学的でもあり アインシュタイン的でもある ご回答を ありがとうございました。

noname#150036
質問者

補足

ボクたちは 日々の忙しさにかまけて 真理に近づこうとする努力を忘れてはいないだろうか 村人たちは生きるための自由という手段を忘れては いないだろうか。都会に暮らす人々は真理の高みを 目指すことを忘れてはいないだろうか。 だいたいこんな感じです。分かりにくくて申し訳ないです。

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