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「分析」と「統合」
西洋近代科学の分野では、 「第1人称」と「第3人称」との間に距離を設けて「分析」を行なっている様ですが、 東洋哲学の分野では、「天人合一」の言葉が示します通りに、 『全体の「統合」の価値が強調されている』のだろう、と思われます。 従いまして、次の質問を提出させて下さい。 『全体の「統合」が掌握される際には、どうして、 視覚由来の「透視遠近図法」的な認識が重んじられなかったのでしょうか?』 もし支障が御座いませんでしたら、御教授を宜しく御願い致します。
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質問者が選んだベストアンサー
絶対無という概念は、西田さんの哲学概念だということを 最近知りました。 つまり、全ての実在を認識に変換していった時に、 シュッって「私という場所」だけが「絶対無」となるっていう 事だったかと思いましたが。確かにそれは質問者様が今まで 仰っていた東洋の発想の特徴に位置づけられるなと思いました。 しかし、それが「DBMSのナル値」とどう関連するのかが いまいちわかりませんでした。すいません。
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- Bragelonnely
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『「絶対無」の思想』と『不完全性定理』との対立関係にも注目しましょう。
補足
確かに認識の手段の価値には無謬性が備わっておりませんので、有無の認識による相対的な比較には絶対的な基準に基づいていない故に、絶対基準による認識の対象の有無が分からない場合には、「絶対無」の領域に留まらざるを得なくなりますね。
- heartmind
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全ての判断はどこまでいっても依存関係にあるにすぎない ということでしょうか。 例えば 「ある物質が有る」という事象があって、 「ある物質が無い」という事象が同時に生じ得る。 「「無い」が無い「有る」」は無いし、「「有る」が無いの「無い」」も無い。 ただ、その外側からの視点が時には必要となる時があるはずで、 例えて言うとコミュニティの外側の目線で批判する「内部告発」なんかは、 一つ外側の視点の言ってみれば「善」から全体の利益を考えた行動だと 思います。そういうより外側に普遍に向かう依存関係のない価値観も やはり人間が求めてやまないものであると思いますが。
補足
喪失の後に不在との比較によって明らかにされ得る【(相対的な)存在性】は、所謂【相対無】との相即関係に依存していますが、喪失の動作主の存在が認められない裡には、有無の比較が阻まれますね。 従いまして、喪失の動作主が認識対象の中に存在していませんので、そういう意味で此の不在者の状態を『絶対無』と呼んでいます。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
前の回答からずいぶん時間があいてしまいました。 人間と時間空間の関係で考えてみると、 ・人工密度が高くなるほど 個人の占有時間空間をコミュニティーの共有時間空間と考え、 いかに利益率を上げるかを考える。 ・人工密度が低くなるほど 利益を出すために個人が管理できうる時間空間を最大化する為の 効率的な方法を考える。 今までの我が国はどちらかというと前者の傾向があったんじゃないかと おもいますが、日本が少子高齢化していく未来を考えた場合、 後者の要素で、エネルギーや物流を効率化またはオートマチック化 などで、追求していかなければならない課題になるだろうし 前者の要素は、どちらかというと情報や知識の交換や集積や 判断の正確さや迅速さに必要になってくる課題ではないでしょうか。
補足
返事が遅延し、失礼を致しました。 文法的構造の成立の変遷もが、 「尊敬」と"respect"との相違に起因している様です。 辞書への記載によりますと、周知の通りに、 是等の用語は相互の翻訳語になっていますが、 殆どの抽象語の意味は厳密な整合性を与えられていませんでして、 文明開化の際に、強引に割り当てられていましたね。 確かにDBMSの登場で、NULL値への反応の研究が、 西洋近代的な発想の下でも必要になりましたので、 ”NULL”と「絶対無」との共通性が分かってきた、 という事情が御座いますが、予防医学の効果の研究への応用には、 未だに気付いて貰えていません。 従いまして、更に伺います。 『「二重盲検法」は「時制の一致」の思想に起因している、 と考えられませんでしょうか?』 漸く重要な回答が纏まり掛けてきましたので、 御意見を頂けると、幸いです。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
>「直接話法」と「間接話法」との峻別が必要になっていない故に、 >「時制の一致」の管理者を祭り上げなかったのではないか これは確かに仰る通りだと思います。 時間を超えたところにある現実は現実ではないので、 バーチャルな人間のイマジネーションによる物語である からものまねして伝える。 あくまでも客観的に時空間に整頓して構成させた像を 伝える。 この国では、どうして後者がそれほど重要視されないの でしょうか、そう考えると逆に便利だと思うんですが。
お礼
”respect”と「尊敬」とを比べて頂くと、 仰っている疑問のヒントにならないでしょうか? つまり、此のページの質問のタイトルの通りに、 『「個人主義的な分析」と「集団への統合」との違いが文化を拵えてきたからなのだろう』 と私には予想されますが、如何だと思われますか?
