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芸術の重さ

私自身が、ハッキリとした結論を持てていないことなのです。 最近、ある作家の作品(小説)を巡り、作者と、そのモデルにされたという女性の間で起きた裁判のことを思い出す機会があり、改めて少し考え込んでしまいました。 「人一人の命は地球より重い」とかいうコトバがあります。 これをまねた言いかたをしてみると 「人一人の心は芸術より軽い」 と言えるんだろうか??と。(ヘンな言いかたなのでしょうけど) 私自身、もとが、書く側に身を置いている(いた)者でもあるので、けっこう長年、おりにふれて考えていたことなのですが(多分、筆が進まない原因の一つになってると思います) 芸術作品の重さって?その価値って??芸術は天下無敵??? そのあたりについての御考えや示唆を与えてくださいますでしょうか。 恥ずかしながら読解力ないので、なるべく平易なコトバがありがたいです。よろしくお願い申し上げます。

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noname#78143
noname#78143
回答No.2

なんでもそうですが、作品を発表するということはそれに付随する 一切の責任を負うという覚悟をすることだと思います。 訴えられたとしても、賠償金や謝罪や条件を相手の納得いく着地点へ もっていくべきです。それが責任を負うということでは ないでしょうか? 責任は取りたくない、しかし作品は発表したいというのでは インターネットの匿名掲示板と変わりません。 例に出された作品も、モデルにされた人物の了解を得ずに発表した 時点で、責任から逃げています。芸術だから何でも許されるのでは なく、発表したことによる一切の厄介ごとを引き受けるだけで そこのところを間違えて認識している困った人が多く見られます。 芸術だから自由にふるまっていいわけではなく、不自由な社会の一員 だからこそ心は自由でありたいと求めるだけで、ルールはルール として守るべきであると思います。 第一芸術が一番大事にしなければいけないのは人の心ですよ。

noname002
質問者

お礼

改めて、御回答にお礼申し上げます。 明快で共感を感じる御意見とは思います。 >インターネットの匿名掲示板 と、いわゆる文学作品の孕む問題には共通したものがあるように考えております。 >モデルにされた人物の了解を得ずに発表した時点で、責任から逃げています。 私も、それは思いました。しかし作家に言わせれば、作品というものは全てがフィクションなのだ、ということです。 >発表したことによる一切の厄介ごとを引き受ける つまりは自分の発言に責任を持つということと同じことかと思うのですが、発言をどう受け取るかは全く受け手側が決めることなので、そこまで責任持てないという考えかたもあるようです。それなら尚更、発言時点の姿勢に用心しなきゃならないとも思うんですが、ここに「自由な表現」という価値観の一つが入り込んできますのでコトバを用いる文学作品の場合は特に難しいものだと思います。 >ルールはルールとして守るべき 訴えられた作家の社会性が、しょせん未熟なのである、という意見もあるようです。子どもは当然、社会性が未熟ではありますが、にもかかわらず子どもの表現した作品が他者を傷つけるということは、まずないでしょうから、どのあたりで差が出てくるのでしょうね。 >芸術が一番大事にしなければいけないのは人の心 発表する側の心、受け手側の心…難しいです。。。

noname002
質問者

補足

早速のアドバイス有難うございます。 質問本文中で挙げておいたらよかったかなと思う参考URLなのですが この御質問に対する投稿No.6を御覧いただけば、私の今回疑問点が 後続の御回答者にとっても、より理解しやすくなるかと考え、補足させていただきました。 なにしろ知識も乏しく、問われている本旨に沿うこともできず、他の御回答者様がたへ述べられた補足や御礼文のほうを重く見ながら書きなぐっておりますので、御質問者のかたに相当ご迷惑かけているありさま、恥の上塗りのようで、とても迷いました。しかも、かなり長文ですので、もし御気が向かれたらということで結構です。 『物語の登場人物と、倫理』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3691099.html

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noname#50219
noname#50219
回答No.12

たった一人の人の心だけでも安らいだとしたなら、それは良かったのでしょう。もし、只の一人の心にも届かなかったとしても、誰一人として悲しませなかったとしたなら、それは真実の言葉です。 文も、何を思わせることのない、真実だけが綴られていたならば、それは人に何も負わせない、無垢のものです。 人の言葉は、元来無垢です。どのような人も、この無垢の言葉を話しています。

