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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

Mokuzo100nennの回答

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

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