- ベストアンサー
聖徳太子について
聖徳太子が十七条の憲法で「和を以て貴しとす」と言っていますが、 なぜ、聖徳太子は「和」を重んじたのでしょうか? 「和」を重んじるに至った、背景などは分かっているのでしょうか? どなたか、詳しい方、よろしくお願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
十七条憲法がやや後世の作である事は確かですが、(当時無かった国司の語が使われている)それほど日本には権力をめぐる争いが多く「和」が無かったのは先賢の答え通りです。 ヤマト「山門」が「大和」となったのもその為です。 日本なる語が初めて見られるのは「旧唐書」日本伝であり、日の本の国と自称したのも、争いが無くなるようにとの願いもあったでしょう。
その他の回答 (3)
んじゃ、ついでに。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80 大化と言ってぶっ殺し、 磐船棚で東北蝦夷と争い、土地を奪うわぶっ殺す。 白村江の戦いで大敗し、 「挙句に」壬申の乱で権威なんて関係ねー。 「愚政」「悪政」「失策」にも限度がありましょう。 やりにやった物です。 最初は統一された綺麗な「理想国家」であった。 悪い家臣に国乱れたが、平定された。 のでは無いと存じます。
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
結論から言いますと、 「『十七条憲法』の文章を一生懸命読んで『聖徳太子は何故このように書いたのか』を考えても、砂上楼閣を築いているに等しいことですので止めましょう。時間の無駄です」 となります。 「十七条憲法」が、本当に推古天皇12年(604年)に皇太子(後世に聖徳太子と呼ばれた人)が作ったものか、歴史家の中に疑問視する声があります。何しろ、 「日本書紀に上記のように書いてあり、『憲法十七條』の文章が収録されている」 以上でも以下でもありませんので。 十七条憲法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95 「十七条憲法は720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本も、写本も現存しない。 推古天皇12年(604年)に成立したというのは『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述を信じるほかはない。 近代歴史学の誕生とともに、これには疑いも掛けられてきた。」(後略) 「『十七条憲法』の内容や文体を見ると、7世紀初頭のものとは考えられない」 というのが「十七条憲法否定説」の論拠ですが、今となってはその真偽を確定することはできません。個人的には「否定説」の方に理があると思っておりますが。
- tyuudoku
- ベストアンサー率19% (39/204)
自信は有りませんが、簡単に説明します。 当時、蘇我氏を筆頭に豪族同士の権力闘争、皇族を脅かす争いが行われていた為、国内の弱体化・天皇の権威低下を危ぶみ、聖徳太子は「和」を重んじたと思われます。 歴史書以外でも色々な歴史小説・時代小説を見ると、この手の似たような内容が書かれていますので一度お読みになっては如何でしょうか?諸説有り、面白いですよ。