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「分析」と「統合」
taco8chの回答
- taco8ch
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「身内」というのがほんとまた曖昧な位置ですねぇ。世界の一部に ――質問者さんにはこの「一部」という語彙さえ不都合かもしれませんが―― 人もが属しているという世界観を無理くり援用して断言する自信はありませんが、 でもこの曖昧というとこらへんこそが、 東洋的表現が最も得意とするフィールドなのではないかとも思います。 ご存知のとおりわが国は明治来、それこそ西洋近代科学の輸入に勤しみ、 文学もまた例外ではなく、曲がりなりにも客観小説だの、 私小説だの実験的に創ってましたが、 奈良・平安の語り手と近代の語り手とは違った位相になるのかもしれない。 奈良・平安文学にとうてい精通していませんが。えへへ。 ご紹介いただいたQNo.6533937の質問「中庸」と「止揚」の違いとその回答群、 「西洋近代医学」と「東洋の鍼灸治療」との融合の可否の検証 実に大まかにですが目を通しましたが、 捻くれ者の自分は西洋近代科学の粗探しに終始しそうです。 つまり、そもそも透視遠近法にせよ近代文学の「私」にせよ、 用いられたのは観察者が世界を把握する手段としての仮そめの視点であり、 可視光線もまた視覚といういち器官によって受取られた像ですから、 たとえばピカソの絵画のような遠近法に対する挑発的な表現の前では その粗が暴かれてしまうかもしれません。 もうその辺に言及する材料を今から整えるのは私にはちょっと肩が凝りそうです。 ポキ、ポキ。
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