noname002
質問者

お礼

このあとも御投稿いただいている分と合わせて、お礼申し上げます。 >たった一人の人の心だけでも安らいだとしたなら、それは良かったのでしょう。 この場合は全く問題ないと思っています。少なくとも作者だけはスッキリしているでしょう。問題にしたのは「たった一人の心だけでも傷つけたとしたなら」或いは「安らいだ」人と「傷ついた」人の両方ある場合です。 >もし、只の一人の心にも届かなかったとしても、誰一人として悲しませなかったとしたなら、それは真実の言葉です。 これは残念ながら「真実の言葉である」と断定されることへの理解が及びませんでした。 >人の言葉は、元来無垢です。どのような人も、この無垢の言葉を話しています。 そうなのでしょうか。 王様が裸でいることを指摘した少年のコトバが周囲の人々に動揺を招くこともあれば、「無垢」でないコトバが争いの原因となっていることが実際には多いように思います。それでも、どのようなコトバにも自ずと滲み出てしまうものはあるようで、それを指して「無垢」と言えば言えるのかもしれません。 全体的に、たいへん感性依りの御意見であるためか御真意が汲み取り難いですが、こうした文章表現は或る意味で個人的ファシズム的とでも言えるかも、と思いました(笑) とは言え御投稿者様は荒々しいことを好まれない、優しく繊細な感受性をお持ちのかたという印象です。 再度、御投稿をいただきまして有難うございました。

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回答No.11

>芸術作品の重さって?その価値って??芸術は天下無敵??? そのあたりについての御考えや示唆を与えてくださいますでしょうか そういえば漱石や鴎外も自分の奥さんのこととか結構ひどいこと書いてますよね(笑)プルーストの「失われたときを求めて」もほとんどモデルがあるそうですが、男色家で美青年追い掛け回したシャルリュス男爵のモデルになった人物は怒らなかったんだろうか、と思いました。 プロの小説家っていうのはある程度他人を傷つけざるをえない、他人からも傷つけられるの覚悟の上で書くものなんでしょうか? 読み手の側からいうと他人をモデルに書かれている場合、それが傷つけるか否かを上回るほどの対象に対する愛情と、書かずにいられなかった内的衝動というか必然性があれば読んでいて嫌な感じはしないと思います。 書く題材が無くて興味半分に書かれた物であるようなら、はっきりいって嫌な感じしますし、最後まで読む気もおこらなくなるでしょう。 あくまで読み手の感想ですが。

noname002
質問者

お礼

アドバイス有難うございます。 >漱石や鴎外も自分の奥さんのこととか結構ひどいこと書いてますよね(笑) そうですよねぇ鴎外は『舞姫』のモデルで元カノだったドイツ人女性が日本までやって来たんだとか。 漱石夫人の鏡子さんは、それほど悪妻ではなかったと、お孫さんあたりが弁護していらっしゃったり(笑) >プルーストの「失われたときを求めて」もほとんどモデルがあるそうですが ええ、ジッドあたりも『背徳者』だったかな確かワイルドがモデルだったと思いますが異国で現地の少年相手にイケナイことをしているようすなど描写してますね。 シャルリュス男爵のモデルでもそうですが、男色家であるとかいうことを本人が恥じたりしていないなら平気なんでしょうか。 >読み手の側からいうと他人をモデルに書かれている場合、それが傷つけるか否かを上回るほどの対象に対する愛情と、書かずにいられなかった内的衝動というか必然性があれば そうですね。。。第三者的読み手であるのか、当事者であるかという立場の違いで受け止め方や感情が大きく変わってくると思います。 私個人の場合ですが私小説的作品には、どうしても家族や身近な人のこととかが重要な題材になるんですが、「親の恥書くのは許さないよ」なんてクギ刺されまして、許可が出ないまま死なれてしまったとなると、かえって書きにくいですねぇこれが。それに若い頃は正直こうしたことについて書く動機のなかに、「傷つけるか否かを上回るほどの対象に対する愛情」なんてウツクシイもんばかりじゃなく、はっきり言って「この不条理ぶりを告発してやる!」みたいな気持も混じってましたから。 モデルの女性に訴えられた作家も、自分の家族内のことを、ずいぶん書いたようですが、やっぱり親御さんから苦情があったそうです。(笑) だいたい、この作家、矛盾したこと言ってるな~と思うんです。作品は、まるごと全部がフィクションなんだからとか言って抗弁しておきながら、そのくせ、プライベートで、すでに、くだんの女性から合意もらってるなどというような発言してますから、紛れもなく、その女性をモデルにしたということを認めてることになります。それとか外見上の障害について、すでに外見的に、あらわになってることだからプライバシー侵害には当たらない、とか。なんか違うな、、、って思います。

