善のイデアについての考察

このQ&Aのポイント
  • イデアとは観念世界であり、精神が展望する世界観。善のイデアでは「善」について考察する。
  • 善に関する考えは人間が他者を生かす行いや考えを持つこと。善行の基盤は「愛」であり、愛による意思行為が善とされる。
  • 善のイデアは生存のイデアであり、意思行為を伴う愛である。その働きかけは天啓のような直感とも言われている。
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善のイデアについての考察

私は働き者のおっちゃん。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 こんなのを拾った。ちょっとしたに掲載されている奴だ。 プラトンのただの「イデア」と「善のイデア」 http://okwave.jp/qa/q9218880.html この質問に研究会として回答してもよかったんだが、私自身聞きたいことがあってね。 さて、イデアとは私なりに要約すると観念世界であり、精神が展望する世界観だ。 今回、あえて善のイデアと云う場合の「善」について考察してみよう。 善に関する私の考えは簡潔で、人間は社会活動という形で自らの生存のみでなく、他者を自らと等しく生かす行いや考えを持つ。 この生存のための傾向が広く「善」で、善行として自らの意思で率先して行動する場合の基盤となる本人の感情や動機が「愛」だ。 愛による意思行為が善だといえるだろう。 で、善のイデアと云うといかなることか。 それは生存のイデアであり、言い換えると生きたイデアだ。 意思行為を伴う愛であり、その働きかけが大げさには天啓という直感でもあるだろう。 神の世から精霊が話しかけることもあるという話だ。 まあ、こういうことだと自分で考えたんだが、手慰みで考察したんでね、何か突っ込みを入れてくれ。

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回答No.1

「自分と同じく他者を生かそうとする行いや考え」 というのは、古典的な先験的な善と大差ない。 議論があるのは、なぜそうなのか(神かイデアか)、 であって。 その実、善も自分のために他ならない。 短絡的な自己中心的な意識によるか、長期的・ 社会的(遺伝的交配のための血縁コミュニティや 分業化)な自己の生命性の拡張における、短絡的 衝動の抑制のギャップを、認識の深まりによらず お金や出世といったアメや、法規やモラルといった ムチによって、他律的に矯正しているに過ぎない。

Flareon
質問者

お礼

愛の衝動を意思行為と絡めると話は変わるんだよ。 すなわち他者と対峙するときに自己の感情に率直で善を成せばその自発性の根幹は間違いないということだ。 君の言っている善性に対する負の考えは、社会規範に対する屈服で善を装う人物像で、感情を伴って他者に親切にできていない。 イデアについては開眼者でなければ証言が成立しないよね。 ごちゃごちゃ言われても相手にしないよ。

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