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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:個人の抱く「正義」と「真美善」、「道」の関係)

個人の抱く「正義」と「真美善」、「道」の関係

このQ&Aのポイント
  • 個人の抱く「正義」と「真美善」、「道」の関係について考える
  • 個人の善という気持ちは自己犠牲を含み、「真・善・美」に近づくことを目指す
  • 個人の正論は善悪が二律相反している状態かもしれないが、倫理観は科学の進展によって変化するとは限らない

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

こんにちは。 「善を定義するなら自分にとって都合のいいものが善となりその反対が悪であってそれを論じることは非科学的態度だ」 これは、エピクロスの《快楽主義的な善・悪論》と基本的に何も変わらない。 しかも、エピクロスの考えからさらに後退している。エピクロスの劣化版《善・悪論》なんでしょうね。 功利主義の出発点もエピクロスの快楽主義的な善悪論なんで、基本的な構図は同じ。 ただ結論は違う。 エピクロスは《アタラクシア》という個人的なものを目指すべきものとし、 功利主義は《最大多数の最大幸福》を目指すべきだとした。 エピクロス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9 ですから、 「善を定義するなら自分にとって都合のいいものが善となりその反対が悪であってそれを論じることは非科学的態度だ」 という考え方は新しい考え方ではない、 と思います。 また、 《善・悪論》は、そもそも、自然科学の対象ではない。 これは、哲学や倫理学などの問題であり、非科学的という批判自体がナンセンスと言わざるをえません。哲学や倫理学は、(自然)科学ではありませんので。 ☆その問題点は差し置いて、正論であるが、善悪という意味で二律相反している状態で「真・善・美」を追及するってどういうことなのでしょうか? ◇こうした考え方では、快楽や効用・便益をもたらすものが、《真》であり、《善》であり、《美》です。 また、こうした考え方に従うならば、《真・善・美》は相対的なものになってしまう、と思います。 《真・善・美》は、まったく個人的なもの、となるのだと思います。

noname#209756
質問者

お礼

なるほど。エピクロスと功利主義の違いなど分かりました。 2律相反ではそうなるのですね。 「快楽や効用・便益」物質的ですが。哲学論はともかく消費者的観点が強くなってきているのでしょうね。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (1)

回答No.1

善とは、「自分にとって都合の良いもの」ではなく、「社会にとって 都合の良いもの」です。 「個人にとって」は、快・不快であり、社会はそうした短絡的欲求を 社会的必要(分業化&組織化)においてコントロールするために、 法規やモラルといった他律的価値(=善悪)を生んだのです。 ただし、そうした他律的補正(善悪)が必要になったのは、人類の 分業化(助け合い)の発達において、そうした自己の生の社会的 拡張を自覚化できるだけの認識を発達させる事を怠り、自己チュー な意識のまま他律的に社会行動をとらせるために、お金や出世と いった“馬車馬の目の前のニンジン”を発達させたために、その アメ(お金・出世)と対になったムチ(法規・モラル)としてです。 つまり真=自己存在の本質に根差した意志において、自律的に 社会行動をとれるならば、社会生命的自覚=愛による助け合いと しての労働=生きること自体による充足(美)となり、善悪といっ た足カセは不要となるのです。

noname#209756
質問者

お礼

なるほど、(個人の)「短絡的欲求を 社会的必要(分業化&組織化)においてコントロールするため」ですね。 個人の悪い利益を認めないというのは社会、公共の利益になりますね。それはやがて他人の法益などを守ることにもなるということでしょうか。 >つまり真=自己存在の本質に根差した意志において、自律的に社会行動をとれるならば、社会生命的自覚=愛による助け合いとしての労働=生きること自体による充足(美)となり、善悪といった足カセは不要となるのです。 わかりやすいです。 ご回答ありがとうございます。

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