noname002
質問者

補足

「現代における解釈はつきつめてみると、たいていは芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性であることが分かる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を秘めている。だから、それを解釈することによって、人は芸術を飼い慣らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。」 「芸術作品は分類できる内容からできているという極めて疑わしい理論から解釈は成立しているが、これが芸術を冒涜するものだ。それは芸術を一個の実用品に貶め、頭の中に出来あがっている範疇に押し込めようとするものだ。」 「批評の機能は作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味するかを示すことではない。」 これらソンタグ『反解釈』文中の「芸術作品」「作品」の部分を「自然存在である他者」とでも置き換えてみるとどうなんだろうか?と思います。実際、これに↓失敗しているとしか思えないようなことがあったわけですし。 「芸術をあらわにし、その芸術家を隠すのが芸術の目的。」 「すべての芸術はまったく無用である。」~『ドリアン・グレイの肖像』序文 同じ「芸術」とされる分野でも美術や音楽だと、こうした問題は起きにくいんじゃないかと思います。(『麗子像』とか見ると若干考えてしまったりしますが^^;) (字数超過のため補足欄を利用しました、お礼欄へ続きます)

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noname#91067
noname#91067
回答No.10

>>道徳的なことで苦しむことがない というのは芸術はそれ自体が「赦し」なんです。 赦すには普通相手が自覚を持たなければならない。 自覚とは自分で自らを裁くことを経験させてからのことです。 赦すということは正しさ以上で、正しさと帳尻は合わない。 種族保存本能の正義や愛という観念を人間が(神や自然が許可や禁止もしないので)権利とか義務を持ったことで争奪戦や侮辱行為がなくならない理由にもなります。 芸術家と観賞者は情熱的でないと自己満足すらも勤まりませんが、哲学なので虚偽を正当化するための理由付けはしたくないのですが、仮説として。

noname002
質問者

お礼

どうも文脈に引っ掛かりを感じるせいか私の読解力にも問題があるのでしょうが、やはりじゅうぶんには文意を汲み取れていないと思います。ですが >芸術はそれ自体が「赦し」 これは理解しておりました。 >芸術の重さは自由な意識で讃美してくれる他者を誘致出来るかいなかで相対的な価値があるだけ との前回御投稿でしたが、芸術の重さとは結局、シンパ人数の問題になってしまうのでしょうか。皮肉にも全体主義と結びつき易い側面があることと関係してくるかもしれません。 >赦すには普通相手が自覚を持たなければならない。 これは、ちょっと??なんですが 本能ということを取り上げるなら、自己を守ろうとするのも表現行為をしようとするのも共に本能のうちに含まれるのだろうと思います。そのことからも >赦すということは正しさ以上で、正しさと帳尻は合わない。 というのは >芸術はそれ自体が「赦し」 ということと同じく、我々の存在そのものについても言えることだと思います。 ただ、或る芸術作品がないからといって即困ることはないけれど、現実の生活が心身両面において脅かされることを防ぐのは切実なことです。 自然の芸術たる存在者からの剽窃があからさまだと紛糾を招くということなのかもしれません。もっとも、だからといって間接的な「遠回し」な表現をすれば済むということでもないでしょうが。(そうしても分かるときは分かるし、かえって俗で嫌らしいだけだったりします) 再度アドバイスいただきまして有難うございました。

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noname#50219
noname#50219
回答No.9

究極の彫刻は、作られたそぶりを全く見せないのではないかと思います。心をほぐすものは、人に何も背負わせずに、ただ心に浸透するものだと思います。

noname002
質問者

お礼

>作られたそぶりを全く見せない 彫刻の場合は、人がつくるんじゃなく、もとからあるものを出現させてるんだ、というような考えかたがあるそうですね。 でも文学の場合は、いわゆるスキャンダラスな作品であるほど、ほんとう「らしく」思わせれば思わせるほど、問題も大きくなるように思います。 >人に何も背負わせずに 負担になるようなものを、でしょうか。 たった一人でも「背負う」ようなことになれば、それは失敗作と見なしていいということでしょうか。。。 アドバイスいただき有難うございました。

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回答No.8

芸術と言っても、音楽と言っても、或いは人の営みと言ってもよいかと思いますが、普遍性を持ったもの、或いは、大勢の感動を誘うもの、或いは、万人の持っているものを、逆に引き出せるものが、残っていくものかと思います。万人が共有しているもの、そのことで万人が感動して「世界」は一つなのだと言うこと。人は見えないものでお互いに繋がっているものなのだ。そんな想いにさせてくれるものが、良いものと思います。競争よりも協調、対立よりも共存、戦争よりも平和。 もう一つ、その事で、永遠性が感じられるものが、その中に入っていれば、なおさら良いものかと思います。誰にも「永遠」に対する憧れが在ると思えるからです。

noname002
質問者

お礼

最終的に、そうした境地に導かれるようなものであれば理想的なのでしょうね。 現実には、同じ一つの作品が個人による極端な賛否両論を招いていることも多く見られますし、時代的な制約によっても評価が大きく左右され易いようです。 >永遠性が感じられるもの これは人間ならではの感受性なのでしょうか、でも「一期一会」とか「一回性」そのなかにこそ「永遠性」を見出す、価値を見出す性向もありますね。 アドバイスいただき有難うございました。

