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「分析」と「統合」

taco8chの回答

  • taco8ch
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回答No.3

「御教授」じゃなくて困っちゃうんだけど・・・ ローマ世界とその母体であった教会権威の崩壊とともに、 それまで「創造」されたものであったはずの世界は、 その把握の仕方に疑問符を生じ、再構築を余儀なくされた。 結果、近代は、それまで教会に抑圧されていた 個人による観察という一人称的な視点を意識し始めた。 http://home.a00.itscom.net/asunaro/funclub/funclub2/DaVinci.html 天文学の発達も呼応したか、 世界は仮定された一人称が視覚を通し得た可視光線の反射の結果であり、 私が向き合うひとまず別の空間であり、 私とは対峙し、目の前に広がる、色とりどりの 光あふれる地平(フロンティア)として把握された。 しかも「私」は常に世界に対して優位に立つ観察者であり、 私(ここ)から世界(向こう)へと向かう一通の世界観の起点に立つものであった。 ヨーロッパの自然破壊とアジア侵略はここに端を発するのか。 http://www.geocities.jp/sakushiart/enkinr.htm 一方、幸か不幸か東洋には、個人を強烈に抑圧する教会権威は浸透せず、 その崩壊と世界観の大転換の必要にも迫られることも経験しなかった。 理由はいくつかあるが、一つにはイスラム世界という障壁が立ちはだかった。 世界とは、時間的にも空間的にも、ある一点に始まり一点で終わるものではなく、 可視光線のもたらす結果でもなく、その重みというか、触感というか、 存在そのものというか、漠然とした陰影というか、あることによってあるのであり、 それは仮定された一人称が対峙する世界ではなく、 人もまたその世界の一部として属することによって把握されるものであった。 丁度、茶室という芸術空間の中で主人と客人が籠もって行われる儀式のように。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%A2%A8%E7%94%BB そこには仮定される「透視遠近図法」的な視点ではなく、 私もまた世界の一部として戯れる世界観が構築された。 そういえば、日本語文法においても、西洋の多くの言語ほど 人称のとっかえが叙述に大きな変化は与えないのでしょうか。 ザーっとテキトーに書きましたので、論証もはなく、言葉も荒いです。 何より、そろそろおねむ^^; 随想として読んで、 当てが外れたらスルーしてください。

SakuraiTomoka
質問者

補足

良いですね。こういう論旨が結構好きです。有り難う御座います。 御忙しい中で上手く纏めて下さりまして嬉しく思います。 未だ十分に返事の文言が纏まっておりませんので、 敢えて「お礼入力」欄を空けさせて頂いておりますから、 御待ちになって下さいませ。 因みに、仰っている内容の拝読の直後に、下記の通りの疑問点が浮かび上がって参りましたから、追加の質問をさせて下さい。 『現代日本社会でも、自分達の身内の行為を代理で伝える際に、 「謙譲語」が使われている、という事実は、  「人もが世界の一部として属することによって、 世界が認識されている」、という点に起因しているのでしょうか?』 私見によりますと、 『奈良・平安時代の文学の中で、作者が自分の作品の登場人物達に表敬している』という奇妙な事実にも、その自然観が当て嵌まり得るのではあるまいか、と思いました。 従いまして、仮説でも構いませんので、御教授を御願いしたいですから、宜しく御願い申し上げます。 尚、私は此の質問を”QNo.6533937”との連動で提出させて頂いておりますので、其処にも参加して頂けると幸いです。

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