taco8chのプロフィール

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  • 登録日2006/01/26
  • ネット上での批判について

    ネット上で他人を批判することは今も昔もよくあることだと思います。 特に最近ではいじめの問題や違法行為をした人に対するバッシングをよく目にします。 非人道的な事件や国民が恥をかくような事件は確かに憤りを感じますし、それに対する意見をネット上で言いたいと思う人も多いはずです。 しかし、これが度を過ぎている・本来の意図と違っているのではないかと最近感じます。 いじめの問題では、過熱したネットの人々が犯人捜しを進め、様々な憶測が飛び交いました。 個人情報を載せたり顔写真を無断で公開したりもしていました。 しかし中には誤った情報や誤解が発展したものもあり、実際に無実の人がバッシングを喰らって傷つくということまで起きました。これは最近もあったので覚えている方も多いと思います。 違法行為をして取り上げられた人物に関しても、バッシング・批判が集中するのはよくあることです。 罪を犯すことはもちろんその社会の中に所属している限り許されることではありませんし、 周りの風当たりが強くなるのは仕方ない事だと思います。 しかし、過度のバッシングや批判に耐えきれず、自ら命を絶ったという事件が何度かあったと記憶しています。 ここで疑問なのですが、社会的に良くないことをした人たちとはいえ、一般市民がネット上でその人の個人情報をさらすという行為は、問題ないといえるのでしょうか。 犯罪者や悪い事をした人だからと言って、私たちが個人・集団のレベルでこのような制裁行為を行う権利はあるのでしょうか。 個人の基準と社会の基準と違いはありますが、構造上はいじめと大差ないような気がします。 (そういう人に限って「いじめはよくない」なんて言うものですが・・・) 法律に関しては素人なのですが、社会的に悪だから制裁していい、いじめてもいい・・・というのはどうも個人の価値観が混入している気がしてなりません。 また、最近ではSNSやまとめサイトなどで、批判を加速させるような投稿が多く見受けられます。 中にはコラージュを作って馬鹿にしたり、事件と関係ない個人の「ディスり」などもあります。 どこか事件の人物をネタにして盛り上がりたいという動機が強いように見えて、このような風潮に危機感を覚えます。 批判をしている人たちの多くが真面目に問題について話し合うのであれば問題ないと思うのですが、そうではない人たちのほうが多いのではないかと感じています。 心理学的に、事件に対して抱く不安に対する一種の防衛反応が、ネットの匿名という性質(厳密には違いますが)や集団心理などと絡んでこのようになっているのではないかと考えているのですが、一つの社会問題になりつつあるのではないかと思います。 ネット上の批判・叩きなどの行為について、皆さんの意見をお聞かせください。 感情的な意見や冷やかしは求めていません。 真面目に話し合いたい方の意見をお聞きしたいです。 法律や社会学・心理学、またはこういった内容に通じている方の意見ならぜひ参考にさせてください。 長文失礼いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

  • モーゼの十戒の意味

    最近、読み始めた宗教の本に、モーゼの十戒のなかに、神の名をみだりに唱えてはならない、というのがあるというのを知りました。どのような理由からでしょうか?

  • 旧約聖書、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、

    旧約聖書を、以下の3つの部分に、分けたとして、 A:歴史:創世記~エステル記 B:詩歌:ヨブ記~雅歌 C:預言:イザヤ書~マラキ書 大預言者、4人、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、は、 Cの、預言書に、登場するのは、当然ですが、 この4人の中で、 ア、AにもCにも、登場する人は、誰ですか? イ、Cのみ、登場する人は、誰ですか?

  • 聖書の、契約の箱の、奪われた時期、戻ってきた時期

    旧約聖書の、契約の箱って、 一度、奪われて、再び、戻って来た、そうですが、 それぞれ、いつ、誰の時代に、奪われたか、いつ、誰の時代に、戻って来たか、 それぞれ、聖書の、どの、章と節か、 よろしければ、教えてくださいませんか?

  • マタイの福音書 6:7について教えて下さい。

    神学や聖書学に精通した牧師や伝道師に尋ねるのが正しいのかもしれませんが、 なかなかそんな機会やタイミングというのはありませんし、 こういうweb上なら、 先入観なしに答えて下さる方がおられる場合がありますので、 どうぞよろしくお願いいたします。 ”あなたは祈るとき、異邦人のようにくどくど祈ってはならない” とありますが、 クリスチャンの方(私もクリスチャンですが)は結構長めに祈っておられますが、 また、祈祷会などもおこなって祈り合っておられますが、 それをくどくどとも考えられますが、 それをしなくても、そのあとに続くみ言葉の、 全能の神さまは祈り願う前から全てご存知なのでは? と考えてしまうことがあります。 これはひとつの私の長年の疑問であります。 マタイの福音書はユダヤ人向けに書かれたという背景は習っております。 異邦人というのもユダヤ人以外の、 例えばギリシャ人や異教徒を指すという解釈も習いました。 では、 1.”くどくど”という言葉を日本語に訳すのが難しかったのでしょうか? 2.それとも”くどくど”が適切な訳だとして、異邦人は祈りに1時間も2時間もかけていたから、それについてイエスさまはこう仰せになられたのでしょうか? もちろん、私は毎朝、そして就寝時、勤務前、勤務中、勤務後、 嬉しいとき、悲しいとき、そして礼拝のとき、また、他者のための執り成しを祈っています。 祈りというのは神さまへの霊的な話しかけであり、 神さまと聖霊さまとの親しき交わりだと思っています。 祈らなくて良いなどとは決して思っていません。 しかし、このマタイの福音書 6:7をそのまま解釈すると、 そのあとの主の祈りだけで良いのではと思われます。 繰り返しますが、 祈りが主の祈りだけで充分とは思っておりません。 主の祈りは基本であると思っています。 私は自分の人生で祈らずにはいられないほどになっています。 また、最近、 福音を宣べ伝える伝道者の補佐役として神さまに仕える立場になったので、 こんな愚かで弱い私を用いてくださったので、 その私自身が、 疑問を持って人様に伝道してはいけないと思うので質問させてもらっています。 福音書を初めて読まれて、 私と同じような疑問を持たれた方のためにも、 答えられなければならないと思うので質問させてもらっています。 ※しかし聖書は、  一生涯かけても解らない部分・疑問点があるのも理解しております。  核心部分を理解することが大切だというのも、  最近、伝道師の先生に教わりました。 長くなりましたが、 マタイの福音書 6:7について、 また、上記の1と2についての私の質問の回答もしくは意見を、 どうかよろしくお願いいたします。