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和を以って尊しと成す
Samantabhaの回答
ふつうは「以和為貴」(和を以て貴しと為す)です。 写本によっては「尊」の字を使っているのでしょうか。私はこれまでに「貴」以外は見たことがないのですが。 読み方ですが、「たっとし」でも「とうとし」でもどちらでも間違いではありません。 ただ、個人的に見聞きする限り、読み癖として、「たっとし」と読む方が多いかなあという感じです。 実際、振り仮名が打ってあるものを見ると、「たふとし」としてありますので、「とうとし」と読むべきなのかなあとは思いますが、「たっとし」と読もうが「とうとし」と読もうが、意味が変わるわけではないので、読みやすい方でいいと思います。 ただ、「貴」と「尊」の字の違いについては、この二文字は、意味は似ていますが、全く違う字ですし、聖徳太子が書かれたものとして連綿と伝えられているのは「貴」の方だと思いますので、これを勝手に書き換えてしまうのはどうかと思います。
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お礼
ネットで調べてみるとどちらもありましたので、混乱していました。ご意見とても参考になります。