補足
有り難う御座います。 次に御紹介したいQ&Aは非常に長くなっていますので、 御読みになって頂くのが大変になるかも知れませんが、 此の質問欄との連動で進めておりますので、 御互いの理解の共有の為のヒントにも繋がり得る、と思われますから、御覧になって頂けると嬉しいです。 http://okwave.jp/qa/q6533937.html 「連歌」の様に予想され難い展開の価値を尊んで、 「諸行無常」なる表現を教え伝えてきたので、 基本的な文法を為政者達が修正しなかったのでしょうね。
- heartmind
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語順の差が、その差になったということでしょうか。 寧ろ習慣や伝統が語順の差となったとは考えられないでしょうか。 「ご注文は以上で宜しかったでしょうか。」 ほんの数分前の過去の先方の発言の確認をして、 現在の自分側のメモによる記憶の方が不確かである可能性が高い とへりくだって確認をしているのだと思います。 「ご注文は以上で宜しいですか。」 では自分側のメモによる記憶はこの通りだが、それに不服があった ら申し立ててください。とつきはなして聞こえます。 つまり相手の立場にたって物語の中にタイムトラベルするというこ とです。 何らかの競技を見てると、総合的にどういう評価がされたのかと 話すときと、その競技がどう繰り広げられたのかを臨場感をもって 話す時では違ってきます。 物語の中に入って感情移入するという習慣が、結果を分析的に見る ことを軽視させたのかもしれません。
お礼
今の段階の展開で締め括りますと、 回答からの「逆引き」で質問を類推し難くなりますので、 本題からの乖離を窺わせ難い流れを保たせ乍ら、 応対を確実に続けていきたいものですから、 こちらからの入力の内容の纏めに時間が冗長しておりますが、 御容赦を御願い申し上げます。 http://okwave.jp/qa/q6621905.html 上記の様な興味深い項目が見付かりました。 此処への御返事もが上手く纏まらないせいで、 酷い遅延を辿り、御迷惑を御掛けしまして、 申し訳が御座いませんが、 相互に今後にも役立つ情報が揃いませんと、 酷く勿体無い、と私には思われますから、 もう少しの御時間を下さいませ。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6621905.html
補足
御付き合いへの御協力を提供して下さり、有り難う御座います。 「宜しかったでしょうか?」という表現はよく批判されていますが、 日本語のネイティブスピーカー達の中に、 そういう破格を使うに人々もがいらっしゃる、という事は、 必然的な流れなのかも知れませんね。 でも是は「時制」の問題との関係性が乏しいのではないでしょうか? と申しますのは、 『日本語でしゃべっている場合には、 「直接話法」と「間接話法」との峻別が必要になっていない故に、 「時制の一致」の管理者を祭り上げなかったのではないか』 と私には思われるからです。 「芝居」という考え方を生み出せた、美しい発想の理解にも、 此の部分が大きく関わってくる筈ですので、 御意見を賜れると嬉しいですから、宜しく御願い申し上げます。
- heartmind
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たびたびすいません。 例えば、 あそこのたこ焼きは本当にうまいと思った。 彼女は爪の先まで美しい女性だと知った。 なんていう会話は、普通にしますが、 あそこのたこ焼きは本当にうまかったと思った。 彼女は爪の先まで美しかったんだと知った。 そんなにはこの国(東洋圏の日本)では言わない表現だけど、 なんでかって言ったらそれって 「本当においしいって思っていってない気がする」とか 「そんなに美しいって思ってないでしょ」って言われちゃいそうだから だと思います。 つまり、 そこの「たこ焼きがうまい」っていうのは誰もが認める真理だからとか、 「彼女が美しいのは揺るぎない事実であって」とか、 ってそこまでの理由はないけどそういういいかたをした方が この国(東洋圏の日本)では嘘っぽくないからぐらいの理由だと思います。 じゃあその違いは何だろうと考えた時、時空間の認識の仕方じゃないかと 「たこ焼きがうまい」という変化自体を描写する、感じる。 「美しい」というのも変化の描写であって、変化の感じ方だから、 「美しかった」ではもう感じ終わっているから、美しくないってことに なっちゃう。 だから「一瞬」と「永遠」とイコールになって、パースペクティブな見方 は人ごとの様に言ってるみたいでそんなに一般的じゃないんじゃないかと。 逆にその区切られた時空間を総合的にみて一つの結論を外側から出したい 場合は、こっちの文化では、またそれっぽい注釈をつけないとつたわらな いんじゃないかと思いました。
お礼
目の付け処が●ャープでしょ。
補足
有り難う御座います。 此処で漸く質問の主題との繋がりが明確に纏まって参りましたから、 御互いの理解の共有の為にも、御伺いをさせて下さい。 『西洋近代的には時空間の枠組みを先に拵えているのに対しまして、 東洋文化圏の伝統の場合には、 時空間の幕が後から仕上がってくる』 という語順の影響が、此の格差を築いたのではないでしょうか? 御意見を宜しく御願い申し上げます。
- heartmind
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すいません。今調べたらネイティブでは話者の心境として真であれば いいみたいなのでやっぱり感情移入できるかということだと思います。
お礼
有り難う御座います。 返事の送信が遅延し、申し訳が御座いませんでした。 意見交換は役に立っていますでしょうか?