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  • unikam
  • ベストアンサー率42% (29/68)
回答No.7

はじめまして。以下は私見ですが 芸術と法律(広義の法・倫理)はまったくソリの合わない二人の女神なので、彼女たちがたまたま一つの事象に同時に関わっていても、どちらかに完全に与するか、完全に中立するかしか道はないと思います(笑)。 天下無敵か否かについて言えば、 芸術家は芸術に忠実ならばほとんど何をしてもいいが、その結果を法律で裁かれることに文句はひとつも言えない。芸術だからやって良いと抗弁することはできない。現在の法律上罪だがこれは芸術であると主張することはできる。 さらに、結果としてそれが美しくなく、人を唸らせもしない、圧倒もしない、「芸術だけがつれていける境地」に導けない、凡作や失敗作や独りよがりな狭いものに堕してしまったなら、彼/彼女の作品は芸術にも見放された屑となる。…と思います。 私は勝手に、芸術は「人のためにある」という側面と「神(文字通りの神でなくても、心から偉大に思い、畏れ、愛し、敬う、何よりも重い存在)への捧げものである」という側面の両方ある、というイメージを持っているので、それだけで芸術家の行いに対する『縛り』としては充分だと思うのですが(本当に大事な相手に考えの足りないもの、ヘンなものや半端なものは捧げられないし、自分にできる最高の仕事をしたなら商業ルートに乗らなくても全く構わない筈だから) 近代化のすすんだ昨今はそういう心のはたらきが流行らないんで、機能しにくくなってるのかなぁと思ったり。

noname002
質問者

お礼

>芸術家の行いに対する『縛り』 「人のため」とか「神への捧げもの」という観念を、「芸術家」自身が、どれほど意識し「縛り」としているものだろうか?表現への衝動それが激しいものであればあるほど、実態はエゴイスティックなものだと思います。しかも「人のため」というのが、誰を基準にしたものなのか? >自分にできる最高の仕事をしたなら商業ルートに乗らなくても全く構わない筈 芸術至上主義というコトバがありますね。 それでも実際のところ我々の目に触れる「芸術作品」とされるものは、ほぼ全てと言っていいほど、結果的に「商業ルートに乗」っているものだと思います。そして「商業ルートに乗っている」ということは即ち「独りよがり」ではない、ということでもあります。そしてまた何らかの面で「独りよがり」を免れているからこそ歴史に残り得たとも言えるでしょう。 芸術至上主義にとどまっていないから、いけないのかなぁ?自己顕示欲とか報酬とか。 このところF・カフカのことが、しきりと思い起こされます。。。

noname002
質問者

補足

初めまして。御回答有難うございます。 >芸術と法律(広義の法・倫理)はまったくソリの合わない二人の女神 ほんと、そんな感じですね(笑)どちらも、人間の生活という同じ親からから産み落とされた対照的な気質の姉妹というイメージです。 >芸術家は芸術に忠実ならばほとんど何をしてもいいが、その結果を法律で裁かれることに文句はひとつも言えない。芸術だからやって良いと抗弁することはできない。現在の法律上罪だがこれは芸術であると主張することはできる。 これまでの御回答を拝見していて思ったのですが、どうも、まことの芸術たり得ているものであれば、それは自ずと人にとって良きものであるはずなので法律が口出しをする必要もないはず、法律が介入しなければならない事態になるということが、もうすでに芸術ではなくなっているということ、だともとれるんです。 でも法律とは時代の規範を体現したものですから、芸術が自由な精神を表現しているほどに、規範からは逸脱する恐れが高いですよね。そういう例は文学作品のみならず科学の先端的な分野でも歴史上に見受けられることです。となると >結果としてそれが美しくなく、人を唸らせもしない、圧倒もしない、「芸術だけがつれていける境地」に導けない、凡作や失敗作や独りよがりな狭いものに堕してしまったなら、彼/彼女の作品は芸術にも見放された屑となる。 その「結果」というものを、どこに設定するのか、という問題も起きてくるように思われます。 ある一つの時代枠のなかでは法的に罰さるべきと判断されたものが、そのために闇に葬り去られることもあれば、長い時代の流れを超えて生き残り、俄然、賞賛を浴びるに至ることもあります。ですから、そういう面で確かに「言論の自由とか表現の自由というのは 公権力 に対してできた表現であって 芸術 にはあてはまらない」また「私人との争いについて、持ち出してよい概念ではない。」というのも理解できるとは思うんです。 一つ大きな問題は時間、ということ…作品のモデルとされた女性が、いま現に生きていて、その作品によって重大な不快感を抱いていること、その作品によって有形無形の不利益を被ることを危惧していること。 くだんの女性や、その周囲の密接なかかわりのある人たちがいない時代になれば、この作品は第三者のみの冷静な判断によって評価されることになるのかもしれない。その時に至って「凡作や失敗作や独りよがりな狭いもの」という判断が下されたなら、それはまさに「屑となる」のでしょう。 しかし時代は変遷し続けます。 (字数超過のため補足欄を利用しました、お礼欄へ続きます)

