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日本人の対話力で…

tknakaの回答

  • tknaka
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回答No.12

#6です。お礼ありがとうございました。お礼をいただいてから、もう一度自分の書いたものを読みなおしてみて、少し尻切れトンボだったと思いましたので、補足させてください。 「ただ、その生徒にはdの意見を出した思考背景を「論理的に説明する」能力が要求されますが。」 と書きましたが、もちろん最初から生徒に「自分の思考背景を論理的に説明する能力」が付いているわけではありません。「何となく」「直感的に」そう思ったのでしょう。それを「なぜそう思ったのか」、「どうしてそう言えるのか」、「どこからそう考えたのか」、という論理を構築していくのは、学校・家庭での教育に拠ります。授業では、一つの文章を読ませた時に生徒がどう考えたのか、どう感じたのか、それを丹念に拾い上げていく必要があります。そのためには、先生の考え方は柔軟でなければなりません。また、一人の生徒の意見を聞いて「先生だけが分かっていてもいけない」のです。他の生徒も同じだけ、その生徒の意見を理解できるようにならなければなりません。「理解できる=同意する」ということではないことも明確にしておく必要があるでしょう。 そのためにはどうするか、まず小学校の学級人数を大幅に減らす必要があります。大昔の一クラス45人は論外としても、最近の一クラス35人でもまだまだ多すぎると思います。副担任制の導入によって少しは一人頭の管理人数は減っているのでしょうが、これではきめ細かい教育は無理です。特に一つの問題を全員の意見を出し合って授業時間内に考えていくということは不可能になります。一クラス15人から18人程度まで減らす必要があると思います。おとなしい子、ずうずうしい子、色々居るでしょうが、一つの課題を細かく考えていくことで、互いに相手を理解していくことが可能になると思います。もちろん「正解。これ覚えろよ~」と言った授業はもっての他。理解のスピードの速い子、遅い子、色々居るでしょう。みんなで一つの課題を考える(国語など)の場合は、速い子は遅い子の理解を助けるように授業を進めれば良いのです。ただ、理解が遅くてもそれを馬鹿にするような言動は許さないというのが前提です。「相手に理解させる」というのも重要な教育内容なのですから。 もう一つ、学校だけに任せていて良いわけではありません。家庭でも、学校のカリキュラムとは離れて、本を読み、意見を交換していくことが重要です。学校のような多人数を相手にする授業ではないので、もっと深いところまで子どもの考えを拾い上げることが可能なはずです。また、人それぞれに考え方の基準、評価の仕方が違うわけですから、親の評価の仕方をそういう中で子どもは学んでいくわけです。「友達のうちではこうしてるよ」「今これが流行ってるから」で動くのではなく、親一人一人が自分の価値判断をちゃんと子どもに説明していく必要があるのです。それは母親だけでなく、父親も同様。 とすれば、単に教育政策の問題だけでなく、労働問題、経済問題も含まれることになるのが分かってくると思います。残業残業で毎日夜遅くにならないと帰宅できず、ほとんど子どもと話もできないような状況では、こうした親子の繋がりが切れてしまいます。労働基準法で「残業は週に何時間まで」と規定されているのは、「そこまでは残業するのが当たり前」ということではないのです。「例外的に残業しなければならないとしても、これだけにしなさい」というのが条文の意味です。「一度タイムカードを押してからサービス残業をしろ」というのは言語道断。また、最低賃金は定時就業で十分に生活基盤が確保できるようにしなければなりません。 最近、選挙において、盛んにマニフェストという言葉を聞きますが、個別政策の羅列をマニフェストというようではどうしようもありません。長期的な未来像を明確に打ち出し、そのためにはどういう風に現在の日本を変えていく必要があるのか、一つの未来像に向かうための個別の政策があるわけです。「消費者が反対するから消費税を上げない」という場当たり的、短期的な動きではなく、長期的に見て必要であれば「こういう未来像を実現するためには、これだけの歳入が必要、そうするとこれだけの規模でこういう改革ができる。そのためには全体的な財源を検討した上で、やはり消費税をこれだけ上げる必要がある」と明確に打ち出す必要があります。その「未来像」が本当に重要であり、本当に望まれるものと理解できれば、国民も納得するでしょう。そこに日本の政界にありがちな汚職や天下り先確保と言った裏が見え隠れするので「十分に国民を納得させるだけの説明ができない」し、「得票を確保できない」と考えざるを得ないのです。 なんか対話力の話からズレてしまいましたが… 「これだけの大きな改革をしていかないと総体的な対話力強化にはならない」という強引なまとめでよろしいでしょうか?w ちなみに、上記は私の考えなので、質問者様がそれに対してご自分の意見を持つのが「当たり前」なのですw

sorafu
質問者

お礼

二度目の回答ということで…、補足ありがとうございました。

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