補足
「演劇」の場合と違いまして、「芝居」という言葉の意味は、 「観客」の行為を中心に据えていますね。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
もう少しよくかんがえてみました。 つまり、「発話されたことがいまだに真であるとき」 「何々」を感じた。 「何々」を思った。 「何々」を見た。 など 、「何々」のかっこの中身の物語が本当だと思える時、時制の一致の 制約は受けない。 つまり真に迫るかのように、つまり直接肌で感じるかのように、感じたり 見たりできればいいともとれるけど、しかし、そうではなくこの場合の真は、 客観的にある程度の確からしさが求められていますね。 もちろん、また、ある時間区間をきっちりと限定してから物語が語られる 場合などもそうですが。 ただ、客観的な確からしさと肌で感じるかのような確かな感覚というのは、 なんとなく漸近してる気がします。感情移入出来る理由が少しあいまいな 気がするけど。
補足
有り難う御座います。 語順にも関係が有る様ですね。 御蔭で自分自身でも熟考する機会に恵まれまして、 『実際に文字で綴ると容易に分かり得る文法的な節目もが、 西洋語による口語の中では分かり難い』 という可能性にふと気付きました。 つまり英語を例に挙げますと、 『目的語のthat節の切れ目を会話で明確化させる為に、 「時制の一致」の影響が及ぶ範囲を特定化したのではないでしょうか?』
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
また、先の回答ではかなり話がずれて飛躍してしまったので どうかなとおもってました。 歴史的な物語や、周知の自然現象など、時制の一致の法則は無視 できるのだったと思いますが、コミュニタリアンの立場において は、その土地に根付いた歴史が重視され個はそのコミュニティー の中の物語を動かす登場人物のような役割に位置づけされますが 、コミュニタリアン色が強い東洋系という その辺と関係あるんでしょうか。 すいませんあんまり深く考えていない回答になりました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
>東洋医学的な技術では、 >何を知覚させているのだと思われますでしょうか?』 医学に本当に全く明るくないばかりかど素人ですので、 これに直接答えをだすことはできないけれど、 「対象物と限りなく接近した自己否定契機の極短のループ作業」に おける今後期待されることはにおきかえてみると。 まずミニマムの分野が思い浮かびました。電卓が10万円を超える 時代には、最低限のハードで効率よくロジックを組む技術が重要だ ったのだけど、オープン化やハード技術とコスト低下により、軽視 され続けた歴史がありますが、今また見直されようとしています。 その他、廃プラを除く高温焼却炉やコンポストの町内運営などが、 思いつきますが、 話は変わりますが、短所と短所の組み合わせなどには注意が必要だと 思います。 西洋的な客観的な立場のカウンセリングで自律を促しスキンシップ的な 東洋医学で体を楽にするというようにうまくいけばいいのですが、 根性論のカウンセリングで患者を追い詰め、気持ちを考えずに何でも 分析してデータを見せて落胆させるなどの組み合わせは短所と短所 で最悪です。 「個人の人権を担保しない自己責任論」なんかは最たるものじゃない でしょうか。 また論点はかわりますが、ダサい手編みのセーターには普遍的な需要は ありますし、スカイツリーのデザインのダサさとか、 ダサさの必要枠(=自己完結的)は今後もあると思います。 また別の観点では、ファジイ科学で工業生産されたものは、職人の技術に とってかわるほどのものはないと思います。 恋愛においても「どや、これがええのんか」というエロすぎてひくような 職人技術をおとなのおもちゃで工業生産するアホ製品の企画よりも、 恋人同士の関係の空間演出を工業生産のする方が経済効果があるわけで マニアックになりすぎたテクノロジーから、システム化や空間構成を視野 入れた方向に一歩進めることは、 質問者さまの意図する必要枠の輪郭線をはっきりさせることになるのでは ないかと思いました。
お礼
業務等でのヒントに繋がり得る情報の交流の為に、 相互で役に立つのでしたら、非常に望ましいですね。
補足
上手いですね。有り難う御座います。 折角ですので、 私が注目して参りましたポイントの1つを申します。 それは「時制の一致」です。 『何の故に、東洋文化圏にそれが登場しなかったのか?』 という箇所にこそ、 客観的な答えへの鍵もが眠っているのでしょう。 勿論、主観でも構いませんから、 これに関しましての御意見を伺えると、嬉しいです。
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補足
設定によっても変えられますが、NULL値の枠では"0"さえもが削除されている場合が御座います。 従いまして、自然数の個数の対象の存在を認識させてくれなくなる【相対的な喪失(零化)】と違い、NULL状態では、"0"そのものの存在が認識されていませんので、そういう意味で、NULLが絶対無と関わっているのだろう、と認識しております。