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回答No.6

こんばんは、noname002さん。 ●「人一人の心は芸術より軽い」と言えるんだろうか???と。 ↑ 言えるんじゃないですか? たとえば、朝からTVをつければワイドショー番組こぞって倖田來未ちゃんの発言をきいたリスナーから抗議の声がどうたらこうたらと騒がしいこと。取り立てて倖田來未ちゃんに限ったことではなく、誰それがどう言ったこう言ったという話は発言者は変われど、こと何かに障るのかして泡立つ。なんなんでしょう?波動エネルギーの作用か?と。

noname002
質問者

お礼

さて コミュニケーションにおいて書き手或いは発信側と受け手とは双方向性のものであるはずです。基本的に、どちらか一方にだけ多大な犠牲を強いるべきものでないと思います。 「身の内の言葉の蓄積」とやらが人も自分も豊かにしないとしたら 「身の内の言葉の蓄えが、しんどく思える状況を回避」できずに、かえって壁を積み上げ、いたずらに人も自分自身さえも追い込んでいくとしたら あちらこちらで何の非もない人たちを不快にし『リアルで出会ってたら殺してた』と言われてしまうほど自分の品位までも貶めてしまったりするとしたら 長年親しんできた人が徐々に離れ、何も言わず或る日突然去って行くとしたら 何故なのでしょうか。 「言葉を覚える」のが、ただ羅列や小賢しいカムフラージュや奇を衒うことのため、自分自身をも欺くためなら、いやがうえにも虚しいことです。単に商売のためのコピーとしてすらも。 また「本歌取り」というものも、他人を抹殺するための技術ではないはずです。 他人の発言など構うな、と言うのは実は自分自身がそうありたいと強く願っていることなのに、その自分をすり抜け、他人に対して、そのようであれと強要する人は、真実の姿を映す鏡というものがあったなら、そこに映る自分の姿を直視することができないでしょう。こういう人に哲学は無理だと思います。 根本的に何かが分かっていない分かることができない。仕方のないことだけれど。放棄してしまって、どんどんとズレていき、その先で辛うじて生き延びようとするのだが。 意味など全くないなら黙っていればいいものを何故か黙っていられない。もはや醜悪によってしか人目を引けない。 「…中身のないことばは、聞き手が内心で期待していることと共鳴する場合に最も魅力的なものとなるようだ。だとすれば、そういう言説は弱い人々もしくは弱いと感じている人々に最もウケが良いだろう。本当に力を持った人々は他人に立場を保証してもらう必要はないからだ。」グレアム 受け手側の「身の内の言葉の蓄積」が貧困であろうと、発された豊かな言葉は、そういう受け手をも富ませます。ほんとうの豊かな言葉は、拙くとも、たとえ厳しいものであっても、空虚としか呼べない結果を齎しはしないものです。 ――と、このように思っています。 なお 一たび返事をして質問を閉じるまで来られてはスペースと時間の浪費なので最後に廻させていただきました。

noname002
質問者

補足

以下 あなたに御理解可能か甚だ心もとないですが 「社会や集団というものは、一旦その個人が異質な言動をとった途端その個人の言葉づかいのどんな細部にも異質なものを発見しようとするものなのだ。ムルソーはそのことによって異邦人にさせられたのだった。」カミュ『異邦人』松岡正剛/千夜千冊 「社会や集団というものは」という部分に「或いは内部の各人において」と続けてください。 「言語が正常に機能しなくなり自身の無に気づいた瞬間、人は精神を病む」ラカン 「認識するとは現実に対し然りを言うことだが、これが強者にとって止むにやまれぬまでに必要であるのと同様に弱者にとっては、弱さのインスピレーションに触れるや否や現実に対する臆病さと現実からの逃避が―即ち「理想」が、止むにやまれぬまでに必要となって来るのである。」 「もしも自分がそれをして平気でいられるだけの豊饒さを備えているとしたなら不当なことを実行するのも一つのいいことですらある。」 であれば「それをして平気でいられるだけの豊穣さを備えて」いないゆえ小細工や言い訳が必要になる。 「悪意というものは他人の苦痛自体を目的とするのではなく我々自身の享楽を目的とする。」ニーチェ 「キャンプ趣味とは何よりも享楽乃至享楽の仕方であって、判断の仕方ではない。キャンプは寛容なのだ。それは快楽を欲している。」 「キャンプ趣味とは一種の愛情─人間性に対する愛情─である。」ソンタグ 「何がトリックなのだろうか。おおざっぱに言えば、観客をナメているものだ。」グレアム 「世界の組織のなかでは他者は無きに等しい。だが他者は私に闘いを挑むことができる、つまり他者を打つ力に対して、抵抗力によってではなく、その反応の予見不可能性そのものによって対抗しうる。他者が私に対抗するのは、より大きな力によってではない。即ち、算定不可能であり、したがって全体の一部分をなすかのようなエネルギーによってではなく、この全体に対する他者の存在の超越そのものによってなのである。この超越は何らかの権力の最上級ではなく、まさしく他者が超越することの無限性である。この無限が、殺人よりも強く、他者の顔においてすでに我々に抵抗している。この無限こそが他者の顔であり根源的な表出であり《なんじ殺すなかれ》という最初のことばなのである。」レヴィナス『全体性と無限』  今様の事どもの珍しきを言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は心にくし。  いまさらの人などのある時、こゝもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち片端言ひ交し、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。 『徒然草』七十八段 ○さんはそこに存在するのだけれど●さんには頭の中で認識されていない状態なのだろうか、はたまた●さんは初対面の人間に接する仕方を知らないのか、または知らないでも済む環境で生きてきたのか定かではないが○さんにとっては迷惑な話だし「何という失礼な人だ!」と思うのは当然だ。 人は認めてもらいたいという欲求があって、認められて初めてその欲求を満たすことができるわけだが、このようなのはそれ以前の話だろう。 これは実際にあった話だが、こういう人とは二度と会いたくないと思ってしまう。 会ってもメリットが全くないし、ただ単に時間を無駄にするだけだからだ。 やはりこういう場合はグループを良く見極めて自分にとって無益なものと感じたら、さっさと見切りを付けるのがいい。 付き合うなら、より質のいい人達と付き合いたいものだ。 そして初対面の人には出来るだけ親切に接したいものである。 何故なら初対面というだけで相手は不安を感じているのだから。(Vivere様) 『贖罪の 羊立てねば 仲の良さ 示せぬならば 友は持たずや』(鵺娘様) >「人一人の心は芸術より軽い」と言えるんだろうか???と。   ↑ 言えるんじゃないですか? 倖田來未ちゃんの発言を云々から、どのようにして、こう帰結されるのですか。それとも単に質問返しでしょうか。 >こと何かに障るのかして泡立つ。なんなんでしょう?波動エネルギーの作用か?と。 そうですね当初から頻りに泡立っておられるらしくて、いったい何に障っているためなのか?と思ってました。 抗議に一切耳を貸せないほど硬直しきった態度に、せっぱ詰まった穏やかならぬものを感じさせられたのは「波動エネルギーの作用」とやらのせいだったのでしょうか? 相手が、自分に不利益を齎すに違いない「波動エネルギー」だと判断したらしいその結果どんな感情を抱き、どう考えたか、その後の言動・行動を観察していれば自ずと窺えるもののようです。 そういえば、いつぞや「ずば抜けた翻訳力」などとコソッと呟いておられましたっけ笑

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noname#91067
noname#91067
回答No.5

ヘッセ「デミアン」より抜粋 「僕たちは魂の中に、 かつて人間の魂が体験したものをすべて持っているのさ」 というように、魂を表象された芸術に 善悪や美醜の責任は持たされておらず、 道徳的なことで苦しむことがないのでオブジェに選ばれたり、 博物館で厳重に保存されう得るのだと思います。 >芸術作品の重さって?その価値って??芸術は天下無敵??? 人間独りきりでは虚無の存在であって、 他者との対話でも限界や境界や疎外を感じる。 芸術のいいところは時に全く価値がなかったり(無) 可能性を強要せずとも魂が存在することで、 それはあらゆる可能性が充満していることと同義になります。 創作や観賞で何かが意識に昇る時、あらゆる力の根源ともなり、 全てを持った人間の魂になる可能性がその人のものともなる。 それなので意識され残されようとする芸術は 「生きて滅びる人間よりも自由から逃避している(執着)」 「そして夢」と思います。 芸術の重さは自由な意識で讃美してくれる他者を 誘致出来るかいなかで相対的な価値があるだけと思います。 個人的には限界もありながら無限のような 「生命体の美しさ」は科学者の方が良く知っていて 「一瞬で現れ限界に破れ消えるような奇跡」も自由という試練で 儚くてこそ美しいとか、思います。

noname002
質問者

お礼

一応、数回読み返してみたのですけれど、多分じゅうぶんに、仰りたいことを汲み取れていないかと思います。ゴメンなさいね。 >道徳的なことで苦しむことがないので 何人においても、でしょうか。 >可能性を強要せずとも 強要された可能性なんて、ナンセンスですものね。 >それなので意識され残されようとする芸術は 「生きて滅びる人間よりも自由から逃避している(執着)」 「そして夢」 「芸術は長く人生は短し」というコトバがありましたね。 滅びることの自由からさえも、ですか。逃避する自由、執着する自由、を追い求めずにいられぬ不自由。結局は夢。夢見る自由だけが。 >芸術の重さは自由な意識で讃美してくれる他者を 誘致出来るかいなか だからゼヒとも自由な意識で賛美してっしてしてして! 無理な勧誘は、やめてほしい^^;(笑) >「一瞬で現れ限界に破れ消えるような奇跡」も自由という試練 いっそ、すがすがしい。 地球滅び粉々に砕け散り、茫漠宇宙の空間に飛び出し彷徨い続けるヴィナスの片腕。。。やがて呑み込まれゆく小さな小さな腕。 アドバイス、有難うございました。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

「芸術」というのは突き詰めれば「美」なんですよね。 色とりどりの花が当たり一面に咲きほころんでいる様に感動して言う言葉は「美しい」ですね。ここに芸術の原点がありますね。 言論の自由とか表現の自由というのは「公権力」に対してできた表現であって「芸術」にはあてはまらないですね。 美をどのように表現できるかが芸術ですから、その点を間違わなければ芸術は天下無敵でしょうね。 一般的には醜を表現することも芸術と呼ばれますが、これは無敵ではいられませんね。雑誌などは醜を表現するほうが大衆受けして稼げるので醜を芸術と考えているようですが、本来間違いですね。 どのような人の人生でも野に咲乱れる一輪の花と思って書けば立派な芸術ですね。そこに言論の自由とか表現の自由などというものは入り込む余地はないでしょう。しかし逆に言論の自由とか表現の自由などという意識が強すぎるともはや芸術作品ではなくなるということでしょうね。 人の命は地球に比べたら塵あくたの一粒でしかないですが、創造性は遥かに地球を越えることができることも事実です、そこまで行かなくとも芸術家たらんとして創作したものは芸術品なのでしょうね。まあ、一般的には売れないんでしょうけどね。

noname002
質問者

お礼

アドバイスいただき有難うございます。 >「芸術」というのは突き詰めれば「美」 この「美」というものの定義が、また難しいものだなと思います。 >言論の自由とか表現の自由というのは「公権力」に対してできた表現であって「芸術」にはあてはまらない この御考えは作家・佐々木譲氏と共通したもののようです。 (以下 佐々木氏の公式サイトより抜粋) 『表現の自由』を口にできる場合 ~「表現の自由」とは、相手が巨大な勢力、もしくは国家権力である場合にのみ、 表現者が盾として用いるべき概念です。この裁判の場合のように、モデルにされたとされる 身体にハンディキャップを持った弱い私人との争いについて、持ち出してよい概念ではない。 また、文芸的表現活動は、いまやいやおうなく「本」という商品の制作と流通という かたちを取りますが、自分の存在や私的な生きかたについて、勝手に商品にしてくれるな、 と願う気持ちは、当たり前に尊重されるべきことです。 わたしにはこの裁判は、「表現の自由」が争点であるとは思えません。 問題にされたのは、単に書き手の社会性でしょう。 最高裁判決は、妥当です。 02/9/25 訴えられた作家の場合、お金が目的だったんだろうという声もあるようでしたが結局は、少なくとも、モデルとされた女性から見て、その人生を「野に咲乱れる一輪の花と思って書」かれてはいない、と感じたからこそ訴えたわけでしょうか。このあたり、くだんの作家本人の反論では、モデルとされた女性とはプライベートな場面において、すでに合意があったとしておりましたが 「~小説表現の描写が問われ、かつプライバシーという異なる法益の侵害が重要な要素となっている今回のケース~」「『作家の小説表現の自由とモデルの名誉・プライバシーなどの人権との調整』という課題」とする上智大学文学部新聞学科教授(2002年現在)田島泰彦氏の論において「言論の自由とか表現の自由などという意識が強すぎる」抗弁が前面に出ているということは。。。取りも直さず「もはや芸術作品ではなくなるということ」になってしまっているのでしょうか私自身、その作品を読んでおりませんので、どうあっても「美」が感じられないようなものだったのかどうか何とも言えないのですが。。。 >創造性は遥かに地球を越えることができる 尚且つ何者をも軽んじることはないはずだとも思います。

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noname#49326
noname#49326
回答No.3

 以下、個人的な解釈です。  簡単に言えば、芸術というものは便宜上用いられた言葉であると思います。  机の上の落書きを「芸術」と呼ぶ人もいれば、「落書き」と呼ぶ人もいる。  つまり、個人(各々)によって、「芸術」の概念は違うという事(価値観は人それぞれという事)。  其処で問題とされるのは、何を以って、「芸術」と呼ばれるべきなのか? 「落書き」と呼ばれるのか? (芸術になる為の基準は何処なのか?)  「芸術」と「落書き」の区別とされる基準は個人の価値観ではないのか? >芸術の重さ  作品への愛情(演出・技法も含めた)。 >芸術の価値  その作品の価値。 ロランバルトとが述べた様、「(芸術を鑑賞する時)作品だけを見る」姿勢が必要。  その作品を制作していた時点の、作者の歴史的背景等は一切見るべきではないとした。  芸術の価値を位置付けるのは個人である。 >芸術は天下無敵  芸術は何かを表現をしたいという気持ちから生まれてくるものであり、言い換えれば、自分の気持ちではないか。  天下無敵という言葉は芸術には相応しくない。  芸術という言葉は便宜上でしか存在しないと思います。 だから、自分は「芸術」という言葉を嫌っています(会話でも「芸術」ではなく「作品」と言ってます)。  「作品(芸術)」を描く根本的な原因(理由)は、自分自身の心情を姿(形)として存在させたいという人間の我侭(恣意)だと思います。  そういう意味からして、「芸術の価値は?」「芸術の重さは?」という発言は、無意味なものだと思います。  「作品(芸術)」は人間の心情を姿(形)する、人間の欲望(恣意)であるから。

noname002
質問者

お礼

>>芸術の重さ   作品への愛情(演出・技法も含めた)。 そうですね、本来は誰に頼まれたわけでもなく自分が生みたくて生んだ作品ですから可愛いのは自然な感情だと思います。 でもなんだか、訴えられた作家の場合をみてると、自分の産んだ子に食べさせんがために他者のものをコッソリ奪い取って我が子に与え、そのお陰で育った我が子の姿を、押しも押されもせぬ芸術として侵されざる至上のものと主張しているように見えないこともないんです。 つまり、奪われた側の他者が返還を要求してみたところで、いまさら、その奪ったものを食らって成長した子どもの胃袋をさらえてみたり、吐き戻させてみたってしょうがないような、だったら書いたもん勝ちってことなのか、という。。。 >「(芸術を鑑賞する時)作品だけを見る」姿勢が必要。  その作品を制作していた時点の、作者の歴史的背景等は一切見るべきではないとした。 このことについては、No.1No.2様への補足欄でお伝えしている参考URL=文学カテゴリーでの質疑応答中でも、リテラシーの問題として触れられています。 これについても、私自身が書き手側でもあることから、鑑賞者側のリテラシーと書き手側のリテラシーを別個のものとして現実的に区別可能なものかどうか、といった疑問を持っています。 賢明な姿勢には違いないとは思いますが。 >言い換えれば、自分の気持ちではないか。  天下無敵という言葉は芸術には相応しくない。 >自分自身の心情を姿(形)として存在させたいという人間の我侭(恣意) なかなか厳しい御意見かと思いますが、「芸術」というコトバを免罪符のように使う人がいることも事実ですね。 >「芸術」ではなく「作品」と言ってます これは良い案ではないかと思います。「作品」というコトバ自体には余計な価値観が付きまといませんものね。 >「作品(芸術)」は人間の心情を姿(形)する、人間の欲望(恣意)である その「欲望」自体に一つの価値観を見出す向きもあるかのように見受けます。 「欲望」に価値があるのか、ないのか。。。そんな曖昧なものに傷つけられる必要があるのか?傷つける必要があるのか? アドバイス、有難うございました。

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